1-5

 背後で自動車のクラクションが鳴った。


(っと……!)


 真希菜は驚いて飛び退く。歩道もなく人気もない街路だったが、いつの間にか自分は道の真ん中を歩いていたらしい。そしてそのせいでスピードを緩めることになっていたその車は、真希菜が反応したとみるや、少々荒い加速で真希菜の傍を抜けていく。


(……お昼からぼーっとしすぎだ)


 真希菜は右手を左手で抑えるようにしながら道路の右側にしっかり寄り、反省しない自分を戒める。

 校門を出て帰路に就いていた真希菜はすでに自宅近くまで来ていた。家まではあと百メートルちょっと。この先にある信号のない小さな交差点を直進すればすぐだ。

 しかしその時、真希菜はその交差点に、妙なものを見た。


(……なんだろ、あの子)


 真希菜が見たのは、小学生くらいの子供だった。なにやら忙しそうに交差点をぱたぱたと横切っていく。


(……?)


 見知らぬ子供など、いくらでもいるだろう。本来なら注目するほどのことでもないのだが、その子供は目を引く程度には妙な格好をしていた。

 かなり暖かくなったこの時期に黒いロングコートを羽織り、全身真っ黒の衣装に身を包んでいたのだ。遠方なので判り辛かったが、手袋もしていたと思う。そして頭には同じく黒い、大きな帽子を乗せていた。一瞬だったので顔などは見えなかったが、多分男の子だろう。

 すると疑問に思う真希菜の前で、その子はまた交差点に戻ってきた。

 そのままさっき来た方向へ戻っていき――また交差点へ帰ってくる。

 そして今度は交差点のど真ん中で立ち止まって、顎に手を当てて何やら考え事をしているようだった。


(……迷子?)


 真希菜はつい止めてしまっていた足を動かしつつ、交差点へと向かう。

 彼に声をかける気はない。家への通過点として、ただ通り過ぎるつもりだ。

 そして真希菜は交差点へと差し掛かった。

 彼はやはり交差点の真ん中で立ったまま動かない。コートと、頭に帽子――大きなキャスケット帽子だ――を乗せた彼は、こちらに背を向ける形で軽く俯いてじっとしている。


(…………)


 真希菜はそのままの右側通行で――しかし少しだけ視線を動かして、彼を視界にとらえつつ交差点を通過する。

 だがその時、声が飛んできた。


「ねぇ、お嬢さん」


 それは幼さの中にも、どこか凛々しい響きのあるボーイソプラノだった。声を発した瞬間が見えたわけではないが、声は十中八九その少年のものだろう。そしてそれはこちらに向けられたものと思って間違いあるまい。

 お嬢さん、という呼び方に違和感を覚えはしたが、真希菜はその場で立ち止まって彼を見た。


「…………」


 目が合った。しかし真希菜はどう反応すべきか迷っていた。声をかけられる可能性を考慮していなかったわけではないが、いざそうなるとどうしていいものかわからなくなる。

 ――十歳前後の男の子。

 端的に説明すれば彼はそんな人物だった。

 身長は百四十センチほどか。小柄で、頭にはその体格にいささか不釣り合いな大きさの黒いキャスケット帽子。帽子からはみ出しているのは、短髪とは言えない程度に無造作に伸びた黒髪。その髪の隙間からは、髪と同じ色をした眠そうな半開きの瞳がこちらを向いていた。肌は白く、顔の造作が整っていることと相まって、声のイメージがなければ少女にも見えそうな少年だ。そしてその風貌は、若干日本人離れしているようにも思う。

 彼の装いは黒いタートルネックとズボン、丸みを帯びたデザインのカジュアルな黒の革靴。そしてその上に季節外れの黒いロングコートを羽織って、手袋をしている。

 防寒着を着ていることについて過度に不自然だとは言えないが、既に冬の装いはある程度浮くような季節だ。よって彼の存在はいくらか異質だった。

 そしてそんな彼は、真希菜が何かを言うより先に、再び口を開いた。


「道を教えて貰えないかな」

「……えっと、迷子……ですか?」


 ぎこちなく、真希菜は彼に聞く。とりあえず敬語で。

 友達付き合いのなさ――つまり人間関係の希薄さは、こういうところで影響してくる。もっとフレンドリーに話しかけた方がよかったかもしれないと、真希菜は瞬時に脳内で反省会を開いていた。

 しかし少年はそんな真希菜の態度に疑問を抱いた様子もなく、答える。


「別に迷ってはないよ。ちょっと地形の把握に難儀してるだけ」


 憮然とした顔で、少年は肩をすくめてみせる。

 それを迷っているというのでは、というツッコみは、真希菜には当然できなかった。


「……えっと、私がわかる範囲なら、教えられますけど……」

「んー」


 少年は真希菜の言葉を受けてというでもなく、ただ値踏みするような視線を向ける。


「な……なんですか……」

「いや、声かけておいてなんだけど、トロ臭そうだから任せて大丈夫なのかなと」

「…………」


 彼が抱いたこちらの印象については……まぁ、別に否定しない。

 しかし物怖じしないというレベルを通り越して、無遠慮な少年である。ただ、小さな子供であるし、それをわざわざ咎めるのも面倒な真希菜はとりあえず友好的に彼に告げた。


「このあたりに住んでいるので、大体のことはわかりますよ」


 するとその言葉に、少年はしばらく考えた後、


「うん。じゃ頼もうかな。よろしく」


 と、大して表情も変えずこちらを見上げる。


「あ、は、はい……」


 もう少し愛想よくしてくれてもいいんじゃないかなぁ、などと思いながら、真希菜は少年を見返す。が、自分とてそういう愛想が苦手な人種である。彼の言動にあれこれ口を出せるような身分でもない。

 そして真希菜は少年に聞いた。


「それで、どこ行きたいんですか?」


 答えは間もなく返された。


「詳しくは知らないけど、なんか丸い形の建物。……ああ、擦り切れてて全部は読めなかったけど、表のプレートに製作所って書かれてたよ」

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