第65話

「クラシック音楽は、とてつもなく非日常的な世界へ通じる扉。いいよね。特に後期ロマン派の大交響曲がいい」


「ベートーヴェンの9曲の交響曲があまりにとてつもない内容と完成度で、後の作曲家は”ベートーヴェンの後で交響曲をいかに書くか”という命題に悩まされた」


「しかして、力業で交響曲の軌道を変えてしまったマーラーの交響曲には、世界がまるごと入っている」


「常識を超えた巨大編成と楽曲規模、古典的な楽曲構成と調性の約束事を完全に破ってしまうぎりぎりのところまで試される作曲技法」


水野は語る。マーラーの大ファン。今回の定期演奏会でも選曲の主導を握り決めた張本人。


「マーラーの世界では、人間の生と死、愛と憎しみ、理性と狂気がせめぎあう」


「自然が、街の喧騒が、英雄の勝利や悲劇が、天国と地獄が、高貴なコラールと場末の酒場で奏でられる流行り歌が、そして神と悪魔が、宇宙までもが、音楽という世界共通言語を通じて僕らの意識に語りかけてくる」


「描写ではなく、そのものが聴こえてきてしまうことに、僕らは戦慄を覚えずにはいられないね」


僕が言うとみんなが頷く。


「24歳から作曲を開始し、28歳で完成させったマーラーの第一番は、青年マーラーの夢と挫折、希望がいっぱいに詰まっていますよね」


「彼の恋愛の挫折と克服が背景をなしていますしね」


みどりちゃんもマーラーのファンだ。


「25歳の時にマーラーはオペラ歌手のヨハンナ・リヒターに恋をしますよね」


「金髪美女の彼女に猛アプローチをするもその恋は実らず。そんな失恋の気持ちを曲の旋律に込めた交響曲」


「第四楽章の175小節目からのマーラーの青い愛の旋律。これを聞いただけで私なら恋に落ちちゃうな」


こずえちゃんが両手を組み、遠い目をする。


「結局振られて、マーラー自身第三楽章を恋に敗れたのごとく葬送曲にしてしまったよね。諸説あるけど」


僕は個人的にはこの三楽章は実はユダヤ人であるマーラーの、反ユダヤの世界に対するアイロニカルな楽章だと思っている。


「ほら、四楽章が始まるよ。楽譜の指示は、嵐のように動的に。うたた寝しているお客さんも、この冒頭の突然鳴り響くシンバルの一撃で目を覚ます」


「ロマン派好みの“闘争から勝利へ”という構図の長大なフィナーレで、闘争的な第1主題、夢見るような第2主題を軸に、起伏に満ちた劇的な展開を繰り広げ、最後はニ長調を確立して勝利を謳歌しながら圧倒的なエンディングに至る」


「最後の謳歌はホルン全員の起立だね」


「カッコイイです〜」


こずえちゃんがはしゃぐ。



「そう、定期演奏会の前プロはデュカスの魔法使いの弟子だっけ?」


「そうですよ。正先輩。ファンタジアの世界です!」


「ホルンは二、三年生が中心。みどりちゃんやこずえちゃんはバイオリンだからどっちも出るね」


「はい」


「しかし、魔法使いの弟子はクラシックやディズニーで有名だけど、詩人ゲーテが書いたものが原作ということはあまり知られていないね」


「そうなんですよ」


「ゲーテの発想は素晴らしいよね」


「そういえば、正先輩の別名が瀬戸際の魔術師だと聞きました」


「なんでこずえちゃんがそんなこと知ってるの?」


「私が言ったんです。こずえちゃんに。義雄さんから聞いて」


「正は皆が無理だと言っていることでも、物事の帳尻を最後の最後に合わせる。魔術師のようだ、って」


「あまり良い別名じゃないよ」


「魔法使い、の方がカッコイイ」


「どっちでもいいです。正先輩なら」


皆で微笑む。


「次聴く曲、何にしようか?」


「ブラームスにでもしようか」


隆が言う。


「いいですね」


みどりちゃんはブラームスの大ファン。


「1番がいいかな? バーンスタインのウイーンフィル」


「一昨年やりましたね。私がまだ一年生のとき」


「うん。懐かしいね」


「僕らのライブ録音の演奏にしようか? iPodに入ってる」


「聞きたい、聞きたい!」


こずえちゃんが興味津々。


隆が鞄からiPodを取り出し、カーナビのUSBケーブルにつなげる。


「一昨年の四年生、すごく上手な人が多かったからいい演奏になっているよね」



演奏が始まる。第一楽章。ウン・ポコ・ソステヌートという指示のついた堂々とした序奏で始まる。最初の部分では「ドン,ドン,ドン、」と叩くティンパニの確固たるリズムが印象的


この上に弦楽器がジワジワと半音ずつ上昇していくような悲壮な感じのメロディを演奏し、管楽器の方は反対に下降していくメロディを演奏。何とも言えない複雑で重苦しい雰囲気がしばらく続く。


「ブラ1は、構想から完成までに21年も掛かっているんだ」


「恐ろしく慎重にかつ情熱を込めて作られた作品だよ」


「そうなんだ」


こずえちゃんが感心する。


「ブラームスはベートーヴェンの流れを汲んで古典的な構成のソナタ形式の作品を書いてきていて、交響曲が何としても書きたかった」


「しかし、マーラー同様、ベートーヴェンの後にいったいどんな曲を書けば良いのか? という難題が20年間に渡って突きつけられていたんだ」


隆が語る。


「そのブラームスの答えが交響曲第1番」


「マーラーはロマン派の大交響曲にその答えを出したでしょ」


「均整・調和を理想とする古典主義、古典主義がそれほど重視しなかった感情・感覚・直感などを重視するロマン主義」


「すごい、すごい! 色々音楽史が重なり、繋がっている」


「先輩方のブラ1の演奏も上手ですね!」


こずえちゃんは上機嫌

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