宵越しの

 明日、世界は終わるらしい。


 仕事を終えて自宅へ帰る途中。晩ご飯を買いに、駅から家までの間にあるコンビニに立ち寄る。

 いつものように、一番安い海苔弁当を手に取ったところで苦笑する。こんな日に、何てケチ臭いことを考えているのだろう、自分は。海苔弁当をショーケースに戻し、代わりに、隣の二百円高い唐揚げ弁当を取る。そして、それを顔馴染の店員のいるレジのところまで持って行った。

「――――いつもの、じゃないんですね」

 ぼんやり突っ立って、会計が終わるのを待っていた。いきなり話しかけられて、酷くびっくりしたのを覚えている。それが、会釈だけの関係だった彼との初めての会話だった。



 青年は、倉橋と名乗った。

「あなたのお名前、鹿野さんって言うんですね。レジに立っていた頃は、こうしてあなたとお話をする日が来るとは、思ってもみませんでした」

「私もです」

 鹿野は深く頷く。

「人生何があるか分かりませんね」

 そう言って倉橋がビニール袋を掲げた。中から、ビールの缶やらおつまみのパッケージやらが覗いている。

「無断でお店のお酒持ち出しちゃって大丈夫なんですか」

「あなたと同じですよ。どうせ終わるなら、というやつです。少しくらい貰っていっても罰は当たらないでしょう」

 店長は三日前から音信普通、他のバイトも来る気配なし。しかも、昨日からお客さんが一人も来てないんですよ、とは倉橋の言。

「あなたを除いて、ですが」

 倉橋は袋から缶ビールを二本取り出し、片方を鹿野に手渡した。

「このコンビニ、今や実質僕のものみたいなもんですよ」

 にこやかに嘯く倉橋に、鹿野は好感を抱いた。なかなか食えない青年だ。それに、人に物を手渡す時などの何気ない所作の一つ一つが洗練されていて、倉橋の育ちの良さを窺わせる。

「何から、話しましょうかね・・・・・・」

 倉橋が空を見上げる。続いて鹿野も。コンビニの駐車場の縁石に二人で腰掛けて、缶ビールを片手に。満天の星という訳にはいかないが、ちらほらと星が見える辺りが、何とも都会らしかった。

 二人の間に沈黙が降りる。しかし、居心地の悪さを感じさせるようなそれではない。

「――――そうですねぇ。生い立ちを語ってみるとかどうです?」

 この星空に乗じて、と倉橋が提案する。

「私の人生なんて、語るようなもんじゃありませんよ。聞いても面白いかどうか分かりませんし」

 鹿野は手を振って苦笑いする。

「まぁまぁそう言わずに。面白いかどうかは、僕が聞いてみてから決めますし。別に本当のことを言う必要はありませんし、何なら丸々大嘘でもいいんです。一向に構いません。鹿野さん、僕はあなたの話を聴きたいんです」

 柔和な見た目に反して、倉橋は意外と芯のある青年のようだった。

「――――ずるいですよ、倉橋さん。そこまで言われてしまったら断る理由がないじゃないですか」

 すみません、と倉橋が小さく頭を下げる。

「仕方ありませんね――――では」

 酒の肴になるかどうかは分かりませんが、と前置きして、鹿野は語り出した。



 男は旅が好きだった。

 初めて一人旅に出たのは、十五の夏。なけなしの三ヶ月分のお小遣いを握りしめ、無謀にも自転車で国を横断しようと試みた。

 遥かにそびえる霊峰、千年の寺院、気高く構える城、かつての面影を残す古の都。巡る一つ一つが少年を惹き付けた。

 行く道すがら、心優しい人々に一泊の宿を借り、時には野宿もした。 

 途中で所持金が尽き、地元のお巡りさんに捕まって親元に強制送還された。何故助けを求めないんだ、と親にはこっぴどく叱られ、少年の初めての一人旅は幕を下ろした。

 しかし、少年の旅好きがそれで終わるはずもなかった。高校時代はバイトに明け暮れ、長期休暇の度にどこかしらに旅に出た。大学に入ると親から一人で海外に行く許可も下りた。

 駄目と言ってもどうせお前は聞かないのだろう、と母親は呆れたように笑っていた。

 バイトに次ぐバイトと、必修単位のギリギリの合間を縫いながら、世界各地を巡った。社会人になってからもそれは変わらず、フリーランスの仕事に就き、金を稼いでは交通費に充てていた。一人暮らしのために借りた部屋も、月に一度帰るか帰らないかだったのですぐに引き払ってしまった。

 そんなある日、とある国のモスクからの帰り道、貧しい田舎の市場で一人の女性に出会った。

 彼女は運命だった。

 彼女は圧倒的だった。

 運命論者ではない男にもそれを信じさせてしまうほど。

 所謂一目惚れという一言で片付けてしまうには勿体ないような狂おしさと、初めてのはずなのにどこか懐かしい、よく知った温かさがあった。

 男は拙い異国語で、彼女に訴えた。

 自分がどれほどあなたに惹かれているのか、どれほどあなたを必要としているのか。そして、勝手なお願いだということは重々承知の上で、もし可能ならばどうか、自分と一緒について来て欲しい、と。

 見ず知らずの人間にいきなり口説かれ、初めは恐れを成し、腰が引けていた彼女だったが、粘り強く、しかし優しく話し掛け続ける男の熱意に、次第に心を動かされていった。そして遂に、三日目の朝、彼女はそれを承認した。

 男は喜び、彼女に跪いて何度も何度も礼を述べた。

 しかし、二人の間にはいくつかの壁があった。彼女は生まれてからこの方、自分の国はおろか、生まれ故郷である村を出たことがなく、当然、パスポートも持っていなかった。また、男は拙いながらも彼女の国の言葉を話すことが出来たが、彼女の方は男の母国の言葉を一切話せなかった。その上、男は自分の家を持っていなかった。

 男は泣く泣く、彼女の手を握りながら告げた。

 お金を貯めて、家も買って、あなたを迎えに行く。どれだけ掛かっても、必ず迎えに行くから、どうか待っていて欲しい、と。

 そんな男に対し、彼女は、『あなたが私を想ってくれている限り、私はあなたを待ちましょう』と微笑んだ。

 そして男は国に帰り、懸命に働き出した。必死で支出を切り詰め、お金を貯める。いつか彼女を迎えに行くために。



「――――あと少しで、彼女を迎えに行けるところだったんです」

 鹿野は気恥ずかしくなって頭を掻いた。

「それが、こんなことになっちゃって。色々思うところも有りましたが、やはり、世界が終わる前に彼女を迎えに行けなかったことだけが心残りです」

 つまらない話だったでしょう、と鹿野が謝ると、倉橋は首を横に振った。

「とんでもない! 素晴らしいお話でした。鹿野さんの想いが痛いほど伝わって来ました」

 倉橋が興奮して熱弁する。

「それはよかったです。嬉しいやら恥ずかしいやらですが・・・・・・」

 倉橋はまだ全然喋り足りない、という顔をしていたが、何ともいえないこそばゆさに襲われ、鹿野は話題を変える。

「それはそうと、私も倉橋さんの話を聴きたいです」

「やっぱりそうなりますよね」

 倉橋が気まずそうに目を逸らす。

「さっきの鹿野さんのが素晴らしすぎて僕のハードル思いっきり上がっちゃったじゃないですか。とはいえそもそも言い出したのは僕の方ですし」

 弱ったな、と口では言いながら、倉橋の表情はどこか楽しげだった。

「あまり期待しないでくださいね」

 そう念押しして、倉橋が語り出す。



 男は星を眺めるのが好きだった。

 男の家は田舎にあり、毎晩のように満天の星が見えた。日が暮れるまで遊んだ幼い日、迎えに来た祖父に手を引かれながら、あれが一番星だよ、と教えられた。図書館で片っ端から星座図鑑を借り、そのページを夢中で繰った。誕生日には望遠鏡を買ってもらい、土星の環を見つけて歓喜の声を上げた。

 両親は村役場に勤め、祖父母は畑仕事をしていた。五つ年上の兄もいた。虫取りの穴場から鮎の追い込み方まで、兄はありとあらゆる遊び方を教えてくれた。盆や正月には親戚一同が彼の家に集い、同い年の従兄弟たちとも遊んだ。裕福とは言わないまでも、さほどお金に困ることもなく、家族も円満で、不自由なくのびのびと暮らしていた。

 高校までは地元の学校に通った。高校卒業後、そのまま就職する、という手もあったが、年相応の都会への憧れや、自分の好きな星の勉強をしたい、という気持ちもあり、男は都会にある大学に進学した。下宿先は狭い襤褸アパートで、家賃が呆れるほど高かった。

 四年間、そこそこ真面目に勉強をした。級友や先輩との交流は楽しくも、時に煩雑だった。人間関係に疲れ、ゼミを途中で辞めてしまったこともある。

 他人との距離も、星と同じように光年単位で離れてしまえばいいのに、と思った。生物が近付けば一瞬にして焼き尽くされてしまうような眩い星も、幾千の距離を隔てれば夜の空を慰める数多の光の粒の一つに成り下がる。

 仕送りの段ボールに添えられた、自分の身を心配する家族からの手紙を読む度に心が痛んだ。

『元気でやってるか? たまにはこっちにも顔を出したらどうだ』

 本当は帰りたかった。盆や正月にすら顔を出していなかった。でも、一度帰ったらもう二度と大学に行けなくなってしまう気がして、どうしても帰れなかった。

 大学に通わせてくれた両親への義務感のみで何とか卒業論文を書き上げ、呆然としていた大学四年の三月。同期達はとっくに就職先を決めていたが、男は就職活動すらしていなかった。何をしたいのか、分からなかった。そんな折に、昔辞めてしまったゼミの教授から声を掛けられた。自分の論文に目が留まったのだという。

 君の理論は実に興味深い。院に進んで、是非とも研究を続けて欲しい。

 そう教授は言った。私が推薦しよう、とも。

 行くあてもなく、ぼんやり惑っていた男にとって、その提案は渡りに船だった。あれほど悩んだ人間関係も、彼らの就職とともに解消され、男は存分に研究に打ち込んだ。



「────お蔭様でこの間、マスターを修了しまして。どうせならドクターまで取るか、今迷っているところです」

 いや、迷っていたと言うべきですね、と倉橋が訂正する。

「明日には大学ごと世界が終わるみたいですし」

 そうですねぇ、と鹿野は相槌を打つ。

 たった一週間で、人は終焉に慣れてしまうものなのだろうか。最終学歴と同列の話題として扱われるそれは、酷く不釣り合いで、お似合いな気がした。あまりに唐突で理不尽だったからだろうか。

「意外でしたか?」

 意外ではなかった、と言えば嘘になる。コンビニで働いているような青年が実は高学歴だったことなど。倉橋に本音を見透かされたようで、見た目で人を判断してはいけないな、と鹿野はバツの悪い思いで首を竦める。

「最近はここのバイト代で家賃を払っていたんです。いつまでも仕送りに頼るのは申し訳ないですし、まだ時間はあるので、ここで働きながら行く先を決めようと思ってました」

 語る言葉の一つ一つが過去形になっていく事実が、淡々と鹿野の心に染み渡っていく。

「一応教員免許も持ってるので、実家に戻って、地元の子供たちを教えながら祖父母の畑を継ぐのも悪くないと思い始めました。親孝行もしてないですし、何より、向こうでは本当によく星が見えるんです」

「とても、良い考えだと思います」

 それは鹿野の心からの感想だった。

「ええ。自分で言うのもなんですが、僕もそう思います。ここまで話を聞いて下さり、ありがとうございました」

「こちらこそ、素敵な話をありがとうございます。こんな酒の肴にするには勿体ないくらいです」

 お粗末さまでした、と倉橋がにこにこしながら、おつまみの袋を開ける。

「さぁさぁ、場も温まったところですし、乾杯しましょうか」

 開けるタイミングを見失い、さっきからずっと二人の手に握られていたビールは、少し温くなっている。プルタブを開けると、空気の抜ける音がした。

 チン、と缶どうしを軽くぶつけた後、ぐいっと傾けて喉に流し込む。炭酸の泡とアルコールの爽やかさが一気に弾けた。

「やはり」

「仕事終わりのビールは最高ですね」

 お互い顔を見合わせる。

「不思議です。今、鹿野さんとこうしてお酒を飲んでいることが。世界が終わらなければ、あなたと話をすることもなかったでしょう。まるで皮肉ですね」

「皮肉と呼ぶには少し、ささやかな気もします」

「ささやか、ですか」

 倉橋は口の中で転がすように、ささやか、と呟いた。

「ささやかな僥倖ですよ」

 鹿野は空を見上げる。ぽつぽつと頼りない点が散る、ささやかな星空だった。


「────本当の生い立ちなんて、どうでもよかったんです。全部嘘でもいいんです。僕は、最後にこうしてあなたと話が出来ることが、堪らなく嬉しいんです」

「私も全く同感です。あなたとならば、一晩と言わず、幾夜でも語り明かせそうな気がしますよ」















 20XX/1?/‐6 残リ08時間17n05″

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