サーシャと穏やかな暮らし

かんさTRPG支部

光さす床

 何の憂いもないような明るい日差しが大きな天窓から差し込んでいる。光を浴びた木製の大きなテーブルはでこぼことした表面をきらきらと輝かせる。涼しい風が自分のすぐそばを通り抜けていくのを感じて、一度深呼吸をする。井戸で汲んできたばかりの水はいまケトルのなかでふつふつと音を立て始めている。

 サーシャはお気に入りの茶葉(サーシャの身長でも届くよう、キッチンの下の引き出しに入れたのだ!)を取り出して、この穏やかな朝のすばらしさを噛み締めようとしていた。

 テーブルの下には5時間前に酒で意識を失った青年が倒れていて(スモモが持って帰ってきたそうだ)、二階からはヨガの光が漏れている。ライオンマスクをかぶったレベッカは、昆虫採集のお供である大型の斧を探してどたどたと走り回っている。昨晩ミラノが流石に斧はいらないんじゃないかしら、と説いていたが、レベッカは譲らなかった。体長25メートルを超えるヘラクレスセクシーオオカブトに備えるのだという。パチ美はポトフを吸い込みながら殊勝な心掛けのカブトムシだと関心をし、睡眠不足のクロエがあくびをした。

 キッチンに入ってきたレベッカがねえ、私の斧知らない?とぴょこぴょこ飛び跳ねながら聞くので、視線を斜め下にずらしながら知らない、と答えた。付け加えるなら、たぶんあなたの部屋にあるよ、と言うべきだったのだろうが、そこまで言うのが億劫だったし、それを口に出す前にレベッカはそっか!と元気に頷きながら跳ねて去ってしまった。

 テーブルの下の青年が苦しみながらも意識を取り戻した。整った顔立ちの青年だったが、目に光はなく、口周りには吐瀉物の残滓がついていた。スモモが男を連れてくるのは珍しいことではなく、最初こそミラノとレベッカが酔いどれの面倒を見ていたが、そのうち億劫になって床に転がすようになった。

 ミラノは自分の部屋で朝の支度をしていた。特に出かける用事はなかったが、身だしなみを整えるのは神から与えられた義務であるかのように感じられた。恋の苦難に立たされた酔っ払いの相手をするのも面倒に思われたので、少しだけゆっくりと身支度をした。

 水が沸騰するのを待ちわびながら、サーシャは嫌な予感をみとっていた。このままいけばこの酔っ払いのむくんだ顔を見ながら紅茶を飲むことになる。自室に帰ってもいいが、サーシャは天窓から一階に差し込む光が好きだった。その光を眺めたり浴びたりしながら、ミルクと砂糖をたっぷり入れたぬるい紅茶に浸っていたかった。せめてクロエが下りてきてくれればまだいいのにと願ったが、そのときクロエは「フライトで逆立ちの状態になってみても頭に血が上らないようにするにはどうするべきなのか」という重要な命題に向かい合っていた。いっそパチ美でもいい。この酔っ払いにセクシーの加護を与えてやってくれと頼めば喜んで依頼を遂行してくれるだろう。

 いやだめだ、サーシャは首を大きく振った。パチ美から放出されるセクシーが高まりすぎると、周囲の動植物が活気づくのだ。この間もセクシーに魅せられし子羊、実際には大型の熊が三頭だったが、がギルドハウスに迷い込んだばかりだった(最終的にレベッカが説得して帰した)。

 まったく、スモモが連れてきたんだから責任取ってよね、とひとりごちたが、その願いが完全に無意味なことにも気づいていた。そもそもスモモが朝に起きてくるわけがないし、奇跡的に起きてきたとしても、よからぬ出来事が起こり続けることだろう。

 「スモモさん……」青年が呟く声が聞こえた。本人が起きてこないのによからぬ出来事が起こっている。

 不安と戦い続けるうちに水は完全に沸騰した。サーシャはゆっくりと湯を小さなティーポットに注ぐ。ティーポットはクロエが土産に買ってきたもので、その透き通ったグラスは割れず、中のものの温度もずっと同じに保たれるという。サーシャはその錬金術の仕組みを知りたがったが、クロエいわく魔術による加工ということだった(本当は使われた魔術についての非常に細かい説明があったが、専門外なのですべて忘れた)。ともかく、このかわいらしいティーポットはすっかりサーシャのお気に入りになっていた。茶葉がふわふわ舞って、そのあと魔法のように湯の色味が変わっていくのを見るのが好きだった。

 「スモモさん……」先ほどよりはっきりとした声が聞こえた。誰か早くこのゾンビをどうにかしてくれと願ったが、紅茶の甘い香りが鼻に届いただけだった。

 とんとんと小さな足音が聞こえた。ミラノが下りてきたようだった。

 ミラノは床に座って呆けた顔をした青年を見つけ、一瞬眉間にしわを寄せたが、すぐに笑顔を作った。「大丈夫ですか」と声をかけたが、返事はなかった。

 そのままキッチンまでやってきたミラノが、あの人、大丈夫なんですか、と尋ねたので、サーシャは「スモモさん……」と少しオーバーにまねをして、ずっとこんな感じ、と付け加えた。二人のくすくす笑う声がキッチンに小さくこだました。

 「……ああいうのもさ、治せないの? 魔法とかで……」

 「うーん、やろうと思えばすぐできると思いますけどねえ」と少しためらうような口調でミラノは答える。一度治してしまったら、飲みすぎの反省をしなくなっちゃうから嫌なんです、と笑った。

 「紅茶、いい香りですね」しげしげとティーポットをのぞき込んでミラノが言う。

じゃあ、ミラノのぶんも淹れようか、と答えようとしたところで、目当ての大きな斧を背負ったレベッカが飛び込んできた。

 「ミラノちゃんおはよう!ねえ、ミラノちゃんも虫捕りに行こうよ!」

 ミラノの答えを聞くより先にレベッカは手をつかんで歩きだしていた。ミラノは少し困った顔をしてサーシャの方を見やり、サーシャはその視線に頷きで答えた。その頷きに笑顔で返したあと、ミラノはぐいぐいと腕を引っ張られながら歩き出した。

  ティーポットの中は澄んだ赤茶色に染まっていた。サーシャは少しティーポットを揺らして満足げな笑みを浮かべたあと、自分用のコップに注ぎ入れた。角砂糖をふたつ溶かしたあと、ミルクをなみなみと注いだ。甘ったるい紅茶を飲むのは自分だけだが、サーシャはそのことを少しうれしく感じていた。こんなにすてきなものを楽しめるのは私だけなんだと、最初の一口を飲むたびに思うのだった。

 二階からドッ、ドッ、と規則的な重たい音が近づいてくる。パチ美も朝のヨガを終えてこちらに来たようだ。

 「アあ、ナンて美シい朝ナのでショう。私の次に美シいかもシレません」

 パチ美は眼をつぶり窓から差す光を浴びていた。そのあと放心した青年に気が付き、ひざをついてその虚ろな目を見つめ、やわらかな微笑みをたたえながら青年を背負いあげた。

 「フッ、私にハワカります。アナタは……恋の病にカカった重病人でス。ソシてその特効薬はヒトツ!ソう、セクシーだけ」

 サーシャは身構えた。これ以上のセクシー濃度の上昇は明らかに危険だった。

「サあ、私とトもにセクシー爆裂波動拳の修行に参りマショう」

 青年は勢いよく持ち上げられた際に気絶していたが、パチ美は特に気にしていなかった。このか弱い子羊が、丹念に磨き上げられたセクシーで恋という熱病と戦うさまをいち早く見たい気持ちでいっぱいだった。

 「セクシー、そシて、愛」 

 そう言い残してパチ美は裏山の方角へ向かっていった。ギルドハウスには甘い残り香がした。

 朝の騒動がすべて終わったと判断したサーシャは、ふうと一呼吸おいてテーブルについた。テーブルの木目をなぞりながら日の光のやわらかな暖かさと、この穏やかな朝のありがたみを思った。このギルドハウスだけが世界から切り取られたかのように静かだった。

 サーシャは2杯目の紅茶を淹れた。ちゃぽちゃぽと紅茶が注がれる音がよく聞こえた。

 今日はいったいどうしようか。昨日買った酸っぱいリンゴをパイに仕立て上げるか、評判のパン屋に並んでみるか、途中だった武器の手入れを終わらせてしまうか。一日は大体やりたいことを考えている間に終わってしまう。

 この間ディアスロンドで買ってきたクッキーをかじる。オレンジの風味が爽やかだ。最近はずっと忙しくて(こんな無目的な集まりでも勝手に仕事は増えるものだ)、気が付けばどこかに出かけている。退屈したことはないけれど、自分が何かを思う前になんとなく流されているようにも感じる。たまには自分の好きなことをしてもいいかな、と考えたところで、周りは好きなことしかしていないと気づいた。世界の危機について妙に生真面目になっているのは自分だけかもしれない。そう考えると少しおかしな気持ちになって、テーブルにもたれかかるように伸びをした。

 今日は何をしようといい日になるだろう。そんな直観を手にサーシャは立ち上がった。どこに行くかはドアを開けた瞬間に決まるはずだ。今日の私は無敵だから。

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