第12話

80%メタノールで抽出したサンプル溶液を、針なしのツベルクリン注射器で吸い取り、メンブレンフィルターを取り着け、液クロ用のバイアル小瓶に移す。


「正、手先器用だな」


「正くん、素早くしなやかな指使い。上手ね」


「そう?」


「うん。それ、女の子惚れちゃうよ」


恵ちゃんに褒められて嬉しい。



「そんなに急いでやる作業じゃないから、大樹、義雄もやってみる?」


「うん。やるやる」


「じゃあ、手袋はいて、マスク付けて」


大樹は不慣れな仕草で注射器でサンプル液を吸い上げ、バイアルに移す。

やはり初心者。力入れすぎ。メンブレンフィルターが外れてこぼしてしまう。


義雄は、ゆっくりと時間をかけて移し替える。上手くいった。


「意外に難しいね。正、すごいね」


「慣れだよ慣れ。すぐできるようになるさ」


「恵ちゃん、やってみる?」


「うん」


恵ちゃんも安全手袋にマスク。


「恵ちゃん上手じゃん」


こぼさず、綺麗にバイアルに液を流し込む。大樹が褒める。


「うん。恵ちゃん上手だね。動作がしなやか」


「やはり、心の素直さがこういう作業に現れるのよ」


「恵ちゃん。自分で言うと説得力ないよ」



「でも初めてにしては上手だね。80点、優だよ」


「さて、バイアルを液クロにセットしよう」


「そうだ、忘れてた。各々10μLのインジェクションボリュームだね。プログラムしておく」


「その、インジェクションボリュームって何?」


「液クロに、各サンプル等しく10μL吸ってもらう。同量のサンプルだから、クロマトグラフの面積、あるいは高さでサンプル間の色素の量的比較ができるでしょ」


「なるほど」


皆で納得。



ギー。グー。静かな音で、液クロが動き出す。

みんな興味ありげに覗き込む。


「さて、あとは放っておいて大丈夫」

「パソコン画面には、吸収波長のある物質があれば、クロマトグラムというピークが現れる」


「画面上部はフラボノール、カルコンのモニタリングの360nm、画面下部はアントシアニンの520nmだよ。オレンジ花でしか出てこないはず」


「ドラマの科捜研の女で出てくる、化学分析画面の針のような山のピーク。まあ、心電図のピークに似ていると言った方が分かりやすいかな? それとは全然違うものだけど」


「わかるよ、私。ぴょんとピークが出てくるの見たことある」


「そうそう、それ。プログラムでは、そのピーク面積が自動で出てくるようにセッティングされてる。高さに変えることもできるし」


「11サンプル、各々40分だから、440分。全て分析が終わるまでには、7時間ちょっとかかるね」


「箱入り娘の恵ちゃんは最後まで見れないけど、一つ一つ40分で終わったら、そのクロマトグラムを確認できるから、途中までは見て帰れるね」


「うん。見たい見たい」


「さて、どうしよう。あとは時間があるね」


「俺は、まだ、継代培養があるから、培養室に戻るよ」


義雄が言う。


「俺は暇。恵ちゃんは?」


大樹が尋ねる。


「私も……、今日は暇かな。液クロ分析をしに来ようと思っていただけだし」


「正は?」


「特段用事ないよ。バラの分類の文献でも読んでいようと思っていたけど」


「カフェテリアに行こう。どうせ3人暇だし」


「いいわね。私、カフェテリアのカプチーノ大好きなの」


3人で大学構内にあるカフェテリアに向かう。


「おう、正」


「おう、水野」



「正くんのお友達?」


「うん。オーケストラの。教育学部」


「お二人さん、ちょっと待ってて」


僕は、恵ちゃんと大樹をおいて水野と数分の会話。



「何だった?」


「いや、実は秋のオケの定期演奏会で、マーラーの1番をやるらしいんだ」


「ホルンが7本必要で、俺に出てくれないか、いや出ないとメンバーが足りないらしいんだ」


「返事は?」


「少し待ってもらうことにした」


「バラの化学分類の卒業論文とオレンジ花の研究。マーラーの曲は難しいし……」


「でも私分かる。正くんオケの定期演奏会にも出るよ。そういう正くんだから」



「まあ、まずはお茶しよう。なるようになるさ」


「なるようになるさ」


恵ちゃんが後ろで手を組んで、優しく通り抜ける風に語るように繰り返す。

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