1-11

「ったぁ……」


 うつ伏せに床へダイブするような形となった真希菜は、打ちつけた鼻を押さえて起き上がった。そして周囲を見渡す。


「……どこ……ここ……」


 真希菜の呟きが、場の空気に吸い込まれてゆく。

 ――どこかの通路であるようだった。

 自身から見て左右に伸びる、冷たい鋼鉄を敷き詰めただけの床と壁、天井。半円のトンネルのような場所で、高さはざっと十五、六メートル、幅は三十メートルほどあるだろうか。今自分がいるのは通路の壁際。そこそこ広いため、空のない空間でありながらそれほど圧迫感はなかった。ただ空気の流れはほとんどないようで、壁から染み出す金属の匂いが周囲に停滞している。気温は高くもなく低くもなく。しかし雰囲気のせいもあっていくらかひんやりとしている気がした。

 通路の光源となるものは天井と壁に等間隔で埋め込まれた灯り――蛍光灯のようなものだ――の白い光のみ。しかしそれはこの空間を照らしきるには幾分頼りなく、通路の一部は薄闇に呑まれている。壁に装飾などはなく床には物も置いていない。質素というか粗雑というか、何ともヘビーデューティな空間である。人の気配も全くない。

 しかしどこかから妙な音は聞こえていた。

 ごうんごうん。

 ごん、ごん。

 音そのものは大きくないが、音が近いのか遠いのか、よくわからない。すぐ隣から聞こえているような気もするし、床の遥か下から聞こえるような気もする。いっそこの通路全体が獣の喉で、その獣が唸りを上げているのだと説明されたほうが納得できるような気さえしてくる。


「えっと……」


 全く知らない場所だ。明らかに例の工場の中などではない。

 真希菜は立ち上がると、再度左右にゆっくりと首をめぐらせて、自分の状況を分析にかかった。一度思考をゼロから仕切りなおしてみる。

 学校帰り、偶然出会った男の子に道案内して、その子が父親の経営する会社の旧工場に入ったのを見た。それを追いかけて自分も中に入って。

 それから?


「……窓に吸い込まれた?」


 唐突にファンタジーだ。

 真希菜は夢でも見ているのかもしれないと、何となく自分の頬をつねった。

 しかし刺激はきちんと脳に伝わり、脳は痛みの信号を出してくる。

 だがそれだけで夢でないと断定するのはいかがなものかと、真希菜は思わず頭を悩ませた。

 そしてふと、まだ見ていない真後ろ――おそらく壁になっているのだろうが――を見てみる。

 予想通りそこは壁であった。しかしその部分の壁には、壁の曲面に沿うように高さ二メートル、幅一メートルほどの鏡がはめ込まれていた。……いやこの場合、鏡面加工された鋼板と言った方が適切だろう。一般的にいう鏡よりも、それはあまりにも冷たく無骨だ。

 上部には長方形のプレートが貼ってあり、そこには『7』という数字と『クラブ』のマークが描かれていた。思い出すのはトランプだが……鏡の名前のようなものだろうか。

 薄明かりの中で鏡面に映っているのは、自分自身。

 先の窓のように、別世界が見えるということはなかった。……鏡に映る自分の背景は見知らぬ別世界なのであるが。


「……どういうことだろ……」


 真希菜は鏡まで寄ってみる。そして軽く触れてみても、やはりそれはただの鏡であるらしかった。先ほどのように波紋が走ることもない。


(あ、そうだ……)


 真希菜は制服の上着のポケットからクォーツ・フォンを取り出した。外部との通信が可能であれば、自身の置かれた状況を知ることかできるかもしれない。

 しかし電源ボタンを押しても、なぜかクォーツ・フォンは反応しなかった。ボタンを長押ししてみても画面が点く気配がない。学校を出る際に見たときにはまだバッテリー残量は半分以上あったはずなので、充電切れという可能性は低いだろう。しかしなんにせよ、自分は今現在外部との連絡すら取れない状況にあるらしい。

 だがそこで真希菜は、妙に冷静な心持ちでクォーツ・フォンを制服のポケットにしまうと、すぐさま一つの可能性を頭に浮かべた。そしてまるで暗示でもかけるように、現状を脳に無理やり認識させる。


(……夢、だよ。これは)


 絶対にそうだ。頬をつねって痛みを感じたとしても、こんな突拍子もない状況、夢に決まっている。

 夢の始まりは見当もつかないが――あの少年と出会う辺りからというのが妥当か。あるいは教室で怒られたところからかもしれない。

 しかし夢は過去の出来事を見るものだと聞いたことがあるが、頬をつねって痛み云々と同じく、こちらも嘘っぱちであるらしい。自分はあんな少年と面識があったようには思えないし、こんな場所、全く知らない。

 ただなんにせよ、これが夢だとするなら早く目覚めてしまいたいと真希菜は思った。この鋼鉄の通路の雰囲気はあまり良いものではない。自分にとっては、特に。証拠に、右手が小さく震えてきている。

 だがそこで真希菜は、夢からの確実な目覚め方というものを知らないことに気が付いた。夢を夢と認識するのは珍しくないが、普段はそこからどうやって目覚めているのだろう。

 真希菜は妙に絶望したような気持ちでどうしようかと考えた。

 しかしそれで答えなど出るはずもなく――とりあえず真希菜は移動することにした。どこに向かうべきかなどわからないが。


(いつかは覚めるはず――)


 そう思ってとにかく壁に沿って一方向に進んでみる。

 ――と、その矢先。

 通路全体が大きく揺れ、落雷のような轟音が後方から響いた。


「!」


 真希菜はびくりと肩を跳ね上げて、壁側に飛び退く。いくつかの明かりが消えたが、光源はまだ確保されていた。

 そして真希菜は音のした方向に振り向いた。

 背後の通路は大きく破壊されているようだった。

 何か巨大な質量が通路側面の壁を突き破ったような感じだ。例の鏡も一部割れてしまっている。通路全体が崩落していないのは、作りが頑強なためか、あるいはただの偶然か。

 そしてそこで真希菜はあることに気づいた。壊れた壁の中が妙に機械的なのだ。通路にはそこからこぼれたらしい小さな歯車やらネジやらがいくつも散乱している。

 壁の穴の向こうはこちらと同じような通路になっていた。どうやらここは、このトンネルのような通路が隣り合わせで並ぶ構造になっているらしい。隣の通路からは今いる場所と同じ匂いを孕んだ風が吹き込む。

 しかしそこで真希菜はあるものを見つけ、驚愕していた。


(なに……これ……)


 それはおそらく、この通路を破壊した質量、それそのもの。すぐに気付かなかったのは、それがあまりに巨大で異質なものであったためだろう。今ですら、存在を飲み込めずにいる。

 それは、突き破られた壁とは反対側の壁にめり込むような状態でそこにある。まるで人が壁にもたれて座り込むような格好だったが、それは明らかに人とは似つかぬ姿をしたモノだった。

 まず目を引くのは、直径四メートルはありそうな大きな球形の胴体。それが胴体だと思った理由は、その球体の両端に腕のような円柱が左右対称に伸びていたからだ。そしてその球体の下には少し小さな球体があって、さらにその下部には足と思しきものがくっついている。胴体だけでいえば、ちょうど雪だるまの体の上下を逆さまにしたような形だ。

 そしてこの物体は全てにおいて無機的だった。

 体を形作るのは濃い赤色をしたいくつもの金属板。そしてその各所の継ぎ目にあるのは金属のボルトやナット、リベット。胴体下部に見えるフィルター付きの穴は吸気口、あるいは排気口だろうか。各所には絡み付くように細い配管がうねっており、手や足も明らかに金属製だ。

 一瞥して頭と呼べそうなものは見当たらず、人でいえば肘や膝に相当しそうな部位には複雑そうな機構を覗かせる一軸の関節がある。また二の腕や手首、大腿の辺りには別軸の稼動部も見受けられた。なお足に関しては腕に比べて極端に短く、立ち上がった際には人が股下を潜り抜けるのがやっとだろうというくらいに短足だった。しかもその足先は先端を下に向けた円錐形で、そこに指などは存在しない。

 しかし手に関しては、指の長さは全て同じであるものの人の手に似た形を保っており、可動域も同じように見える。が、腕が奇怪なほど長く拳も大きいため、それを人のものと同じと言っていいのかは微妙なところだが。


(ロボッ……ト……?)


 疑問を抱きつつも、真希菜は抱いたイメージが正しいことを心のどこかで確信していた。おそらくこれの体の中には淡々と回る歯車や金属のシャフトがあって、その隙間には配線なんかがぎっしり詰まっているのだろう。もしかしたら、トゥールビヨンも組み込まれているのかもしれない。

 ――ギキキキキィ……。

 すると、予想の答え合わせのように、それは動いた。動きに合わせて関節からはわざとらしいほどに機械的な軋みが聞こえる。

 そして機械の――もはや化け物とでも言うべき物体がその場で立ち上がった。円錐形の足を地面に突き刺すでもなく、劣悪そうな上半身と下半身の重量バランスに翻弄されるでもなく、当然のようにそこに立っている。

 目測だが、全高は七、八メートルほどか。ここまで大きさに差があると、相手が大きいというより、むしろ自分が小さくなったのではないかと錯覚しそうになる。

 すると化け物は真希菜の存在に気付いた。

 腰部を稼働させ、上半身をこちらに向ける。下半身はそれより若干遅れて、しかしそれに追従する。

 そして上半身には左右に二つ、小さな赤いランプが出っ張っていた。ランプの下には胴体の真上まで伸びるレールがあって、そのランプはレールに沿って動く二つのカメラ・アイといった様相であった。その『目』はじっと真希菜を見据える。

 真希菜は声も出せずに息をのむ。

 ――怖い。

 怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い――!

 恐怖が心を支配し、怯えが体を縛る。右手が体のどの部位より強く強張る。

 逃げようとしても足が動いてくれない。それどころか立ってさえいられなくなり、真希菜はその場でへたり込む。大して動いてもいないのに呼吸が荒い。

 熱いものが頬を伝った。

 それが涙だと気づく余裕すらも、今の真希菜にはなかった。

 そして機械の化け物は真希菜に向かって無造作に右腕を振り上げた。

 長い腕は天井にぶつかるが、しかしその化け物はそんなことは何一つ意に介していないように、それを振り下ろす。

 鋼の拳が、真希菜の眼前に広がる。

 明確な死を予感し、目を閉じようとした――刹那。


 ガイィン!


 一瞬で黒い何かが割り込んできたかと思うと、金属同士がぶつかるような甲高い音がし、振り下ろされていた拳は突如として軌道を変えた。真希菜の眼前から消えた拳は左側面の壁に激突する。そして無理やり拳の軌道を変えられた機械の化け物はその場で姿勢を崩し、真横に倒れこんだ。化け物はさっきまで自分がもたれていた通路の壁に再度激突し、壁面はその衝撃で大きく瓦解する。そして壊れた壁の上部からは謎の配管やら大きな歯車、鉄骨、ナット、シャフト、発条、細かなレンズ――通路の壁内部を構成しているらしい機械部品が土砂のように落下してきた。

 化け物は左腕だけを上空に突き出すような恰好でその部品群に埋もれ、その小山の中で行動を停止する。

 再びかき混ぜられた通路の空気は座り込んでいる真希菜の前髪を浚ってゆく。衝撃波や振動で大きく体勢を崩さなかったのは奇跡だったかもしれない。

 と、その時、前方から声がした。


「大丈夫? ノロマなお嬢さん」


 それは聞き覚えのあるボーイソプラノ。

 自身の前には先刻の黒い少年がいた。彼は先の化け物と自分との間に横から割って入るように立ち、眠そうな――しかしどこか鋭い視線でこちらを流し見ている。口には煙草のように白い棒状のものを咥えており、先ほど会った時よりも少々パンクな雰囲気を醸し出していた。

 空気の流れが落ち着いて、彼の着ているコート裾が動きを止める。すると彼は不意に視線を外した。そして黒い手袋に覆われた自分の右拳を胸の前まで持ってくると、それを見下ろして溜息を一つ。


「……にしても、P型はホント硬いな。殴るとこっちもダメになりそうだ」


 彼はそのままの姿勢で、右手を握ったり、開いたりをゆっくり繰り返す。

 状況から察するに、化け物の拳を退けてくれたのは彼であるらしかった。それも、右手で殴り飛ばして。彼はおそらく機械の化け物と同じく隣の通路からやってきたのだろうが。


「あなた一体……」


 真希菜は混乱しながらも、小さくつぶやく。

 するとそれに反応して、彼は今一度視線をこちらへ向けた。


「それはこっちのセリフ」


 そして彼は小さくため息を吐いてから、続けた。


「あなたバカなんじゃないの」

「え……」

「自分の身も守れないくせにこんなとこ来てさ。あの建物からの『扉』があった場所にいるってことは、僕を追っかけてきたってとこ? 不用心に建物に入って、不用意にあの窓に触ったわけだ」


 まるで子供を叱りつけるように彼は言う。

 だが真希菜は彼の言葉に動揺しつつも、何とか反論を挿し入れた。


「えっと、その……危ないからって言ったのに入ってくのが見えたから……」


 すると少年は立ったまま、ずいっとこちらに顔を近づける。


「あのね。余計なお世話。僕はここに戻りたかっただけ。あなたみたいに分不相応なことに首突っ込むようなことしないから」


 そこで少年は顔を離す。


「お節介も度が過ぎるとメーワクだよ。しかもそういうのは、そのトロ臭そうなとこ直してからにしなよ」

(……うぐ)


 無遠慮を通り越して毒舌と言っていい言葉を放り続ける少年。

 さっき一応道案内をしたというのに、この扱いは酷いんじゃないだろうかと真希菜は思った。しかし彼の言うことに全く理がないわけではないので、言い返すきっかけを失ってしまう真希菜である。だがそれでも不満が解消されるわけではない。今しがた助けてくれた事実はあるが、この理不尽な状況も相まって、真希菜の中には彼に対して吹き溜まるものがあった。

 少年は呆れた調子で一人、続ける。


「さっさと逃げればいいのに、その足は何のためについてんのさ」

(……こ、怖かったんだからしょうがないじゃない……)

「フツー生き物ってのは危険を感じたら逃げるもんなんじゃないの? 本能錆びついてない?」

(……会って間もないのに、なんなのこの子……)


 真希菜は自然と拳を握っていた。


「もうちょっと丈夫なココロを手に入れたほうがいいね。脆すぎだよ」

(……なんでそんな言われなきゃなんないの……)


 ぐっと歯を食いしばる。


「――せっかく、機械の体を持ってるのにさ」

「!」


 その一言で、真希菜は思わず立ち上がった。

 覚えたのは悲しみ――しかし大きくは怒りの感情だった。体のことを引き合いに出されたのに、なぜか普段のような純粋に悲観する気持ちは湧いてこなかったのだ。不可解な状況の連続で、精神的に不安定だったのかもしれない。

 真希菜は帽子を含めても自分の胸元までしかない小柄な少年をじっと見据える。


「何? 言いたいことあるなら言えば?」

「…………」


 そして真希菜はそこでふと思った。

 これはどうせ夢だ。

 夢なら言いたいことを言って、発散するのも一つかもしれない。

 寝ている自分が現実世界で叫ぶことになっても、もう知ったことか。


「……私だって――!」


 だがそう言いかけた直後、少年は真希菜を、いわゆる『お姫様抱っこ』の形で抱え、その場から飛び退いた。そして数秒の後、少年と真希菜が居た辺りに巨大な何かが降ってきて、床を叩いた。


「っ――!」


 真希菜はもう何が何だか分からなくなって、悲鳴さえも上げられなかった。

 少年は降ってきたものからある程度距離を置いて立ち止まると、真希菜を抱えたまま、くるりと反転する。


「ゴメンね。思ったより時間なかった。続きはあれ片づけてから聞いてあげる」

 少年が視線で示した、

 今しがた降ってきたのは先の化け物の拳だった。機械部品の山から突き出していた左手がそのまま叩き下ろされたのだ。

 そして例の機械の化け物はその振り下ろした拳を支えに再び立ち上がろうとしていた。少年は、真希菜をその場に立たせるようにして降ろす。


「さっき自力で立てたんだから、もう歩けるよね?」

「え……」


 その言葉は、静かに諭すようなものだった。先ほどのような毒っ気はまるでない。


「たぶんここの隔壁が閉じるから少しは時間が稼げるよ。適当に逃げてね。世界が違うから戸惑うかもしれないけど」


 その言葉と同時、ごごん、という音が通路に響いた。見ると、左右の壁から巨大な鋼鉄の板が、通路を分断するようにせり出してきている。少年の言った隔壁とは、これなのだろう。隔壁は自分と少年との間にある床の凹みに沿ってゆっくりと動いており、あと数十秒もあれば、完全に閉じきる。


「あなたは……」

「僕はあいつをやっつけないとね。……早く行って」


 言って彼はコートの裾を翻して、こちらに背を向ける。

 その奥では、機械の化け物が完全に立ち上がっていた。心なしか赤い二つのランプが煌々と輝いているように見え、それは怒りを表しているように思えた。


「でも、一人でどうやって……」


 真希菜には、そう言うだけが精いっぱいだった。隔壁の閉鎖速度は速く、もうすでに閉じかけている。彼に手を伸ばしてこちら側へ引っ張れるような状況でもない。

 だが閉じきる直前、少年は言った。


「僕は大丈夫。……こんなだからさ」


 すると少年はごく軽い動作で、右の手袋を取ってみせた。


「!」


 袖から覗く彼の手は鈍色の輝きを持っていた。

 自分の義肢よりも遥かに無骨な見た目をした、機械の手。

 少年はそれをひらひらと振って見せる。


「これで道案内の借りはチャラってことで。あ、僕でよければ、終わったら迎えに行くよ――Princess machina?プリンセス・マキーナ(機械のお嬢さん)」


 そしてその言葉を最後に、彼の姿は隔壁の向こうに消えた。

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