山姫
イヌヒコ
光の中の悪夢
自分の知る限り祖父はつねに無口な人だったが、それがいよいよ亡くなるという日の前の晩になって、その病床から最後に残った力を振り絞るようにして、随分と長い話を語り通したので私たちを驚かせた。
またそうして伝えられる話の中身の異様さにも驚かされた。それははるか遠い日を呼び戻した思い出話であり、祖父が人生で初めて出会った大きな恐怖、および大きな疑惑にまつわる話だった。その過去を聞く前と聞いた後では、私の目に映るこの近しい老いたる人は、まったくの別人になっていた。そして惜しむらくは、そのすぐ翌日の黄昏どきに、まさに入日の後を追うようにして、この長年に渡る内心での戦いを終えた祖父は、あの世へと旅立ってしまったのである。
……祖父がまだとても若かったころ、木の伐り出しを生業とする親戚の元へ、見習いとして入った。山での仕事はきつかったが、親方である伯父さんをはじめとして、年かさの先輩たちは厳しい反面公正だったし、たっぷりと情もあった。それにまた、先祖から伝わる山の技術や知識をおぼえるのは楽しかった。終戦から間もない、静岡県北部の山奥での話である。
爽やかに晴れたある秋の日、いくつかの小さな沢を踏み渡り、奥の杉山をのぼった彼ら山人の一団は、りっぱな杉の木を数本、このたびも滞りなく伐り倒し、倒したその場でそれぞれを注文に応じたおおよその長さの丸太材に整えた。翌日は早くからそれらを山から県道脇の集積所まで搬出するので、この日は山腹をやや下ったところにある板壁の古い事業所に、いわゆる番屋に泊まることになった。
チェーンソーなど持たない時代のこと、杉の大木を両手使いの大ノコギリや箭(や)と呼ぶクサビを用いて伐り倒すのは、かなり骨身にこたえる労働だった。ましてや祖父は、まだよろずに慣れない見習いということもあり、量こそ多いものの倹しい夕餉を済ませて、やるべき雑用もなくなると、肉体と神経の疲れから、親方たちのように一杯やって楽しむこともなく、部屋のすみの硬い寝台の上で、すぐに落ちてゆくように眠りこけてしまった。
さて、そうしてどれくらい眠ったか。祖父はとても苦しそうなうめき声を耳にして目が覚めた。皆が深い眠りに就いていた。番屋の中は真っ暗で、空気がぴたりととまっていた。まるで重い物に圧しひしがれているような、その切れ切れに続くうめき声は、自分のすぐ横で寝ている少年の口から出ているものだった。
その当時ここの見習いには、祖父のほかにもう一人、コウさんという、祖父よりも更に二つ三つ年の若いのがいた。たんに立場が等しくてお互い気兼ねが要らないためばかりでなく、コウさんは快活で、怖いもの知らずで、仕事の合間にはいつも楽しそうに笑っているということもあって、対照的に温厚で面倒見を好んだ当時の祖父とは、ほとんど実の兄弟のような気の置けぬ間柄となっていた。
寝ている人間の寝言に返事をするのは良くないことだと聞いていた。しかし一体どんな悪い夢を見ているのやら、仰向けのコウさんのうめき声は、あまりにも真に迫った苦痛を帯びていたので、祖父はいささか滑稽も感じながら、そのままにはしておけない気分になった。深い休息に入っている周りをはばかって、小声で弟分を揺さぶった。
「おい、コウさん。コウさんたらよう!」
「ウウウ、ウッ……。ああ……マサにいかぁ。ハアァーッ」
「あんた、えらくうなされとったにぃ。知っとる?」
コウさんはまた「ああ」とだけ答えて黙り込んだ。そのあいだ鼻でする呼吸の音がひどく荒かった。濃い闇の近くをようく透かして見ると、胸の上で固く腕組みをしているその身体が、大きくガクガクと震えているではないか。驚いて祖父は訊ねた。
「おおどうした。どっか具合悪いんか」
「いやちがう」
「じゃあ寒いんか」
「寒くない。夢が……夢が……えらい変な夢だった……。おおこっわ!」
「夢? なぁにたかが夢ならええて。まあ寝直すだな」
「悪いけどちょっと聞いてくれんか、マサにい。どんな夢だったか。怖いけど話してまう方が落ち着くもん」
「ええよ」
仰向けのコウさんは、ぼそぼそと胸にこもった声で続けるのだった。
「まずな、足元に玉虫が這っておったんだわ……。緑色の大きなきれいな玉虫が。なんでこんなところにこいつがおるんだろう、珍しいなと思って、何気なく捕まえようと手ぇ伸ばしたら、ぶうーんと晴れた空に羽ばたいて行って、キラキラしながらあっちゅう間に小さくなって消えてまった。ほしたらその飛んで行った空がな、なんかどんどん暗くなって、雨が降って来たんだわ。ものすごい土砂降りの雨の下で、灰色の煙幕に巻かれたみたいにほとんど目も見えんし、耳も詰まってよう聴こえんくなった。だもんでおれは、そこに突っ立ったまんま一歩も動けんかった……。ほしたらな、ほしたらそこに、いきなり女が現れたんだわ。目の前にな。急にぬーっと若い女が出てきた……。それがえらい立派な華やかな着物を着とって、長い髪の毛を振り乱しとる。えらく背が高くて。でも若い女で美人なんだ。そう、見たこともないすっごい美人でな……。そいつはなんだか嬌ったれたみたいに、ニッコリ笑いかけてきた。ほんでいきなりおれの喉元にガブッ! と噛みついてきたんだ。しっかりと齧りついて、蛭みたいに血をすするんだ。離れぇせん。か細い女の腕のくせに、ものすごい力で両肩を押さえてくるもんで、はりつけにされたみたいに、ぜんぜん、ぴくりとも動くことができん。ほんで、ああもういよいよ駄目だ、殺される、殺される、おれは死ぬんだ……と思って、もう半分諦めたところで、ちょうどマサにいが起こしてくれたわ。フウゥ……。もしあのまんま起こされんと眠り続けてたら、おれどうなっとった? ほんとに死んどったの?」
「大丈夫、夢を見て死んだ奴はおらんて。でもそら確かに変な夢だなぁ」
「だら? でもあのきれいな女は、なんだったんだろう。マサにい、なんだと思う?」
「そうだな……やっぱり山姫か」
「うん。やっぱりそう思うか……」
そこで二人の若者は、黙り込んでしまった。山姫。山姫……。その名は何やら得体の知れぬ恐ろしくて美しいものとして、山の木の香と同様に広く人里の空気にまで溶け込んでいたが、さて、それを持ち出してみたところでそれ切りのこと、ものに突き当たったように、次に継ぐべき言葉がまったく出てこないのだった……。しかし、そもそも経験ある山の仕事人であれば、この時このような場面において、その不可思議の存在の名を口に出すことなどけっしてないそうである。祖父はのちに自ずとそのわけを理解するようになったが、しかしいかんせん、この晩の彼らは未熟な子どもでたいへん単純だった。
外の気配の深さからして、夜明けのときまではまだかなり間がありそうで、ともかくもうひと眠りするのが賢明だった。明朝から行われる長い丸太材の運び出しは、伐り倒しよりも体力と集中力を要して、つきまとう事故の危険もまた大きいのである。
「まあ夢は夢だわ。コウさん、寝よ」
番屋の戸口のあたりで、カララン! コロン……と澄んだ硬い響きが起きた。それは確かに、そのへんの壁に立て掛けてあった長いカシの柄を持つ鳶口が倒れた音のようだったが、コウさんはそれでなくとも神経が昂っていたので、今何かがここから出て行ったんじゃないかと、ひどく不安がりながら、しばらくそう疑うのをやめなかった。
幸い前日と同じく、明けたこの日も天気が良かった。額に白い鉢巻を締めて仕事道具を担いだ男どもは、いかにも秋らしいべったりとした青空の下、番屋前を発って山の上の方へと向かった。コウさんも朝日の光を浴びて、すっかり元気になっていた。むしろいつもよりたくさん冗談を飛ばして弾けるように笑った。彼は容姿からいっても好男子だった。そのいかにも我ら青春の盛りといった様子に接しながら祖父は、真っ暗な夜更けに彼がうなされていたことも、深刻になった彼から奇妙な夢の話を聴かされたことも、それら自体がまるで夢のようだと思った。
急な斜面にながながと横たわる幾多の大木を、ロープや鳶口を用いて、次々と下のキンバ道(木馬道)へと移動させた。作業は順調に進んでいった。ところで老いた祖父が口にしたそのキンバ道とは、実は私にもまったく聞き馴染みがないものだ。聞けばそれは、のちにトラックの入り込める立派な林道が、その地方のあらゆる山奥にまで延びるようになって廃れたが、祖父が若かった当時は、山からの木材の搬出にはもっぱら使われていた、簡易な作業道というべきものだという。そのゆるい傾斜のある長い狭い道には、ちょうど鉄道の枕木と同じ形に盤木が並べて埋め込まれており、その盤木の上を木材を満載した木製の橇すなわちキンバが、人の手に慎重にコントロールされながら下っていくのである。
「ウワアアッ!」と奇妙なうわずった声を上げたのは、足場の悪い所で地下足袋で踏ん張りながら、長い丸太材の頭の向きを変えようと、そこに鳶口を打ち込んだコウさんだった。コウさんは後ろに飛びのく拍子に足を滑らせて、昨日刈ったばかりの下草の上に尻もちをついた。すぐ親方が怒声を飛ばした。
「気ぃ付けんか馬鹿野郎っ! どしたぁ、大丈夫か! 足挟まれとらんか!」
「ここに玉虫……、玉虫がおる……」
「ああン玉虫だぁ?」
太い丸太の上に、ギラギラと輝く細長い緑の宝石のような甲虫が一匹取り付いていて、座り込んだコウさんの方に向かってゆっくり這っていた。その図に親方と先輩らは、ゲラゲラと大声で笑い転げた。彼らにしてみれば、なるほどこの光輝く虫はふつう下界の雑木林にいるもので、こんな杉山の奥で見ることなどまずないが、しかしだからといって、ここまで馬鹿げた驚き方をする奴があるものか! というわけだ。
コウさんは立ち上がってもまだ真っ青な顔をして、のこのこと不器用に丸太の上を渡ってくる大きな玉虫に、まったくその目を奪われていた。勿論祖父だけは事情が分かっていたので彼を笑わなかった。しかしそれでもやはり、コウさんのその怯え方はいささか度が過ぎるように見えた。また、たった一つのこの偶然のために、すなわち玉虫の出現という夢と現実の符合のために、彼がこの先一日中ピリピリと神経質に、怯えがちになってしまったら良くないことだと思った。そこで冗談めかしながら、こんな声をかけてみた。
「おお玉虫かぁ。そいつはどうも不吉だて。なあコウさん! そりゃはよ殺してまった方がええな。どう、殺せるかね」
返事はなかった。
「よしよし、ほんならおれがやろ」
祖父は身軽くそちらに近づいた。丸太から玉虫をはたき落として、地面の上で踏み潰そう。虫といっても殺生は良くないが、これ以上コウさんが彼自身のくだらない夢に引きずり込まれないように。しかし祖父の手拭いではたかれた玉虫は案に相違して、そのまま落ちずに舞い上がった。のけぞるコウさんの顔を打たんばかりに掠めて、空中に虹色の円を一つ描くと、杉の梢のあいだの青空にあっという間に吸い込まれていった。こりゃいかん、しくじったと思いながらそっと相棒の方を窺うと、その虫が消えた空を見上げながら、気の毒にほとんど茫然自失の体だった。
切りのよいところで弁当になる。そこで親方は、コウさんがいつになく精気に欠けて上の空であることを、かなりきつく叱った。それでなくともこのあとのキンバ曳きは、しばしば重大な事故が起きる最も気が抜けぬ作業なのだ。祖父はコウさんに、意気が上がらない原因である昨夜の奇妙な夢の話をすることを勧めた。あまり言い訳にはなるまいが、一応皆に知っておいてもらった方が良いはずだ。ぎこちなく無理に笑って見せるコウさんから、彼が見た夢の話を、すなわち玉虫を見かけてそのあと土砂降りの雨の中で絢爛たる衣裳の女に血を吸われるという話を聞いた一同は、しばらく無言だった。笑い出す者は一人もなかった。親方は重々しくタバコを吸い付けた。
「……コウ、気をしっかり持てよ。ええか! お前の気の持ち方が一番大事になるでな」
「はい……。何ほんとに大丈夫ですよ!」
やっと口をきき始めた先輩たちには、コウさんを先に山から下ろした方がいいという意見と、いやむしろおれたちと離れず一緒にいた方が安全だ、という意見があった。いずれにしても真剣な彼らは、その夢の話からまったく現実的な脅威を汲み取っていたのである。その真剣さが伝わって、祖父は初めて俄かに緊張を、腹の中がモヨモヨと落ち着かない感じを覚えた。
大小十五本ばかりの丸太材を積み上げて、それをロープでしっかりと括った、嵩の高い、重たいキンバを曳き始めた。ベテランのトラにいが先頭に立って、その舵取り棒を執った。これだけの重量のキンバを御して導く腕を持っていた人は、このあたりでは山人多しといえども、親方でなければトラにいしかいなかった。また祖父たち曳き手もこの作業に従っている道すがらは、おのおの一瞬たりとも余計な考え事をしている暇などなかった。それほど危険と隣り合わせの、すべてが人の力による作業なのだった。三時間ほど経って行程の八分目あたりまで来た。トラにいはとても慎重な人だったから、自分からそこで小休止を取ると親方に告げた。秋ではあったが、この人が白手拭いの鉢巻を外してギュウッと絞ると、ぼたぼたと汗がしたたり落ちた。
祖父は親方が眉間をひそめて上空を見上げるのに気が付いた。いつしかそこは濃い灰色の雲で覆われていたのだった。地上にも足が長い湿った風が吹いた。雨がやって来る兆しだった。見習いでも知る山仕事の世界の常識として、キンバ道に並べられている盤木が雨で濡れたら、橇が勢いよく滑り過ぎることになり、極めて危険である。そうだ、雨というのは危険だ……。雨? いや待てよ、雨が降るというのは、雨が降るというのは……。うずくまって手足の疲れを癒していた祖父の脳裡に、その瞬間まで疲弊に紛れてほとんど忘れかけていた、そのことが持つもう一つの意味がのぼってきた。
誰かが「こりゃまずいぜ……」と言ったが、誰一人改めてそのまずいの意味を彼に問う者はいなかった。なぜならその必要はなかったからだ。皆が皆、そのただならぬ顔付きによって明らかであることに、まったく同じ考えと不安を持ち始めていたからだった。屈強な、経験豊かな男たちの誰しもが、コウさんの語った夢の内容がまた一つ実現するかもしれないという状況に、はっきりと心の真ん中を奪われていた。ただ祖父だけはむしろ、尊敬すべき先輩たちが全体で醸しているその雰囲気にこそ、強く異様の感を受けたのだったが。そして山姫とは、そこまで恐るべき山姫とは、一体全体なんなのだと思った。
コウさんはどうしているか? コウさんは向こうから祖父のいるところへやって来た。祖父はさっき親方がコウさんに「気をしっかりと持て」と言っていたのを思い出したので、我が弟分の背中を我が親方に代わって、親しく平手でバシン! と強く張ってやった。青くこわばった顔をしていたコウさんが、どこか極まり悪そうに微かな笑みを浮かべた。その笑顔は祖父にとって、生涯忘れられないものとなった。
大きな雨粒がぽつりぽつりと落ち始めた。「オイ、降ってきやがったな」と親方が言った。しかし雨足がすぐに本格的になることはなかった。雲が覆い尽くした空は、むしろその背後から日光の色が差して明るくなってきた。その後も空の色はまるで盛夏の昼下がりのように、ごく短い間に明から暗へ、暗から明へと、目まぐるしい変化を繰り返した。このときの季節は、無論盛夏をはるかに通り越しているのである。雨はやはりぽつりぽつりと降っていた。コウさんがキンバ道から離れて、ゆっくりと慎重に杉林の斜面を降り始めた。ただ小用に行くのだろうと祖父は思ったが、念のためその動きをずっと見守っていた。後ろからで表情は見えなかった。そして「あんま遠くに行っていかんにぃ」と声をかけた。
その時「ウオオオッ!」とものすごい叫び声が上がった。
突然恐ろしい悲鳴を張り上げたのは、コウさんとは反対側にいるトラにいだった。トラにいはキンバの舵取り棒に両手でしがみついて、ようやくそこで倒れずに立っているように見えた。この初老の大ベテランが、ありうべからざることに恐怖に取り乱している理由は、すぐ次の瞬間に分かった。彼の目の前の大きなキンバの上に、まるで昔の王朝時代の十二単のようなあでやかなものを纏った、背の高い若い女が、すっくと立ち上がっていたのである! 女は折しもあわい金色の日の光と白銀色の線となった雨粒が同時に降り注いでくる中で、あまりにもクッキリと全身を顕して立っていた。その頭や胸には仏像などが身に付ける飾り物、瓔珞(ようらく)のようなものがいくつもキラキラと輝いていた。長い黒髪の一部を前に垂らしていた。そしてその白い顔はたとえようもなく美しかった……。
女はかるくひざを曲げて身を沈ませる仕草で、その緋袴の下に踏んでいるキンバを一つ揺らした。丸太材を満載にしたキンバがほとんど音もなく、まったくあり得ない恰好に大きくかしいだ。その先端の舵取り棒にしがみついていたトラにいは軽々と引きずり倒され、更に斜面の下まで放り飛ばされた。女は――いや、もはやまごうことなき山姫は――異常に美しい真っ黒い瞳を据えて、はじめからある一点ばかりを見ていたが、そちらへ向かって長大なキンバごと落ち始めた。
「みんな逃げろ! 何しとる、早よ逃げろ!」親方が叫んだ。皆も口々に叫び立てた。「逃げろ! 逃げろ! 山姫だあ! 逃げろーッ!」祖父も叫びながら、巻き沿いから逃れるために這うように必死でそこを離れた。近くの立木の裏側に落ち葉まみれになって転がり込んで振り返ると、キンバが頭を下にして、奇妙な静けさの中で斜面を滑り落ちていた。それの上に端然と立っている山姫の横顔は、確かに嬉し気に微笑んでいた。赤い唇は引き伸ばした蛭にも見えなくはなかった。
そうだ、コウさんは! それを思った瞬間、祖父の背中の血は凍りついた。そして見れば、悪夢の一場面としか思われないことに、落ちていくキンバの先にぽつんとコウさんが立っていたのだ!
「コウさん逃げろ! コウさん逃げろ! おおおおおコウさーんッ!」
祖父は、皆は、叫んでいた。身を乗り出して喉が裂けんばかりに叫び狂った。しかしコウさんは自分に迫って来る巨大な物の方をまともに見つめているくせに、そこから一歩も動こうとはしなかった。恐怖に捕らわれたのではない、何か訝しがっているような表情だった。
実際の時間にしたら二、三秒のことだろうが、絶叫している祖父の中で、まるで流れ落ちる樹液のようにのろのろと進む不思議な時間があった。そのほんのわずかの間に、信じられないほど多くの思いや考えが頭の中に去来して駆け巡った。必死に絶叫を繰り返しながらその一方で、なぜだろうか、雨は閑疎な空間に已然としてぽつぽつとしか降っていなかったが、なんだかあのコウさんだけたった独りで、土砂降りの大雨に閉じ込められているようだ、という印象を強く受けていた。暗闇で安らかに横たわりながら聞いた低い声による言葉も、自ずと耳に蘇ってきた。
「ものすごい土砂降りの雨の下で、灰色の煙幕に巻かれたみたいにほとんど目も見えんし、耳も詰まってよう聴こえんくなった。だもんでおれは突っ立ったまんま、一歩も動けんくなった……」
山姫の後ろ姿が蝶のように衣の袖を広げて、ぱっと飛び立つようにコウさんの方へ倒れ込んだ。次の瞬間、空中でその姿はかき消えていた。ドドドォーン! と山全体が震える轟音とともに、キンバは杉の大木に激突して停まった。そして祖父たちは……、古杉の幅の広い、赤茶色の清浄な樹皮の上に、太い舵取り棒に胸の真ん中を貫かれて留められたコウさんを見た。コウさんは死んでしまった! 本当に、本当に、山姫に殺されてしまった……! その日祖父はいつどのように山から下りたのか、何も記憶がない。そして一週間以上、苦しい熱と恐ろしく踊り狂う幻影にうなされ続け、床から起き上がることができなかった。
・・・・・
ようやく仕事に戻った祖父は、やがて親方と先輩たちが、ある奇妙な態度を取っていることに気が付いた。この人たちは、あのコウさんが亡くなったのは、飽く迄もただたんなる不幸なキンバの事故のためだと、お互い信じ込もうとしていたのである。また、まるでコウさんという人間が元よりここには存在しなかったかのように、その名が出ること自体も避けるようになっていた。すなわちこの人たちは、山姫の存在を認めているばかりか、常に大きな畏敬の念さえ抱いていながら、そのくせ直接ありありとその存在を目の当たりにしたときに限っては、けっしてその見たという事実を認めないのだった。
しかしそれは要するに、表と裏の世界を混ぜてしまわないためである。明日もその先も迷わず真っ直ぐに、この表の世界で生きていくための便法なのである。しかしこのような態度は、若い率直な祖父にはかなり解せないものだった。いやそればかりか、親方と先輩たちは薄情にも、コウさんが裏の世界に連れ去られてしまったとたん、表の世界にいた時の彼にあれだけ示していた温かい力強い情愛を、すべて鮮やかに投げ捨ててしまったようにも見えたのだった。そして秘かに怒りと孤独感を覚えた。
祖父はその後二十年余り、ほとんど夢中になって材木の伐り出しの仕事を続けたが、その間コウさんの最期のことが頭から離れた日はなかった。一日としてなかった。そしてあの件について、つい我知らず想いや考えを巡らせているときには、彼を救えなかった申し訳なさ、悲しさ、やるせなさと同時に、この一見確かでしっかりとして見える、明るく面白く見える世界も、所詮は底の見えぬ真っ暗な大きな淵のすぐそばに立っている、危うく立っている、うわべばかりの何かに過ぎないのだ。つまるところ、いつでも儚く消え失せる運命を抱えている点において、この世の中の一切のものは、あのあやかしの山姫が衣の袖を翻した姿とまったく対等の関係なのだ……、というような思いを強くしたのだった。
かつての陽気で温厚な青年は、人知れず胸に少しずつ、拭い去り難い無常感を養っていったのである。あまりにも早く、あまりにも無防備で脆いうちに、闇から伸びる山姫の真っ白い手で触れられてしまった祖父の人生は、いつしか現世を生きる者のルールに反して、表と裏の世界を同時にまとめて見つめるという、重い恐ろしい運命を担わされていたのである……。
親方で恩人の伯父さんが引退して、それからまもなく他界したのを機として、とうとう祖父は、妻子には打ち明けられないその内面の事情から、すでに他の誰よりも熟達していたキンバを扱う仕事をやめて、長年親しみ合った気のいい仲間たちの元から去り、たった独りで黙々と炭焼きと川漁師の仕事をして、残りの世過ぎをするようになったのだった。そして祖父自身もなぜだかよく分からなかったと言うのだが、その間ずっと心のどこかでは、あの悪夢そのものである恐ろしい山姫が、どのようなかたちであってもよいから、もう一度目の前に出現してくれることを期待していたそうである。
≪了≫
山姫 イヌヒコ @fukutarou
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