第9話

帰りの車中で先生にお願い。


「先生。液クロ動かすのに、アセトニトリルとODSカラムが研究室にないので買っていただきたいんですが?」


「僕、隣の研究室から借りてくるよ。確か農芸化学研究室には在庫があるはず。正くん、早く色素分析したいんでしょ」


「はい」



「そう、恵ちゃん、去年、先輩から少し液クロでの色素分析習ったよね」


「うん」


「色素の抽出法とか、液クロの移動相の作り方とか知ってるよ」


「でも、パソコンの測定ソフトウエアの使い方は、かなり忘れてるかな?」



「大丈夫。そこは僕が覚えている」


「力を合わせれば、なんとかなるね」



「俺はどうすればいい?」


「大樹はサンプル採取と準備」


「採取はわかるけど準備って?」


「採取するサンプルのステージを揃えたり、持って帰ってきて乾燥花弁の準備、重量測定したり」


「何だ、正のおじさんのところで実験に使う花をポンと摘んで取ってくるだけじゃないの?」


「違うよ。サンプル準備は気を使うんだよ」



義雄も口を挟む。


「例えば、僕の遺伝子解析のサンプル採取では、蕾から開花始めまでのステージ別に、採取直後に液体窒素で即凍らせて、ドライアイス入りのケースにサンプルを入れて持ってきてもらう」



「義雄、それは俺には無理だよ。その時は義雄も一緒にきてくれよ」


「わかったよ。一緒に行くよ」



「色素分析のサンプルも同じ。蕾からのステージ別のサンプルを持ってきて。それは常温で構わないから」


「はいはい」


大樹は、少しめんどくさそうな返事をする。



「今日持ち帰る花はどうしようかな?」


「生花弁重の計測をして、80%メタノールで一晩浸漬するかな」


「まず、手始めに」



「先生、そういえばうちの液クロ。2波長の同時測定は可能ですよね」


「うん。UV/VIS仕様。測定波長はカルコンは360nmの紫外光、オレンジにあるだろう赤色色素は520nmくらいでいいかな」


「本当は、全波長測定のPDA、フォトダイオードアレイがあるといいんですけど」


「そんなの、予算オーバーで買えなかったよ。うちの台所、厳しいからね」



あともう少しで校舎に着く。



「恵ちゃん。今日はもう帰る?」


「うん。もう帰る、夕方6時近くになりそうだし」



「じゃあ、僕が今日採取した9種類の黄色花、2種類のオレンジ花の色素を抽出しておくよ」


「うん。ありがとう」



「箱入り娘は早く帰らないとね」


「悪い虫がつくと困るから」


大樹が言う。



「言ってるお前が悪い虫だろ」


僕が言うと、大樹が自分を指差して笑う。



「まあ、輩は徹夜もOKな連中だから、今日のサンプル分の調査、分析準備は3人でできるね」


「それぞれの卒論も進めなきゃならないし」



「正、大丈夫か」


「お前のアイソザイムの研究は、分析も面倒で4時間以上かかるし、細かい洗い物も多いから」


「長い時には、2時間くらい器具洗浄にかかるだろ?」


「大丈夫。慣れだよ、慣れ」



「俺は電子顕微鏡の写真だけ。義雄は、せいぜい寒天培地の作成や、プロトプラストの単離くらい」


「あと遺伝子解析か」


義雄が言う。


「遺伝子解析も大変だよ」


「暇なのは大樹くらいだよ」



「いや、恵ちゃんも暇だよ」



「あら、私そんなに暇じゃないわよ」


「100種類くらいの胡蝶蘭を毎日取り替え、密閉チャンバーにセットし、24時間光合成測定装置で光合成量を測る」


「そして、その胡蝶蘭の葉の厚さを測定」


「CAM、non-CAM判別のための基礎的知見を得るの」


「結構、気を使うのよ」



「そう、何だっけ? CAM植物って」


「大樹、知らないの」


「うん」



「あのね、大雑把に言って葉が薄いランはC3型のCO2固定をしているの。一方、葉の厚いラン、胡蝶蘭などはCAM型のCO2固定によって光合成を行っていることが多く,成熟したコチョウランはCAM型の光合成を行っているの」


「CAM型とは、暗期(夜間)に気孔を開きCO2を吸収してリンゴ酸を合成して葉に貯え、明期(昼間)には気孔を閉じリンゴ酸から発生するCO2を用いてC3型の光合成によってCO2固定を行っているの」



「よくわからないな、C3型植物、C4型植物だとかCAMも」


「大樹くんは知らなくていいよ」



「そんな、冷たいこと言わないでよ恵ちゃん」



「まあ、簡単に言うと、普通の植物は昼間光合成をして、二酸化炭素を取り込んで酸素を出している。見かけ上ね。呼吸もしているから」


「夜になると、酸素を取り込んで二酸化炭素を放出している。いわゆる普通の呼吸よ」


「これがC3ね」



「C4は飛ばすけど、CAM植物はさっき言った通り。一日中見かけ上酸素を放出しているの」


「だから私の研究は、光合成測定装置のデータが命。あと、葉の厚さ測定」


「胡蝶蘭でも、葉の薄いステージでは、どうやらCAMをしていないらしい」


「じゃあ、どのくらいの葉の厚さからCAMが始まる?」


「葉の厚さを測定して、判別分析という多変量解析の統計手法を用いるの。この辺の葉の厚さからCAMが始まる。という線引きをする感じかな」


「その後のことは詳しく言わないけど、C3型植物、C4型植物、CAMの細かい光合成の生化学分析も手がける予定」



大樹が黙って腕を組む。


「難しいんだね」


「恵ちゃん、光合成測定装置を放りっぱなしにして、ただその株の葉の厚さを調べているだけかとおもった」



「隣の芝生は青く見える」


「青いのは、大樹の庭だけだよ」


うん、うん首を縦に振り大樹は笑う。

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