水妖精<ラブル>の御本

月と呼ばれる石ころが、南の海に落ちたとき

 これは天の海と地の海とが、いまほどはなれていなかったころのお話です。


 そのころ、地の海にはまだ、どんな生きものもいませんでした。海面かいめんはゆらりともせず、ただ、暗やみが底のほうまでだまってしずんでいるだけでした。


 はんたいに、天の海にはさまざまなものが、ようやく魚のかたちをしてんでいました。

 目もなく口もなく、三角のひれだけでねるように泳ぐもの。長い尾をくねらせて光りながら進むもの。……ぼんやり流されていくのは、自分の毛がもじゃもじゃしすぎているもので、からまったまま、しようがなくいるのです。


 そんな生きものたちのなかに、ひときわ大きな体を持つものがいました。

 あまりの大きさに、そのようすをひとつ例えでは言えないほどでした。皮のなめらかなところは黒曜石こくようせきのつややかさで、そうでないところは溶岩石ようがんせきの凸凹に、藤壺ふじつぼや貝にたとんがりが無理にくっついているのです。またところどころはジェリーのけかたをして、変にぶよぶよしているのでした。

 ほかのつくりはといいますと、りっな尾ひれがひとつ、そして体の天辺てっぺんのまんなかあたりに、息をするあながひとつありました。ひとつきりとはいえ、それだけで、あたりの生きものの何倍もある大きな孔です。たとえいききに吹きだすのでも、しおはたかく高くほとばしり、みきふとく、枝葉ゆたかなちゅうじゅにも見えるほどでした。


 一方その海には、とても小さなものたちもんでいました。それらは天の海をただようう丸い石――そのときはまだ、なんという名前もありませんでしたが、いまふうに月と呼びましょう――に寄りついて、くぼみで休んだり、えさとなるちりをためこんだりしていました。月はあの大きな生きものにもおとらない大きさをしていましたので、あたりを漂うときには、おたがいがよく注意をしなければなりませんでした。


 あるとき、このふたりが、たまたますれちがうことがありました。

 「おお、今夜はまぶしいなあ、お石さまよ」

 重たいまぶたをゆっくりと下ろして大きなものが言いました。

 この日の天は紺碧こんぺき硝子がらすへんりつけた寄せ細工ふうに見え、月のひかりがそこらじゅう、ぴっかりぴっかり跳ねていました。月には口がありませんでしたので、代わりに小さなものたちが声を合わせて答えました。

 「そうですとも。今夜のお石さまは、めいっぱい光っておられるのです」

 「そう、たまにこんなにまぶしいことがあるなあ。お前たちもたまらんだろう」

 「ええもちろん。わたくしどもも、こういう夜はねむれないので祭りをやるのです」

 大きなものは面白そうにのっそり口を開けました。そうしますとあたりがうずを巻きますので、小さなものたちはみこまれないように、月のくぼみへと集まるのでした。

 「それってのは、実際どんなことをやるんだい」

 大きなものが聞きました。

 「はい。まず、日々のみかを与えてくださるお石さまに感謝のうたを歌います」

 「ほおう」

 「それから、そこへ集めた塵やなにかを食べるのです。一族みんなでです。多くのものが、これがいちばん楽しみだと申します」

 「ほおう」

 「食べるのにくたびれたら、てんでに遊びます。輪になってくるくるしたり、おしくらまんじゅうをしたりですね。お石さまにはたくさんの穴が開いていますので、かくれんぼうをしてきそうものもいます」

 「ほおう」

 大きなものはいちいちかいげに、まぶたを閉じたり開いたりしました。天のもやが、ふたつの大きなかげのあいだを紫いろになびきながら通りすぎていきました。

 「わたしは生まれてこのかた、祭りというものをやったことがないよ」

 小さなものたちが、くぼみからじゅんに顔を出してきます。

 「そうなのですか」

 「もしもお前たちに習うとするならば、わたしもうたを歌い、星粒のような生きものを呑み、どこかで踊ったり、かくれんぼうをしたりしなければならないね」

 「いいえ、そうともかぎりません」

 いま小さなものたちは月をはなれ、輪になってくるくるしてみせました。

 「わたくしどもは相応そうおうのことをやるだけなのです。例えばわたくしどもに立派な潮が吹けたなら、祭りはたちまち、その美しさを競う遊びになるでしょう」

 これを聞いて、大きなものはひとつ考えをしました。

 「では今夜どうだろう、おまえたち、わたしの吹く潮を見てはくれないか。そして歌ってくれないか」

 大きなものは大きすぎる体のために、いつでもひとりでいるのがえきれずさみしかったのです。

 「ええ、ええ。ぜひとも、そうしましょう。お石さまもおよろこびになるでしょう。いったい、もっと眩しくなるでしょう」

 ぞろぞろ踊りをしながら、小さなちいさな、小さなものたちは、あたりにようえがいてみせました。ちょうど、このひらがなの、ひともじ、ひともじにもみえるような、ふしぎな、もようのいくつかです。


 さて、そうして大きなものは、さっそく月のしたまでもぐっていきました。そこから浮きあがって、潮を吹くときには月がいちばん近くなるよう、よいところを探したのです。すっかり歌う気もちの小さなものたちが、うえのほうで列になっているのが、ちらっと見えました。

 大きなものは見当をつけて、力いっぱい潮吹きだけを考えて、尾をひとふり、海面をめざしていきました。ところが、それは深い天の海底にまで砂ぼこりを立てるような、すさまじいいきおいとなりました。

 そして、あっと思ったときには、そのひろい背中が月を押し転がしていたのです。いっしょに、力んだ息が勝手にふきだしていくのを、大きなものはどうすることもできませんでした。

 それどころか、あまりに力みすぎたために体のジェリーのところからあなに吸いよせられて、どんどんくずれて、潮とともにぜんたい吹きあがってしまったのです。小さなものたちもそのようでした。かれらのかけら、ひとつひとつが天の四方にさまざまな色つきの線を引いて、そのうちに消えました。

 こうしてらされた天の海はかさが減り、地の海と、ちょうどいまくらいの遠さになったのです。


 これまでにない、素晴すばらしく美しい宇宙樹がひろがるのを、ほかの生きものたちは見ていました。枝をわけて転がり落ちる月は白金の果実そのものでした。

 そのひかりは、やがて天のみちを外れて、ずうっとしたにある地の海へと吸いこまれていきました。波ひとつ立ったことのない暗やみにしぶきをあげて、月は沈んでいきました。ひかりはだんだん弱くなっていきました。ただ、いくつもうまれた細かな泡が、あぶらのように浮かんで海面に残りました。


 それから、月と呼ばれる石ころが、どうしてふたたび天にあげられたのか。海のものならばだれだってそらんじるのでしょうが、あなたがそれを知るのは、きっと、このお話のなかでないほうがよろしいと思われます。


(つきがおちたはなし。おしまい。)

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