綺羅、星詠組‼

snowdrop

プロローグ

はじまりはいつもここから

 風が黒のベールを流し、薄暗い青をみせる空の下。どこを照らしているかわからない街灯を浴びて、住宅が影絵のようにみえている。

 軽いエンジン音が近づき玄関先に停まると、向かいの家の犬がけたたましく吠えまくる。逃げるかのごとく、すぐにエンジン音が遠ざかっていった。

 遠くから、フードをかぶる銀色のパーカーの人が走っていく。犬はまた、自己主張を叫び、やがて静になる。

 頭上からはスズメの唄がきこえ、思わず息を吐く。白いかたまりが風にとけた。



 甘粕洋子はパジャマの上に袖口がほつれて綿がみえる赤いどてらを羽織り、ベランダに立っていた。

 サンダルの冷たさが、靴下をはいていても足の裏、指先に伝わる。

 シルバーのチタンマグカップを両手で持ち、ティーバッグで作ったアールグレイを口に含む。

 あたたかい。飲み込むと体の奥に降りていく。

 息が湯気と混ざって、空気にとけて消えた。

 太陽が顔を出すより早く起きたのは初日の出をみたとき以来だ、と洋子は思いながらその時間を待っている。

 マグカップからベランダ下の通りに目を移すと、今度は黒っぽいジャージを着た人が走っていくのがみえた。朝から無理して走らない方がいいのにと考えると、彼女の脳裏に幼い頃の出来事が思い浮かんできた。



 まだ内地に来る前のこと、父は訊いた。

 どうして走りまわるんだい?

 わからない、と応えて笑ったのを憶えている。

 あの頃は走ることがうれしかった。

 雪の中を踊るように走るのがすきだった。

 犬だね、と親戚の綾姉さんは言った。

 最近の犬は雪が降っても走らず、暖房のきいたフローリングの床に寝そべっている。

 外で飼われている犬は寒いから走るんだ、けどわたしは違う。

 洋子は目を閉じて、まぶたの奥に眠っている元気を捜す。

 走るという単純な行為が「すき」なんだ。

 陸上で生活するものなら誰もがする行為だから。

 単純だから簡単にできることじゃないけどすきなんだ。

「走る」意味というか意図というか意志というものをわかっている。

 ううん違う、そうじゃない。

 知ってるんだ、身体が。

 走っているとどんどんペースが上がっていく。

 まっすぐな地平と平坦で変わらない景色がどこまでも連れていってくれる、ひとつになれるんだ。

 一枚の絵画みたいに自分も風景の一部としてこの場所にいるんだって思い出せる。



 北海道はいまごろ氷点下一五度くらいで積雪五〇センチはあるだろう。

 雪が降っているときの方が降っていないときよりあったかい。

 それに雪は「降る」じゃない。

 電信柱の頭に帽子をかぶったみたいに雪が積もっているのをみていると、ベレー帽がシルクハットみたいに伸びていくのだ。夜な夜な、白い大地に蒔かれた種子が芽を出し、朝には辺り一面、六つ花畑にしてしまう。

 内地にきてからそんな景色、一度だってみたことがないと洋子は思った。



 高校でも洋子は陸上部に入った。

 ハードル走者になろうと決めた。

 人生は山あり谷あり、越えなくてはいけない壁を飛び越えて走り続けたかった。

 自分の中にあった、変わらなくっちゃ、という気持ちが働いたのかもしれない。

 大会前、先輩が怪我で出られなくなり、突然洋子が出ることに決まった。

 別に期待されていたわけじゃなかったけどめだった結果を出し、部のみんなも学校もちょっとしたお祭り騒ぎとなった。

 先生も友達も両親も誉めてくれた。

 誉められるなんて小学校からずっとなくてうれしかった。

 けど誉めてくれない人もいた。

 怪我をした先輩だ。

 先輩が怪我をしたから出場できて一位になれたことを考えると歓んではいけなかったと思い始め、同じ一年の部員から無視されるようになった。

 片づけも一人でやらされた。

 休み時間に呼び出されては、先輩に対する態度がなってない、タメ語を使うな、部員のくせになんで髪のばしてるのよ、切りなさいよ、先輩達からどやされた。

 味方は一人もいなかった。

 ある日、練習中に転倒した。

 跳びそこなったハードルに足が引っかかっただけなのに、簡単に倒れてくれるハードルが倒れなかった。

 すりむいたひざはたいしたことはなかったけど肉離れをおこしてしまった。

 そのときみた先輩達の目、罠にかかった獲物をみるようなあの目を忘れることができない。

 洋子は陸上部をやめた。

 走ることはすきだけど、部活がすきなわけではなかった。



 ぬるくなった紅茶をすする。

 鉄橋を走る電車の音が遠くで聞こえる。

 ひんやりした風の中にぬくもりを感じ始めたとき、洋子は東の空をみた。

 青い屋根をした家の向こうが白っぽい。

 空の向こうから一日がはじまる、そう言ったのはクラスメイトの志水陽だ。

 友達と話をしたり購買部や学食ですきなものを食べたり昼休み男子とサッカーしてもなにをやっていても気分がすっきりしなくて、どうしてわたしはダメなんだろう、どうしたら今の自分から抜け出せるのだろうと考え込む日々が続いていたとき、「どうしたの」と彼に話しかけられた。

 右ななめ後ろの席の彼は背が低くて中学生っぽいあどけなさが消えない子で、一度購買部の肉まんをおごってくれたいい人だ。

 どうしても元気がでないのと洋子は応えると、そういうときは誰にでもあるよねと返事。

「甘粕さんのすきなものってなに?」

 グランド、夏休みの、日が昇っていくときかな。

「朝日はきれいだもんね」

 笑いながら陽は続けて言った。

「気が滅入っている人にも元気な人にも朝日は昇るんだ、ぼくもいやなときはあるなぁ」

「失敗しちゃったとか言わなきゃよかったとか、そういうことを積み重ねると、どうしてぼくはいつもダメなのかなって思っちゃって、そういうときはいやなことを深く考えないで、楽しかったこと、すきなものを思い浮かべる」

「雨上がりの空にかかる虹を観るのがすきなんだ」

「太陽の反対側の空にかかる大きな虹、昔みたあの虹をまた観たいって思うと少しだけ、ほんの少しだけ元気が出るんだ、そう思わない?」

 彼の問いかけに思わずうなずいていた。

「知ってる? 太陽は今日も昇るんだ。明日も明後日も、毎日昇るんだ。空の向こうから一日がはじまる、朝日がすきなら観てみようよ」

 と陽は言いだし、洋子は困惑した。

「一緒に日の出を観ない? ぼくはぼくの家から、甘粕さんは甘粕さんの家から。義務とか約束とかじゃなくて、甘粕さんが観たいと思わないと意味がないけど」

「わたしも観たい」

 洋子はそう応えていた。



 青い屋根の家、その向こうから光の玉が大きくなっていく。

 建物に明暗をくっきりつけながら、柿色の太陽が音もなく昇っていく。

 スズメが唄う。

 頬を照らしあたたかく温もっていくのを感じた。

 彼も観てるかな、この朝日を。

 どれだけの人が今日の朝日を観てるだろう、どんな思いを胸に抱えて迎えたのだろう。

 そう考えると洋子の胸の中で騒ぐものがあった。

 また走ろう、道はひとつじゃないのだから。



 今日も、地球は朝日に向かってまわる。

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