第一話 さくらの花の咲くころ
NOTE1
三月の終わり。
志水陽はいつものように堤防の上で星をみていた。
暦の上では春だが、夜はまだ冷える。
ファスナーを首のところまで上げた。
吐く息は白くないが吸い込む空気はひんやりして気持ちいい。
年々新しい家が建ち並び、街の明かりで夜空も明るくなっていた。
小学校に入学する前はよく星がみえた。冬の代表的なオリオン座の三ツ星もはっきり輝くのがみえたが、今ではかすんでみえる。
おぼろげに光ってみせる星はなんの星か知るために、星図盤を手放せなくなってしまった。まるで星全部、流星となって地上に落ちて街の明かりを作っているように空はさびしい。
星と夢は似てないだろうか?
空に瞬く星のように、人の心に咲く夢もかき消えてしまった。
新学期。
真新しい制服に身を包む新入生が門を通ってやってくる。
その様子を校舎二階の窓から覗きみる陽。
一年前、自分は彼らと同じだった。
あの頃はどんな思いを胸に抱いていたのか。
あの日の笑っていた自分には戻れそうにない。
「汚れちまったしがらみに、しゃばの空気は冷たいねー」
思わず口からこぼれ出た言葉のつまらなさに、ため息が出る。
「よっ、しけたツラしてんな」
軽く肩を叩かれ、陽は振り向く。
一年の時、クラスメイトだった岡本秋人だ。
口をきいたことがないというわけでもないが、友人と呼ぶには言葉足らずなつきあい。
「春は眠くてね」
大きなあくびをして陽は応えた。
事実、眠かった。
春眠暁を覚えず、なんていうけど春は冬の衣を脱ぎ捨て活動しやすくなる時季だから、頭の中も春に模様替えで連日小人達が身体の中を「ニッチもサッチも」と言いながら心を春に変えていく。
小人の疲れが眠気を誘うのだろう。
「ヒマなら、手をかしてくれ」
秋人はそういって歩き出した。
断る理由もみつからない。
ホームルームが始まるまでの時間、どう潰そうか考えていたところだ。
陽は秋人の後ろをついていく。
「オレは四組だけど、志水君は何組?」
「三組」
「三組か。たしか国語の梅里先生が担任だよな」
春になると授業前に『桜の木の下には死体が埋まってる』とか言う先生。文芸部の顧問らしく、短編小説が一度、雑誌に紹介されたことがあるらしく、ときどき生徒に自慢してくる。
悪い先生ではないのだけれど。
「オレは苦手だな」と秋人。
ふーん。
「秋人君の担任は?」
「物理の寺門だよ。おもしろい先生でよかったよ」
いつも白衣を着て歩く彼。職員室で見かけるときは、いつも決まって猫マークのマグでコーヒーを飲んでいる。ぶるいの猫好きらしく、家にも何匹か猫を飼っている。いちばんのお気に入りはふぉん奈という、変わった名前の三毛猫だそうだ。
「ふーん、よかったね」
「まあな。あ、こっちだよ」
秋人は渡り廊下を指さす。
彼と一緒に特別校舎へと向かう。
県立皐月高等学校は普通校舎、管理校舎、特別校舎の三つが横に並んで建てられている。校舎と校舎をつなぐ渡り廊下は二階にしかない。別の校舎に行くときは二階を使わなくてはならず、必然的に人通りが多い。誰がこんな不便な建て方をしたのだろうと入学したときは思ったが、慣れてしまえばどうということはない。
習慣とは恐ろしい。
嫌悪感も好奇心もすべて真っ平らな均一の感情に変えてしまう。
「部活って、漫画部?」秋人が訊ねる。
ちがう、コミックサークル。
でも半年前に辞めたと陽は応える。
「そうなの?」
「イラストしか描かなくて。程度のいい落書き。つまんない」
ストーリーないと絵が平面になるんだ。
そう言うと、「立体に描けば?」と言われる。
気持ちが平面になるんだってば。
「まあ、一年生は強制入部だからね。やりたい部活もないのに入部したら、誰だっていやになるよ。お笑い部があったら、入ったんだけどな」
笑って秋人は言う。
たしかに、お笑いが人気。テレビ番組にも、お笑い芸人がこぞって顔を出している。クラスでも、おもしろいことを言って笑わせることができなければ、女子にもてない。
「岡本君は何部?」
「写真部。これでも一応部長なんだ」
へー、すごい。
思わず関心する。
「三年は受験だから顔出し程度、あとはユーレイ部員。まあ、消去法でまわってきただけなんだけど」
「な、なるほど」
廊下の突き当たりまできて、立ち止まる。
秋人はポケットから理科室の鍵を取り出し、鍵を開けた。
写真部は理科室の奥にある理科準備室が活動の場になっているらしい。
陽は秋人の後ろを歩きながら理科室をぬけ、理科準備室に入った。
室内は実験に使ういろんな器材が無造作に置かれて汚い。
でも何故かバット、グローブ、サッカーボールにバレーボールが転がっていた。
「羽林、中にいるのか」
秋人は部屋の奥にある扉を叩きながら声をかけた。
すると、「入ってますよ」と声がした。
「開けていいか?」秋人は訊ねる。
「ちょっと待って下さい。もうちょっとなんで」と返事。
仕方ない、そんな顔をして秋人は腕を組み、隣に立つ陽をみた。
「悪いな、ちょっと待ってくれ」
「いいけど、聞いていい?」
「なに?」
「ここはトイレ?」
なんでやねん、陽は秋人にこつかれる。
「あんなー、こんなとこにトイレなんかあるわけないやろ」
でも、ナイスボケやったで。
秋人はにやりと笑ってサムズアップ。
別に褒められてもおうれしくないんですけど、とは言わないかわりに「なにを手伝えばいいの」と聞いた。
「手伝ってもらうんじゃないんだよな」
秋人はニンマリ笑う。
「お金は貸さないよ。お金ないし」
「借りないって」
「悪いことの片棒担ぐのもイヤだよ。パシリもやだからね」
「そんなコトしないって」
「じゃ、なに?」
陽が秋人の顔を観て問いかけたとき、扉が開いた。
出てきたのは、目が細く小柄な子。
手にはまだ濡れたままの印画紙を一枚持っていた。
「すいません、昨日撮ったヤツを現像してたもので」
「かまわないよ。ちょっとみせて」
秋人は彼から印画紙を取る。
「なんか、光を当て過ぎちゃいまして」
「……ああ、たしかに当て過ぎだな」
一枚の紙をみながら、二人は話し合う。
「他のはうまくできたんですけど、それだけ失敗して」
「それってオレがせかしたせい?」
「そうとも言えるし違うとも」
「それは悪いコトしたな」
「いえ、いいんです。あとでもう一回やりますから」
うん、がんばってくれ。
わざとらしく声を出して秋人は笑う。
その様子に、帰ろうかなと陽は思った。
「話は変わるが羽林、こちらがこの前話した志水陽君。志水君、コイツはウチの部に入ってくれた羽林和樹。一年生の中で一番見込みがあって、次期部長候補だ」
秋人は二人に互いの紹介をするとニヤニヤ笑った。
和樹は軽く頭を下げると細い目で陽をみてから、「どうも、初めまして」と声をかけた。
「え、あ、いや……こちらこそ」
陽は慌てて頭を下げた。
「顔合わせもすんだことだし本題にはいるか。二人とも座ってよ」
秋人は近くに立てかけてあった折り畳みの椅子を三つその場でセットし、すすめる。
和樹がすんなり座るのを確認して、陽も腰を下ろした。
「まさか写真部の勧誘? カメラないからダメだよ」
「いいから聞けよ。ま、勧誘って言い方は適切じゃないけど、近いものがあるな」
秋人は椅子に座り、足を組む。
「さっきも言ったかもしんないけど、ウチの部、二年はオレだけ。一年はほとんどユーレイで羽林だけしか顔出さない。一年でカメラ持っているのがコイツだけだからってのもあるし、まだ始まったばっかりだからなんとも言えないけど、このままじゃ来年どうなってるかわかったもんじゃない。そこで新しい部活を作ろうと思ったんだ」
秋人の言葉に、陽はいやな感じがした。
「星、すきだったよな、志水君」
「いっ……観るだけなら」
「それでいいよ。星は、観て、なにか感じるものがあればそれでいい、星を観てどうするかは観た人が決めればいいことだから。オレは星を観て、星の部活を作ろうと思ったんだ。一緒にやらないか」
やっぱりそうか。
陽は心の中で舌打ちした。
「いや、いいよ」
「そんなこというなよ」
「面倒くさそうだし」
いつからだろう。
誘いの内容を判断する前に断る癖がついたのは。
人の顔色うかがって困る顔がみたいのか、他人の不幸をよろこびたいのか。このままじゃいけないってのはわかっている。けど、踏み出す勇気すら、陽は持っていなかった。
「ごめん……」
「成績で、内申で、他人の評価で、順番競って、退屈な時間、教科書めくって時間潰して、昨日のテレビのことみんなで話して、仲間からはぐれるのがイヤでなにも言えなくて、放課後も、授業中も、ずっとひとりきりで、それでなにもできなくて、今日が終わって、思った通りに生きられないなんて思うなよ」
秋人の口調が変わった。
鋭く、それで強い。
「なにもしなくて、なにもできないなんて思うなよ。志水君がコミックサークル辞めたのは他にやりたいことがあったからだろ。星を観るのはどこか引かれるものがあったからだろ。遠くから眺めてるだけじゃ手に入らない。自分からなにかしなきゃなにも始まらないよ」
秋人の言うことはもっともだった。
陽の悩み、ズバリ射抜く言葉だ。
的を得ている言葉ほど人を傷つけるものはなく、かといって中途半端な言葉では相手に届かない。
陽はただ、うつむいた。
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