第5話 人機械;じんましん

      1


「いつから気づいとった?」陸代ロクシロ氏が、血まみれの箱から降りる。

「旧友が真っ先に失格などあり得ませんもの。旧友ですわよ? 親友ならともかく」椿梅ツバメは、私を見る。「主治医の坊やを殺したのは、この黄泉返りじーさんですわ」

「よみがえりじーさんて」つい拾ってしまったが、

 烏鷺口ウロコ氏を殺したのは。

「あんたなのか」

「わしは賢いのは嫌いじゃない。が、賢しいのは好かん。わしに自首など勧めてきおってあの若造。お前さんのように賢いままでおればよかったにのう」

「殺したんだな?」

「人の部屋をあさって勝手に窓から足を滑らせたんを、殺したというんかいな」

「殺したのかと訊いてる」

 陸代氏が、メイドに指示して椅子を持ってこさせる。

「いかんいかん。年取ると足腰が弱なっていかん。この耄碌にあの若造を突き落とす馬力があるとも思えんが」

 やったやらない論争は不毛だ。

「任せる」

「そのつもりですわよ? 言いましたわ、わたし。唯一絶対の解を差し上げますと」

「ははは。そんなもんがあったらわしは逮捕だな」本気にしてない。

 椿梅も特に気にしてない。

「わたしたちをここに呼んだ本当の目的は、わたしたちを行方不明にしようと思われたからなのでしょう? そちらに用意されたお孫の親御の成れの果てのように」

「あんたがやったわけ?」狸狐塚ココヅカ氏が、人でも殺しそうな声で唸る。「あんたが。おじいちゃんもなんでしょ? 人殺し」

「口の減らん嬢ちゃんじゃないか。心外だよ。その大事なスポンサが人の道を踏み外そうとしたんを止めてやったのは、どこの旧友じゃろうて」

「踏み外してんのはどっちよ」

「落ち着いてくださいな」椿梅が仲裁に入る。「黄泉返りじーさんが仰ってるのは本当のことですもの。あの方は、あなたのご両親を材料に使いましたのよ」

 材料?

「人体模型のか」

「なんと言うのでしたっけかしら。ねえ、あなた方の作品は」

「作品ごとに違います」メイドの片割れが言う。

「いまここで答える必要はないかと思われます」メイドのもう片割れが言う。

 ジンマシン。

 マネヌキカン。

 良ノ沢ヨシノザワ氏が呟いたのが聞こえた。

「なんだそれ」

「ねえ、これ」良ノ沢氏は、自分の人体模型を見上げて。「よくできてるよ。俺のとおねーさんのしかないのは、永遠がどうとかじゃないんじゃない?単に、間に合ったかどうかで」7をしゃくる。「センセイのはこれからだし、あっちの」18を指す。「あんたのコレクションじゃん。見せびらかしたいだけの」

 10と15が空っぽなのは。

「これから、てことか」

 行方不明にしてから。じっくり作ろうという。

 私と椿梅の、

 人体模型を。

「そうではありませんわ。ケージさんとわたしに限ってですけれど、そもそも招待されるお客に入っていませんでしたの。呼ぶ予定のお二方を行方不明にするお手間がなくなりましたので、急遽わたしが」

 椿梅を呼ぶには私という餌が要る。

「なんであたしが行方不明にされなきゃなんないわけ?」狸狐塚氏が言う。

「お孫、おじーさまのお顔を見たことがあって?」椿梅が訊く。

「あるに決まってるじゃない。ふざけてるの?」

「あなたは?かわいいボク」椿梅の妙に口調が優しい。おねーさん効果覿面。

「ないわけないんだけど」良ノ沢氏はむっとして答える。

「顔を見たことがあるとまずいのか」

「不都合ですのよね? 黄泉返りじーさんがドン=ヘッヘルフに成り代わるには」

 何の音もしない。

 陸代氏がなんぞ言い訳するのを、

 待っている。

「コレクションが目当てでしたらそう仰ればよろしいのに」椿梅が言う。

「ゆったらくれるんか」溜息。「根こそぎ奪ってく気だろうて」

「成り代わるってどうゆうことよ?」狸狐塚氏が怒鳴る。「信じられない。そんなことできるわけないでしょ? 主治医だって、あいつが初めてじゃないんだし」

「切りがない? そうゆいたいんか?」自嘲。「主治医なんぞ名ばかりで、ヘルに会ったんはあの若造が初めてだ。他のやつらは適当に薬を置いてきよるだけだった。あれを見せられりゃ無理もない」

 人体模型。

 人体以上に人体によく似た。

「じゃあ、なんで殺したのよ?」狸狐塚氏が言う。「あいつだけだったんでしょ?」

 主治医。

「あいつだけだからだ」陸代氏が言う。「あいつさえおらんかったら、わしはヘルに」

「なってたっての? 無理ね。そんなのあたしが」

「だから行方不明にされるんじゃない? おねーさん」良ノ沢氏が冷ややかに言う。「そこまでして父さん、てゆうかドン=ヘッヘルフになりたい理由ってなに?」

 コレクションが欲しいだけなら本人に成り代わる必要はない。それに、

 コレクション目当てなら椿梅なんか呼ばないほうがよかったのではないだろうか。欲しいものは必ず手に入れるカネで。の椿梅に勝てるわけが。

 他人に成り代わりたい動機。「羨ましいのか」


      2


 楽しそうにしているのを初めて見た。私と話す以外で。

 若造めが。

 彼の趣味は世間一般からすると異常そのもので、誰からの理解も得られることはなく、家族は離れ、親戚一同から見放されていた。

 偏見を持たずに近づいてくれた孫もいまやぱったりと来なくなり、彼が生来より抱える病は悪化する一方だった。

 彼の学生時代より付き合いのある私のみが唯一、彼をニンゲンと認めていた。

 ニンゲンじゃない。

 彼の趣味を知ったものは口々にこう罵り、蔑み、彼の存在を記憶から抹消していった。私からすればお前たちのほうがよほど、

 ニンゲンじゃなかった。

 どうして彼がその趣味に没頭するのか、せざるを得ないのか、思いを巡らせたことがただの一瞬でもあるか。

 あるわけがないからそんなことを平気で言えるのだ。

 彼の趣味は、人体模型を作ることだった。理科室にあるあれだ。あれをより精巧に、より美しく、芸術の域にまで到達させることが当面の、彼の目標だった。

 芸術の域にまで到達させると、彼は次の目標を打ち立てた。

 人体模型の博物館を作る。

 そのために金儲けを始めた。彼が具体的にどのような方法で金儲けをしていたかは定かではない。彼が金儲けに精魂を傾けている間、同じく私も金儲けに精魂を傾けていたからだ。人のことなど気にしていられなかった。

 ニンゲンじゃない。

 金儲けに必死だった時分の私はこう評された。

 怒りも悲しみも湧かなかった。彼と同じ呼ばれ方をしたことが嬉しかった。喜ばしかった。怒りや悲しみに充てる分の余裕が残されていなかっただけかもしれないが。

 一生を一生やり直せるくらいの金が貯まった私は、彼の居所を求めた。実に数十年ぶりの再会だった。

 彼は第二の目標をすでに叶えており、私が第一号招待客として鑑賞に来てくれるのを待ち侘びてくれていた。私は連絡が遅くなったことを詫びた。

「ちっとも変わっていないね、きみは。相変わらずなのか」

 彼が指摘した不変は、外見についてではない。

 数十年も会っていなくてどうして変わらないなどと言えよう。

 私の毛髪のほとんどは早くに抜け落ち、半端に残っている分がどうにも馴染まないのとみすぼらしいのとで、文字通り根こそぎとどめを差した。そのせいか、もののついでだったのか、眉毛もその姿がおぼろげになって久しい。

 相変わらず。というのは、

 私の趣味のことを言っている。

「ああ、お前さんほどじゃないがね。ぼちぼちだよ。新しく増えた分については近いうちにね」

「きみだけだよ。私の話に耳を傾けてくれるのは」

「お前さんこそ、変わってないじゃないか」私が言っているのは、

 彼の趣味のことではない。

 彼の外見は、あのときとまったく変わっていなかった。

 あれから数十年経つというのに。

 毛髪も眉毛も顔の皺も背骨も、私が失ったもののすべてをまだ現役のままで保っていた。彼のほうが十も年上であるにも関わらず。

 老いを、

 彼の人体模型が受けてくれているのだ。身代わりとなって。自分を変わらず大切にしてくれているせめてもの恩返しとして。

 私の骨はそんなことをしてくれない。

 肉がないから。

 皮がないから。筋がないから。

 臓器がないから。神経がないから。血管がないから。

 血も涙もないから。

 撫でても撫でても熱を持たない。ひんやりと冷たいまま。

 それがいいのだ。私にはそれが相応しい。

 血も涙もない私には。

 彼とは違う。私は彼と違う。

 違うのだ。

 その証拠に私は、

 骨にしか興味がない。

 肉が怖い。熱や柔らかさが厭い。

「次はどうするつもりかね。考えてあるのだろうて。楽しみだよ。お前さんがいま見据えとるものが何か」

「明日も来てくれるね」

「お前さんが望むなら」体よく追い払われた。

 彼にもし、数十年で変わったところがあるとすればそれは、独りでいる時間を以前より多く持ちたがるようになったということだろう。

 再会の当初は毎日のように呼ばれていたのが、週一、月一と徐々に招待の頻度が落ち、ついにはこちらから予定を取り付けなければ、もしくはこちらで勝手に押し掛けなければ彼に会えなくなっていった。

 彼は、

 独りでいることに慣れすぎてしまった。

 私は彼を放っておきすぎた。独りでいることを強いたせいで彼は、

 独りでいることが当たり前になってしまった。

 私という他者は必要なくなった。

「わしはまだお前さんの友人かね」不安になった私はつい口を滑らせた。「いや、いいんだ。いい。いまのは聞かんかったことにしてくれ」

「友人というよりは、そうだね。旧友かな」

 彼は情けでそう言ってくれたのだろうが、

 私にはその情けが惨めでしかなかった。

 旧友。

 その二文字が如何に私を苦しめたことか。彼にはわかるまい。

 彼の次なる目標はすぐにわかることとなった。彼の博物館兼屋敷に、

 彼以外の住人が加わることで。


      3


 しばらくじっと眼を瞑っていた陸代氏だったが、決心がついたのかどうでもよくなったのか続きを話し出した。

「ヘルの娘夫婦だ。奴らのせいでヘルは人の道を踏み外しかけた。散々ニンゲンじゃないとこにもってきて、とうとうニンゲンの枠組みを取っ払ってもうたんだ」

 狸狐塚氏の両親だ。

 彼女が強く唇を噛み締めたのが見えた。

「お母さんたちが何をしたの?」

「よう考えてみとくれ。いい頭を持っとるんだお前さんは」陸代氏が、旧友の孫を視界に入れる。「ヘルの血を引いとる。カネが有り余っとる親がおるんだ。働かんでも充分食っていける。質素倹約の必要もない。なにせカネは有り余っとるんだからな。有り余る贅沢ができる。さあ、どうするかね。賢いお前さんなら」

 狸狐塚氏はちらりと、23・26を見遣って。

「それで死んだんなら仕方ないわね」

「ははは。まるでここにヘルがおるようだ。結構結構」陸代氏は笑いもそこそこに。「金を食い潰すだけならまだしも、奴らはヘルが命より大事にしとるもんにまで手を出そうとした。早い話がヘルに見つからんよう売っ払おうとしたんだ」

 人体模型。

「一生を一生繰り返しても使い切れんほどのカネがあるというのにな。まだ欲しいというんだ」

「それでこの強欲なバカどもは皮なんか剥がれちゃったわけね。ばっかじゃない」

「半分正解で半分間違っとる」陸代氏は自分で丸椅子を持って移動する。

 18に手が届く位置まで。

 人骨が入っている。透明な円柱状のケース。

 いったん、

 15に眼を。

 中に何も入ってないことを確認したかったようだった。

「よう見てくれ。といっても手掛かりになるもんを取り払われとるんだ。わからんだろうな」

 つられて15を見ていたが、単に陸代氏の視線誘導だった。

 23には女。

 26には男。

「女のほうが年寄りに見えんか。心なしかで構わんが」

「あとで剥がされたってこと?」

 23のほうが。

「利用価値があったんだ。人体模型に取り憑かれたヘルにはな」

「もっとわかるように仰って?」椿梅が口を挟む。

「お前が言えよ」どうせ全部わかっているのだ。

「ですからわたしが言ってしまっては。ねえ? せっかく地獄の底から黄泉返った甲斐もございませんでしょう?」椿梅が、陸代氏に向かって微笑む。

「どっちでもいいわ」狸狐塚氏はうんざりといった様子で。「なに?言って」

「おねーさん、ここ住んでたことある?」良ノ沢氏が尋ねる。何かに気づいたようだ。「あるよね? 親が住んでたんだからさ」

「さあ。知らないわね。お母さんたちがこんなとこ住んでたってのも初耳よ。でもそれがなに?」狸狐塚氏も気づいた。

 養子が何かに気づいたことに。

「何なの? 言いなさい」

 良ノ沢氏は答える代わりにちらりと陸代氏を。

 陸代氏は頷く。「わしから言おう。お前さんにも関係することだ」

「あのさ俺、ホントはさ」

「言わんでいい」遮るがごとくタイミングだった。「言わんでいいんだ。わしが、ヘルに代わって伝えにゃならん。わしが。それがヘルを殺したわしの、せめてもの罪滅ぼしになると考えとる」陸代氏は、

 18内の人骨を見上げる。

「そう思わせとくれ」


      3


 彼から金を搾り取るのはまだ我慢できた。が、

 彼から、

 彼の命より大事とする人体模型を奪おうとするのだけは。

 殺すしかないと思った。それが彼の実の娘だろうが。

 しかしながら、彼はいつの間に娘をこしらえていたのだろう。結婚をしたという報せも届いていなければ、離婚をしたという報せも。

 旧友の私に届けなかったということは、両者とも行なわなかったということだ。

 結婚も離婚もせずに娘を生み出す方法。孕ませて娘だけ引き取ったか。

 あの彼が?愛も性欲も感じることのない彼が。

 女の胎内に精を放つことができるだろうか。

 しかしもし、

 子が欲しかっただけだとしたら。そのために女との性行為が必要だとしたら彼は。

 為しただろう。出来ただろう。

 子を得るという唯一絶対目的のための、

 唯一絶対手段としての性行為だとしたならば。

 私はとうとう訊けず仕舞いだった。訊くより前に、

 彼は。

 人の道を踏み越えてしまっていた。

「いいところに。よかった。私はこれよりこの男の皮の下を見ようと思うんだ」

 嬉々とした彼の足元に、頭から血を流した娘婿が横たわっていた。

 私は、

 首の振り方を必死に思い出そうとした。

 首の振り方。と銘打たれた書物だけが狭い私の大脳という書庫の中で紛失し、

 どうしても見つからないのだ。

「ああ、そうか。それは」

 駄目だ。駄目だと言え。それだけはしてはいけないと。

 どうして?何故?

 彼がしなければ、

 確実に私がやっていた。誰が実行するのか。

 それだけのこと。

「きみも手伝ってくれるだろう?」

「お前さんが望むのなら」人の道も踏み越えよう。共に。

 彼が独りで歩むには暗すぎる。

 私が彼を照らす灯明となろう。

 娘にその偉大なる演習が知られたのは、

 その日の晩だった。婿がいないのを探しに来た彼女と、

 血塗れの我々とが鉢合わせたのだ。上昇し下降する箱で。

「なにやってんのよ。なによそれ」娘は彼に似て頭がよかった。頭だけが。

 叫ぶ娘の口を押さえ羽交い絞めにし、

 我々はすぐさま演習場へと引き返した。血の海はすっかり引いており、

 潮に取り残された海産物が海岸に散らばっていた。

 その偉業に娘は腰を抜かすと思いきや、

 私の腕を千切れんばかりの勢いで噛み、拘束から逃れると、

 父を呪い殺しかねない声色で。「ニンゲンじゃないわ」を絞り出した。

 私はつい笑ってしまった。

「なに笑ってんのよ。頭おかしいんじゃない?」

「おまえも手伝ってくれるのだろう?」彼は娘に言う。

「手伝う? 何言ってんのよ。あんた、何したかわかってんの?」

「婿は私を手伝ってくれたよ。あとは娘のおまえだけだ。私を」

 娘から表情が剥離する。

 血の海と、

 その母なる海から生まれた豊富な海産資源が誰のものなのか。

 嫌でもわかった。

「ニンゲンじゃないわ」娘は最後の力を振り絞ってそれだけ呟くと。気を失いこそしなかったが、

 血の海に沈みそうになった。

 私はまた人体模型の習作に取り掛かるのだと思い、その準備を始めたが、

 彼は私に部屋の片付けを依頼し、

 力の抜けた娘の両脚を持って部屋の隅に移動した。

「何をするんだね」

 私の疑問に答えることなく、彼は。

 娘の脚を開き、その間に。

 自らの。

 すぐに挿入できずに苦労していた。

 娘は何をされているのかわかっていたかもしれないし、わかっていなかったかもしれない。命に対して関心が失せたような顔つきをして、

 ただ虚空を眺めていた。

「何をしているんだ」我ながら意味のない質問だと思った。

 だからこそ、

 彼は何も答えなかったのだ。先ほどの質問にも。

 彼が次に何をしようとしているのか、

 手に取るようにわかった。彼の脳の中が透けて見えるようで性欲以上の快感を覚えたのと同時に、

 激痛のような後悔が私を襲った。

 彼が人の道を踏み外したのは、

 十中八九私のせいだ。私があのとき止めさえすれば。

 駄目だと、一言云っていれば。

 止まっただろうか。少なくとも、

 彼の手は汚さずに済んだ。私が娘夫婦を処分するのだったら、

 このような方法は採っていなかった。殺して、そして、

 終わり。

 その後死体を彼がどうしようが私の知ったことではない。

 殺したのは私だ。捕まるのも私一人。

 彼は、

 来る日も来る日も娘の胎内に精を植え付けた。生が芽吹くように。

 当然の如く、

 娘は懐妊した。彼の子だ。

 宿主は生きているか死んでいるかわからない状態だというのに、

 寄生したほうは明らかに生命の鼓動を強くしていった。彼は、

 娘の子宮が膨張するのを見てとても満足そうだった。毎日毎日、

 娘の下腹部を撫で、

 満面の笑みで頬ずりをしていた。

 やがて臨月を迎え、娘はようやく苦しみだした。いまのいままで自分の異常事態を認識していなかったかのように。

 彼は娘の父としてではなく、

 娘から生まれる命の源として出産に立ち会った。私が知り合いの産科医や助産師からそれとなく聞いた付け焼刃の知識と方法で、

 赤子を引っ張り出している横で。赤子は、

 女だった。

 そのことがまた、

 私に悪夢を予感させた。

 この娘はもう使い物にならないだろう。次の出産には耐えられまい。とすれば、

 次なる人体製造機は。

 私が赤子を産湯につけている間、彼は、

 一番目の娘の皮を剥いだ。

 二番目の娘は、すくすくと成長していった。

 彼女に初潮が来るまで。


      4


「思い出さんか。思い出さんほうがいいこともあるだろうが」陸代氏は、3の展示ケースを見ていた。エレベータがあってその位置からは見えないはずなのだが。

 狸狐塚氏の、

 人体模型が入っている。

 ドン=ヘッヘルフの孫の。

「嘘よ。ちがう。あたし、そんな」

「違わんよ。傍におったわしがゆっとるんだ」

 私は、

 椿梅がまだそこにいるかだけ気になった。

「あら、しっかり聴いていて?」まったく聞いてなかったのがバレている。

 どうでもいい。

 いつ終わるんだこれは。

「なに企んでる?」声を出さずに訊いた。

「どうやってこの素敵な館ごとわたしのお家まで運びましょうか、その算段を」椿梅も声を出さずに答えた。「かわいいボク?」私の顔を見たまま声を出したので吃驚した。

 おかしくなったのかと思ったが。

 良ノ沢氏に言ったのだ。

「ボクのお母様がどなたか、わかったのではなくて?」

「ホントなの?」声なんか出ていなかった。「ホントに?ホントのホントの」

「のわけないでしょ?冗談じゃないわ」逆ギレにしか見えない。

 孫が養子を怒鳴りつける。たったいま、

 養子じゃなくなったようだが。孫も、

 確かに孫だが。

 娘でもある。

「あんたいくつよ。十一でしょ? あたしがあんたと同い年んときに産んでないと計算合わないのよ? あり得ないじゃない。十一で子どもなんか」

「産んだんだ。お前さんは憶えとらんだろうが」陸代氏が静かに言う。「確かに産んだ。わしが証人だ。お前さんを孕ませたところも、お前さんを」良ノ沢氏を見る。「産んだところも、わしがしっかりこの眼で」

「そんなのあんたの眼がおかしいのよ。ぼけてわかんなくなっちゃってるんじゃないの? そうでしょ? そうだって」ゆってよ。は聞こえなかった。

 冗談を言うような顔にはとても見えない。

 陸代氏は、ただ黙って。

 孫であり娘を。

 養子であり実子を。

 見据えている。

「信じられんならそれでも構わん。なあ? わしは、わしだけはしっかりわかっとるぞ」18の展示ケースに入っている骨格標本。その人骨が誰なのか。

 私にすらわかった。

「人殺し」狸狐塚氏が眼で言う。

「ねえ、それホントに父さん?」良ノ沢氏が眉を寄せる。「おかしいよ。だって、父さんは部屋で」地下2階の自室のことか。「部屋に、いて。そんで」

「ホンモノなわけ? お得意の模型とやらじゃなくて」

 どうなんだ?

 椿梅に訊いた。無言で。

「本物であろうとなかろうと、素晴らしい作品であることには違いありませんわ」一切無視してなにやら仕切りだした。椿梅は、

 見覚えのありすぎる封筒をちらつかせて。

「お忘れではありません? 刻限までに提出なさらないとお命を頂戴されますと」

「そんな場合じゃないでしょ? なによ、いきなり」

「わたしは忠告しましたわよ? ドロシィさん、よろしくて?」椿梅はエレベータの両側に控えているメイドの片方を呼びつけて、

 店員にチップを放る大富豪よろしく。

 封筒を。ドロシィだかルーシィだかが受け取った瞬間。

 照明が一斉に沈黙した。

 私は椿梅がいるであろう方向に手を伸ばして。ない。

 いない。

 どこだ。「ツバメ」

 甘いにおいがする。

 綿飴よりむせる。氷砂糖よりとける。

 椿梅は独特の香を纏っているので。見つけられないはずは。

 暗くて見えなくたって。

 無音で聞こえなくたって。

 どこだ。

 どこに。「ツバメ」

 逃げたんじゃ。

 嫌だ。厭だ。

 また逃がした。

 あのときだって。確実に捕まえていた。

 この手に。

 手が繋がっていた。

 握ってたんじゃない。金属で補強されて。

 それなのに。

 逃がした。

 上司に見限られ。部下に見捨てられ。

 たった一度じゃないお前は。

 いままでの全部、わざと。

 わざと。

 逃がしたとありもしない汚名を着せられ。

 こいつだけはまともだと思ってた。あの男に。

 裏切られた。

『皆様お疲れ様でした』

『現時刻只今を持ちまして』

『わたくしどもがあるじドン=ヘッヘルフの死亡を確認しましたことにより』館内放送。

 かどうかも心許ない。

 眼が慣れない。血管の内容物がちらちらする。

 赤と黒と。

 黒と赤の放電。

『ゲームを終了させていただきます』

 白い煙。ようやく見えたと思ったら。

 駄目だ吸っては。

 意識を手放す。

 毒ガスじゃないことを願ったが果たして。


      5


 毒が混入されてたんだ。そうとしか思えない。

 そうでなければ、

 どうして私が椿梅を逃がす?

「それを訊いてるんだよ。言いたくないのはわかるが」陣内チヒロは、徹頭徹尾どうでもよさそうだった。

 この部屋の総責任者という立場上、部下の不始末を把握しなければならない。この人にも上がいる。

「書類なんか書いたことないでしょうに」いつも私が書いていた。

 この部屋が黙認という形にせよ存続しているのは、この人の力以外のなにものでもない。会議やなんやらの資料や上層部に提出する文書を、私が代わりに作ったところで罰は当たらない。体よく小間使いとして利用されていたとしても。

 エリートコースまっしぐらの陣内にしてみれば使い勝手のいい雑用係が欲しかっただけかもしれないが。

 自分の出世に利用できるならなんだって。使い心地が悪くなれば平気で捨てる。再利用とか資源の無駄遣いとかそうゆう思想は、

 こいつにはない。

 要は使えなくなったのだ。私は、

 奴の駒として。

「書きますよ。慣れっこですから。いつですか。余裕で仕上げて」

「そいつはいい。もし何か書きたいなら、わかるな? 俺はそれしか受け取らない」

 笑えやしない。

 笑い以外のものがだだ漏れるのを必死に堪える。自分を遠くから見ている自分。

 ああ、そうか。私は。

 お役ご免ということだ。

「どうなるんですか」この部屋は。

 名目上は確かに奴が責任者だが、実質は。

 私が頭脳であり、

 かつ私が手足の。

 部下はいるにはいたがバックアップにすらならない。

 私以外に椿梅を捕まえられるとでも。

「誰がやるんですか。誰が、私の代わりに」

「代わりはいないよ」

「だったら」私は、

 声を荒げているのに気づいた。誰も見ていないがすごく居た堪れなかった。

 陣内が見ている。

 陣内が私の眼の前で。奴が、

 最も得意とする尋問をしている。

「いないさ。いるわけがないんだ。だから」首を振る。息を吐く。

 意味がわからない。

 意味など霧散する。

「いないんなら。どうして? 今回は駄目でも次は。そうです。次こそは絶対に」手錠までかけた。「あと一歩だったんです。あと一歩のところで」

「じゃあ、逆に訊こう。なぜあと一歩のところで逃がしたんだ。君が意図的に逃がす以外にあり得ないだろう」

 手錠は。

 外れていた。鍵によって。鍵は。

 私が持っていた。

 無理に抉じ開けられたり、

 鍵以外のもので開けられた形跡はなかった。

 私が掛けたはずの手錠は、

 私が持っていた鍵によって。

「ですから、それは」

「君が故意に鍵を開けた以外の説明ができるようになったら呼んでくれ。すぐに駆けつけるよ。出世に直結する会議をサボってでも」そう言い残し、陣内は部屋を去った。

 片付けていない書類と、片付ける気配のない書類。

 私が椿梅を追ってきた歴史のすべてが、

 ここにある。

 散らかるの域を超えたデスクと、埋もれて見つからない電話。

 説明ができるようになったら?

 まるで正直に話すだけの心の準備が、

 できるまでとでも言いたげな。

 馬鹿言え。莫迦を言え。

 説明ができるようになったら?

 とっくにしたろ。毒が入っていたんだよ。

 毒が。

 椿梅の。

 歴史も足跡も手掛かりも、

 今まで狙った美術芸術品もその手口もすべてぜんぶ。

 燃やしてやりたかった。

 窓から捨てたかった。

 破いて。刻んで。シュレッダに喰わせて。

 できない。そんなこと。

 できるわけがない。

 できない。

 もう私に関係ないとしても。これから先私以外が椿梅を追うのだとしても。

 いままでのは一体なんだったのだ。

 すべて意味がなくなってしまう。捕まえられなかったのは、

 椿梅が巧妙だからだ。

 私たちが。

 お前たちが無能だからだ。

 俺が。椿梅を逃がすわけがない。

 窓ガラスにやけにやつれた情けない男の顔が映って。他に見るものもないので睨めっこをしていたら。

 陣内が戻ってきた。

「呼んだ憶えはないが」

 奴は、

 床に散らばっている紙を踏まないようにとりあえず足の踏み場だけ作って。やけにやつれた情けない男の真後ろに顔を映そうとする。

「君の処分が決まったよ」

「聞いたら取り消されたりするのか」

「悪いな。いちおは意見してみたんだが、俺の権限なんか。これっぽっちの部屋を借りとくこともできやしない」

 嘘だ。こんな部屋を借りるために陣内が意見?

 自分の立場が危うくなるようなことをするか。

 この男が。

 出世欲以外の欲は持ってない。陣内チヒロが、

 自分の踏み場でしかない私のために。

 違う。奴がこの部屋にこだわるのは。

 椿梅だ。

 欲しいものはすべて手に入れる。カネで。大富豪の大悪党。

 彼女を逮捕することがすなわち、

 自分の出世に結びつく。

 お前に捕まるようなつまらないコソ泥じゃない。

「いつまでに片付けますか」

「この部屋にあるもので君が持って帰っていいのは君だけだよ」陣内は、窓ガラスに自分の顔を映さないように後ろを向いた。

 私の顔を見ないように気を遣ったとは到底思えないから。

「こちらでやっておくよ。最後くらい責任者らしいことをさせてくれ」

 私が駆けずり回って集めた手柄を独り占めするつもりだ。

「最後までお手間取らせます」

「ゆっくり休むといい。相当疲労が溜まっているようだからね」

 皮肉か?

 嫌味だ。

「いままでお世話になりました」

「ねえ、最後に一つだけさ」

 ドアノブに手をかけたところで呼び止められた。

 陣内が部屋に戻ってきてから奴の顔を、

 一度も見てなかったことに気づく。

「本当に憶えていないんだよね? とぼけてるんじゃなくて。逃がした云々の」

「ですから」振り返る。

 奴は、

 意図して見せていなかったのだ。

「惚れちゃたってことはない? 何年になるんだっけ。君が彼女を追うことになってから」

 その時の顔を、

 私は一生忘れない。

 忘れてたまるか。

「何を、仰りたいんですか」

「見ちゃったのがいるんだよね。俺じゃないよ。俺だったら今頃ここにいない」陣内は。

 私を売ったのだ。

 自分の出世のために。

「一人、いたよね。殉職したのが。彼がさ、死ぬ間際に言ってたことがあるんだけど」聞きたい?

 陣内は。

 私を見て嗤った。

「ケージ君、駄目だよ。職務中にあんなことしちゃあさ。しかも君が捕まえなきゃいけない犯人相手に。それだけは駄目だ。しちゃいけない」

 いくらエン=ケイユウが、

 国家を揺るがすような。

「美人でもね」

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