虹の生えてる湖畔に棲まう、番いの鹿のこと
なにしろ、
若者には弟がひとりあります。年の
町のお医者さまはしきりにわが眉毛をひねりながら、これはいかん、治る見込みがないのなんのと言い、薬の代わりにお祈りの言葉を残していきました。
若者は弟を大変
(神さま! あなたは幼い家族の
その夜、弟の
幼い顔は月光に彫りだされたごとくに浮かびあがっています。やせた
「兄さん。死ぬということは、ぼくは、なにも怖くないのです」
弟はちいさな声で言いました。
「ただせっかくですから、美しい話を胸にしまっていきたいと思います。兄さんがよくしてくれた、あの湖の、虹のおはなしなんかを」
それは若者が両親から聞かされ、また彼が弟によく聞かせたおとぎ話でした。その舞台となる森は、実際、彼らが暮らす町を囲んでいました。
「では、いまいちど聞かせてあげよう。精霊が口伝えする、まぼろしみたいな話だけどね……」
おかしなことでしたが、大切にたいせつに語るうちに、彼は、森のどこかに本当に、そういう湖があるような気がしてきました。
枝かげをくぐり、湖面を見、ついには虹の結晶を
夜が
(湖よ出ろ、虹よ出ろ。湖よ出ろ、虹よ出ろ。)
そう念じながら、足を取られ、手を
あたりが白んだのは月のぐあいか、日の出のためか、ともかく若者は、木々の向こうに
湖よ出ろ、虹よ出ろ。湖よ出ろ、虹よ出ろ……。真っ暗なまぶたの裏でこれらの言葉がめぐり、火花が散ったようでした。
彼はどうやら生きているのです。目を開けると、
見渡してみると、名も知らぬ草々がうす暗い影となり、遠くで闇をつくっています。けれどもなお、くっきりしていたのは、そのまんなかを割って
「あなた、お気づきになりましたか」
やわらかな
いつの間にか若者のかたわらに、ひとりの娘がひざまずいていました。若者ははじめ身がまえましたが、娘のすがたと、
「ええ……あなたが助けてくださったのですか」
「そうです。こんなところへ、だれか……ひとが来ることなどありませんので、
そこで若者は、自分がここへ来たわけを話しました。娘はすべてを静かに聞くと、気の毒そうな顔をしました。
「その湖というのは、
「どうしても採らなければならないのです。それがわたしの願いであり、心なのです」
力強い声に、娘は
「虹は夜にならなければ、あらわれないのです。いますぐというわけにはまいりません」
光うつろう水面は、それを見つめる若者の焦りを
「ではここで待たせていただきます。夜になれば、きっと虹はあらわれますね」
「ええ。きっと」
娘がうなずいたのを見て、若者の体から一度に力が
「あなたさま、しっかりなさって……。どうぞ、これをお飲みください」
娘は若者の肩を抱き起こして、甘草をしぼった汁を飲ませてくれました。それは酒の香りがするような不思議な味がしました。
水音はつつしみをもって、若者を呼び覚ましました。降り落ちる夜のやみが草葉のいろを吸いこみ、あたりはほの緑に
そこへと
根元は水にひたり、たしかに湖のうちから生えているようでした。そしてそこには、あの娘が寄りそい立っていました。波うつ鹿毛色の髪は
若者は立ちあがり、夢のなかを歩く気持ちで
「見ただけではお分かりにならないかもしれませんが、これはただの湖ではありません。わたくしたちのあいだで
娘は音もなく
「これが、あなたさまがここまで求めてきたものです。これを持って、すぐにお帰りください」
若者はそれを受けとって、ありがたさに
「ほんとうに感謝します。あなたは、すがただけでなく心まで美しいひとだ。叶うことなら、またこうしてお会いしたい」
「いけません。わたくしは人間ではないのです。……そこの
たしかに草の影から、大鹿の
「お聞きください。わたしは、神さまのお
それを聞いた娘はためらって、しかし
「そこまでおっしゃってくださるのなら、あなたさまは、きっと帰ってきてくださいますね」
「ええ、約束します。弟の病が治りましたら、必ずここへ
そう眼ざしで
数日のあいだ、頭には弟の顔と、あの娘の顔とが
ある晩、
「兄さん、どうか走って、湖へと行ってください。ぼくを想ってくれたように、綺麗なおはなしをくれたように……。あの鹿の娘は、虹を採るのと引き換えに、おのれに呪いをかけたのです。兄さんが戻らなければ、彼女は今晩のうちにも死んでしまうでしょう」
若者は飛び起き、虹の結晶をつかむと家の
娘のいた湖はどこであったでしょう。走ってもはしっても枝が
(この体などはどうなっても
若者の体はその願いごと、虹色に包まれていきました。駆けたあとにはひかりの
若者が地の
「あなたさまは、どうなさったのです。あなたさまの家族はどうなられたのです……本当に帰ってきてくださるなんて」
若者は雌鹿のそばへよると、首もとにそっと身を寄せました。
「弟は、わたしの健気な家族は、神さまのもとへといったのです。美しいはなしを胸にしまって」
それを聞いた雌鹿の目から、涙がいくつも落ちました。
「そして、弟はわたしに、あなたのもとへ走れと言いました。あなたは命と引き換えに、わたしの弟を助けてくれようとしたのでしょう」
「わたくしでなければ、あなたでした。わたくしはただ、あなたの力強いお声とお心とが失われることが、たまらなく
(つかんだのは、いのちのひかり。おしまい。)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます