第7話
「さて、ここが育種用ハウス」
おじさんが、少し嫌なきしむ音のするハウスのドアを開ける。
恵ちゃんはその音を聞いて、ぶるっと震えた。
「恵ちゃん、おしっこ漏らしたんじゃない?」
「大樹くんだけには言われたくないわよ」
皆で笑いながらハウスに入る。
50坪くらいの大きさだろうか。栽培しているカーネーションのハウスとは全く趣が違う。まず目に飛び込むのは花弁のない子房の元につけられた、たくさんの小さなラベル。どれも数字が書いてある。
次に、生産用ハウスでも見られないような不思議な花色、花模様の素材。また、普通の花屋さんで見られるような素材もある。大げさではなく、百以上もある花色、花色パターンの花が咲いている。
僕はおじさんに尋ねる。
「ここには色々な種類の花色のカーネーションがありますね」
「普通の花屋で見かけるピンク、赤などもあるし」
「そう、ここには150種類くらいの育種素材を植えてあるんだ」
「普通色のカーネーションも、生産性が高いとか、病気に強いとか、交配親として優れているという特徴のものは置いてある」
「各々、12株から30株くらい植えてある。花粉の出やすい、出にくいものがあるからね」
「カーネーションは八重咲きだから、意外に花粉が出にくいんだ」
義雄が話す。
「そう、カーネーションもバラも菊も、そのほかも八重咲きと言うのはほとんどが一重咲きの突然変異なんだ」
「八重における、内側の花びらは、雄しべや雌しべにあたり、それらが花弁化したのが八重咲き」
「一般的に花粉は取りにくくなるよ」
「カーネーションの柱頭って、蝶々の触角みたいですね」
恵ちゃんが両手の人差し指を頭の上に立て、蝶の触角の真似をする。
「それ、鬼だよ」
大樹がからかう。
恵ちゃん。クリクリとした眼で膨らんだ子房を見つめている。
いつもながらの不思議顔。可愛い仕草。
「そう、その二本の触角のような柱頭の先が少し丸まり始める頃が交配の適期なんだ。そこに花粉をつける」
「おじさん、どれくらいの交配をするんですか、ここで」
「交配数は数百くらいかな」
「数百も!」
「そうだよ」
「一つの子房に少ないものは数粒、多いものは3〜40粒入っているものもある。年間1万種子くらいを目安に採種しているんだ」
「おじさん、ラベルの数字の意味は」
おじさんはニヤニヤする。
「ただの通し番号だよ。もちろん、その番号で雌、雄の両親がわかる」
大樹が尋ねる。
「育種記録は取ってあるんですか?」
「ああ、あるよ。でも専門的なことは書いていない。目で見た花色、生産性や茎の強さ、病害抵抗性みたいなものをデータベース化してあるが、遺伝子型がどうとか、色素が何かとかまでは解らないから書いていない」
おじさんは、十数冊ある中の一冊のノートを取り出す。
「こんな風に」
僕は手に取り目を通す。
そこには、素材番号、例えばA65とか、色は黄色、後代の生育よし。花粉量多。などなど交配親のメモ書きがぎっしり並んいる。
交配記録は、雌 x 雄、例えば A62 x B24、ラベル番号212〜218などと記録されている。
おじさんは、別なノートを見せてくれる。
「これは、一次選抜ノート。つまり、得られた種子の実生群の記録だよ」
「別なハウスに植えてある」
そのノートには、得られた実生の花色別割合、模様の有無など花色を中心とした情報が細かく記載されている。
「おじさん、交配後代の実生を1万株も一つ一つ調べているんですか?」
おじさんは笑う。
「そんな暇ないよ」
「俺自身が命名した、バードウォッチング法という、実生全体をパッと見渡して、この交配群は、赤が何パーセント、薄オレンジに赤の条が何パーセントと、即時に感じた割合を記入しているんだ」
「気になる花色のものは、もちろん細かくその詳細と写真を記載する」
「すごいじゃないですか! それ!」
「いやいや、30年も育種していると、だいたい出来るようになるもんだよ」
「ここにある花、摘んでもいいんですか?」
「いいよ。交配時期はそろそろ終わるから、今咲いているものの、花だけもいで」
「交配済みのラベルの付いている茎を折ったりしちゃダメだよ」
「はい」
恵ちゃんは嬉しそうに花を摘みにかかる。もちろん黄色花とオレンジ花だけ。
「あの、花の萼(がく)に素材番号を書きたいので、マジックを貸してもらえます?」
「いいよ」
「恵ちゃん。自分の顔には素材番号書かなくていいからね」
「あら、大樹くん。私の素材情報知りたくないの?」
「知りたい! 知りたい!」
皆で笑顔。僕も知りたい、深く恵ちゃんの素材情報。
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