第3話
「綺麗なカーネーションだねえ」
助手の有田先生が恵ちゃんの飾ったカーネーションを見て呟く。
有田稔先生。園芸学研究室の助手。専門は蔬菜と花卉。園芸実習では、先生から鍬(クワ)の使い方なども学ぶ。最先端の研究ばかりでなく、鍬の使い方一つも身につけられるのが園芸学教室の面白いところである。
「誰がこの花持ってきたの?」
「恵ちゃんです」
「恵ちゃんは?」
「ランの温室に行って実験中だと思います」
「先生。このオレンジ色の秘密わかります?」
「オレンジ色は大体がカロチノイドだけど、確かカーネーションはアントシアニンだよね」
「そうなんです。カルコンというアントシアニンの素になる色素と、赤色色素のペラルゴニジンが共存しているみたいなんです」
「カーネーションの色素ね」
「面白い文献があるから持ってきてあげる」
有田先生は自分の机の引き出しの論文ファイルから、一つの論文を抜き出した。
Inheritance in the Carnation, Dianthus Caryophyllus. IV. the Chemistry of Flower Color Variation, I T. A. GEISSMAN and GUSTAV A. L. MEHLQUIST
「これ、カーネーションの花色についてよく調べられている文献。1947年のものだけど、とてもいい論文だよ」
僕は論文を斜め読みする。
「すごい! よくここまでカーネションの花色について調べられていますね」
「ただ、この時代はまだ、黄色色素のカルコンが解らなかったんですね。ダリアの花にあるカルコンと似ている、というところまで来ていますが」
「そう。今はForkmannの研究や日本でのカーネーションの花色に関する基礎的研究で、黄色色素がカルコンであることが解っている」
「確か、僕の記憶では、カーネーションの黄色色素は、カルコン2’グルコシド、すなわち、カルコンの2’の位置に糖がついているものだったと思う」
「そうなんですか」
「あと、赤色色素のペラルゴニジンは、ペラルゴニジン3マリルグルコシド。ペラルゴニジンというアントシアニジンの3の位置に糖がついていて、さらにリンゴ酸がついている」
「リンゴ酸を英語でいうとマリル」
「おはようございます」
「恵ちゃんが温室から帰ってきた」
「恵ちゃん。先生が面白い文献を見せてくれたよ」
「読んでみる」
「うん」
恵ちゃんはコーヒーを入れ、論文を読み始める。
恵ちゃんの集中している姿。可愛い。脳みそではどんな感じで英語論文を読んでいるんだろう。想像するだけで嬉し楽しくなる。
「オレンジ色のこと書いてないね」
「うん」
大樹と義雄が研究室に入ってきた。
「おはよう〜っす」
「これ、読んで見て」
恵ちゃんが大樹に手渡す。
「もう、正も恵ちゃんも読んだんでしょ。内容だけ教えて、内容だけ」
いつも物事を飛ばし急かす、大樹らしい口ぶり。
「カーネーションの花の色の遺伝子型、いわゆるgenotypeは、YIASRMで示されるみたい」
「419ページの表2を見てみて」
「ここには、黄色、白、オレンジがないね」
義雄が呟く。
「僕らが知りたいのはオレンジ色。つまり黄色と赤色の混合した形態」
「赤色は、YIASrm。R遺伝子が劣勢だからペラルゴニジンという色素になり、M遺伝子も劣勢だから糖が一つしかついていない」
「有田先生の言う、ペラルゴニジン3マリルグルコシドだね」
「まず、赤色はOKだね」
「さて、黄色」
「429ページにあるように、濃い黄色は、推定遺伝子型が、Yiaになっている」
「y遺伝子、i遺伝子、a遺伝子が劣勢の場合は、薄い黄色や白になると書いてある」
「y遺伝子が劣勢だと、アントシアニンは生成されないらしい」
義雄が言う。
「ちょっとややこしいね」
「Y遺伝子が優勢なのに、黄色花、Yiaではアントシアニンが生成されないじゃん。矛盾してるよ」
「分かった。まず、シンプルな物事から考えよう」
「解ったのは、黄色の遺伝子型がYia、色素の名前は、カルコン2’グルコシド」
「さて、オレンジ色の秘密を探るのはここからだね」
「どうして? ここから? 黄色色素も解ったじゃん」
「大樹は物事決めつけるの早すぎ。どうして、赤色色素と黄色色素が共存する?」
「この論文のどこにもオレンジ、書いてないよ」
「深入りはよそう」
しばらくして大樹が呟く。
「深入りはよそう」
恵ちゃんが僕の目を見て可愛い声で繰り返す。
クリクリした目で眩しく微笑む。
やるわよ、と言う合図。
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