第2章 優樹、海里とナンパ男について話す(前編)
(つ、疲れたーっ)
優樹が会社を出たのは、夜の8時半を超えたあたりだった。
通用口から外に出て夜空を見上げると、急に空腹を感じた。
思い出してみると、自宅の冷蔵庫はほとんど空だったはずだ。何か買って帰らないと。
でも、今から帰ると、自宅近くのスーパーは閉店時間を過ぎてしまいそうだ。
しょうがない。会社から駅までの近所にある、別のスーパーに寄ってみるほかなさそうだ。
買い物袋を持って帰りの電車に乗るのは、少し恥ずかしいけど。
食材をいくつかと弁当をカゴに入れ、会計に向かった優樹は驚かされることになった。
「こ、こんばんは……」
レジに立っていたのは、海里だった。
「あれ? この近所住みだったんだ」
「いえ、うちは平和島です。会社がこの近くで」
「あぁ、そうか。この前の電車もそうだもんな」
「それじゃ、これから帰るところ?」
「はい」
「……よかったらさ、一緒に電車で帰らない? あと10分で閉店になるから」
「閉店した後って、なんかこう、後始末みたいなのがあるんじゃ?」
「大丈夫。じゃぁ、店の前に駐車場あるじゃん。そこで待っててくれる?」
「はい!」
優樹が色々考えながら待っていると、9時を過ぎて入口が締め切られてすぐに、店の裏手から、バックパックを背負った海里が出てきた。
「ごめん、待たせたね」
「いえいえ」
「この前大丈夫だった?」
「おかげさまで」
「会うの2回目だし、連絡先交換しない?」
優樹はドキッとした。海里を待っている間、どう切り出せば連絡先を交換できるかばかり考えていた。
「お願いします」
「……優樹っていうんだ。いい名前だね」
「海里さんこそ」
「そうかな。自分じゃあんまり好きじゃないんだけど」
「ええっ。好きですよ。カッコいいじゃないですか」
海里が少しだけ照れて笑ったので、優樹もまるで何か重大なことを言ったような気分がして黙り込んだ。
たわいもない話をしながらスーパーから10分ほど歩いたところで、駅に着いた。
並んで改札を通りながら、海里が言う。
「コンピュータの会社も、残業多くて大変そうだね」
「いやあ、会社によると思います」
ため息交じりで答えた優樹を見ながら、海里が少し考え込んでから言った。
「またスマホのこと聞いてもいいかな」
優樹が頷くと、
「最近、人に勧められてアプリを入れてみようとしたらさ、空き容量が足りないとかって出て、入れられなかったんだよね」
「人に……」
どんな人がどんなアプリを海里に勧めたのかを、優樹は一瞬考えた。
海里にどんな交友関係があって、どんなアプリを勧めると喜ぶのか、自分にはわからない。まだ2回話しただけだから、当たり前のことだけれど。
なんとなくモヤっとした気持ちを感じて、それを振り切って海里を見た。
「何か消せば空き容量が増えるって言われて、とりあえずアプリをいくつか消してみたんだけど、やっぱりダメでさ。こういうのって、どうしたらいいのかな」
「設定アプリから、確認できると思いますよ」
「設定……設定……これか。使ったことないな」
スマホの画面には設定項目の一覧が表示されたが、そこで手が止まった。
「これ、どれ選べばいいんだろ」
「この中だと……下の方にあるこれですね。で、ここを選んで……ここに、何にどれくらい使っているのか出てますよ」
・ドキュメント 24.2MB
・画像 18.5MB
・オーディオ 808MB
・動画 3.84MB
・アプリケーション 13.4GB
海里は少し考えて言った。
「オーディオが808MBで一番多いな。オーディオってことは音楽入れすぎってことか」
「違いますよ。一番使ってるのはアプリケーション……アプリです」
「なんで? 13.4しか使ってないじゃん」
「後ろに、『MB』とか『GB』とかついてると思うんですけど」
「えっ? あっ、ほんとだ。アプリだけGBで、他はMBって書いてある」
「この前、コンピュータの中ではマスみたいなものでデータを表してるって話したの、覚えてます?」
「覚えてるよ。確か……1マスに200くらいまで数が入って、その数で文字を表してるとかってことだったよな」
「そうです。で、その1マスのことを『バイト』って言うんですけど、この画面に出てる『B』は『バイト』の略です」
「あぁ。なんか聞き覚えがあるな、バイト」
「それで……1000mのことを1kmっていうのと同じで、1000バイトのことを1KBって書いてキロバイトって読むんですけど、もっと大きくなると、100万バイトは1MBと書いてメガバイト、10億バイトは1GBと書いてギガバイトって言うんです」
「つまり、1MBだと100万マス分で、1GBだと10億マスってこと?」
「そうです! この端末はストレージが32ギガバイト……つまりデータを保存するためのマス目が320億マスくらいあるんですけど」
「320億……」
「そのうち、さっき見たオーディオの808MBは8億800万マスくらい、アプリは134億マスくらい使ってるってことですよ」
「なんか数字が大きくてピンとこないけど、320億のうち134億ってことは、半分近くはアプリで埋まってるってことか」
「そうなりますね。空き容量っていうのはまだ使ってなくて空いてるマスのことなので、要らないアプリを消すのが一番効果大きいと思います」
「要らないアプリかぁ。最近使ってないやつだと、この買い物メモとかかなぁ」
「買い物メモですか。うーん。遊んでないゲームとかないですか? それもできるだけ大作っぽいやつ」
「大作っぽいって?」
「なんだろ、有名な会社が出しているような、キャラがたくさん出てきたり、ガチャが派手だったりするようなやつです」
「そういうのもあるけど……買い物メモはダメなの?」
「ダメじゃないんですけど、たぶんそれ消してもあんまり空きが増えないと思うんですよ」
「なんで?」
「買い物メモみたいな簡単なアプリだと、単純なつくりなので、何MBとか、言っても数十MBくらいなんですよ」
「えぇと、100万マスとか1000万マスとか? 結構多く聞こえるけど」
「でも、大きめのゲームアプリだと、数百MBとか、数GBとかあることが多いんですよ」
「桁が違うな。でも、なんでそんなに?」
「そうですね……また長くなりますけど……」
「いいよ。まだ電車も来ないし」
ホームには帰宅中のサラリーマンや学生がぞろぞろ集まっていたが、優樹が見上げると、天井から吊り下げられた“電車が来ます”のランプは消えたままだった。
海里の顔を見ながら、優樹は説明を続けることにした。
「この前、マス目に文字を入れていくみたいな話をしたじゃないですか」
「したねえ」
「マス目に入れる文章が多くなるほど、マス目を多く使うのはわかりますか」
「さすがにわかるよ」
「えへへ……すみません。それで、ゲームで出てくるキャラとか背景とかその他諸々の画像のデータとか、後ろでかかってるBGMとかのデータも、それだけ多くマス目が埋まっちゃうんですよね」
「ふうん?」
「例えばですけど、ゲームのアプリを最初に立ち上げると、一枚絵が出たりするじゃないですか。タイトルのロゴとか、主人公とかが描いてあるやつ」
「あー、あるね」
「あれ1枚でどれくらいの何十万バイトとか何百万バイトとかになっちゃうんです」
「多いな!」
「ところで……窓文字って知ってますか」
「窓文字? 寒くて窓が曇ってるときに、指で字を書くやつ?」
「あー! あれ、楽しいんですよね。ついつい字とか絵とか落書きしちゃって」
「普通に似顔絵描いたのに、水が垂れてきて、泣いてるみたいになっちゃったりするんだよな」
「そうそう……って違いますよ! 窓文字っていうのはあれですよ。窓の明かりを部屋ごとに点けたり消したりして、外から見ると絵になってるやつです」
「あぁ、ニュースか何かで見たかもしれない」
「あれは、縦何階かのビルで、1階ごとにいくつか窓があって、それぞれの窓ごとに、明かりを点けて白にするか、消して黒にするか決めて、ひとつの絵にするわけですけど、スマホとかの画面も、だいたい同じような仕組みなんです」
「ふうん?」
「例えば海里さんのスマホだと、縦に1920個、横に1080個、色を並べることができます」
「この画面に、そんなに?」
海里がスマホの画面をまじまじと見つめた。
「しかも、それぞれに、白や黒だけじゃなくて、『濃い赤』とか『薄い青にちょっとだけ緑が混ざった色』みたいに細かい色が選べるんです。だいたい1678万色の中から」
「また多いな……」
「それで、ひとつの点ごとに3バイトか4バイトくらいかかっちゃいます」
「ざっくり計算してみると、縦2000×横1000で、点の数が200万個。×4だとすると、800万バイト。コンピュータの中のマスを800万マス埋めちゃうってことか」
「そういう画像が、キャラごととか、背景ごとにあるわけですからね。まぁ絵にも大きい小さいがあるから、全部が全部そんなに使うわけじゃないですけど」
海里が一瞬考えて尋ねた。
「さっきさ、絵の1枚で何十万とか何百万とかになるって言ってたのは、絵の大きさが色々あるからってことか」
「そうですね、あとは圧縮かけて小さくするとか……」
「圧縮?」
海里がわずかに眉をひそめた。
それはほんの少しの変化だったけれど、優樹は気づいて不思議に思った。
海里の顔はいつも整っていて、崩れるのはレアだ。
「何か……?」
「あ、いや。スーパー業界も最近はお金がないからさ。休憩時間なんかに、社員がよく言ってるんだよね。『人件費を圧縮しないと』とかさ」
「それは『人件費のうち不要な分を削減しよう』みたいなことですよね」
「うん」
「海里さんは絶対大丈夫ですよ。不要じゃないです。必要な人です」
海里が何かを言いかけたとき、電車がホームに滑り込んで来た。パラパラと人が降りた後、ホームで待っていた客たちが乗り込んで行く。
優樹と海里は車内の空いている場所を探そうとしたが、後ろから乗って来た客に背中を押されて奥に押し込まれた結果、隣の車両との連結部にあるドアのところまで追いやられた。
海里がドアを背にして、その前に向かい合わせで優樹が立った。
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