第4話
「今日は恵ちゃん遅いね」
「寝ぐせ直しに時間がかかっているんじゃない?」
大樹が言う。
「それはない、いつも、そのままでくるじゃん」
義雄が呟く。
「さて、やるか」
僕が席を立つと、大樹も義雄も自分の研究に取りかかり始めた。
昨日、有田先生がバラの野生種の葉のサンプルを取って来てくれたので、今日は電気泳動の実験をする。
電気泳動のゲル作り、酵素の抽出、電気泳動。
アイソザイムという、酵素多型の研究だ。
簡単にいうと、酵素とは、同じ働きをしていても、そのタンパク質組成が異なる場合がある。パーオキシターゼという植物体内に生じる過酸化水素を分解する酵素がターゲット。
酵素を抽出して、ポリアクリルアミドゲルに乗せ電気泳動し、その後染色すると、その組成の分子量の違いから、ゲル上に縞模様のようなバンドが得られる。その縞の位置、太さ、数の情報を得る。
バラの野生種の産地や種類で、共通なもの、また異なるバンドなどの情報が得られる。
それらを互いに比較し、統計解析をすることで、野生種の近縁度や遺伝子変異の多少が確認される。
「有田先生、今日泳動、流しま〜す」
「佐藤くん、ちょっといいかな」
「何でしょう?」
先生は、相談事を話すときの癖である、こめかみに人差し指を擦る仕草で僕を呼び止めた。
「オレンジ色のカーネーションの花色の件だけど、予算つけようか?」
「いいえ、特別いりませんよ。自由研究みたいなものだから」
「でも、液クロのカラムだとか、それに使う有機溶媒だとか色々かさむよ」
「そうなんですか? 僕、よくわからなくて」
「大学の友人に聞いておくね。面白そうな課題なんで、3年生に手伝わせてもいいし」
「来年、課題化すれば予算もつく」
「何だ、先生。科研費、予算獲得の戦略じゃないですか」
先生はニヤニヤ微笑む。
まず、ゲル作りに取り掛かる。アクリルアミドは劇物であるので注意する。
凍結してあるバラの葉からの酵素抽出は楽ではない。マイナス10℃の冷暗室で、乳鉢に葉と少量の石英砂、バッファーを適量加え乳棒で抽出を行う。この作業は春でも、夏でもスキーウエアを着て行う。
「さて、抽出よし、ゲルよし、電気泳動準備よし」
工場の安全確認ではないが、指差呼称し実験するのが僕のくせ。先輩から叩き込まれた。
冷暗室に1時間もいたので、春の外に出て背伸びをする。
もう終わりそうな桜の花びらが宙を舞い、アカシアの花の咲く校舎。
丘を上がってくる女の子。
恵ちゃんだ。
右手に大きめの荷物を抱えている。何だろう?
「おはよう。恵ちゃん」
「おはよう。正くん」
「何? その荷物」
「お楽しみよ。お・た・の・し・み」
研究室に戻ると、大樹も義雄もお茶を飲んでいた。
「何、何。恵ちゃん、それ何?」
大樹が早口で話す。
「ちょっと待っててね」
恵ちゃんは、荷を机に置き、紐を解いて蓋をゆっくり開ける。
「じゃじゃ〜ん」
「すごいすごい。ホールケーキじゃん。イチゴの」
「今日は俺の誕生日……、ということは……」
「そうよ、大樹くんへのバースデーケーキ。手作りよ」
「やった! やった! すごい! 嬉しい」
誰だ、さっきまで恵ちゃんは寝ぐせ直しで遅れてくると言ったヤツ。
そういえば、さっき大樹を好きな、生物環境工学研究室の歩ちゃんもチョコレートを持って来ていたな……。
僕も、義雄も複雑な心境。歩ちゃんで手を打てばいいのに。ライバルが減るから……。
「お昼前だけど、今食べる? それとも、後にする?」
「今、今! 今食べる!」
大樹がはしゃぐ。
「待っててね」
恵ちゃんが、ナイフ、フォーク、取り皿を準備する。
「有田先生も呼ぼうかしら?」
「うん。そうしよう」
「しかし、上手だね。恵ちゃん」
「育ちが違うのよ」
「そういうことは、自分じゃ言わない」
みんなで笑う。
「おっ、ケーキだね。恵ちゃん作ったの?」
「はい」
「イチゴの赤の色素はアントシアニンが複数入っていて、確か、カーネーションと同じかどうかわからないけど、ペラルゴニジン3グルコシドも入っているはずだよ」
「そうなんだ。面白いですね。花の色にあり、果物の色にもあり」
恵ちゃんが不思議顔で呟く。
「先生、オレンジ色のイチゴはありませんよね」
「恵ちゃん。見たことある?」
「無いです」
「実はね、美味しいイチゴの色は真っ赤ではなく、ほんのりとオレンジがかった色になるんだ。いちご本来の甘さと適度な酸味があり食感が良いいちごの印」
「でも、カーネーションのような爽やかなオレンジ色じゃ無いよ」
「カーネーションのようなオレンジ色のイチゴがあれば、ニンジンの味がするのかしら?」
「恵ちゃん。どこからそんな発想出てくる?」
僕は笑いながら、そんなことが口から出る、恵ちゃんが可愛らしくて仕方ない。
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