雨、君、噺

 言うまでもなく、橘に霊感などある筈がない。

 そんな超能力じみたものがあれば、どんなに楽だろう。或いは辛いのかもしれないが、少なくとも橘は一般人だ。

 心霊探偵なんて、物語の中、或いは子供の夢のようなものだとも判るくらいの理性はある。

「……俺は、正気だぞ?」

 だから、橘の一瞬で精神は立ち直った。

 無理やりピザを食べて胃袋に流し込んだせいで胃袋に血が行き過ぎたのか、少しくらっとするが、無視する。

 怪訝な目で桜花を見れば、むしろ何を言っているのでしょう、この探偵さんは、とでも言いたそうにきょとんとしている。

「でも、私は言いましたよね? ――この世のものではない謎を探しに行きましょう、って」

 いや、それはといいかけて、けれど何かが引っかかる。

 否定してはダメだ。この時、ただの直感ではあったが、無視出来ないほど強くそう思った。

「そして、橘さんは、そう口にする私に歩み寄ってくれました。ええ、それは肯定の意だと私は思うわけです」

 にこにこと明るく笑う表情を翳らせたくないと思ったのだろうか? 

 それとも確かにあの時、肯定したのだろうか。理性とは別に、心の底でそうしたいと思ったのだろうか?

 或いは、こんな優しい笑顔が消えるのは、いやだと。まるで、一目ぼれしたように。幻想的な夕焼けの出会いが脳裏を埋めて、思考がまとまらない。

 そんな桜花は、まるで宣言するように、歌うような口調で告げていく。

「私は退屈が嫌いです。世界にあるものはみんな退屈で仕方ありません。だから、心霊現象や怪奇現象を探したいと思うわけです。今まで見たこの世のものがすべからく退屈であるなら、この世でないものを探せば良い。噂となっているものの百に一つは本物が混じっているかもしれません」

 百物語だと桜花は告げた。百の嘘、出鱈目、作り話が続いた最後に、本物の怪奇現象が起きても不思議ではないのだと。

「だって、百物語という巷説は昔からありますしね。それを日本中でやっているとすれば、或いは、となるわけです」

「……ふむ」

 そこで百物語自体が噂だろう。ただの作り話だと否定は出来なかった。

 桜花の目が楽しそうに、けれど今までにない深いところで輝いていた。とても静かに。

 満天の空の奥深く、小さく輝く星のように。

「実際、私は民俗学を趣味としているのですが、解明できない事件はたくさん起きています。こっくりさんってご存知ですよね? あれは元々、霊を召喚して占うものなのですが、正しい方法を取らなければ祟りを起こすといわれています。最近はそういう事件は起きないですが、一昔はかなりの怪奇事件の元となったようですね」

「…………」

「似たようなものだと、ヴィジャ盤。死者との交霊術。これも呼ぶ対象や方法、手順を間違えれば酷いことになるのですが、共通するのは霊と交信するということ。日本ではたくさんの信仰対象がありますが、そのいずれも最後まで正しい手順で行わなければいけない。そして、途中で止めてはいけない……やめれば祟りが起きるという話があります」

「……例えば?」

 思わず口を挟む橘。

「地方、山や海の神様に祈っている最中に失敗して、土砂崩れとか赤潮の被害が起きた、というのはありますよ」

「眉唾もの、だな」

 一気に出された例が妖しくなって、思わず呟く橘。そこに、くすりと笑って応じる桜花。

 ざざざぁっ、と本降りになり始めた夕立。

 どうしてだろう。五月蝿いほどの雨音が耳に入らない。そして、西峰もまだ戻らない。

「そう、殆どが眉唾物で、本当かどうかわかりません。だって、私達は見ていないのですから」

「…………」

「立証できれば、それは人の仕業だったり自然現象ですよね? でも、立証できなかったら? 超自然現象という言葉は嫌いですけれど、そういうものもあると、私は見ているのです」

 そう口にして、ゆっくりと頬を緩ませる桜花。瞳には少しの試しの色が乗る。

 差し出されたのは、一枚の封筒だ。

 囁かれたのは、甘い猛毒だった。

「でも、私とあなたの共通点ってひとつあると思うんです――この世界から消えてしまったものを、見つけたい」

「…………」

「失せるも消えるも、謎です。ただ、謎だけが残って、この現実から何かが消えてしまう。まあ、私と橘さんでは、別のものを探してしまいそうですけれど」

 そういって、やはり笑いながら首をかしげる桜花。

 どうぞ封筒を開けてくださいといわんばかりに。

 世界の常識を砕くような、雨音が続いている。橘の頭の中から少しずつ、現実感が欠如していった。雨粒に削り落とされたように。

「この街では、いろんな不思議な事件が起きているんですよ? だから、探偵事務所が複数あって、無理やり調べている。理由をつけている」

 その言葉に、少しだけ背筋がひやりとする。

 封筒の閉じ紐をゆっくりと解きながら、鼓動が早まっていくのを感じる、橘。

 妙に、桜花の微笑みが妖しかった。

「――例えば、神隠し、だとか」

 恐らく、その一言。神隠し。人が居なくなる怪奇事件、心霊現象。

「理由なく、人が消える。ええ、交霊術の後に人が消えるというのもよくある話です」

 姉がいなくなった。まるで、霧が掻き消えたかのように。

「この街の付近では昔から、神隠しの事件が多いんですよ。民俗学の調査で凄く重宝されるくらいに。そして、洒落に出来なくて都市伝説にならないほど、昔からたくさん」

 もうそれ以上は聞かなくて良かった。

 恐怖だろうか。それとも高揚だろうか。夕暮れの際に感じた神秘的で、魂をひきつけられる空気が、ゆったりと流れて満ちていく。

 肌が違和感を覚えた。空気を吸い込んだ喉が、からからに枯れる。

 粘性の高い唾を飲み込んで、意を決した。

 思わず封筒の中身に勢いよく手を伸ばし、中身の紙を掴む。

取り出した紙の束の一番上にあるのは、写真だった。見たことのある姿が、小さく微笑んで写っている。

「……ぅ」

 神隠し。居なくなる。失踪事件。

 行方不明の姉と連なるフレーズが瞬き、そして、姉ではなくともよく知っている少女の写真がそこにはあった。

 姉ではない。だが、こうして繋がるのかと、うめいてしまう。自分の知らない間に、もしかして、ひたひたと見えない何かが彷徨っていたのだろうか。

 二枚目の紙は資料だった。名前と年齢と、写真の少女が通う学校の名前。

 橘は全て知っている。だから西峰は来たのだ。橘と西峰はこの少女を共に知っている。クラスメイトだった。

 いや、西峰の、恋人だった。

 周防 奏。

 橘が家に閉じこもっている間に、消えてしまった、知り合い。

 胃の中身がせりあがる。けれど、それは不快感だけではない。恐怖より、どうしても目が離せないのだ。

 消えてしまった人は探せない。姉だってそうだった。天才的な探偵だった姉でも、探しているうちに消えてしまった。

 でも、それは探偵だから。


――この世から失せたものを、それでも見つけにいきしょう。


 桜花の唱えた囁きが、耳の中でリフレインする。

 雨音で、意識が攪拌される。何が何か、わからなくなっていく。

 失われていく、現実感。気づけば、ひとつ、ひとつ、消えていく。なくなっていく。

 怖い。いや、それ以上に。

「……帰って、くれ」

 ひび割れた声を、ようやく絞り出す。

 これに関わったら最後、二度と戻れない気がした。いや、それを橘自身求めている気がする。この桜花という少女に歩み寄ったあの一歩は、確かにこれに惹かれたのだと、実感していた。

――この世から、失せてなくなってしまったもの。

 本当は橘とて探したいと思う。資料を見れば、奏が失踪してから三日しか立っていない。事件として成立する前の段階の情報がまとめられている。

 そして、なら。

 もしも、見つけられるのなら。この桜花がその手段を提示してくれるのなら。

 橘は、居なくなった姉に何も出来ないままから終わるのだ。部屋に閉じこもり、震えるだけから抜け出せる。居なくなった人を、探すことが出来るのだと。

それを理解しながら、無理だという声が聞こえる。恐怖が、糸のように絡み付いている。

「今日は、少し考えさせて欲しい。いきなり、過ぎる」

 唐突過ぎる出会いと、探偵と助手の話。そもそも神隠しなんてありうるのか。

 あって欲しいと思う気持ちはあった。そういう理由があれば、そして神隠しを深くは理解できなくとも、知っている桜花なら、探し出して見つける方法を知っていそうだった。

 けれど、口は最後の現実感と理性を述べる。

「こういうのは、本業の刑事や探偵の仕事だろ。手伝えるだけは、手伝うから」

 そういいながら、目は食いついて離れない。指先は資料を硬く握り締めている。

「いやです。だって、こんなにも酷い夕立なんですよ? 雨に濡れて帰れ、だなんて酷すぎます」

 にこにこと笑う桜花。まるでそういうタイミングを狙って、この話を切り出したかのようだった。

 激しくアスファルトに叩き付けられ壊れていく雨粒の音。それだけに支配された空間。判断に迷い、正常な意識が音に削られていく。

 いいや、違う。本当は桜花を否定して、また独りになりたくないのだ。

 だから今日は、といった。明日、また来て欲しかった。

 此処で答えを言って、もしも関係が終わったら。また一人になったらと思うと、怖くて仕方がないのだ。

 袖触れ合ったような、瞬間の出会いだったからこそそれだけで終わりにしたくない。気づいたときには、桜花の笑顔に、笑顔で返したいと思っている橘がいる。

 そして、誘いの言葉は毒。余りにも甘くて、今の橘を殺して、変わるための。

「……橘……」

 ぼつりと、西峰の声がとても空虚に響いた。

 ぽたぽたと、濡れた髪の毛から雨の雫が落ちている。

 今の今まで玄関で通話していたのだろう。顔色は一気に青ざめ、体育会系らしい溌剌さは見る影もない。

視線は床を向いたままだった。

「すまない……」

 その言葉で理解する。

 恋人の安否が気になって、西峰は『探偵の助手』とネットで語る少女に縋り付いた。それでもダメだったから、もしかしたらと橘のところにまで来たのだ。

 案内したのは、西峰なのだから。探偵ではなくとも、姉が探偵だった橘だったらと。

「すまない」

 その姉が行方不明だったとしても、縋れる相手が他にいなかった。

 警察は事件として扱わない。親も事件として申請しない。

 だって、これはそういう事情と、そういう背景と、そういう事件。

「頼れるのが、お前しかいないんだ」

 酷い罪悪感塗れの視線が、つぅと橘に向かう。

 笑顔を消した桜花が、冷たい声色を響かせる。




「誘い雨の中で、いきなり消えた少女の話――面白そうですよね?」




 全てをかき消してしまいそうな雨。

 夕立は視界に移る景色をも削り取り、或いはその中にいる存在さえを消してしまうかもしれない。

 この世から、消してしまいそうだった。飲み込む水の流れには逆らえない。

 海の津波。川の鉄砲水。それらに人は無力だ。

 それらを連想させるほどに鋭くて冷たい斜線が続いている。

 洗い流したその後、過ぎ去った後に残るのは、何だろう。

 何が出来るだろう。聴覚が可笑しくなりそうな中、それでも見つけたくて、橘は瞼を閉じた。

 ただ、雨が続く。激しい音を立てて、全てを覆い隠す夕立が、もう少しだけ続く。

 晴れた後に、見つかるものは何だろう。

 窓ガラスを、雨が叩く。

 西峰が、奏との最後に合った、そして彼女のいなくなった時の話を始めた。



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