夕立より速い、黄昏の詩
姉の橘 亜紀は私立探偵だった。
稼ぎはそこそこで、何時もギリギリだ。
家計簿が黒字でない時もあって、困ったね、と笑いながら珈琲を飲んでいる姿を、何故だかくっきりと覚えている。
多分、テーブルを挟んでみるその苦笑の向こうで、よくブラックコーヒーを飲んだからかもしれない。妙に、その苦笑いが印象的な人だった。姉の顔といえば表情を思い出す。
腕は良かったのだろう。
贔屓のクライアントは多く、現実的なトラブル、特に尾行や探索に関しては天才的だったと聞いている。
そういう依頼がある時は黒字。ない時が続けば赤字。
人を追いかけ、見つける事が得意な女性探偵だった。
ただ、高校の弟に語れるような仕事ではなかったのだろう。
探偵へと持ち込まれる依頼が綺麗なものである筈もない。尾行を専門にしているならなおさらだ。
依頼の原因と、そして調査の対象となった、人の闇のような、どす黒いものを何度を見続けてきた筈だ。けれど、辞めずに続けたのは、きっと何かしらの想いがあったのだろう。姉もまた何かを、見つけようとしていたのかもしれない。
けれど、それを成人もしていない弟に語れる訳がない。
両親は不在。共に警官で、殉職したそうだ。橘の記憶には残っていない。
ただ、姉の手一つで育てられた。だいぶ年の離れた姉弟で、姉の結衣は高校を出ると即座に街の探偵事務所に勤め、そして数年で独立する。
苦労は絶えなかっただろう。
何も語られなかった橘だって判る。若い探偵に来る仕事は、はっきり言えば後味の悪いものに決まっている。
そんな中から生活の為と報酬が高いものを選べば、勿論、そこには口止め料が入っているようなひどいものになるのだろう。誰にも言えず、眼鏡の奥の瞳を揺らしながらマグカップの中身を流し込み、口を塞ぐ。
姉が苦い珈琲で、それより苦くてやりきれない事情や、見てしまったものを飲み込んでいる姿が、強く記憶に刻まれていた。
味覚が苦味を感じれば、今でも連想して思い出すほど、その表情は瞼の裏に焼き付いている。
こまったね、と、その一言にどれだけの重さがあるのか、よく解らなかった。けれど、そんな姉を助けたいとも思っていた。家事全般が出来るようになったのもその為だし、橘がお米を好きになったのも姉が毎回、どのような組み合わせでもお米を求めたからだったりもする。
「大学にはいきなよ」
そして、ある日。何時もと変わらない筈の朝に、唐突に姉は言った。
玄関で靴を履き、とんとんとその具合を確かめながら続ける。
「大学にはいきなよ、私がちゃんと出して上げるから。そして、探偵なんてもの、なるもんじゃないよ」
やはり何時ものように、苦い珈琲を口に含んだような、頬を少しだけ緩ませる笑み浮かべた姉。
何と応えたかは覚えていない。確か、突っぱねた気がする。姉の事務所で働くのだと。
一戸建ての家を事務所にしているせいもあった。仕事は、覚えようと思ったら、今からでも覚えられる。せめて事務処理だけでも出来る身内がいれば、姉にかかる負担は変わる筈なのだから。
ただ、最後はこうなるのだ。
「そっか」
どうしても姉とは切っても切っても離れられない、あの苦笑いと共に言葉を流して――そして、もう帰らなかった。
三日、長くて一週間の張り込みは前に幾度かある。
だから、事務を手伝う助手の女性も気にしていなかった。
連絡が取れないから少し不安だ、とは言われていたが、その程度の認識だった。
一週間が二週間、三週間へとなって、警察が家に訪れるまでは。
「君の姉の、結衣さんのバッグがこの街の廃ビルで見つかった。……心当たりは?」
問われ、けれど応えられなかった。
事務をしていた女性は、別の街への事件だと聞いていたらしい。依頼の内容ではそうなっている為、辻褄が合わないのは当然。困惑する二人を前に、警官は携帯などで何時連絡を取ったかを確認したが、思えば、連絡を取りたがらない性質もあり、そういう事が一週間程度続くのはザラだった為、不審には思わなかった。
そして、姉が取りかかっていた依頼の内容を精査すれば――それはでっちあげの依頼だった。
内容こそいつもの人探しだが、依頼主は数か月前に死亡しており、数回に分けての報酬だった為に気付かなかったが、その額は余りにも大きい。
何かしらの大がかりな事件のトラブルに巻き込まれたか、或いは、苦慮の生活の末の失踪。そう断定できる材料が、どうして気付かなかったのかと思う程、探せば探す程に見つかっていた。
貯蓄が既に尽き掛っており、事務の助手に満足に払う額もなかったこと。
借金が姉の名義でかなりの額があるということ。
実は、橘が気づかなかっただけで、学費も滞りを見せていたということ。
そういった背景も含めて失踪事件と決められ、捜査が始まったのは、梅雨の事だった。
しとしとと雨が降り続けた。今年の梅雨は遅く、そして長い。七月にようやく表れて、長続きしていた。
か細い雨粒が描く斜線は、まるで牢獄の格子のようだった。
姉は、何時帰ってくるのだろう。
事務の役割として助手をしていた女性が元気づけようと、料理を作りに来たりもしたが、橘は次第に一つの思考だけに囚われ始めた。
姉は、何時帰ってくるのだろう。
しとしとと、堪え続けて崩壊した落涙のように、ずっと続く雨。
最初は何故こんなに不安なのか解らなかった。自分の部屋で眠れず、姉の事務屋のソファの上で寝始める。せめて、姉のあの苦い笑みを思い出させてくれる、珈琲の残り香のする場所に留まっておきたかった。
学校に、時折いけなくなった。ある日、家を出ようとすると妙な動悸と不安を覚え、橘は玄関を開ける事が出来ず蹲った。何故か解らず、そのまま姉の事務屋に戻って毛布にくるまり、ようやく落ち着いた時に全ては繋がった。
――俺がいない間に、姉さんが帰ってきたらどうしよう?
姉を一人にするのか。駄目だそれは。
では、どうしてそんな事を考えるのだろうか。まるで脅迫概念に襲われるように一人というものへ恐怖し、震え続け、その日来た助手の女性にたしなめられた。
そんな姿、お姉さんに見せられないでしょう。
そんな事も言われた気がする。ただ、彼女が帰り際に淹れて行った珈琲を飲んだ時、全てが繋がった。
初めて珈琲を飲んだ時の記憶。何歳だったか、どんな季節だったか、周囲の色も音も気温も覚えていない。ただ、苦い味と、反面、少しの甘さを感じさせる匂いを思い出した。
姉が淹れた、父と母の好きだった珈琲。
だから姉は、珈琲が好きだった。父と母が残した趣味で、姉の事務所を覆う、優しい香り。
同時に、ある夜のことも。
父と母が帰らず……いや、橘が帰ってこないという事を理解出来ず、姉に抱きついた時に、苦しみを堪えるように、頬を強張らせながら笑った姉のことを。
「そっか」
と。
「じゃあ、待っていよう。それでダメだったら、お姉ちゃんが探しに行くから」
そういって、二人で夜明けまで飲みなれず、ミルクで薄めた珈琲を飲みながら待った日の事を思い出したのだ。事実を飲み込んで、探す事なんて無理だと解りながら、珈琲の苦みで涙をこらえた、姉。
その時の珈琲で感情を流し込むような苦笑いが、橘にとっての姉の印象だった。
人を探すこと、尾行する事に姉の意識が向いたのは、幼かった頃の橘の言葉だったのだろう。
探しても、見つからない。それを知っていた姉は、探偵になるなと言って、「そっか」と笑ったのだ。
そして、居なくなった。
――幼い頃、橘が無自覚に口にしたせいで、また家族が居なくなった。
「……っ!?」
それは橘が勝手に感じた責任だ。
あの言葉がなくても、姉は探偵になったかもしれない。
それでも、責めた。橘は自分自身を責めた。
幼い身では、そして今でも高校生という子供でも大人でもない、半端な時期に出来る事はなかった。
歯を噛み締めて、毛布の中で身を縮めながら、がたがたと震えた。恐怖に浸っていく。独りなのだ。もう独りきりなのだ。姉が独立してから忘れていたが、橘は独りというものが怖かった。父と母が帰って来なくなった時の事をはっきりと覚えている。そして、姉がいなくなって、ぽっかりと空いた穴があった。
消えていく珈琲の残り香、家族の絆を、必死で求めた。自分を罰するように、何も贖えない自分を責め立てた。
追い立てるように激しい雨が降り始める。
学校には……いかなくなった。
丁度、その頃から夏休みが始まったのもある。心配していた助手の女性も心配こそすれど橘が夏休みの間にと新しい働き口を探す為に来なくなり、家族の名残のような、珈琲の匂いの染みついた部屋にい続けた。擦れ、消えゆくその匂いを抱き止めるように。
ただ、居なくなった姉と、もう顏や声、手も瞳の色も思い出せない両親を想った。
自分を責めたてる方法を思いつかなくなるまで。
何もしない自分が、閉じこもっている自分が悪いのだと、ついに悪循環の自己嫌悪を始めるまで。
雨がざぁざぁと振り続けるが、意識に入らなかった。
ちくたく、ちくたくと秒針が動く。止まらない。動けない橘。止まってしまった心。
音も目もよく動かない。生きる為に必要最低限のことだけ行って、棺桶に入るように事務室でもあった姉の部屋で眠る橘。
何をすればいいのか解らなかった。
誰も彼もが居なくなるという事、そして探すのは無理だという恐怖に、胸が軋んだ。
居なくなった人は、探せない。姉でも、無理だったのだ。自分では無理だと、指の爪跡が残る程に二の腕を抱き締めた。
どうすれば良いのか、解らなくなって。
夢か現実か。昼か夜か。雨が止んだどころか、世界の何もかも解らなくなった時。
つまり――刻も意識も、黄昏の時に、黄昏色の少女は現れた。
「探偵さん、探偵さん。――この世のものではない謎を探しに行きましょう」
優しくも少し芝居がかった声は何処か妖精じみている。
誘っているのだからある意味、当然なのかもしれない。
開け放たれたカーテン。窓は橙色の光を部屋に取り入れて、夕暮れの色に染め上げる。
その中、赤と橙の中間のような、美麗な紋様の描かれた羽織りがまるで翅のように翻って。
「探偵さん、探偵さん。――この世から失せたものを、それでも見つけにいきしょう」
そこに立つのは、魂さえ吸い込むような綺麗な少女だった。
黒い髪の毛が踊るような動きに合わせてふわりと舞い、赤橙の綺麗な着物が斜陽で艶やかに濡れる。
瞳は茶色。深く、深く、心の奥まで問いかけてくる視線。
強い夕焼けの日差しに照らされた少女の顏は美しくも翳りがある。優しげに揺れる瞳も、何処か魂を鷲掴みにして、橘の全てを見透かし、大切なものをこっそりと盗もうとしているかのようだ。
心臓そのものに、夕焼けの光が刺さるような錯覚。
ちりちりと、何かが焼ける。動き出す。揺らめいて形にならないけれど、それでも胸の奥が脈動した。
意識が覚醒し、鳥肌さえ立った。いけないと、本能が警鐘を鳴らした。
余りにも美しい少女は、少しずつ血の色に染まる光の中で、儚く微笑む。
何処か浮き世離れした――魂だけの存在のように。
魂だけを探している、綺麗な死神のように。
誘うフレーズは重ねられるたびに、麻酔のように身体を甘く痺れさせた。
いや、神経そのものを溶かされたように、動けなかった。
「探偵さん、探偵さん――さあ、この世とあの世の繋がる時間ですよ」
少女の囁きが終わると共に、ぴたりと、全ての時間が止まった気がした。
余りにも現実離れしていた唐突性。夕焼けを背負う少女の浮き世離れした雰囲気。
くすくすと微笑み、一歩を踏み出す。
「祈り、願う歌を口ずさんだことはなくとも、誘いの唄はずっと」
この世にないものを見る為の、茶色の瞳で橘を見て。
こつん、と床を踏む少女の第一歩に。
こつん、と橘が歩み寄る、第二歩が重なった。
どうしてだろう。
どうして、この時、拒絶でも恐怖でもなく、歩み寄ったのだろう。
この瞬間の事を何時振り返っても、どうしてなのか解らない。
まるで惹き付けられてしまったかのようだった。
言うまでもなく少女とは初対面であり、彼女は不審者で、どうやって家に入ったのだろうか。
そんな事が全て些細で些末な事に思えて仕方がなかった。
ただ、少女の言う言葉が余りにも魅力的で、蠱惑的だった。
何も出来ない自分――そんな嘘を、壊してくれたように。魂が求める事を、見抜いたように。
――この世のものではない謎を探しに行きましょう。
この世のものではないもの。
理性で解っていて、どうしようもないと絶望するしかない。
この世にないなら、探せない。見つけられない。触れられない。
でも、だからって諦める事は出来なくて。
もしも万が一に、この少女の言う事が出来るなら。その方法を示してくれるのならばと。
力が入らず、よろめいた身体で少女へと向かった。
「私は四条 桜花――桜と、橘、ですね」
転びかけた橘の手を取る少女が、にっこりと笑う。
これが、始まり。転落と回転と、どうしようもない探し人二人の始まりだった。
「橘の探偵さん、桜を助手にしませんか?」
そして、転びそうになった橘の手を助け、体重を支えようとした瞬間。
「わわっ……!?」
「……っ!」
少年の体重を支え切れない、少女のか細い身体は、そのまま二人して転がるように倒れ込む。
轟く雷鳴と、後ろで誰かの失笑の気配。
神秘的な出逢いは、かくして、終わる。
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