第一章 憂鬱は雨の後に、ふたりとともに

 雨の気配が遠のいた。夏が終わりかけている。

 日差しは相変わらず肌を焼くように強いが、風からはしっとりとした湿気の感触が消えている。

 少年、橘 彰はゆっくりと荷物の重さと共に感じて、呼吸をひとつ。深い茶を過ぎ、黒に見えてしまう瞳を空へと向けた。

 遠くの山で雨が降るのも終わったのだろう。

 夏は雨の季節でもあるのだ。唐突に来訪する夕立を思い起こせば、そのイメージも連想できるかもしれない。特に今年の梅雨は遅く、長かったせいもあるだろう。

 この夏はずっと雨が続いているかのようだった。跳ねる水は軽快でも、落ちた雨はただの水たまりでしかない。

 しとしとと降り続ける様は、見ているだけで憂鬱になるのに十分だ。

 溜め息をひとつ零す少年は額の汗を拭う。身長は高校二年生としては平均よりやや高い程度だが、線の細い身体つきのせいで少し頼りなさを感じさせてしまう。生真面目に学校指定の夏服を着込んでいるせいもあるかもしれない。

 額に触れた指も細くて長い。繊細な文学少年、というのがこの少年を見た時の最初の印象だろう。困ったような苦笑いを浮かべているのが頼りなさを強調していた。

 加え、正面からじっとみれば見ればその黒い瞳に危うさを憶えてしまうだろう。

 外見に反しての強い意志が目にはあった。知性も穏やかさとして滲み出ている。なのにその奥に脆さを感じてしまうのだ。まるで壊れ物、いや壊れてしまったものを見ている気分になってしまう。

 まるで一筋の皹の入った、磁器を見ているかのように。

「困ったな、本当に」

 そう呟いた橘の胸の中は日差しに反して翳っている。曇っている。

 乾いた風が吹き抜けていくが、気分が晴れる事はなかった。

 全ては夕立と共に来て、去る事のない少女のせいだ。今も着物を羽織った儘、涼しいどころか寒い程にエアコンを効かせて読書に耽る姿が思い浮かぶ。

 その頭を掴んで外に引きずり出す、いや、叩き出せれば気持ちも晴れるだろう。

 が、現実として橘が掴んでいるのはスーパーの買い物袋だった。二人分の食材がやけに重たく、痛い程に掌に喰い込んで来る。汗を拭っても、日差しが続いて汗は止まらない。

 そして、頭の中でリフレインする、軽やかな少女の声。

「マッシュルームのピザが食べたいですね」

 ともすれば優しく花びらを撫でる、春風のような囁きで告げられた。

 実際、良い血筋の出らしく、調べたら彼女はお嬢様学校の生徒だった。が、それはそれ。これはこれ。

 食べたいのなら、せめて買い出しぐらい一緒に来いと言いたくとも、次の一言で黙らせられた。

「携帯の支払い、そろそろでしたっけ? どうして私が二人分払わないといけないのでしょうか? あ、でもマッシュルームの乗ったピザを食べられたら払いたくなるかもしれませんね」

 実に明るい笑顔と共に告げられた言葉に、残念ながら俺は反論出来ない。

 叩き出したくても、我が家の生計を整えているのはあの少女なのだ。憎たらしい小理屈を、自称、可愛いらしい顔と、豊富な財力によって通している。

 我が儘娘にも程があるのだが、それに頼らなければいけない我が身を恥じるばかりだ。

 溜め息を一つ。

 現代で、お金より力のあるものはない。

 身を持って体験した、この高校二年の夏だった。それでも、立ち止まってばかりではいられない。

「……全く」

 湯水のようにお金を趣味に使う少女の元に戻りたくないからと、自分の家の近くで立ち止まって汗ばかり落としてはいられない。日差しは殺人趣味に目覚めたかのように輝きを強める。

 自分の家の部屋のひとつ、あの少女が占領した空間に目をやり、カーテンが開け放たれているのを確認する。

 あの部屋は姉のもののはずだった。けれど今は違う。その事に違和感は覚えても、嫌悪感を抱かない自分に首をひねりながら、家へと戻る。門を抜けて、ドアを開けた。鍵はかけていない。

 ただいまの一言は要らないだろう。

 ドアを開けた瞬間、ひやりと肌を刺すような冷たい空気に触れた。

「……おい」

 重ねよう。ただいまを言う必要性はないと思うのだ。応接間のドアは開け放たれて、そこから全開にしたクーラーの涼し過ぎる風が溢れている。

 閉めるのが面倒だったのだろうか。ありうると橘は頷き、一気に応接間へと駆けるように上がっていく。

 言うまでもなく、冷風の発生源。半袖の姿では寒すぎる程の中、無造作に床に詰まれた古書の群れと、大きな仕事用の木製のデスクが目に入る。そして、そこに座る、我が儘な少女の姿も。

「おい、桜花」

 夕立の少し前に現れて、夕立を理由に居座り、夕立が過ぎてもそこにいる少女の名前を橘は呼ぶ。

 桜花の反応は少し遅れた。俺の足音は聞こえていただろうが、古めかしい本に読み耽っていたのだろう。

 呼ばれてから数瞬、まつ毛が動くまでに時間がかかった。

 秋か冬かと問いたくなる程につけっぱなしにされた冷房の中、けれど窓から差し込む日差しを一身に受ける身体には、橙色の羽織り。

 桔梗の紋柄が流麗に施された、上品な着物をカーディガン替わりに着込んでいる少女。腰の下まで流された長い黒髪が、首を傾げる小さな動きでさらりと流れて肩に落ちる。反面、抜けるように白い肌と、物静かな深い茶色の瞳。可愛らしさと繊細さが同居した、いっそ妖精のようなとも言えてしまいそうな少女。

 彼女こそが全ての元凶であり、物語の発端であり、そして全てを転がして巻き込んでいく少女だった。

 四条 桜花――春の花の名を持つ少女は、優しく、そして明るく微笑んだ。

 満面の笑顔。そして、弾むような声。

 ほんの少しだけ、橘の黒い瞳に刻まれた皹が薄くなる。

「お帰りなさい。待ってましたよ、橘の探偵さん?」

 とすん、と丁寧に閉じられた古書が、橘の溜め息を誘う。

 少し芝居がかった口調は何時もの事だ。そして橘も我が儘な姫君に恒例となった苦言を呈す。

「寒い。いいか、この部屋は夏にしては寒過ぎる。お前、どれだけ今月電気代使う気だよ。普通にその羽織を脱げばいいじゃないか?」

「何を言いますか。これは私の魂です、誇りですっ。日本人に産まれたなら、常に和装をするべきですよっ。まあ、下は学生服ですけれどね。着付けって面倒ですし」

「黙れ、エセお嬢様。時々素が出て、和服は面倒とか、和食より洋食が好きとか言っているだろう」

「衣食住はそれぞれ別です。私は着物が好きで、和風の文化が好きな心を持つのです。和服の良さは一日語っても橘さんには通じないでしょう、とても遺憾ながら、和服の伝統とその良さは途切れてしまいました……」

 そういうと長い睫を伏せる。一瞬悲しそうな顏をして、本を机の上に置くと、掌を机においた。

 しずしずとしている仕草だが、これが俺は怖い。 

 だって、これは予兆なのだ。凪ぎの瞬間でしかない。

 その予測が正解だと瞬間、春風一番のような言葉の旋風が巻き起こる。

「でも、味覚は洋食になれ親しんでいるのです。もはや、マッシュルームの虜です。というわけで、早くピザを作って下さいっ。ほら、早く、早くっ。探偵さん、私の為にマッシュルームのピザを作るんですっ。ええ、私、家を出るまでピザなど食べた事がなく、本当に魅了されてしまいました。良いですか、橘の探偵さん、桜の助手さんである私の為に素早く作るんです!」

 今まで感じさせていたお淑やかさは、文字通り風に掻き消されて花と散った。

 満面の笑みで机をたしたし、たしたしと叩く姿は可愛らしいのが、橘と同じく高校生二年である年齢を考慮すれば幼いといえてしまう。礼儀の良さもどこゆく風であった。なおかつ、我が儘しか申さない。


 たしたしっ、


 たしたし、たしたしたしししっ、


 まるでベルを鳴らすように、或いはピアノを奏でるように。机の上で手を軽く弾ませるその姿は頭痛を覚えさせるに十分だ。ようするに煩い。

 思わず、片手でその額を掴んで制止させる。

頭をがしっ、と握ると、桜花の動きはふにゃんと猫のように止まる。

 どうしてかは解らないが、猫の襟首を掴んだようなものだろう。桜花の急所だと俺は直感的に把握していた。というよりも、こんな不思議生物の頭と習慣と構造など、知性で理解しようとするだけ無駄なのだと橘は思っている。

 ふにゃんと脱力した桜花をこのまま、机に叩きつけるか、外に放り出したい衝動に駆られるのを必死で堪えた。

 ここまで酷使しれた冷房。その料金を今月、桜花抜きで払えると思えない。

「判ったから、黙れ。つーか、お前、俺の所に転がり込んだ時からピザが好きだっただろう? それってつまり、その前で食べていたという事だよな? 俺の家で初めて食べたんじゃないよな」

「流石は探偵さん、名推理ですね」

 にこにこと、掴まれたままの顏が笑っている。

 ならば続く口舌も流暢に、そして的確に過ぎるもの。絶対の余裕を滲ませて、語るのだ。

「――なら、今月の電気代が万単位を軽く超えているのも理解して頂けますね? 後、学校にどうやって復学します? 橘さん、頭は良いですが、私の調べた情報だと財政状態は切羽詰まっているご様子」

「……う」

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