第1章 優樹、海里とシンクロについて話す(前編)

 暑い。暑い。暑い。


 車内の気温は一向に下がる気配がなく、優樹はだんだんぼおっとしてきた。

 中学生の頃、修学旅行で行った山奥の温泉を思い出す。

 調子に乗って長湯した結果、見事にのぼせてしまった。

 部屋に戻ってしばらく、窓際の椅子に腰掛けて冷まさなければならなかった。

 なのに、どういうわけかそれをきっかけに温泉での長湯にハマってしまい、高校の修学旅行でも、大学の合宿でも、何十分も風呂から出なかった。

 一度やろうと決めてしまうと、どうも途中でやめられない性分なのだ。


 いや、いけない。今いるのは温泉ではなく電車の中だ。

 そう思ったけど、前にも横にも後ろにも人がひしめいている車内では、一度抱えた熱を逃がす余裕もない。

 優樹はますます意識が遠のくように感じた。呼吸も荒くなってきた。

 倒れないようにまっすぐ立っていようとするけれど、ちょっと足を動かせばとなりの人の足を踏んでしまいそうで、まともな体勢が取れない。

 気づかないうちに、目の前に立っていた“ツナギ先輩”に、正面からもたれかかってしまっていた。

 抱きつくような姿勢になっていて、周りの乗客がいぶかしげに見ていたけど、優樹は気づかない。

 寄りかかられた“ツナギ先輩”も、何事もないかのように立ち続けている。


 電車がようやく次の駅に着いた。

 優樹の目の前のドアが開いたとたん、車内から大勢の人がホームへ降り出した。

 優樹自身はもっと先の駅まで行くのだけれど、なにせ数十人が電車を降りようとするところに立っていたわけで、優樹も一度ホームに降りた。

 入れ替わりに、ホームで待っていた人たちの列が、ドアの左右から電車に乗り込んで行く。

 優樹もその後に続いてまた乗るつもりだったけれど、気がついたときにはすでに車内は満杯で、優樹が乗る余地はなさそうだった。

 別のドアから乗れないかと思って周りを見渡しているうちに、

「駆け込み乗車はおやめください。発車致します」

 というアナウンスが流れた。


 プシュウ。

 気の抜けた音を発しながら、ドアは目の前で閉まり、電車は行ってしまった。

 脱力感に襲われながらもう一度あたりを見回すと、もう1人あぶれていたらしいことに気づいた。例の“ツナギ先輩”だった。

 2人は目を見合わせて苦笑した。そして、車内での優樹の様子を見かねたのか、

「ちょっと休まない?」

 次の電車はすぐ来るはずで、今すぐ列に並べば、たいして遅れずに会社に着けるはずだけれど……確かに、すこし落ち着きたい。


 優樹はうなずくと、“ツナギ先輩”はホームの自動販売機でミネラルウォーターを2本買ってきて、1本を優樹にくれた。

 相変わらず電車はひっきりなしにやってきて、その都度大量の人が降りて、また大量の人を乗せて行った。

 2人は空きスペースを求めてホームの端に移動し、ミネラルウォーターで喉を潤した。

「だいぶヘロヘロになってたみたいだけど」

“ツナギ先輩”が笑いながら行った。

「よっかかっちゃって、すみません」

「いいよ。困ったときはお互い様って言うし。名前、なんていうの」

「畑中です。畑中優樹」

「優樹か」

「えーと……海里さん、ですよね」

「なんで知ってるの」

「あ。えぇと、さっきの電車、人がたくさん乗ってくる前は、海里さん、ドアの方を向いてLINEしてましたよね」

「見えちゃってたのか」

「あああ、その、覗こうと思ったわけじゃないんですけど、あの、見えちゃって」

「うん、うん、いいよ、わかったから落ち着いて。顔真っ赤になってるよ」

 言われて優樹の顔はさらに赤くなった。

「電車の中ではやめた方がいいのかな。普段はLINE使ってないんだけどね。今付き合ってる人と連絡するために必要でね」

「そうですか……」

「やっぱダメかな?」

「あ、いや、そうじゃなくて。付き合ってる人いるの、いいなと思って」

「いないんだ?」

「いないっていうか、いたことないです」

「そんなに暗い顔しなくても。これからいくらでもできるでしょ」

「そうかなぁ」


「仕事、何してる人?」

「システムエンジニアです」

「シス……」

「コンピュータ関係です」

「そうなんだ。ごめんね、全然詳しくなくて」

「いえ、それがふつうだと思います」

「スマホとかも詳しいの?」

「ちょっとは」

「……そういえばさ。これ聞いてもいいかな」

「はい」

「これ、聞いてもいいかな。この前、メールで絵文字送ったら絵が変わっちゃったんだけど、あれなんなの」

 海里が自分のスマホを取り出して、画面を見せてきた。

「この、シンクロナイズドスイミングしてる絵文字あるでしょ。これをいくつも並べると……」

「おおっ。絵文字の水の部分がつながって、プールに何人も並んでるみたいになるんですね」

「そう。だけど、他の人に送ったら、水が切れちゃって」

「うーん」


「たぶん、送った相手は、違う機種じゃなかったですか?」

「そうだね。これはAndroidのだけど、相手はiPhoneだったと思う」

「じゃぁそのせいですね。AndroidとiPhoneでは、絵が違うというか……」

「絵が違う? 絵は、送ってるんじゃないの?」

「そこはその……説明、下手なんです。順を追って話してもいいですか」

 海里は駅の時計を見やってから、うなづいた。

「いいよ」


 優樹も覚悟を決めて、考えながら話し始めた。

「まず、スマホもパソコンも、コンピュータの仲間なんですけど、そこはいいですか」

「そうなの? コンピュータとパソコンって同じものじゃないの?」

「コンピュータっていうのが大きい分け方で、その中にパソコンとかスマホがあるんですよ」

「ううん?」

「ノートパソコンってあるじゃないですか。あれのキーボードをなくして、画面をタッチ操作できるようにして、すごく小さくしたら、スマホになりますよね?」

「うん? そう……かな?」

「あと、ゲーム機もそうですね。ゲーム機、何か持ってます?」

「あんまりしないんだよな、ゲーム。あ、でも、子どもの頃はPSPで遊んでたよ」

「だいぶ前ですね……まぁ、ともかく。PSPもスマホも、後からゲーム買ってきたりアプリを入れたりできるじゃないですか」

「パソコンもそうなんだっけ?」

「そうですよ。画面の見た目とか、細かい使い方とかはそれぞれ違いますけど、仕組みは同じなんですよ」

「なるほどね。感じはちょっとわかってきたかな。スマホもパソコンもゲーム機も、コンピュータって種類なんだね」

「はい」


 次の電車がやってきて、声が聞こえなくなった。

 海里の顔を見ながら待っていると、やがて電車が走り去って、ホームはまた静かになった。


「それで、コンピュータの中で、どういう風にアプリやデータが保存されているかなんですけど」

「う、うん?」

「コンピュータの中では、何でもかんでも、数で扱ってるんです」

「うーん?」

 困惑する様子の海里を見ながら、優樹はちょっと考えて話を続けた。

「学校でやるテストって、答えをそのまま書くやつと、選択肢の番号を選ぶやつがあるじゃないですか」

「あったね」

「特にセンター試験とか模試とかだと、マークシート式の全部選択肢問題になってますよね」

「そうなんだ。大学行かなかったから、よく知らないけど」

「えぁっ、すみません」

 妙な驚き方をして優樹がかしこまったので、海里が助け舟を出した。

「いや、いいんだけど。マークシートの、見たことはあるよ」

「そ、それでですね。あれって、書かれる可能性のある答えなんていくらでもあるけど、その中から4択で、答えを番号で表すっていうルールにしてあるわけですよ」

「マークシートのことそんなに考えてる人、初めて見た」

「いいんですよそこは」

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