虹の生えてる湖畔に棲まう、番いの鹿のこと

 なにしろ、精霊せいれいが口伝えするまぼろしみたいなものですよ。町のそとは森でしょう。そのなかに名もないみずうみがあるというので。消えないにじがそこへおりるといって。その結晶けっしょうを手にすれば、どんな願いでもひとつ叶うというのです。

 つかみようのない、まこと虹らしい話です。けれども、そんなのにすがりたくなることってあるでしょう。ごらんなさい。いまけものみちをいく若者も、どうしたって、ほかにしかたがないのです。


 若者には弟がひとりあります。年のはなれたおさない子です。もとより病弱な体でしたが、つい数日前、流行はやりの、黒くて、わるいやまいにかかっていることが分かりました。

 町のお医者さまはしきりにわが眉毛をひねりながら、これはいかん、治る見込みがないのなんのと言い、薬の代わりにお祈りの言葉を残していきました。

 若者は弟を大変可愛かわいがっていましたので、これを聞いて足からふるえ、息も出来なくなりました。

 (神さま! あなたは幼い家族の無垢むくけななことを、すっかりごぞんじのはずです。わたしは決して、なぜなどと考えはしません。どうか、どうかお慈悲じひをくださいませ。……)

 その夜、弟のとこによりそった若者はねむりませんでした。これは伝染うつる病であるから云々とお医者さまが言いましたけれど、少しも頭に入ってはいませんでした。


 幼い顔は月光に彫りだされたごとくに浮かびあがっています。やせたうでには影がおり、はっきりと死の尾が巻きついていることが分かります。

 「兄さん。死ぬということは、ぼくは、なにも怖くないのです」

 弟はちいさな声で言いました。

 「ただせっかくですから、美しい話を胸にしまっていきたいと思います。兄さんがよくしてくれた、あの湖の、虹のおはなしなんかを」

 それは若者が両親から聞かされ、また彼が弟によく聞かせたおとぎ話でした。その舞台となる森は、実際、彼らが暮らす町を囲んでいました。

 「では、いまいちど聞かせてあげよう。精霊が口伝えする、まぼろしみたいな話だけどね……」

 おかしなことでしたが、大切にたいせつに語るうちに、彼は、森のどこかに本当に、そういう湖があるような気がしてきました。

 枝かげをくぐり、湖面を見、ついには虹の結晶をって弟の枕もとへ運んでやる自分のすがたが、はっきりと思い浮かべられたのです。これは神さまのお見せくださったものに違いないと彼は思いました。

 夜がけ、弟がつかの間に眠ると、若者はすぐに家を出ました。やみや獣をおそれる気持ちはなく、ただ月の光が消えないうちにと、森のなかへいっさんにけていきました。


 (湖よ出ろ、虹よ出ろ。湖よ出ろ、虹よ出ろ。)

 そう念じながら、足を取られ、手をかれ、どのくらいちましたでしょう。

 あたりが白んだのは月のぐあいか、日の出のためか、ともかく若者は、木々の向こうにうすかりを見出したのです。そして夢中でそこへみ入ったとたん、体は支えをなくして、果てしない地のけめへと転がり落ちていきました。


 湖よ出ろ、虹よ出ろ。湖よ出ろ、虹よ出ろ……。真っ暗なまぶたの裏でこれらの言葉がめぐり、火花が散ったようでした。

 彼はどうやら生きているのです。目を開けると、あわく青いひかりがそこらに満ちて痛いほどにしみました。こわごわ手足の先に、二度、三度、力を入れてみて、ようやく体の半分を起こすことができました。

 見渡してみると、名も知らぬ草々がうす暗い影となり、遠くで闇をつくっています。けれどもなお、くっきりしていたのは、そのまんなかを割ってちみちる瑠璃るりの湖でした。あたりの青いひかりは、波ひとつ立たない水面から発せられているのです。

 「あなた、お気づきになりましたか」

 やわらかなふえの音のような声がしました。

 いつの間にか若者のかたわらに、ひとりの娘がひざまずいていました。若者ははじめ身がまえましたが、娘のすがたと、鹿しかいろのながい髪があまりに美しかったために、つい口を聞きました。

 「ええ……あなたが助けてくださったのですか」

 「そうです。こんなところへ、だれか……ひとが来ることなどありませんので、おどろきましたわ」

 そこで若者は、自分がここへ来たわけを話しました。娘はすべてを静かに聞くと、気の毒そうな顔をしました。

 「その湖というのは、たがわずこれのことでしょう。けれども、あなたに虹を採ることができるかどうか……」

 「どうしても採らなければならないのです。それがわたしの願いであり、心なのです」

 力強い声に、娘はほほを赤らめて目をせました。ながいまつから、まっすぐな影がいくつも落ちます。

 「虹は夜にならなければ、あらわれないのです。いますぐというわけにはまいりません」

 光うつろう水面は、それを見つめる若者の焦りをしずめてくれました。また、落ち着いた気持ちを呼び起こしてもくれました。

 「ではここで待たせていただきます。夜になれば、きっと虹はあらわれますね」

 「ええ。きっと」

 娘がうなずいたのを見て、若者の体から一度に力がけました。えがたいつかれが、彼を草のうえへとたおしたのです。

 「あなたさま、しっかりなさって……。どうぞ、これをお飲みください」

 娘は若者の肩を抱き起こして、甘草をしぼった汁を飲ませてくれました。それは酒の香りがするような不思議な味がしました。のどでも胸でも、うるおったところから温かくなり、若者はやがて深い眠りにおちました。


 水音はつつしみをもって、若者を呼び覚ましました。降り落ちる夜のやみが草葉のいろを吸いこみ、あたりはほの緑にしずんでいます。

 そこへとすまぶしさに引かれて、若者は目を見張みはりました。あの瑠璃るりの湖のまんなかから、かがやく虹がえています。それは硝子がらすでできているようにかたくなめらかで、上へうえへと伸びています。その先がどうなっているのか、見届けられないほどです。

 根元は水にひたり、たしかに湖のうちから生えているようでした。そしてそこには、あの娘が寄りそい立っていました。波うつ鹿毛色の髪はれて、水面にれています。

 若者は立ちあがり、夢のなかを歩く気持ちでめんへと近づいていきました。娘はそれに気がついて「こちらへ来てはいけません」と言いました。

 「見ただけではお分かりにならないかもしれませんが、これはただの湖ではありません。わたくしたちのあいだで瑠璃lazuliと呼ばれる、大いなるもののたゆたいなのです。あなたさまのような人間が入ることはおろか、指でれただけで、いままでの通りではいられなくなるでしょう」

 娘は音もなくきしの手前までもどってくると、草でまれたかごを差し出しました。照らされたその顔は、ひかりのためだけでなく、どこか青白く見えました。

 「これが、あなたさまがここまで求めてきたものです。これを持って、すぐにお帰りください」

 草籠くさかごのなかには、くだかれた虹の結晶が入れられてありました。透明な宝玉より清らかで、伝統でんとうの貝細工よりあつかがやききです。

 若者はそれを受けとって、ありがたさにひざをつきました。

 「ほんとうに感謝します。あなたは、すがただけでなく心まで美しいひとだ。叶うことなら、またこうしてお会いしたい」

 「いけません。わたくしは人間ではないのです。……そこのしげみから、父母ちちははが見ております。わたくしはけものの血を引いているのです」

 たしかに草の影から、大鹿のつがいがふたりのようすをうかがっていました。けれども若者には、この娘と父母がただの獣だとはどうしても思えませんでした。

 「お聞きください。わたしは、神さまのおみちびきでここまでやってきたのです。それならば、あなたがたとて、たとえ獣は獣でも、せいなるものに違いありません」

 それを聞いた娘はためらって、しかしっすぐに若者を見つめて聞きました。

 「そこまでおっしゃってくださるのなら、あなたさまは、きっと帰ってきてくださいますね」

 「ええ、約束します。弟の病が治りましたら、必ずここへもどります」

 そう眼ざしでちかうと、若者は娘にいったんの別れを告げ、教えられた道をたどり、町へと帰りつきました。


 とこで待っていたのは、若者が家を抜け出たちょうどその夜に、息を引き取った弟でした。

 亡骸なきがらにすがりついて、草の籠がつぶれるほどににぎりしめて、病よ去れ、家族よよみがえれと若者は泣きました。けれども、神さまも虹の結晶も、召された命を呼び戻してくれることはありませんでした。

 数日のあいだ、頭には弟の顔と、あの娘の顔とがじゅんりに浮かびました。最後にわした約束がいくどとなく聞こえてきました。それでも若者は、悲しみと、弟を見捨てられない思いとから、家をつことができませんでした。


 ある晩、つかれた若者が眠っていると夢を見ました。かつての床にささげてある虹の結晶からひかりがあふれ、弟のすがたがあらわれたのです。

 「兄さん、どうか走って、湖へと行ってください。ぼくを想ってくれたように、綺麗なおはなしをくれたように……。あの鹿の娘は、虹を採るのと引き換えに、おのれに呪いをかけたのです。兄さんが戻らなければ、彼女は今晩のうちにも死んでしまうでしょう」

 若者は飛び起き、虹の結晶をつかむと家のとびらを押しのけて走りだしました。足音のひびく町はうしろへ、森の暗やみがふたたび彼を飲みこんでいきます。

 娘のいた湖はどこであったでしょう。走ってもはしっても枝がしげるばかりで、まるで進まないと感じられます。

 (この体などはどうなってもかまわない。はやく。もっとはやく駆けることのできる足がほしい、ほしい)

 若者の体はその願いごと、虹色に包まれていきました。駆けたあとにはひかりのおびが、なびいて残りました。


 若者が地のすべりおりると、そこには、やせおとろえた鹿じかせっていました。鹿はあの娘と同じ声を大きくふるわせました。

 「あなたさまは、どうなさったのです。あなたさまの家族はどうなられたのです……本当に帰ってきてくださるなんて」

 若者は雌鹿のそばへよると、首もとにそっと身を寄せました。

 「弟は、わたしの健気な家族は、神さまのもとへといったのです。美しいはなしを胸にしまって」

 それを聞いた雌鹿の目から、涙がいくつも落ちました。

 「そして、弟はわたしに、あなたのもとへ走れと言いました。あなたは命と引き換えに、わたしの弟を助けてくれようとしたのでしょう」

 「わたくしでなければ、あなたでした。わたくしはただ、あなたの力強いお声とお心とが失われることが、たまらなくしいと思っただけなのです」

 はんにいくめかの夜がおとずれました。虹はまっすぐ変わらずそらにたちのぼり、水面は、ほとりに身を寄せあうふたりのすがたを映しました。そこには若く美しい雌鹿と、立派な角をもつ鹿じかが、むつまじく並んでいるのでした。


(つかんだのは、いのちのひかり。おしまい。)

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