第66話
「いい、来るよ、こずえちゃん。ブラ1のクライマックス。第4楽章391小節目から」
「バイオリンが打楽器になる。指揮者の先生もそこで革靴を指揮台に踏みつける音を出すんだ」
「ゾクゾクする、先輩方の演奏!」
「来るよ、コーダ、そして神に届けるかのような荘厳なコラール」
「はい」
バイオリンが低音で力強く、弓を叩きつけて松ヤニが飛び散りそうなくらいなフォルテッシモのリズムを刻む。
それから冒頭のコラールが再び登場し、曲一番の盛り上がりとなる。この交響曲の全ては、この部分のためにあるようなものと言っても過言じゃない。
「深刻に始まったシンフォニーなのに、自信を持ってハ長調で堂々と締めくくるんだ」
「ハ長調はピアノでいうと全部が白い鍵盤、つまり純白のイメージ。この曲も澄み切った、迷いのない終わり方になっているでしょ」
「ブラームス。すごいね」
「20年の歳月の賜物だもね」
「先輩方の演奏すご~い」
こずえちゃんの笑顔での拍手がやまない。
「そう、バナナワニ園まであと1時間くらいだね」
「コンビニで休憩とる?」
僕が気を使う。
「ううん。行こうよこのまま」
「トイレの用はないの?」
「大丈夫で~す」
皆んなで声を合わせて答える。どこだかの頻尿グループの移動とは大違い。
「ねえねえ、先輩方の演奏もっと聞かせてください」
「去年のチャイコの5番があるかな」
「第2楽章、アンダンテカンタービレのホルンのソロは隆」
「プロの先生も聞き惚れていた」
水野が隆をべた褒めする。
「隆、このあとプロオケに誘われたんだもんな」
「うん。もちろん、プロの世界は厳しいから断ったけど」
隆の彼女の里菜ちゃんのクラリネットから始まる。冒頭のクラリネットはしかし暗い。
「そうそう、隆。どうして今日里菜ちゃんを誘わなかったの?」
「今日は必須科目のある日なんだ。単に授業をサボれないだけ」
「あと、車にも乗れないでしょ。5人で満員」
「一人削ればよかったじゃん」
「誰を?」
水野が、俺? と指を差す。
「そう、水野。俺らは車だけ借りればいいことだから」
「そんな、皆んな冷たいな~」
「まあ、里菜ちゃんも体格は大きい方だから」
「後部座席がぎゅうぎゅうになっちゃうし」
「今日でも、ちょっとキツイでしょ?」
「はい。私の香りがもう正先輩に移ってます。少し多めに香水ふりかけてきました」
キラキラ笑顔でこずえちゃんが微笑む。
「恵先輩。気づくはずですよ。女の子は香りに敏感だから」
「そういう戦略も組んできたの?」
「はい! もちろん」
「でも残念。夕方研究室に帰ったら、箱入り娘の恵ちゃんはきっと帰っているよ」
「いますよ」
「何、その座った声のこずえちゃんのその確信に近い予言」
「恋する女って、そうなんです」
「さて、着いたよ。バナナワニ園」
僕はおととい来たばかり。ワニもレッサーパンダも可愛いが、なんか心は空虚になってる。
助手の渡辺先生がまだ居残り仕事をしていた。
「おう正くん。あれからまだ伊豆にいるのかね?」
「いや……。一度大学に帰って、サークルの友達とまた来ました」
「暇なの?」
「暇な訳ないです」
「まあ、何にせよ来たんだからゆっくりしておいで」
「ねえ、正」
「何」
「俺、ちょっと回して来る」
「ここまで来てあれか?」
「ああ、いい店を通って来た」
水野は右手をパチンコ台のダイアルをひねる仕草をする。
「おいおい、ここまで来てパチンコ?」
隆も呆れる。
「すぐ出して帰るから。連絡はLINEで頂戴」
水野は園に入ったばかりなのに、すぐ車でパチンコ屋に向かった。
「まっ、先輩、温室に行きましょう。お花、たくさん教えてください!」
「私にもお願いします」
こずえちゃんとみどりちゃんのお願いには答えなきゃ。
「じゃあ温室に入るよ」
「は~い!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます