誘い雨は、誘ってくれた君を隠す
何処か、二人で遠くに消えてしまいたいね。
透けるような呟きが零れた。
これが西峰の聞いた、周防 奏が胸の底に隠していた想いだったのだろう。
ぽつりと零れたそれに、一瞬、西峰は反応出来なかった。奏は何時も明るく、強い少女だった。そういう風に見せ掛けていたとも知っていても、こんなに危うい声色を出すと思えなかったのだ。
感情の摩耗した、諦めと哀しみの混ざった、何処にも届かない声。
風のように透明で、儚くて、壊れそう。まるで硝子だった。
「ボクは、うん。西峰と何処か遠くにいきたい」
そんな言葉で呼び出されたのは夏休みの夕暮れだった。
もう暗い夕暮れの公園。よく二人で来ていた、色んな思い出の詰まった場所だ。
雨の降りだしそうな分厚い雲の下で、奏は西峰を迎えた。笑顔と、泣き腫らした赤い目で。
頬も、誰かに殴られたように腫れている。
正直に言えば、また起きたのかと西峰は怒りを覚えた。
こうして奏が殴られて、或いはひどい喧嘩をして、行き場所がなくなってしまった奏に西峰が呼び出された事は一度や二度ではない。何度も、何度も起きた事なのだ。
奏に怒った事は一度もない。この時もそうだ。奏の両親、いや、その義理の母にひどく腹を立てた。
或いは、こうして何時も聞く事しか出来ない自分自身にも、西峰は怒っていたのかもしれない。どうしようもない無力さと、怒りをぶつける事が出来ないもどかしさに、歯を噛み締めた。
「座ってよ、ベンチ。それとも、ボクと居るのは嫌?」
何時もと変わらないボーイッシュな口調だが、内面はひどくぼろぼろだと解ってしまう。
奏と西峰は目線さえ合わせなかった。
ぽんぽん、と奏の横を指定する手に従って、ベンチに座る西峰。瞼を閉じた。
いきなり掛かってきた着信。電話越しの声は何時もと変わらない明るさがあった分、その痛々しい頬が見るに堪えない。
二人して黙っている間に、遠くから雨音と湿った気配が漂う。
時間はないのだ。固く閉じていた唇を、奏は開いた。
「多分、ね。限界が来たんだよ」
奏の家は上手くいっていない。家族構成は実の父と、再婚した義理の母。
どこに理由があるかなんてきっと意味がないだろう。気に入らないものは気に入らない。奏と継母は上手くいかなかった。単純に性格の不一致もあっただろうし、奏が自分に似ていない『女』だという認識もあったのだろう。
人の性格、言動には匂いというものがある。自分とは似ても似つかない別の女の匂いが漂う家に、継母が耐えられなかったのだろう。そして、奏も耐えられなかった。
言ってしまうと、恵まれない環境に奏はいた。西峰も片親だけだったし、帰宅部だった橘は両親がいない。それぞれ別の形でも似たような環境で育ったもの同士、自然と仲良くなっていた。
そうでなければ、三人は出逢わなかっただろうし、友達にならなかっただろうと思う程に。
「うん、でも……限界なんだ」
ぽつりと零すと、奏は視線を落とす。
今まで酷い喧嘩をして、家を追い出されたことは何回かあった。
その度に西峰が奏を庇って、戻れるように調整してはいた。だが、今年に入ってから実父が単身赴任で都会に出てから、その酷さは加速していっている。
現に赤く腫れる程に頬をぶたれた事など今までなかった。だが、初めてという事は、きっと二度、三度とあるだろう。そんな現実の光景が、西峰の脳裏に過った。
「……学校が始まるまで、俺の家に来るか? 親父は奏の事気に入っているから大丈夫。男二人の家だからキツイかもしれないけれど、学校に連絡して、保護局とか」
「ね、限界なの」
「…………」
「ごめんね、西峰。気を使ってくれているのは判るよ。ボクは、嬉しい。でも、やっぱり限界なんだよ……嘘は、つかないで」
西峰自身、白々しいと思っていた台詞はそんな奏の声に断たれた。
そして、どうして切実に、嘆かないのかと思うような言葉が流れる。
「西峰が自分でも信じられない嘘を、つかないで欲しいな」
「…………」
「ボクも、信じたいよ。限界じゃないって。まだ方法はあるって。でも、良くなるの? どうすれば、楽になれる?」
腫れた頬を隠すように、奏の掌が動く。いや、確かめているのだろう。
これは現実にあって、きっと加速していく。止める方法は、幾つかあるだろう。
でもそのどれも西峰には出来ない事だった。虐待というにはまだ軽すぎる。家庭内のトラブルで片づけられるのだと、今までの体験が語っている。
どうせ何も出来ない。殴られた時、西峰は奏の傍に居られなかったように。
「どうすれば良い?」
ぽたぽたと、涙のように雨が落ち始めた。
だというのに、どうして奏の声は感情がないのだろう。僅かな翳りはあるが、隣に座っている筈の奏の心を遠く感じていた。せめて泣き叫んでくれればいいのに。そうすれば、きっと怒りに身を任せられる。
変に奏が感情を押し隠すせいで、西峰はどうしようもなかった。何を求められているのか、解らない。
「どうしよう、これから」
ぽたぽた、ぼたぼた。雨粒は大きく、そして次第に強くなっていく。
自身の無力さに嬲られるようだった。西峰はまだ学生で、奏をどうにか助ける程の力も地位も、何もない。
ここで俺が何とかすると西峰が口にしたとしよう。必死で考えて、打開策を考えたとする。でも、それでどうにかなる訳ではないのだ。
奏が言っている。限界なのだと。
奏の心の方がもう限界だった。だから、とても儚い。存在が薄くて、心がここにあるとは思えなかった。
雨に打たれながら、もう涙も流せないかのように、ぽつぽつと言葉を零すだけだ。
「ボクは、何処か遠くにいきたいよ。此処じゃない、何処か。だって、ここは、辛いし痛い」
それは現実逃避だ。高校を出てもいないのに、遠くへいくことなんて出来ない。
家からも現実からも決して抜け出せないというのは、奏の方が身を持って知っている筈なのに。いや、だから限界を迎えて、こんな事を言うのだろう。
「ボクは、二人で何処かに消えてしまいたいよ」
ここじゃなければどこでもいい。
そんな囁きを残して、立ち上がる気配。でも、西峰はそれに何も答えられない。
視線さえ向けられず、水を吸って泥へと変わっていく土を見る。まるで靴裏を掴んで離さないとでもいうかのように、粘着性を強めていく泥のぬかるみ。
気付けば、ざあざあと音を立てている。ただ肌と耳だけで、雨の強さを知る。
「西峰は……ボクと一緒にここから消えてくれるかな? 二人で、遠くにいきたいから。二人なら、きっと大丈夫」
その声の、軽さ。
感情どころか生気さえも感じない。呼吸の音は雨音に塗り潰された。
ざあざあ、ざあざあと泣いている雨。
とんっ、と奏の靴が泥を踏み抜く。それがなければ、奏が近くにいるのかさえ解らない。
姿を見ていないのに、諦めで浮かぶ笑顔が解ってしまう。透けるような存在感のなさ。この現実が嫌だからと、自分が夢の世界に逃げるように。
気配が薄い。そして、遠のいていく。
とんっ、という靴音が、小さく軽くなる。
そしてそれを西峰は止められない。顏さえ上げられなかった。
とんっ、と泥に刻む足跡。
「……西峰?」
名前を呼ばれたのに、まだ泥へと変わっていく公園の地面を見ている。
雨音は強くなっていく。お前は何も出来ないのかと責めたてるように続く冷たい滴に、息が詰まった。
嘘なら幾らでも並べられた。けれど、そんなものではどうしようもない。慰めにもならい言葉が浮かんで、それを吐き出そうとしても何も出ない。まるで激しい雨音に打ち消されていくかのようだった。
どうすれば良いのか解らない。奏に応えてあげる事もできない。後一年たてばとか、そんな約束さえも。
限界だといって、仄かに笑ったあの瞳に――嘘はつけなった。
「来て、くれないの?」
とんっ、と遠のいていく足音。
気配はもう何処か別の場所、奏の口にした遠い、ここではない場所へと向かっているかのように希薄だった。
視線を上げれば、背景が透けて見える背中が見えていたかもしれない。けれど、西峰の目に映るのは灰色の世界だった。光と影が交じり合う、不出来な絵の具を塗り散らかしたような雨雲の下、その地面。
泥と水が跳ねていく、公園。遠のいて、軽く、小さくなっていく奏の足音。ぬかるんでいく地面とは裏腹に、その足取りは軽やかだった。
とんっ、と軽い靴が地面を踏む。
重さを何処かになくしていくかのように。
心だけで、どこにいこうとしているように。
もしかしたら、心だけの世界に。ここではない、夢の場所に。彼岸に。奏は堪えることに疲れ果て、全てを投げ捨てるように雨に身を晒している。
全て、全て。自分さえも洗い流して欲しい。
そんな声が、聞こえた気がする。何も見えないし、恐ろしいほど鼓膜を揺らす夕立の中では、もう何も聞こえない筈だというのに、それだけはくっきりと西峰には感じ取れた。
泣いて欲しいのに、奏は泣かない。
泣いてもどうにもならないものばかりが、この世界にはあった。
「だから」
もしかしたら、その言葉は届いたのかもしれない。
奏の降り返る気配はなく、ただ、どういうわけか雨音に消えない、うっすらとした声が聞こえた。
そんな囁きは雨に潰されて、破られてしまう筈なのに。どうしてか、西峰に届いたのだ。
「だから、ボク達ではどうしようもない場所から、どうにか出来る場所に――ね、行こう、よ?」
ほんの少しの、涙の気配。
それだけを願っているように感じた。逃げていく果てが、どこに繋がるか解らない。
でも、西峰だけがいればそれでいいのだと。本当に脆い笑顔が、そこにある気がした。もう一度、理不尽な暴力にうたれれば、壊れ果てて二度となくなるような顔が。
子供でも大人でもない。この世界のものは、どうしようもない。
それほど無力で、けれど自分達で抵抗しろと迫られる。子供でも大人でもない、灰色の、この雨の中に似た年齢の二人。
西峰は胸の奥から、絞り出そうとする。それは必死の嘆願だったと、それだけは記憶している。
けれど、どんな言葉を言ったのか解らない。他の何もかもを打ち捨てて、言葉にした筈だ。それだけ奏は西峰にとっても大事だったのだから。この時の言葉を他の誰かに伝えられなくても良い。涙が零れた気がするが、雨に混じって判別できない。
ただ奏にだけは伝わって欲しかった。
それだけは嘘ではない。本音の叫びが、雨の帳を引き裂いて奏に届く。
「そうだね」
けれど、奏はふわりと、何時もの明るさを潜ませ、翳らせ、塗れながら口にする。
ざあざあ、ざあざあと振り続ける雨が、ふと、止まる。
どれだけ振ったのか解らない。どれ程、奏は歩いて行ったのか解らない。気づけば声だけが聞こえている。足音も、気配も何もなかった。
居る、筈なのに。
西峰の声は、届いたけれど。
「ボクと一緒に――来てくれないんだ」
ぱしゃり、と泥さえ踏み抜けずに、水の上で弾けた軽い足音がする。
瞬間、雨が止まった。
はっとする西峰。今、自分が何を考えていたのか解らなくなる。
視界も意識もクリアになった。雨の紗幕がするりと抜けて、残るのは水の気配だけ。
雑音のような苦痛も苦悩も消え去っている。ただ茫然と、胸の中に、今まで傍にあったものの気配がない。存在を感じ取れないのだ。
雨と共に、何処に消えてしまったようだった。
何の音もしない。もう、靴の音も。慣れ親しんだ少女の息遣いも。
西峰の体温が急激に冷めているが、それよりも、心も底冷えするような恐怖を感じた。
「奏……?」
身体なんてどうでもいい。
見ないといけない。確かめたい。
――そこに、いるよな?
冷え過ぎた喉は、罅割れたような声を漏らす。何とも無様で、まるで泣き続けた後のような声色だった。
かたかたと、寒さではない別のもので指が震えた。
歯が噛みあわなかった。予感がする。何かが消えた。ぽっかりと、胸の中に空白が出来ている。
だって、余りにも静かなのだ。この公園は。西峰以外はいないような、静寂が広がっている。何より、誰より鮮明に知っている気配が、雨と共に消えていた。降り続けるあの激しさの中でも、確かに感じ取っていたものが。
「なあ、奏……?」
笑みにならない、自分を誤魔化すような嘘まみれの表情を浮かべる。
それでも視線は上げない。嘘はつかないでという、奏の透けるような声は帰ってこなかった。
――しんっ、
と、雨の喧騒の後に残った、静けさ。
耳に痛い程、空気に溶け込んでいる空白。
すぅっ、と冷たい雨上がりの日差しが射した。影と光が別れる。何もかもが混じり、失われた向こうとこちらの境界線が再構築されていく。
どこか、遠い場所。消えて、逃げていける空間。それは雨と共に来て、雨と共に消えた。
否定は出来ない。心が、直感が、奏はいないと告げている。
恋した相手がいるかいないかぐらい、判るのだ。だから、そう。何処かに走ってしまったのだろう。そう自分に言い聞かせる西峰。
視線を上げる。
がたがた歯が鳴る。寒さは感じないのに。
足跡が、深く残っている。一歩目。二歩目と。
けれど、それは少しずつ浅くなっていた。
「……え……?」
少しずつぬかるんでいった地面。水を吸い込み過ぎて土から泥になったものが、奏の体重を受け止めて足跡を刻んでいる。
それは当然だ。そして雨は奏の歩みと共に激しくなっていったのだから、より土は泥へと、つまり柔らかくなって深く足跡を刻んでいる筈だった。
なのに、少しずつ、少しずつ、足跡は浅くなっていた。
まるで体重を失い、奏を形作る大切なものが雨に削り落とされていったかのように。
儚く、透けるような顔を思い出した。
腫れた頬。脆い瞳。揺れることさえ、忘れてしまった視線。
――二人で何処かに、消えたいね。
「奏……?」
視線はのろのろと、足跡を辿る、公園の中央へと、次第に浅くなっていく跡を追う。
まるで世界の相違がズレて、向こう側に、何処か可笑しな場所に歩いていったような足跡を。
少しずつ、奏そのものが消えていったような、その足跡を。
「奏?」
周防 奏の足跡は、消えたいねと言った言葉の通りだった。
何処か遠くにいくかのように、西峰から離れ進んだ分だけ浅くなっている。
そして、その足跡は公園の真ん中で途切れていた。
振り返るような跡は、一つもなかった。
――一緒に来てくれいなんだ。
最後に残ったのは、足跡と一瞬では判断できないほどの、小さなくぼみだった。
それが、奏が残したものだった。一緒に来てくれなかった人を残して、何処か遠い場所へと消えて、逃げてしまった少女のあしあと。
最後に残ったくぼみは歪んでいて、ほんの少しだけ誰かを待ち、逡巡したかのようだった。
一緒に行く。何処だろうと一緒だと答えていれば、奏が西峰をも連れていこうとしたかのように。
「…………」
でも、もう何もない。
雨雲が晴れて、青空が覗く。光が注いで、泥に刻まれた足跡を示している。
それだけが残っていた。
奏は消えた。残っていない。もう、居ない。
気配も息遣いも体温も、壊れそうだったものも何もなく――ただ、この世界に留まるのが限界だった妖精のように、雨の中で消えていた。
茫然と、足跡が固まりきるまで、西峰はそこにいた。
晴れた青い静寂の中、無数の水と、足跡を見つめて、遺された西峰はベンチに座っている。
消えた事が信じられなくて、でも、消えてしまった現実を見ていた。
雨は何も残してくれない。奏の残り香も。そして、その中で最後にどんな表情をしたかも。
つぅ、と何故か、西峰の眦から、絶望を灯した涙が落ちた。
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