香織、真実を知る
1-2 第七話 香織 ホワイトアウト
まさか、俺に特訓をしてくれるのが、あの有名な人だとは思っていなかった。そこに居るのは多分⋯⋯いや間違いない。あのとき、テレビにチラっとだけ写っただけの刑事さんだろう。
何故か、印象に残っている、刑事さん。でもさっき⋯⋯幸島さんは「後輩」だと言っていなかっだろうか。
「初めまして。私は坂本と言います」
やはりそうだ。たしか、警視正になったキャリア組である。こんなにすごい人が後輩なんて⋯⋯。俺は少しの間、意識が飛んでいた。
「⋯⋯大丈夫ですか?」
「あ、はい。大丈夫です。すみません」
「名前は⋯⋯確か⋯⋯ささきくんだったかな⋯⋯?」
「あ、佐木です」
「佐木くんだったか⋯⋯済まないね」
「いえいえ、慣れてますから」
名前を間違えられるのに慣れているのはおかしいが⋯⋯。
「自己紹介も終わったところで、早速始めようか」
向こうは竹刀を持っている。まさかいきなり剣道をやらせる気なのか⋯⋯? というか、もう確定だろう。もちろん俺に拒否権は無さそうだった。本当はやりたくはない⋯⋯。
「⋯⋯はい」
坂本さんに防具を付けさせられ、竹刀を持った俺は坂本さんと向かい合う形になった。防具があるとはいえ、いざ目の前に立ってみると風格が違う。坂本さんが面越しにこちらをしっかりと見ていることが容易に想像出来た。
「じゃあ、早速始めようか」
「⋯⋯はい」
向こうは動く様子が全くない。ルールは知らないが、ここで俺が突っ込むとは思ってないだろう。だからそれが得策⋯⋯? いや、ここで突っ込むと避けられるか⋯⋯。だったらこちらも動かずに⋯⋯
「⋯⋯っ!?」
「面!」
向こうが動いてきた。咄嗟に右足を軸に身体を九十度捻り避けようとしたが、間に合わずに思いっきり面を食らった。何となく面を取られると負けるというのは知っていたので俺が負けたはずなのに、坂本さんは竹刀を構えている。
「⋯⋯あの、俺の負けでは?」
「ルール上はそうだけど、あくまで体力づくりだから君の体力がもつあいだは続けるよ」
パッと見、四十代のおっさんなのだから若い人よりも体力があるとは思えない。体力づくりならひたすら突っ込んでやろう。
全力で走り込んで面を⋯⋯いや、せめて身体のどこかに当てたい⋯⋯。しかし坂本さんはひょいひょいと躱していく。体力がそろそろ限界だ。動く速度がだんだんと落ちてきて、竹刀が大ぶりになる。
「もう限界かい?」
ここで音を上げるのは悔しいが、これ以上やっても勝ち目はない。でも、ここで音を上げることは俺のプライドが許さないのだ。俺にとって一番捨てなければいけないプライドが⋯⋯。
「⋯⋯まだまだ!」
「そうでなくちゃ、面白くないからね」
どうせ、憎たらしい笑顔でこちらを見ているのだろう。この人に面をくらわしてやりたい。
「でも、どうせ疲れているんだからやめときなさいな」
「⋯⋯いや、まだまだ!」
すると、坂本さんのオーラが先程とは全く違う。先程よりも研ぎ澄まされた意識で隙がない。「まさか、本気で来るのか⋯⋯?」と身構えたが、彼が指示したのはそれよりも俺にとって残酷なことをであった。
「走ってきてください」
「⋯⋯はい?」
「外を走ってきてください」
「⋯⋯え?」
「そ!・と!・を!⋯⋯(以下略)」
「いや、言っていることはわかりますけど何故⋯⋯?」
「圧倒的に体力不足だからです」
今までコンビニへ行く時くらいしか体を動かさなかった俺に、返す言葉はなかった。
防具を外し、剣道場から外に出た俺達。準備体操を軽く済ますと坂本さんはすぐに走り出した。警視正なのに、普通の若者と同じくらい⋯⋯いや、それよりも速く走っていく坂本さんは、俺と同じ人間だと思えない。ゴリラ⋯⋯? 否、彼は化け物だ。
あっという間に見えなくなった坂本さんは、知らないうちに俺の背後から肩をトンッと叩いてきた。
「もし、走り切れたら今日の体力作りはおしまいにしてあげますから、頑張ってくださいね」
「⋯⋯っ!?」
おしまいという言葉が俺には天国への合言葉のように思えた。これで終わりにできれば⋯⋯終わりにできれば⋯⋯
────俺はそこまで体力が無い。
俺はすぐにその答えに行き着いた。天国に行けないなんて⋯⋯この人鬼じゃん。絶対、化け物の中でも鬼か魔王だろう。どうせ走らされるのに変わらないが、どれだけの時間を費やすことになるのかこの人は、分かっているのだろうか。
「あ、リミットは二時間ですからね?」
「え⋯⋯出来ないです」
「出来ないではなく、やるんです。自分のペースでゆっくりで構いませんから。まぁ2時間経っても、ゴールするまでは走ってもらいますけど」
もちろん走る以外の選択肢はないので従うが、準備体操を念入りにやらせてもらう時間だけはもらった。
「準備はいいですか? 行きますよ?」
「は、はい⋯⋯大丈夫です」
「それじゃあ、スタート!」の明るくて楽しい⋯⋯いや、地獄の始まりを意味する号令と共に俺達は走り始めた。
しかし────
────走れるわけがなかった。
なんせ三年近く体を動かしてないからだ。全く走れなかった訳では無いが、二歩目を踏み出しただけで息が乱れ始め、百メートルすら同じ速度で走りきれない。足がだんだんと鉛のように重くなってきた。大気が自分の体の熱を奪っていく。だんだんと眠くなってきて⋯⋯おやすみなさい⋯⋯。
ドタン────
「佐木君⋯⋯? 佐木君⋯⋯!」
その声が聴こえたのを最後に俺の視界はブラックアウト⋯⋯いや、正確にはホワイトアウトかもしれない。目の前が真っ白になった。目が覚めたのは外が暗くなった後⋯⋯日向が俺を呼んでいる声が聞こえた時だった。
何故か消毒液のような匂いのする部屋に寝ている俺。何があったのかわからなかったが、段々と目や耳が元に戻り、感覚が戻ってくると、日向の声が聞こえた。
「お兄ちゃん!」
「日向⋯⋯?」
「香織くん、体調はどうだい?」
その声をかけてきたのは、白くて半袖のTシャツをきた男の人。あれ⋯⋯? 白衣は着ていなくて、白い半袖ということは看護師さん⋯⋯?
「あ、俺、ちゃんと医師免許持ってるよ?」
「ほぉ⋯⋯」
本当に申し訳ないけど、ここにいる時くらい白衣着てよ⋯⋯手術室にずっと居たわけじゃないんでしょ⋯⋯分かりにくいじゃん⋯⋯。ただ、現在の時間は午後6時である。医師なのに何故こんな所にいるのだろうか。
「診察はないんですか?」
「あぁ⋯⋯診察ね。俺、昨日の当直だったから今日の午後は休みなんだよ」
「それって、昨日からずっと起きてるんじゃ⋯⋯」
「うん。そうだねぇ? もしかしたら君に投与した薬間違えてるかもねぇ」
「⋯⋯え? 本当ですか⋯⋯?」
「マジマジ」
「何を言っとるんだ、そこの大出世した外科部長」
この声は幸島さんの声⋯⋯てか、この人こんな格好なのに外科部長なの!? 明らかにまだ若い感じがするのに⋯⋯この人の周りはよくわからない。
「幸島さん、冗談に決まってるでしょ⋯⋯」
「俺の後継者を殺したら呪うからな?」
「うげっ⋯⋯本当にやりそうだから怖いわ」
「もちろん、本当にやるつもりだぞ?」
「だから、大丈夫って言ってるじゃないですか⋯⋯」
この二人の会話に一番反応したのはもちろん俺だったが、出る幕はなかった⋯⋯。「患者である俺の前でよくこんなにひどい冗談を言えるな⋯⋯」と怒り六割呆れ四割の感情が俺の中に存在している。ここで何を言っても話が収束しない気がしたので何も言わずに見ていただけだった。しかし、この二人の話は中々終わらず面会終了時刻ギリギリまで続くことになる。
「先生⋯⋯?」
看護師さんの呼びかけに気づかない二人。看護師さんも下手に言えないようでなんとも表現しがたい動きをしている。
「あの⋯⋯」
やっぱり気づかない。さすがに規則まで破るのはこの人達の
「何?」「どっか痛いの?」
「いや⋯⋯そうじゃなくて⋯⋯看護師さんが⋯⋯」
「まだ面会時間終わってないでしょ?」
自称お医者さん(本物)、残念! とっくに過ぎてるんだよな⋯⋯。
「⋯⋯」
「⋯⋯え? 超えてるの⋯⋯?」
「⋯⋯言い難いのですが、まぁ」
「今すぐに消えますから、許してください」
「は、はぁ⋯⋯?」
幸島さんは白い引戸を開き振り向いた。入院した人が見舞いに来てくれた人を送る時にはこんな感じなんだ⋯⋯少し寂しい。でも、それを言い出すことは出来ない我儘を今考えている。タダでさえこんな俺を理解しようとしてくれているのに⋯⋯。
「じゃあ、明日も来るから佐木くん何か欲しいものあるかな?」
「いや、無いですけど⋯⋯」
「そうかい、こんな時くらい
「は⋯⋯はぁ⋯⋯ありがとうございます⋯⋯?」
流石にこの人には言えるわけがない。幸島さんは「なんか欲しいものでも考えといて」と言った後、そのまま部屋を出ていった。
一つだけ疑問を残して────
────俺って家に帰れないの⋯⋯?
「あ、言い忘れてたけど⋯⋯一応、今晩は泊まって貰うから」
「あ、はい」
まぁ薄々気づいていたのだけど。この時に、俺の不幸はさらに続くことになると知っていたのは神様しか居なかった。
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