迫る夕立、訪れる謎と話



 遠くで雷の音がした。

 何処かに落ちて響く、重い音。

 何かが裂けたような、砕けたような気がする。何時だって、稲妻は何かを壊すのだ。

 そして夕暮れの出逢いも、やはりその音と共に終わりを迎えていた。

 神秘と不可思議。夢は何時だって現実の理不尽な暴力で砕け散る。

「……っ」

 ただ転倒しただけではなくて、そのまま橘と少女は二つ、三つと互いを上に下にと変わりながら転がっていく。

 滑稽な程に勢いがついているのは、二人の呼吸と力が噛みあったからだった。

 二人して転げ落ちるような姿へは、他の良い表し方が見つからない。

 躓いた際の咄嗟の立て直しも、手を伸ばした時の力の入り方も、まさにこけて転がる為のもの。

 ぴったりに噛みあった歯車のように、止まろうとする力が逆に回転へと変わってしまう。

 ごろごろとそのまま三、四転とする中、遠くから雷雲の唸り声が聞こえた。まるで二人の姿を指さして笑っているように。

 そして、くすくすと笑う気配。ままならないのは橘も、その少女も同じ筈なのに、どこか楽しげに微笑んでいた。

 ようやく壁にぶつかって止まり、橘の上で少女……四条 桜花は満面の笑みを浮かべている。

「楽しいですね。あちこちぶつけてしまって痛いですけれど、こうもいきなり躓いてしまうとは思っていませんでした」

「なあ、人の上に乗って言う事か、それ?」

「出逢いは大切なのに。でもでも、中々暗喩的で面白くもあります。出逢って転がり始まる物語って」

「……あの、な」

 片腕は掴まれた儘、自分の身体の上に乗って笑う桜花に眉を顰める橘。

 先ほどまでの神秘性と、夕闇への誘いは掻き消えている。何処にでもいるような、けれど可愛らしくて明るい少女の笑みだけがある。するりと、頬に掛かった長髪の感触とその黒色だけが、全ての名残だった。

 橘の頬を、残る片手で触れる桜花。

 しげしげと、何かを確かめる視線。けれど、掴まれた手は離されない。転ばないようにと握ってくれた指先が離れない事が、何故か嬉しかった。

 僅かに伝わる、人肌の温もり。柔らかい指先。見知らぬ少女であっても、久しぶりに触れた他人の肌と言葉に、胸が詰まった。

 その隙を突くように、桜花は語る。

 とても突拍子のない事を。

「……探偵さんと聞いていましたが、思っていたより頼りにならなさそうですね。こう、シャープで身長の高い人を想像していましたが、思ったより身長は低くて、身体付きは細いですし。一言で言うと頼りないですよ?」

「……初対面の人に向かって何言っているんだ?」

「まあ、物語と現実は似て異なるという事でしょうね。か弱い乙女である私が支えようとしても、探偵さんが転ぶのを止められなかったぐらいですし。むしろどうして何もない所で転ぶのでしょう、ドジなのでしょうか。……ちゃんとご飯、食べてます? 何か顔色も悪いですよ?」

「……あの、なっ」

 立て板に水のように捲し立てられる桜花に、ようやく橘は反論する。

「何がか弱い乙女だ。だったら、早く俺の上から下りろ」

「あ、これは失礼しました。か弱いではなく、繊細な少女でしたね、私」

「その二つで変化はあるのか!?」

「私的にはっ、ありますっ! 繊細だから打ち身を作って少し動けないのです」

「嘘を吐け、あの程度で動けない筈がないだろう……」

 唱えられる不思議な理論に、橘は脱力して言葉を切る。

 確かに少し浮き世離れした少女だ。纏った着物も、可愛らしい顔立ちも、そして柔らかな声で紡がれる、摩訶不思議な言葉さえも。

 ただ、それが胸に流れ込んでくる気がするのはどうしてだろう。

 心の空白、情動の隙間。そこにするりと滑り込んで来るのだ。本当は頭を抱えるような意味不明さな筈なのに、今の今まで、カーテンが開け放たれるまでは苦しんでいたのに。

 胸の痛みに、麻酔がかけられたかのようだった。

 橘の唇が知らない間に弧を描いていた。頬が緩んでいる。

「まあ、でも、人の上にずっといるのは失礼ですよね。さてさて、私は離れるとしましょう」

 そう言って転がって密着した姿勢から離れられた事に、むしろ少し怯える。手首から離された指先の感触が、妙な虚ろさを感じさせたのだ。

 でも、あれと。

 何で、この家に少女が?

 立ち上がった桜花へと疑問の視線を投げかけるが、にこにこと笑ったままで応える気はないようだ。

 代わりに、苦笑まじりな、聞き覚えのある声が投げかけられる。

「苦労性だな。いや、悪い、橘」

 くっくっ、と喉の奥で笑うのを我慢している声がした。

 愉快で面白い寸劇を見て、笑うのを堪えている。が、そこに悪い感情を抱けない。

 少しの爽やかささえあっただろう。何より、視線を部屋の入り口に向ければ、見知った顏がそこにはある。

「西峰、か?」

「よう。久しぶり。全然学校に来なくて、少し心配していたぞ」

 入り口の近くに立っていたのは、橘と同じ学校の制服に身を包んだ少年だった。西峰達也。クラスメイトの一人。

 陸上部に所属している彼。帰宅部である橘と接点がないように思えるが、一年、二年と同じクラスだった為にある程度の気心が知れている。

「……本当に心配したぞ」

 次の部長にも期待されるほど、責任感の強い少年だった。 

 一瞬、鋭い眼差しで見られて橘は視線を逸らす。不器用に、けれど真っ直ぐに見つめられると、自分を責め立てる感情が沸き立つ。

 そんな風に真っ直ぐには立っていられなかった。

 今もまだ立ち上がれずにいる。友達の前なのに。

「悪い」

 何とか絞り出した声は擦れている。

 少しの沈黙の間に、桜花がぱたぱたと着物についた埃を払う音が響いた。

「いや、だからって何で西峰と、その……桜花、だっけか。二人が俺の家にいるんだ?」

 これ以上責め立てられない為の必死の言葉ではあった。

が、同時に口に出して初めて、可笑しいと眉が潜まる。確か鍵はかけたままの筈だったのだ。

 事務の女性に合い鍵を貰った可能性もあるが、それは限りなく低いだろう。

 そして、その理由と元凶がちゃりん、と金属の束を鳴らした。

「きらーんっ」

「…………」

 口にした桜花の手にあったのは、細い金属の棒がリングで集められたものだ。 

 それぞれが複雑な形をしており、縦横に曲がりくねったり、或いは針金のようにか細いものもある。姉の依頼の際に、それを見た事があった。

 眼を輝かせて、続ける桜花。

「キーピック、初めて挑戦しましたが成功ですっ」

 ぐっ、と握りこぶしを作る見せる桜花は満面の笑みだが、事実は変わらない。

「おい、不法侵入者ども!?」

「あ、でも流石に鍵穴を傷だらけにしてしまったので、鍵穴は買い換えないとですね。初心者ですので、かなり強引にしてしまいましたし」

「本気で犯罪者だな、お前。西峰、お前、どうして止めなかった……?」

「ああ、それが、その……止める前に、さっさとやってしまって、な。うん。慣れた手つきで」

「私、手先は器用ですからねー。流石にチェーンを掛けられていたら、私とて無理でしたが」

 ふふりーと笑う姿はいっそ少女らしい可憐さがあるが、事実として犯罪である。

 しかも鍵穴を強引に明けたらしい上に、西峰の言葉から察するに常習犯だ。上品そうな、まるでお嬢様のような顏をしているが、顏と中身が一致するとは限らない。

 頭が痛い。まずは警察かと思うが、胃も痛かった。

「あ、安心して下さい。本当は先に粘土を鍵穴に詰めてからやりましたので、鍵穴はそこまで痛んでいませんよ?」

「こら。それ、マジでプロの手口だぞ……素人のやり方じゃない……」

 鈍い胃痛を覚えて、腹部を押さえる橘。西峰は苦笑いをしているが、正直笑えない。二人とも即座に警察に突き出そうかと思案したところに、桜花がまるで誤魔化すように、にこにこと喋る。

「ネットって怖いですよねー。かといって表現の規制は嫌です。その判断はとても難しく、頭ではなく胃で感じたいと想うところ。だって、頭で論理的に考えても答えは出ないことはあるのです。ご存知ですよね、探偵さんなら。というわけで、全てを満たしてくれる満腹感を与えるため、私が料理してまいりますっ。満腹感さえ覚えれば人はたいていの悩みと問題を忘れるのです。というわけでキッチンをお借りしますですよっ」

 橘も西峰も呆然とするほど、凄まじくも流暢な勢いで続けられる桜花の言葉。受け止めて整理するのが間に合わないほどだ。

 話題の転換が行われるというのに気づいたときには、髪の毛を靡かせて弾むようにキッチンを探して部屋の外へと向かっている桜花。背中をむいているというのに、そして先ほど出会ったばかりだというのに、満面の笑顔を浮かべているのがわかってしまう。

「…………なあ、西峰」

「ああ、うん。すまない。あんな娘だとは、知らなくて。俺も今朝知り合ったばかりで、巻き込まれたんだ。『探偵を探してあげます』って」

「……『探してあげます』?」

 何とか立ち上がってソファに座るものの、疑問は次か次へと浮かんでは消える。

「ちょっと、な。まあ、俺の方も少し問題があったから、ネットで『探偵の助手』を名乗る人にコンタクトを取ったら、あんな風で……しかも、助手ではあるけれど、探偵は知らないというんだ」

「…………」

 出会ったときは、ミステリアスさを仄かに匂わせた少女だったという。

 だから探してあげます、という言葉も深い意味がありそうだったと語る西峰。でも、実際は違った。探してあげるから、探すための探偵を探しましょうと言われ、まくし立てられ、気づけば知り合いに探偵さんはいますか、という謎の自体に。つまり今にたどり着いたのだという。

 元々は西峰がある事件を調べて欲しいと、ネットに書き込んだことが原因らしい。

 それに食いついたのが、あの桜花という少女。聞かれた西峰が探偵と知っているのは、橘探偵事務所のみ。ちょうど橘のことを心配していたのもあって、訪れたらなし崩しにこんな事態になったという。

「……何だ、それ。不自然というか、詐欺師っぽい雰囲気だ」

「まあ、な。それでも俺も、少し、どうしても調べて欲しいことが、あったから、さ」

 妙に歯切れの悪い西峰の言葉。そこに不信感を抱くが、橘は問い詰めない。それだけの気力がない。

 調べて欲しいといわれても、その調べる探偵である、姉がいないのだ。

――探偵さん、探偵さん。

 そう言われても、橘は探偵ではない。

 ただの、何も出来ない高校生だ。そんな自分の手へと、視線を落とす。

 奇妙な沈黙。何も応酬はなく、ただ、息がつまりそうな時間だけが過ぎる。

 キッチンからは、何かが焼けるような匂い。

 何を聞けば良いか判らない。何を言えば良いか判らない。追い出すべきだろうかと、また後日に来てくれなど理由付けを考えていると、近くで落雷の音。

 釣られるように西峰のスマホから着信のコールが流れ、画面を確認すると、悪いと断りを入れて西峰はわざわざ玄関の外まで出ていく。部屋の外どころか、家の外までだ。

 再び残された、橘。

 ぽつんと、孤独感があった。

 それがすこしずつ満ちて、胸を満たしていく感覚に苦しさを覚えたが、幸いには長くは続かない。

 この家には、もう桜花がいたのだ。後になって思うと、独りという辛さを消してくれた、最初の時だったかもしれない。桜花は煩くて、面倒で、そして明るくて優しかった。

 軽やかな鼻歌まじりに近づく気配。ただ、匂いは少し強烈だった。

「お待たせしましたっ」

 そうやってテーブルに載せられたのは、ピザだ。冷凍ものを買ってそのまま冷蔵庫に放り込んでいたものだろう。

「私の生涯で初の手料理ですよっ。さあ、感謝して食べてくださいね、探偵さん?」

「…………」

 焦げた冷凍食品で何を誇るのか、とても楽しそうに笑う顔はどこか幼さを感じさせる。

 馬鹿なのだろうか。頭がゆるい。勝手に何をしているのか。

 初めて出会ったのに。そもそも手料理といえるのか。

 判らなかった。ただ、その笑顔を見た瞬間、ひどく涙腺が緩んだ。

 腹と胸に、空虚感があった。ぽっかりと穴が開いている。

「召し上がれ。私も、食べさせてもらいますから」

 にこにこと楽しそうに笑う桜花。でも、料理をして楽しいからじゃないと、橘は気づいていた。

「お腹がすいていると、ひとは笑えないんですよ? だから、こうして今までずっと、苦しそうなんです」

 ひときれの焦げたピザをどうぞと、病人に接するよう桜花が橘への口元へと差し出す。それでも胸の中に何かが詰まって、口が開かない。

そんな橘に仕方がないですねと、笑いながらまるで毒など入っていないと示すように一口齧る桜花。

「……焦げているところは苦いです」

 初めて桜花の笑みが翳った。本当に苦いのだろう。まるで炭のようなところを口にしたのだから、当たり前だ。

 少しの涙目。よほど、苦いものに耐性がないのだろう。それでも、舌は流れるように言葉を紡ぐ。

「でも、独りで食べる料理は、もっと苦くて、苦しいですから。一緒に、食べましょう?」

「…………あの、な」

 ぐしゃりと、何かが潰れる音がした。

 胸の中でうつろだったものが、無理やり立たせていたものが壊れた。

 姿や格好を気にせず桜花が手で握り、差し出したピザを口に含む。苦い。でも、胸に穴が開いていて、それを埋めたかった。桜花から奪って、二口目。三口で飲み込んで、次のピザへ。

 涙が出た気がする。けれど錯覚だろう。

 だってくすくすと笑う、桜花がいる。優しくて静かな笑みを浮かべて、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「ほら、食事は笑って、誰かと食べないとですね」

 何を理解して、何を知っていたかは判らない。少し仕草や言動が違えば、桜花が橘の何を知っていると激怒されていたかもしれない。

 けれど、何故だが不思議なこの少女が胸の奥、潰れて消えてしまった残骸を取り除いて埋めてくれる気がした。

 桜花はやはり不思議だった。言動も仕草も、表情も雰囲気も。この世のものとは思えなくて、そしてこの世のものではないから、満たされない現実の傷口を埋めてくれた。

 錯覚かもしれない。多分そうだ。痛みは残っている。それでも、確かにこのとき、激しい痛みと共に、橘は安堵していた。姉が消えてから初めて、人の心と触れたと実感していた。

 拒絶していたのは橘自身。でも、その壁を、姉の記憶という残骸をすり抜けて、桜花はここにいる。

 魂と心だけの存在、みたいに。

 また、雨の気配。さぁぁっ、と、すすり泣きに似た音が流れる。

 そのまま、貪るように口に含み続ける橘。確かに、思い起こせば数日まともに食べていなかったせいで、上手く飲み込めないが、時折桜花が差し出す水のお陰で誤魔化せた。

 しばらく、笑いながら少しだけ食べる桜花と、一気になくなったものを埋めようと食べる橘の二人だけの食事が続く。近づく雨の気配、音が強まる。

 三分の二を食べ終えた辺りで、桜花が口にする。

「さて、探偵さん」

 現れた少女は、少女なりの願いがあった。

「私を助手にしませんか? ええ、まずは、お願いしたい依頼があるのですけれど」

 くすくすと笑う顔が滲んでよくみえなかったから、橘は手のひらで目を擦る。

 桜花はそれに、何も言わない。


「橘さんには、心霊探偵さんになって欲しいんです」


 代わりに、そんな突飛なことを口にする




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