1-9

 真希菜は焦って工場跡地へと向かった。

 まさかこちらの忠告を無視して中に入るとは。多少大人びても見えたが、やはり子供は子供、好奇心旺盛ということだろうか。

 しかしなんにせよ、無視していいものではない。真希菜としては元工場という土地に入るのは少し抵抗があったが、ここで見過ごして怪我などされても困る。

 最低限の管理はしているものの、放棄されて数年は経つし、そもそも老朽化が原因で工場を移転することになったのだ。工作機械がなくとも、劣化した建材などが事故につながる可能性は十分ありうる。

 真希菜は門の前まで来ると、通学鞄を鉄門の向こうに落としてから、門に手をかけた。ちらりと見た右手側には経年劣化で擦り切れたプレート。彼の言っていた通り前半の文字は読めなくなっているが『森本製作所』というのがここの名である。


「……ん……しょ……っと」


 ここの門は滑車で横滑りするタイプのものだが、防犯のために錠前と鎖で固定してあるので、入るならば強引に乗り越えるしかない。百五十センチ程度の高さの鉄門だが、運動があまり得意ではない真希菜にしてみれば難関である。……まぁ、義肢である右手の握力だけは、あの事故前よりも強くなったわけではあるが。

 そして無事門を乗り越えた真希菜は鞄を拾い上げ、周囲を見回す。

 最近は機会もないので全く近づかなかったが、工場は思ったよりも荒れていた。メインの建屋は壁面の塗膜があちこち剥がれていたし、その壁の亀裂も昔より増えたように思う。おまけに窓ガラスもいくつか割れていた。そして地面のコンクリートのひび割れからは名も知らない雑草が伸びており、それは侵入者を拒んでいるようにさえ思えた。


「…………」


 昔は、ここも好きだったのだ。父に付いていく形で、よく足を運んだりした。

 工場に入れば独特の機械油のにおいが広がっていて、旋盤の切り子なんかも落ちていて。延々と工作機械の駆動音が響く中、時々従業員の掛け声が聞こえてくるのだ。

 そしてその中で、父も同じように現場で作業をしていた。

 現場上がりで独立した経営者であったため、父は現場が好きだった。今は難しくなったと言っていたが、ここにいたときは経営者としての仕事がどれだけ忙しかろうと、従業員と同じように現場で働くようにしていた。父は機械技術関係の資格も多く持っていて、水晶式機械修理技能士でもあった。父の会社はトゥールビヨンの構成部品を主に製造している会社で、厳密に水晶式機械を取り扱う会社ではなかったが、業務に直接関係ない資格でも持っていて損はしないだろうと父は屈託なく笑っていた。

 その憧れた姿には、追いつけなくなってしまったが。


「……だから、もう、だめだって」


 真希菜は握り拳を作り、眉根を寄せる。

 機械が触れない、現場に立てない水晶式機械修理技能士など、誰が必要とするというのか。たとえ父の会社で働くにしても、お荷物になるのは確実である。そんなみっともないこと、できるはずがなかった。


「……探さないと」


 真希菜は気持ちを切り替え、まず球形の建物の外側を裏手に向かって歩いてみる。

 しかし特に人影はなく、声も聞こえなかった。

 大声で呼びかけてみようとも思ったが、声を出しかけたところで名前を聞いていないことを思い出し、真希菜は声を引っ込めた。


「……やっぱり、中に入ったのかな」


 当然戸締りはしてあるはずだが、どこか入れるようになってしまっているのかもしれない。

 真希菜は建物の裏――南側へと進む。

 するとそこで真希菜は、裏口として使われていた鉄扉が小さく開いているのを見つけた。扉は鍵が壊れているようで、ドアノブは外れ落ちそうなほどにひん曲がっている。


「…………」


 いつ壊れたのかは知らないが、その様子に真希菜は何となく怖くなり、まず近くにある窓から中を窺うことにした。ここの窓は割れずに残っており、アルミのフレームに囲われたガラス板は傾きかけた日の光を僅かに反射していた。


(あ……これ、見えないかな)


 真希菜の予想通り、中はあまり見通せなかった。

 外が明るく中が暗いため、窓ガラスが完全な鏡面になってしまっている。ガラスには自分の顔が映り込み、中の様子を捉えることができない。

 だがそこで、真希菜はあることに気付いた。

 ガラスに映る自分の背景が、今いる外の景色とは違っていたのだ。

 それは空のない閉塞的な景色で――どこかの通路のように見えた。

 室内が見えているのかと思ったが、どうも違う。


「……?」


 真希菜は思わず、左手で窓に触れた。

 ――と、その瞬間。指先を中心に、窓ガラスに波紋が揺らいだ。そして水面に呑まれるように真希菜の左手は、ガラスに吸い込まれる。


「!?」


 驚いて手を引こうとしたが、妙な力で引っ張られているようで、体ごとその窓の中に引きこまれそうになる。


「っ……!」


 驚きと焦りで息が詰まって声が出ない。

 そうこうしているうちに真希菜は体の半分ほどをその先の空間に引き込まれ、足が宙に浮いた。真希菜は右手の鞄を放り出し、とっさにどこかに掴まろうとしたが、引き込む力はすさまじい。そして結局、抵抗できるような取っ掛かりを掴めなかった真希菜は、そのまま窓ガラスの中へと消えた。

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