硝子の箱と、朱い森
藤城 透歌
【序章 人柱の娘の歌】
音のない歌が、世界を変えていく。
四季は移ろいをもって時を詠むように。
例えば、今とてそう。眼前に広がる木々は赤に染まっている。
秋の紅葉。山頂に続くにつれて、その色彩はより深く、鮮明になっていく。
それら木の葉たちが風に打ち鳴らされる度、ざぁぁっ、と何かが崩れていくような音を立てていた。
炎が消えていく音に似ている。きっと実りの秋は枯れ落ちて、冬が来るのだと知らせているのだ。
これが季節の歌。瞼を閉じていても感じる、世界の変化。
揺れる真紅の木の葉は、まるで燃え散る炎の欠片のようにも見えた。
せめて、せめてと一つの願いを掛けて揺れる。それが、歌だった。
声を出すというのは、己の胸の外へ、他者へと祈る行為なのだ。
けれど、私が歌うことはなかった。
私は、ついぞ今まで祈ることがなかったのだ。
何かを欲しいと口にしたことはない。
民謡の一つ、口ずさまない。同じ年頃の娘たちが夢見るものを、私はけっして望まなかった。
先にあるのは、そんな優しくて暖かいものではないと知っていた。絶望こそしなかったが、私の感性は周囲の一切を見ない為に閉じている。記憶を辿れば、笑う事さえなかった程だ。
せめてもの少女らしさと言えば、綺麗な着物と丁寧に梳かれた髪の毛ぐらい。
ただ、それも鏡を見た私は人形のよう。
表情はぴくりとも動かない。
作り物めいた、私。
最初から作られていた、私の人生の道筋と標だ。
全ては産まれた時に与えられている。過不足なく、定められた道のりを歩かされていた。
そう気付くだけの聡明さと、逃げられない境遇に気付く知性は私から情感を奪っている。甘い夢などない。ただゆるゆると過ぎていく、時の流れだけがあった。
だから気付けば胸にあるのは諦観。そんなものが歌と旋律を紡ぐ筈もない。
最初から見えている終わりへと、ただ、ただ一直線。それを見据える心が、繋ぎ祈る言葉を途絶えさせた。
肌を撫でる風とて、何かしらを語っている気がするのに。
が、私は何一つ語らわず残さない。そう、遺さない。
だって、私はこれから人柱になるのだから。今更、一度ぐらい歌えばよかったのにと、後悔することもなかった。
私は、私としての心を何ひとつ残さない。未練もない。そういうものが入り込まないよう、閉じた貝殻のように生きて来た。
そんな私に、祈りをかけるひとたちがいる。
時は大正時代。和の国で、外から持ち込まれた夢が御伽を壊して新たに紡ぐ。
しゃりんっ、
と、御神楽の鈴が打ち鳴らされる。
間に流れるのは何かの祈祷。山の中腹なのに、焚かれたお香の匂いが漂い続けている。
――紅葉に不釣り合いな、冷えた匂い。
私の感想はそんなもの。
祭壇となる穴に座っている私を取り囲む、人々。
祈りの文句を連ねている宮司様に、それに合わせてぼそぼそと何かを唱えている無数の村人たち。
必死に願っているし、祈っている。いっそ滑稽かもしれない程に真剣だった。
それもその筈。この日の為、私は何不自由なく生かされていた。着物に、膳に、毬に付き人。悔いのないようにと、丁寧に育てられた供物が私だった。
中身がからっぽな儘、見事に作られた捧げものの人形。その中に、村人の願いを詰めようとしている。
だって、私は何も願わないし祈らない。供物、人柱と捧げられ、自分ではなく、村の為に祈りを捧げるのだ。
空に手は届かない。神様に逢う事は出来ない。生きた儘では。
だから、人柱として神様へと送る。山の神様にいって、村人の願いを伝えるのが、私の産まれ、そして今まで生きて来た人生の意味。
歌う事なんて許されなかった。
祈る文句なんてなかった。
願うという事は、自分の夢を叶えたいということだから。
その一切合切を持つ前に奪われた私は、まさに人形のようだっただろう。
そして今、この瞬間、私のいる穴へ土がとかけられ初めても、眉一つ動かさなかった。
今更、惜しむ命ではない。
こうなると解っていたのだから、仕方ない。
そう諦めて、私は初めて笑った。
じゃらんっ、
再び打ち鳴らされる、神楽鈴。
それに合わせて、私の上へと土がかけられる。
いっそう、高く響く祈祷。村人の縋るような、底冷えした声。
なんて――退屈なのだろう。
土に膝までを覆われた私は、この地面が余りにも冷たく、狭いと知る。
自由に身動きできないのは産まれてからずっとだったたけれども、土の中に埋められかけ、初めて私の情動は動いたかもしれない。
しめ縄で囲われた、穴の中で私は首を傾げた。
神楽鈴の音が遠い。意識が、ふっと、空へと向いた。
頭上を覆う紅葉がざざぁっ、と赤い海が立てる波のように揺れて、その奥にある空を垣間見る。
とても高く、自由な空。白い雲が、風に流されて、何処かへと消えていく。
どうせ神様に捧げられるのならば、私は土の中より、あちらが良い。
きっと退屈しない。不自由などない。私の中で初めて、願いと祈りの欠片が産まれた。追い求めたい夢が、視界の端を横切っていった。
冷たい青空を、大きな鳥が飛んでいく。
自由に羽ばたき、何処にでもいける翼。
初めから用意された道を歩き、土に埋められる私とは違う。
そう、どうせなら。せめて、せめて、と私の胸に熱が産まれた。それは揺れる火となり、紅葉の漣に誘われて歌となる。無数の赤と緋と紅が舞い踊る中、たった一つの空の青さを求めて、私は口ずさんだ。
――私は、鳥になりたい。
翼で羽ばたきたい。こんな狭い場所は、嫌だった。
はらはらと落ちる紅葉。赤と秋の残骸。一緒に土に埋められていく。空に昇れない定めのもの。
ああ、だったらそうだ。
「一緒に、秋に赤を灯して、詠いましょう」
その言葉に、村人が驚き、宮司が目を見開いた。
驚愕は人の間をうねりながら戦慄へと変わり、より強く、堅い祈祷と願掛けへと変じる。私のそれを消して、自分達のもので上塗りしようと。
彼らも必死なのだ。
でなければ、若い娘を穴に埋めるなど正気で出来る事ではない。
幾ら山神を信じ、恵みを求めていても――人殺しという現実を、人柱という名だけでは隠せない時代になって来ていた。
妖異の血筋。そういうお役目。そんな飾りが剥がれ落ちるほど、文明の光は次第に開花していき、この村にまで伝わっている。迷信を払う、知識の光だ。
それを振り払うように、祈祷に力が籠もる。
一人では足りない。二つ重ねても崩れる。三つ寄り合わせて、四条の祈り歌を彼らは口にする。
何て愚かしいのだろう。私も末端とはいえ、その血筋を引いているのに。
いいえ、だから加速していく狂気の願い。眼を閉ざさせる執念という信仰。
じゃらんっ、と鳴り響く神楽鈴。勢いを増して降り掛けられていく、私が座る穴を埋める土。
けれど、もう気にならなかった。
紅葉の立てる囁きに私は耳を傾けた。遠い空の果てをみようと、眼差しを向ける。
もう胸まで土に覆われ、身動きが出来なかった。それでも私の視線は変わらない。
「秋が来れば、歌いましょう」
この森と共に。決してどこもいけない、このまま土に隠される娘として、終わらずに。
「鳥となれる、その日を願って」
土が覆う。私の意識を、歌を、祈りを奪うように。
風が吹き抜ける。私の最初で最後の願いを、森に広げるように。
私は鳥になりたい。
自由に羽ばたく翼が欲しい。
理性も知識も私は失う。口まで土が来て、呼吸も出来ない。それでも私は迷信と信仰の中に、私は没頭していく。
それが、夢見るということ。
願うという真実。理屈ではなかった。お伽噺の恋がそうであるように。
妬みも恨みもない。ただ、ぼんやりと、ただ、他の全てのなくなった頭で、それだけを純粋に思い描いた。
その理想と夢を、この森の全ての鳥に伝えるように――
――ざざざぁぁぁっ、
と、強い風が一斉に紅葉を揺らし、森が唸り、啜り泣くような音を立てた。
一瞬の沈黙。
そして、私の視界は土に隠れて消える。私の魂は、この森のものとなる。
この森の下には、私だけではなく、沢山の娘の骨が埋まっているのだから。
そのひとつに、私はなる。百年からなる夢が、私を待っていた。
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