第6章 優樹、海里と好きな人について話す(前編)

 海里の新しいスマホ選びは、約束してからだいぶ経った、10月のある土日になった。

 優樹は土日祝日が休みだから、いつでも一緒に行けますよオーラを出していたのだけれど、海里の方はバイトを掛け持ちしているから、2人の休みがなかなか合わなかった。


 Androidを使っていた海里は、アプリやデータを残すために、同じAndroidの新機種から探したいということだった。

 最初は、土曜日に家電量販店に買いに行くはずだった。海里の家の近くにあるコンビニで待ち合わせて、2人で駅に向かったところまではよかったが、

「機種変って結構大変ですよね。事前の準備にも時間かかっちゃうし」

「え?」

「『えっ?』って?」

「え?」

「え?」

 顔を見合わせる。

「準備、何かいるの?」

「LINEのアカウントとか、ゲームのセーブデータとか、引き継ぎ、しないですか?」

「引き継ぎ……? 新しいスマホにデータを移せるってこと?」

「そうですよ! 今までどうしてたんですか!」

「何も……LINE使い始めたの、今のを買ってからだし、ゲームのデータは消えるのがふつうだと思ってたんだけど……」


 そういうわけで、2人でいったん海里の自宅に戻り、アプリをひとつひとつ調べて、データ移行の設定をする羽目になった。

 海里はコンビニのすぐ裏にある、真新しいアパートに住んでいた。

「お、お邪魔します……」

 優樹はそれとなく部屋を観察した。

 木目調のフローリングが敷かれたワンルーム。

 中央にはシンプルなテーブルと椅子が置かれている。

 壁際には背の高さほどのスチールラックが置かれていて、その中央にはテレビが載せてあり、テレビの上下には本が並んでいた。

 振り返ると、木のハシゴが上に続いていた。

「もしかして、ロフトですかこれ」

「そう。いいでしょ」

「やっぱりロフトで寝てるんですか」

「うん。でも、やってみてわかったけど、夏は熱気がこもりがちで暑いよ。ロフト」

 キッチンにいた海里が、湯気の立ったコーヒーを持って部屋に戻ってきた。

 そこから、2人並んで海里のスマホを覗き込み、アプリを1つずつ開いて、引き継ぎの設定を済ませていった。


 しかし、開始の時間が遅すぎた。

 だいたい終わった頃には、すっかり夜になっていた。

「間に合いませんでしたね……」

 呆然とする優樹に対して、海里は特に気にしない様子で、

「明日になっちゃうかー。優樹は明日空いてる?」

「大丈夫です」

「ほんと? 無理してとかじゃない?」

「大丈夫です」

「じゃぁ、今日泊まってもらって、明日朝一番で店に行こうか」

「大じょ……えっ!?」

「ダメ?」

 海里がどういう心持ちで言っているのか、さっぱりわからず、優樹は真顔で海里を見た。

 ところが、海里の方も真顔で優樹を見つめていて、表情からは何も読み取れない。

「大丈夫です……」

「よかった。じゃぁ、準備するね」

 引き継ぎの準備はさっぱりだったのに、泊りの準備は手慣れているんだなと優樹は思った。

 あっという間に予備の布団やタオルが用意された。

「普段着てるやつで申し訳ないけど」

 といってTシャツとジャージが渡されたところで、

「下着だけどさ」

「あっ、買ってきます! 大丈夫です! 行ってきます!」

 海里の返事を待たずに、財布をつかんで外に飛び出した。

 今の自分には落ち着く時間が必要だ。


 表のコンビニに入ったあたりで、LINEで海里からのメッセージが届いた。

「ん……『アイス買ってきて』か。海里さんどんなのが好きなんだろ。というか……」

 アイスの品揃えを物色しながら、優樹は考えていた。

 自分はなんで海里の家に泊まることを承諾したのだろうか。

 10分も歩けば、優樹自身の部屋に帰宅することもできるのに。

 海里に言われたからというのは、表面上の理由だ。

 いったん帰って明日また来ますよと言わなかったのはなぜなのか。

 いや、改めて考えるまでもない。

 これまで明確にそうと意識したことはなかったけど、自分は海里のことを……。


「買ってきましたー!」

 優樹が戻ると、海里は部屋にいなかった。

「おかえりー。お客様、お湯が沸いてございます」

 笑いを含んだ声が後ろから聞こえて、振り返るとすでに風呂上がりの海里がいた。

 優樹が借りたのと似たようなジャージを着ていて、湿った髪から湯気が立ち上っている。

「あ、ありがとうございます。アイス、これでいいですか」

「おー、いい、いい。好きなんだ、これ」

 冷蔵庫にアイスをしまい部屋に戻っていく海里を見送って、まだあたりに湯気が漂っていないか確かめるように、しばらく立ち尽くした。


 夕飯は、宅配ピザを頼んだ。

 8ピースに切れていて、4種類の具が2ピースずつ乗っているタイプだ。

 海里の部屋にはびっくりするほど食べるものがなかったのだ。

「ごめん、いつも買い物は後回しにしちゃいがちでさ」

「スーパーで働いてるのに……」

「それは言うな!」

 珍しく恥ずかしそうにしている海里を見て、優樹はいいものを見たと思った。


 Mサイズのピザを2人で食べながら、海里が聞いた。

「そういえばさ、昨日の夜、新しいスマホどれにしようかと思ってネットで調べてたらさ」

「はい」

「root化っていうのをするといいって書いてたブログがあったんだけど、あれはどういうの?」

「む……」

「なんか渋い表情だね」

 かじりかけのピザを手に持ったまま、優樹は考え込んだ。

「root化は、その、人によるというか……」

「人による?」

「そうですね。実際にroot化して楽しく過ごせてる人もいるんですけど、個人的には、ちょっと危ないかなと思ってて……」

「危ないって? 壊れるとか?」

「そうとは限らないんですけど……これもちょっと説明が長くなりますよ」

「大丈夫。このまま寝られるんだし」

「それじゃお言葉に甘えて……」


 考えながらピザを一口食べ、飲み込むと続きを話し始めた。

「スマホのアプリって、世界中でいろんな人が作ってるじゃないですか」

「そうらしいね」

「だから、アプリがちゃんとできてなくて、何かの拍子に変な動きをするかもしれないし、なんなら悪い人がいて、スマホを壊したり、個人情報を盗んでいくようなアプリを作ろうとするかもしれない」

「うー、まあそうだね」

「でも、アプリなんて怖くて入れられない、みんなアプリ使うのやめようぜってことになると、せっかくのスマホが無駄になりますよね」

「そうだねえ。買ったときから入っているアプリしか使わなくなるだろうね」

「なので、スマホには、万が一そういうダメなアプリがあっても、スマホ本体や他のアプリにダメージがいかないように、防御する仕組みがあるんです。サンドボックスって言うんですけど」

「サンドボックス?」

「砂場って意味です」

「砂場って、あの公園とかにある砂場?」

「あの砂場です。子どもを外で遊ばせるとき、『この砂場の中だったら好きに遊んでていいよ。でも砂場から出たらダメだよ』ってしたら、まぁだいたい安全ですよね」

「そうだね」

「それと同じように、アプリを動かすときに、『ここまでは好きに動いていいよ。でもその外には触らせないよ』っていう仕組みを用意することで、変なアプリをインストールしちゃっても問題起きないようにするんです」

「ふうん?」

「何をしてよくて、何をしちゃダメにするかは、AndroidとiOSでそれぞれ色々決まってるんですけど、どっちでも『AndroidやiOSのシステム本体を変更しちゃう』とか『他のアプリ用のデータを勝手に覗いたり書き換えたりしちゃう』のは、ダメなことリストに入ってます」

「無理矢理やろうとしても、悪いことは全然できないってこと?」

「そうです。基本的には……」

「歯切れが悪いね」

「話的にもそうなんですけど、これ、食べてもらってもいいですか?」

「え、ピザの話?」

「イカ、食べられないんですよ……」

「注文する前に言えばよかったのに!」

「だって、海里さんがイカ好きそうだったから……」

「別に、何が何でもイカないとってわけじゃないよ」

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