1-2 第八話 香織、逃げ出す
入院してからしばらく経ち、消灯時間になり、電気が消えたのだが寝付けなかった俺は、スマホの電源を入れた。思っていたよりもスマホの光が眩しく、目が少し痛くなったが、イヤホンで動画を見ることにしよう。俺は動画サイトを開いた。
するとのような固めのお菓子を食べている音が、イヤホンをつけていた俺でさえ聞こえた。慌ててスマホを布団の中に隠し、寝たふりをしていると上眼瞼と下眼瞼の小さな隙間から太陽の光が入ってきたかと思えば、朝ごはんが届く。
どうやら、気づかないうちに寝てしまっていたようだ。
「おはよう、佐木君。今日で退院だから準備しておいてね」
「はい、分かりました。それで……ちょっと……」
「なに?」
「……昨日なんですけど」
その途端、ヘリのプロペラ音が病室内に響いてしまい、全く聞こえなかったようだ。もう一度言おうとしたが、なんか慌ただしい。多分、急患だろう。流石に中学生の俺が、看護師さんを引き留めるのは恥ずかしい。しかも、こんなくだらない話で。もちろん、俺がそんなことを言う時間はないわけで、「ちょっとごめんね。行かないといけないから、また後でね」と小走りで行ってしまった。すると、隣の中学生が泣きそうな顔をして、こちらに忍び寄ってくる。何かと思えば、昨日の夜の話だったようだ。
「……お兄ちゃん、昨日のことは内緒にしてくれない? ヨーグルトあげるから」
「いや、ヨーグルトは大丈夫。君が食べな。内緒にしといてあげるから」
「ホントに!? ありがとう!」
今日で退院だからヨーグルトなんてどうでも良い。朝食を食べ終わるころに幸島さんが来た。
「おはよう、体調は大丈夫……そうだね」
「はい、おかげさまで」
「あ、幸島さん。今、先生呼んできますね」
「あぁ。ありがとさん」
「え? 先生のことが憎いって言っていませんでしたっけ?」
「確かにあいつは憎いけど、一応礼はしておく」
「あ、そうなんですね」
「一応、お前の担当医だったわけだし」
俺が言える立場ではないが、彼らは意外と仲がいいのかもしれない。紙袋の中にはちょっとしたお菓子とかも入っていたから、多分先生へのお礼だろう。きっとどこかの院長みたいに饅頭の下のとあるものは入っていないと思うが……。
「香織くん、おはよう。」
「おはようございま……」
「こ……幸島さんまでいたんですか」
「なんだ、悪かったか?」
「はい、もちろん」
また面倒なことになりそうな予感がしてきた俺は病室からこっそりと出た。ナースステーションの前を通り抜けて、病院から出る。まったく日がたっていないのに、久しぶりに外に出たような気がする。以前と違うのは、俺の体温が保たれていることだ。もちろん体に筋肉がついたのもそうだが、それ以上に心の変化が大きかったに違いない。
「あれ? お兄ちゃん、なんでこんなところにいるのよ」
どこかで聞いたことのある声だった。そちらを見ると、日向くらいの女性が俺のほうを凝視している。
「日向……なのか?」
「何寝ぼけたこと言ってるのよ」
別に寝ぼけたことを言っているわけではない。日向のことを、呼ばれるまで他人だと思っていたのだから。女性が化粧をすると化けるのはどうやら本当のようである。
「お兄ちゃん? 本当に寝ぼけているわけじゃ……ないわよね?」
「……え? いや、寝ぼけてはないけど……」
「なら何なのよ?」
「ひ……日向もおしゃれするんだなって……」
日向の表情が凍った。これは、地雷を踏んでしまったようである。
「し、失礼な……! 私だって、おしゃれくらいするわよ!?」
今まで全く目につかなかった沢田さんが茶々を入れる。
「そ、そうよ! 日向ちゃんだって、女の子なんだから!」
「あ……沢田さんもいたんですか」
「ずっと隣にいたじゃない!」
「全く気付かなかったです」
「もうちょっと、言い訳してくれないですかね……?」
仕方ない。あの技を使う時だ。
秘儀!
「モチロンキヅイテイマシタヨー」
「棒読み感が半端ない……」
「だって棒読みですし」
「もういいや。で、幸島さんは?」
「いま、ここの院長とけんかしてます」
「相変わらずね……」
「とりあえず荷物だけ車に積んじゃいましょう……って、荷物は?」
「……病室です」
これ、恥ずかしいやつじゃん。日向から軽蔑の視線を感じるし……。
「なんで、わざわざ出てきたのに荷物を持ってこないのよ。すぐに取りに戻れば?」
「いや……それはだな」
俺の言いたいことを沢田さんが代弁してくれた。
「本当は香織くんに持ってきてもらうべきなんだろうけど、さすがにあの人たちの中に戻すのもねぇ……」
その通りだ。脱走がばれたら何をしてくるかわからないのがあの人たちである。ここでどの行動をするかで、俺の人生が大きく変わってくるのだ。
「このまま逃げれば?」
「日向ちゃん……? 何を考えてるの……?!」
「いや、別に着替えくらいならうちにまだありますし……」
いや、そうだけどさ? 確かに着替えはあるけどさ? でも、あの中には……
「日向……ちょっとそれは……。だって、あの中には……」
「スウェットぐらいしか入ってないんでしょ?」
「スウェットぐらいって言うなよ……」
「しかも、安物だし」
「いや、そうなんだけど……」
「まぁいいわ。私がとってくるから」
沢田さんがそう言って、病院の中に入っていった。きっと沢田さんならばれないで持ってきてくれるはずだろう。沢田さんが見えなくなると、日向が俺に抱きついてきた。
「日向?」
「何でもない……っ」
そういいながら、歔欷している。俺はこんな時はどうすればいいのか思い出すことで精いっぱいだった。そっと何かをしてあげられれば良かったのかもしれないが、その「何か」がとっさに思い出せない。俺は、何とか思い出した言葉をかけた。
「大丈夫か?」
「こんな時くらい、別の言葉かけられないの?」
「化粧、崩れるんじゃない?」
「なんで、そうなるのよ……。確かに崩れるけど。雰囲気ぶち壊しじゃない」
若干、日向の俺好感度が下がった気がするが、多分まだ大丈夫だろう。
「お待たせ。じゃあ、行こうか。香織くん、日向ちゃん」
「どこへ……?」
「どこも何も、あの場所に決まってるでしょ?」
あの場所って言われてもわからないしなぁ……。沢田さんたちのことだからろくでもない場所に連れていかれそうだし……。
「まぁ、とりあえず乗って」
「はぁ……」
「露骨な溜息とかしてたら、罰ゲームだからネ?」
聞こえないようにしていたはずなのに、聞こえていたのか。それとも、ただの勘なのだろうか。それは全く分からないが、俺の身に危険が及ぶような場所には行かないはず……と信じたい。
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