第5章

第112話

「おう! 正」


大樹と義雄が手をあげる。


「正くん。早かったのね。まだ5時ちょっと過ぎよ」


恵ちゃんは、相変わらず可愛いクリクリした目で僕を見る。


「隆やこずえちゃんが気を利かして早帰りさせてくれた」


「大樹には、6時帰宅なんて到底無理。温泉込み、確実に夜8時は過ぎます、と、こずえちゃんから連絡が入っていたと思うけど」


「そんな連絡、俺受けてないよ」


そうか! こずえちゃんが仕切ったんだ。


こずえちゃん、中華料理以外は研究室に何も連絡してない。ただ、早帰りをさせてくれる気持ちで動いてくれた。


「楽しかったか? 3度目の日光」


「ああ、なんだかんだ言って、日光は飽きないね。歴史的建造物、パワースポット。さすが家康公の眠っているところだけある」


「日光東照宮は、江戸の鬼門封じに当たるからな」


「裏鬼門は、確か静岡県の久能山東照宮。相殿に織田信長と豊臣秀吉が祀られている」


「いつ行ってもすごいパワーをいただけるよ。日光」



「そうそう、こずえちゃんたち、おみや買ってきてくれた」


僕は、リュックからニラ団子、杏仁豆腐、湯葉カツを取り出す。


「ま・い・う〜!」


「これ、杏仁豆腐。最高の味じゃない!」


恵ちゃんも大喜び。


「こずえちゃんからLINEがあったけど、正たちの行った中華料理屋の料理、本当に美味しそうだな」


「このお土産の味で、よ〜くわかる」


「行きたいわね、またいつか」


恵ちゃんは食通。そして、自分でその味を真似て料理を作るのが趣味の一つ。


「まあまあ、論文の最終チェックの準備しよう。6時開始だよね」


「うん。教授も正がいて安心すると思うよ」



「準備はできたか」


教授が有田先生と共に、珍しく穏やかに研究室に入ってきた。


「はいっ!」


皆で軍隊のように声を合わせる。


「それじゃあ、黄色花の論文の方から読み合わせを進める」


「質疑があれば、その場その場でするように」


Abstract、Material and Method、Result、そしてIntroduction、Discussionの順に皆で黙読し、論文のチェックを進める。


「やはり、正の言う通り、黄色花の濃淡の単語は、明るさの度合いをイメージさせるtoneではなくて濃度を意味するdensityの方がいいな」


教授が皆に提案する。


教授には逆らえるわけがない。異議なし。皆で賛同。


「よく出来ている」


珍しく、教授から褒め言葉が出る。


黄色花の論文チェックを終え、少し休憩。


時計も7時を少し回ったところ。


「教授。日光の湯葉カツとニラ団子があるのですがいかがですか?」


恵ちゃんが緑茶とともに教授と有田先生に差し出す。


「美味いな」


教授がボソッと呟く。


「そういえば、しばらく日光に行ってないな……」


この後の言葉が怖くて、皆息を飲む。


「梅雨も半ば、花もどんどん咲いてくる頃だろう。いい時期だ」


「どうだ、有田くん。日光」


「はあ。でも皆も正くんも行ったばかりですし」


「正は抜けても構わない」


この言葉に、大樹と義雄がビビる。


「植物検定の勉強にもなる」


さらに、大樹と義雄が緊張しビビる。


教授は次の言葉を探してる。


沈黙の時。


「さて、オレンジ色の方に行こう」


皆、胸を撫で下ろす。


「このタイトルの変更はしなくていい。Articleではなく、Noteで提出するので、あまり仰々しいタイトルは避けよう」


「Analysis of orange color related with chalcones and anthocyanins in the petals of carnations (Dianthus caryophyllus)のままでいい」


「さて、さっきと同じ順番でチェックして行こう」


皆で黙読を進める。


「教授」


「なんだ、正」


「あの、Resultの内容にしては、Discussionのボリュームが少しありすぎる感じがして」


隆が知恵入れしてくれたところだ。


「黄色色素と、赤色のペラルゴニジン3マリルグルコシドの組み合わせだけではなく、黄色色素と、紫色素シアニジン3、5ジグルコシド、鮮ピンク色素のペラルゴニジン3、5ジグルコシド、暗赤色素シアニジン3マリルグルコシドと共存する花色の存在も示唆される」


「日本語訳で、この部分を抜いたらどうかと思いまして……」


「ここは、正、お前が追記したところだぞ」


「はい。でも、黄色色素と、赤色のペラルゴニジン3マリルグルコシドの共存でオレンジ色を説明したNoteで、残りの三つのオレンジ色? の存在まで、あえて触れなくて良いし、もしかすると遺伝子の発現機構で、残りの三つの中間色は存在しないかもしれません」


「皆んな、どう思う?」


沈黙が訪れる。


「わかった。ここは削ろう」


教授がチェックを入れる。


時計の針は8時を回った。



「さて、論文の最終打ち合わせを終わろう。皆んな良く頑張った」


「後は7月末締め切りの、秋の学会のプレゼン作りだな」


「構成は、以前話した通り3報に分ける」


「共通の表題は、カーネーションの花色に関する基礎的研究」


「1報目は、カーネーションにおける黄色花の色素の分布。2報目はカーネションにおける黄色花の発現機構の解析」


「3報目は、カーネーションのオレンジ花に関する基礎的研究」


「各々15分の発表時間なので、プレゼン資料は14枚前後だな」


「はいっ!」


皆で、ここも軍隊のように声を合わせ返事をする。


「そうそう、あと論文完成の打ち上げ、義雄が幹事か? 後、日光行き。大樹が幹事やれ」


「わかったな」


教授は有田先生と共に研究室を出る。


「わかったな」


恵ちゃんが可愛らしく、おうむ返しのように言葉を繰り返す。


「思い立つのは翌日……」


小さくなった大樹が呟く。


「そんな冗談言っていると、いつまでたっても日光行き、決まらないわよ」


「今日決めよ。思い立ったが吉日。ねっ」

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