優樹、海里にコンピューターの話をする

安藤鮪人

プロローグ

 最初からこの人と付き合いたいと思っていたわけではなかった。



(暑い……)

 畑中優樹が新社会人になって、初めての夏。

 いつも通り、朝の満員電車に揉まれながら、会社へと向かっていた。

 連日の猛暑が話題になっている中、乗客たちの体から発せられる熱と湿気が車内にこもって、さらに不快さを増していた。

 春からの通勤でこの電車の混み具合にもだいぶ慣れたつもりでいた。

 でも、これはもうサバイバル難易度が何段階か上がってしまっていると、優樹は思った。


(せめて何かで体を支えられればいいのに)

 ちょうど頭の上に吊り革がぶら下がっているのはわかっているが、残念ながら優樹は小柄な方だ。

 吊り革をつかもうとすれば、背伸びをした上で、手を全力で上に伸ばさなければならない。

 思い切って試してみようかとも考えたけれど、前の駅で大量に乗客が乗ってきていた。

 今やそのように手を上に伸ばすだけの隙間すら、優樹の周りにはないのだった。

(ここ、次の駅まで長いんだよね……)


 優樹の目の前には、オリーブグリーンのツナギを着た乗客が、ドアを背にして立っていた。

(壁で体を支えられるのはいいなぁ。何かの間違いで、代わってくれたりしないかなぁ)

 自分より背の高いその乗客を、ちらりと見上げる。

 短い髪に温和な顔立ちだ。

 体格も細身だけれど、電車が揺れて体がぶつかったときの感触から考えると、そこそこ筋肉質なようだった。

(スポーツやってるのかな。なんかしっかりしてそうだし。後輩に兄貴とか姉貴とか呼ばれるタイプの人かな)

 そう考えて、優樹は心の中で勝手に“ツナギ先輩”と名付けた。


“ツナギ先輩”は、この我慢大会のような満員電車にも関わらず、何事もないかのように穏やかな表情で、まっすぐ立っている。

(なんか余裕そう。つかまらせてくれるのでもいいんだけどなぁ)

 またもありえない願望にすがってしまったことに、ひとりで照れ笑いする。

 不意に、電車がひときわ大きく揺れた。

 優樹はバランスを崩しかけたが、その瞬間、“ツナギ先輩”が腕を掴んで優樹を支えてくれた。

「あっ、すみません」

 優樹が軽く頭を下げると、

「いえ、大丈夫ですよ」

 相手も微笑みながら会釈を返してきた。


(大人だなぁ。ずっとこういう人が近くにいてくれたら安心なのに……)


 それが優樹の、“ツナギ先輩”こと佐藤海里に対する、最初の想いだった。

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