我が儘娘の歌と旋律に消されて

「いえいえ、休学している最中に奨学金の申請をしていればよかったのにですねー。でも、数か月支払いが滞ってますし、大変ですよ? 水道代も電気代も、学校へ支払い以外は既に私がやったのですから、少しくらいの我が儘は許して欲しいものです。恩を、仇で返します?」

「……ぐぬ」

 軽口でその事に触れられて、その程度で済むことが橘にとっても驚きだった。

 自身の呻き声が、自分でも信じられない程に軽い。心の傷が癒えたどころか、そういう苦しみがなかったかのように。確かに記憶と感情に刻まれたはずの瑕が、薄く閉じている。何度も何度も言葉を重ねて、瑕を埋めていったように。そんな自覚は確かにある。

 そういう意味で桜花へとある意味で借りを作っているのは事実だが、それも何故か遠い。責任感や義務どころか、現実感がないのだ。

 この部屋に桜花にいる事にも、妙に納得してしまう。



――この部屋の主は橘の姉だった。その過去と事実が掻き消えたように。



 いや橘は覚えている。忘れられる筈がない。

 未だに悔いる気持ちもあるし、悩む事もある。

 生活費の支払いは桜花。それも、元々姉がしていた事なのだから。触れられる度に姉を思い出して当然だった。

 だが、落ち込んでばかりではないのも事実。時間は止まらない。全ては流れて過ぎ去っていく中で、生きていく必要がある。

 解っていても、一時期は苦悩と苦痛と後悔で身体が動かず、生活もまともに送れなかった。

 だというのに、どういう訳か、いや、この桜花が転がり込んで来た時から、歯車がかみ合ったように全てが動き出している。まるで夢の時計が動き出したかのようだ。

「さあ、解ったらピザを作るのです。ふふふっふー」

 完全にお嬢様モードを殴り捨てて、目が輝かせる程の食欲を見せる桜花。太るぞといいたいが無駄だろうと橘は瞼を伏せた。この夏休み、殆どこの家の外に出ていないのに桜花の身体はほっそりとしていて華奢なままだ。

 名前の通り、しなやかな桜の若枝のように。

 桜、手折る馬鹿……そんな言葉がふと浮かんだ。

 儚い象徴。短い命。ふと目を離したら消えて、空に溶けて消えてしまいそうな花びら。

 桜の花。

「ったく、しょうがないな。といっても、冷凍ものだぞ? それで舌が満足するのか、自称お嬢様?」

「ええ、問題ありません。どの道、橘さんが味付けとかトッピングを変えて美味しくしてくれるのでしょう? だから、私は大満足なのです」

 だというのに、まるで大輪の花のような満面の笑みを浮かべる桜花。

 やはり不思議で、理解しがたい少女だった。

「やっぱり橘さんと一緒だと、退屈ではないですねー。私は退屈が大嫌いって、理解してくれて嬉しいです」

 にこにこと微笑むその顏はほんとうに心の底からのものだろう。

 何が不満でこの家に転がり込んだのか……は判り始めた。けれど、それを認める親はどうなのだろう。

 一度もあった事はない。ただ、明らかに高そうな寝具や今羽織る着物を初めとした衣類、そして二人で生活するには十分過ぎる程の額を振り込んでいる。

 不思議一族、四条。

 そんな言葉が頭に浮かぶが、橘は横に振って弾き飛ばす。

「全く」

 元々は姉がいた、橘の姉の事務所だった部屋を見渡す。

 もう、原型はない。匂いさえ変わってしまっている。昔は珈琲の匂いが漂う、落ち着いているけれど、新鮮な空気に溢れていた。

 けれど今は違う。家具はさほど変わっていないが、まず匂いが別物だ。目を閉じても持ち主が変わった事を感じ取れる。

 古い紙の匂いが満ちていた。

 至る所に本の山が詰まれているが、それは増設した本棚に収まり切らなかった分だ。しかも全て、民俗学に纏わる何かしらの読本であり、それらをテーマにした小説であり、そして研究資料。中には大学から取り寄せたらしいものもある。

 古書が好きなのではなく、これらの共通点――民俗学が、桜花の趣味だった。

 それと共に、桜花は生きている。

「探偵さん、探偵さん」

 明るい声で、妖しげ匂いを纏わせて、桜花は囁く。

 心の底まで染み渡るような、綺麗なのに、その奥底にひどい願いを込めたものを。

 決して透き通るだけの、清いものではない。


「――退屈な普通の事件は全て断って下さい。簡単な事件は退屈です。私は怪奇現象や心霊事件に関わりたくて、探偵さんの助手をしているのです」


 言葉に重ねられるよう、にこにこと、背中に投げかけられる笑みの気配。

 どうして、不吉へと転がり落ちるようなその誘いを橘は断れないのだろう?

 何故、あの時、その笑顔と言葉に救われたと思ったのだろう?

 明らかに道楽で、趣味で、そしてお金にもならない事を繰り返してきた二人。橘は探偵として、桜花はその助手と、普通ではない事件ばかりを探して解決して来た。

 探偵ごっこというにはオカルトに向けて疾走し、その真実が生きた人間の手のものだと解った途端に落胆して転がる桜花を、この夏休みで橘は何度見ただろう?

「次こそ、本物の怪奇現象に触れたいですね。オカルトマニアと云われても仕方ありません。天狗にも一度会いたいものです。京都に多いそうですし、一度行くべきでしたね、この夏休みに」

 その言葉に押されるように部屋を出て、キッチンへ。

併設してあるリビングルームの食卓の上には、破り捨てられた依頼書の山がある。

 全て普通の依頼だ。橘探偵事務所が再開したと聞いて、依頼を頼んで来た贔屓のクライアント。ただし、経営者であり、実質働いていた姉は居ない。まだ見つからない。

 そして、姉宛の『普通』の依頼は破り捨てられて、興味本位の俺と桜花へのオカルト事件にばかり手を出している。

 言わなくても解る通り、赤字だ。交通費だけで経費が赤く染まる。が、そこを桜花が埋めている。その趣味として振り込まれたお金で。

「全く、どうかしているよ」

 そう言いながらも、笑っている自分が可笑しかった。

 姉が行方不明になって、変な少女と同棲して、心霊事件を追う探偵ごっこをしている。正気ではないし、夏休みがあければ教師に何と云われるだろう?



 姉が行方不明で消えて、辛いのは判る、とか?



 もっとも現実を直視しないと、姉が悲しむ、とか?



 それらしい言葉は、もう来なくなった探偵事務所の女性スタッフに既に掛けられた。

 だが、意味なんてない。効果はない。食べ物に手を伸ばす気力さえ産み出してくれず、ただ、姉の事務室で珈琲の残り香が薄くなっていくのを感じながら丸まり続けていた。

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