第3話 寝魂;ねたましい

     1


 高い音も低い音も聞こえないままゆるゆるとお昼になった。皆一様に参加意欲を失っているのかもしれない。

 ただひとり、

 椿梅ツバメ以外。

 至近距離で椿梅を見張っているのも大事なのだが、椿梅の人肉塊コレクションをむざむざ増やすわけにもいかない。

 しかし、ここを離れるつもりも。

 なかったはずなのだが鍵が二つしかない以上、椿梅が内からドアを破壊するか、何者か(いまのところ烏鷺口ウロコ氏の可能性が高い)が外からドアを破壊しない限りは。

 平気では?

「平気ですわよ。逃げる意味などありませんもの」

 逃げないだろう。

 逃げるはずがなかった。

 椿梅は私に捕まりたい。

 私は椿梅を捕まえたい。逮捕できないからここに閉じ込めておくしかない。然るべき方法を思いつくまでの場繋ぎのつもりで。

 というようなことに今更気づく。

 一日半無駄にした。

 人肉塊コレクションの増加防止は二の次だ。ここを離れたくないための方便だったかもしれない。

「ですからお手洗いに行かれてはと」

「そいつはもういい」とっくに治まった。

 椿梅を隔離することに必死で、まともに何も食べてないし、したがって排出するものもないから、トイレに行った憶えもない。

 後先考えず満足な準備もせず着の身着のまま飛び出してきたから、着替えもなければ風呂にも入ってない。

 食事が饗されないわけではない。ここ、最上階はレストランとラウンジを兼ねている。同じフロアにあるキッチンから、ドロシィだかルーシィだかが協同で粛々と食事を運んできてくれるのだが如何せん、食事ができましたよというアナウンスがない。館内放送が有効活用されていない。

 出されたときその場にいれば食べることができるが、いなければ、料理から湯気が立ち昇らなくなるころ、また粛々と皿を下げてしまう。

 幸か不幸か、偶然にも必然的にその不親切な食事提供システムをつぶさに観察できる位置にいた私は知ってはいたが、なにせ椿梅を、この薄い板の向こうに押し込めておくことに全神経がとられており、食べるとか知らせるとか、つい今しがた思いついた次第であり。

「なんで言わなかったのよ」狸狐塚ココヅカ氏に怒鳴られるのはお門違いというものだ。

「来たことないのか」孫なら。

「来るわけないでしょ?」孫だからこそ、とでも言いたげな。「とにかく、食事の件はいいわ。そんなことより」それを遙かに凌ぐ気に入らないことがあるらしい。

 昨日まったく同じことをされたような。

 フォーマルスーツを突き出される。

「これに着替えて。シャワー浴びてからよ」

 何の権限があって。

「風呂は入ろうと思ってた」

「どうせ着替えなんか持ってきてないんでしょ? 下着も要るわね」

「なにがそんなに気に障る?俺の」

「あたしね、あなたみたいな汚い男が大嫌いなの。もう、見るだけで虫唾が走るわ。シャワーが三日おきとか、靴下裏返して履くだとか」

「さすがに靴下を裏返して履いたことはないが」

 シャワーなんか三日おきどころか滅多に浴びない。風呂派だから。浴槽に湯を溜めて入らないと入った気がしない。

 ただし、出掛ける用事がなければ。

「確かに三日おきだな。なんでわかる?」

「なんでじゃないわよ。なんではこっちよ。汚いったらありゃしない」

 どうしてそこまで貶められなければならないのか。たった一日、風呂に入らなかったくらいで。

 反論が面倒なので黙って自室のあるフロアに下りた。狸狐塚氏がついてくる。スーツを床に置いてきたのが癇に障ったらしく、狭いエレベータの中で散々に罵られた。臭いだの臭うだの。

 嗅覚が過敏すぎやしないか。

「しょうがないじゃない。気になるのよ」

 一つ下のフロア。

 エレベータを中心として十字に通路が伸びている。その通路と通路に挟まれる四つの長方形に、エレベータとを結ぶ対角線を引き、二つの部屋を区切る。

 放射線状に全八室。

「ここでいい」自分の部屋が皆目見当つかないが。

「どこかわかってるわけ? あなたずっと上にいたじゃない」

 フロア全体を時計の文字盤に見立て、エレベータを降りて直線上の突き当りを6とする。現在位置からは、4、5、7、8の部屋のドアしか見えない。

 いずれのドアにもこれといった特徴はなく、部屋番号すら振られていなかった。

 到着するたびにエレベータのドアの開く方向が変わったら、迷わず自室に辿り着ける自信がない。ドアの方向が固定されていたって迷っている。

「なに聞いてたわけ?あの気味悪いメイドにもらってないの?」

「なにをだ」

 思い出した。

 確か、このあたりに。

 カードキィ。

 大きく10と書かれている。

 以外は特に何の変哲もないプラスティック製の磁気カード。

「あるじゃない。あなたの」引ったくり。「ふうん。こっちよ」7の部屋の前で。「三十分しか待てないわ。いい?一分でも一秒でも遅れたら」

「三十分後に寿命でも来るのか」主語は自称孫の祖父。

「観たくないの?おじいちゃんの」

 死に顔?遺体?

 どちらでもなかった。

 自称孫の権限で展示室を案内してくれるらしい。

「別に頼んでないんだが」

 なんで私だけ?特別扱い。

 狸狐塚氏が人差し指と中指で挟んだカードキィには。

 7と書かれていた。

「隣にいるわ」

 同室かと思ってどきりとしたが、カードに書かれている数字と、フロアを時計の文字盤に見立てた場合の数字は、別物だ。

 7が隣ということは。

 10の隣が7? 

 エレベータを背に、向かって右が7だと。

 いうことなのだが。

 法則性が不明だ。自称孫に聞けばわかるのかもしれないが、すでにカード7の部屋に入ってしまった。堅苦しい衣装を残して。

 椿梅はどの部屋だろう。


      2


 郵便物があさられている気がする。

 ストーカ?

 部屋ごとのメールボックスをアパートの階段横に置いてあるやつだから、他のをのぞくことだってできる。わざわざ自腹で鍵付けてあるってのに。

 どれでもいいなら鍵のないのを選ぶ。

 犯人は、あたしのを見たいってことだ。

 誰よ。

 さすがに開封はされてないけど、目当てのものがなかったみたいで、八つ当たり的に投げ込んだっぽい。

 角が曲がってたり、向きとか滅茶苦茶に入ってる。

 郵便屋さんはそんなことしないって信じたい。

 本当に誰?

 そんな状況が一ヶ月くらい続いた。結構どうでもよくなってた。どうせ大した手紙なんか来ないし、公共料金はぜんぶ口座引き落としにしてあるし。

 なくなって困るものなんか。

 届くはずの日にポストに入ってなかった。

 ストーカからの手紙。いつも読まずに捨ててるけど、毎週金曜に届いてた。

 それがない。諦めた?

 そんなわけ。送るの忘れた?

 そんなわけ。

 ドア前に地味な女が立ってた。

「こんばんは。一週間ぶりですね」あたしを見ると、手に持ってた便箋を声に出して読み始めた。

 まさか、

 それ。

「恙なくお過ごしでしょうか。お変わりありませんでしょうか。今週も僕は元気です」

「何の用?」その女が誰なのかやっとわかった。「知らないの? 人の手紙開けると犯罪なんだけど」粘着的に親展のハンコまで押してあるってのに。「随分つまんない女になっちゃったわね。そんなんだから男が逃げるのよ」

「モテモテな人はいいよね。こんな素敵な手紙もらって。毎週毎週」便箋をはたく。手がやけに荒れてた。「じゃあ逃がさない方法教えてよ。誰彼構わず脚開く以外で」

 従姉だ。

 男にもらった人生最初のプレゼントが離婚届、てゆう哀れな女。

「おじいちゃんが危篤なの。知らないよね。たーちゃん忙しいもんね。男をクワえるのに」

「何の用なわけ?」朝っぱらから。「別にそれあげるから帰ってよ。疲れてるんだから」

 鍵を開けて中に入ろうと思った。

 閉め出そうとしたところを、凄まじい力で止められる。

 無駄に体育会系だから力だけはある。

「これ、欲しくない?」手紙。

 差出人は、

 おじいちゃんの別名。

 奪い取ろうとしたけど、軽々とかわされる。

 なんでそんな無駄に背が高いの。

「返して。返しなさい。それ」

 あたしの。

「入れてくれる?それとも誰かいるの?見られちゃ困るような不細工な男が」

「だから、何の用かって」

「おじいちゃんが死んじゃいそうって、どうゆうことかわかるよね?たーちゃん賢いもんね。いつも褒められてたもんね? 頭だけはいい、て」

「顔が悪くて怪力以外取り柄のないあんたに言われたくないわ。とにかく返しなさい」

 手紙に手が届いた瞬間、

 巨大女が倒れ掛かってくる。

「ちょっと、退いて。退きなさい」

 反動でドアが閉まる。

 玄関を片付けたばっかでよかった。そうじゃなかったら、

 ペットボトルと資源ゴミの海に沈没するとこだった。

「男に振られたショックでシュミでも変わったわけ?」

「このままだと遺産はぜんぶたーちゃんのものにならない」

「まずは退いて。あんた代謝いいから厭なの」汗臭い。身体は冷え切ってるのに。「何度もおんなじこと言わせないでよね」

 従姉はあたしにくっつくのが好きだった。

 筋肉質の従姉にとって、モヤシのあたしは柔らかくて気持ちよかったのだ。

 もう十年以上前の話だけど。

「おカネ欲しいからこんなことやってるんだよね? ねえ、借金どのくらいあるの?」

「言ったら払ってくれるわけ?」

 腕の力が弱まらない。そろそろ抵抗するのが限界。

 疲れたし眠いしだるいし。

 体力ないあたしに向かない仕事。

 いくら成績がよくたって食ってけない。通知表もテストスコアも無意味だ。

 あたしには何もない。

 そう気づいたときに完璧手遅れ。

「それで?なに? ぜんぶあたしのものになるわけないじゃない。相続順位とかそうゆうのがあるの」

「おじいちゃん、これっぽっちもくれる気ないよ。どうなってるか知ってる?遺言」

「知ってるの?」フツー知らないと思うんだけど。

 作成に立ち会わない限りは。

「なんて書いてあるわけ? どういうこと?」

 従姉が、腕の長さ分だけ空間を返す。

 照明が点いてないお蔭で、生まれつきの酷い顔が見えなかった。

「愛人がいるの。一緒に住んでる」

「ふうん。つまりその愛人にぜんぶあげるって書いてあるわけね」アリだったっけ?そうゆうの。遺族に全然遺さないとかって。「あのね、そうじゃなくたって、あたしがぜんぶとかって無理よ。あんたバカだから知らないでしょうけど」

「私はいい。でも、たーちゃんがもらえないのは」

 許せない、と。

「どうでもいいけど、いつまでこうしてるわけ? 話聞くわよ」

 さっさと追い払って寝たいから。

 もって一週間の命。

 顔を見せてほしい。意識があるか保証はできないが。

 差出人はおじいちゃんの別名だったけど、余命一週間のニンゲンが手紙なんか書けるわけない。

 おじいちゃんに仕えるメイドの代筆。

 一刻を争う緊急事態のため代筆にて失礼します。手紙はそう締めくくられていた。

 便箋は二枚。一枚はメイドの代筆。

 もう一枚は、愛人とやらからの。

「なによこれ」

 従姉が遺言内容を知ってるのは、なんのことはなかった。親切な愛人とやらが事細かに記してくれてあった。

 遺産がすべて自分のものになる理由を。

「いまから行けない?行ってあげて」

 そんなの、

 あんたに言われなくたって。

 おじいちゃんの屋敷に行くのはこれが初めてじゃない。でも、数えるくらいしか行ったことない。コウモリとかが住んでそうな薄気味悪い建物。

 一応、博物館も兼ねてるらしいんだけど、おじいちゃんの許可がなければ門前払い。おじいちゃんが観てほしい人にだけ観てもらえるようにしてるのだと、おじいちゃんが言ってたのを思い出す。

 入り口のステップでメイドが待ち構えていた。

 おんなじ顔しておんなじ格好の二人。

「お待ちしておりました」

「どうぞこちらへ」

「まだ生きてるわけ?大丈夫なの?」

 間に合ったてこと?

 エレベータで地下2階へ。

 おじいちゃんの部屋がある。

 何を訊いてもメイドは黙ったまま。「あるじがお待ちかねです」を繰り返す。

 本当は来たくなかった。

 あんまりいい思い出がない。おじいちゃんのことは嫌いじゃないけど、変わった趣味を持ってる人だから、親族みんな関わらないようにしてた。

 おじいちゃんの話題を出すと、決まってあの顔をされた。その顔がすごく厭だった。

 松明みたいな明かりが点在する廊下を進んでドア前まで。

 メイド二人はそれぞれ脇に立ってお辞儀する。「あるじがお待ちかねです」

「ひとりで行っていいのね?」

「あるじが」

「もういいわ」

 ドアは観音開き。

 昔はすごく重かったはずなのに、

 いまは。

 死ぬほど聞きあきた音がして思わず手を離す。

「あるじがお待ちかねです」

「わかってるわよ。それやめて」

 嫌がらせ?

 手紙のときからけんか売られてることは気づいてたけど。あたしが来ることを見越してそうゆうことをやってるに違いない。

 あたしも遺産はどうでもいい。

 おカネは欲しいけど自分で作った借金だ。あたしが自分で働いて返す。

 おじいちゃんが利用されてるのは許せない。

 病気一つしたことなかったおじいちゃんが生死の境を彷徨ってるのは、傍で精気を吸い取ってる吸血鬼がいるからだ。

「取り込み中ならそう言って」ドアの中に向かって叫んだ。

「あるじが」

「うるさいわね。あんたたちもう下がって」

「わたくしどもの本日の最重要使命は」

「貴方様を主が元へお連れすること」

「それが達成されない限り」

「ここより動くことは出来かねます」

「じゃあせめて黙って」

 しばらくして、生意気そうなガキが出てきた。

 あたしの周りを散々くるくる回ってふうん、とかへえ、とか馬鹿にした呟きを吐いた挙句。「ニセモノは呼んでないんだけど」

「あんたに用はないのよ。様子見て来いって言われたか知らないけどね、あたしは」

「しょーしんしょーめーの孫ってしょーめー、ある?」

「だからあんたに用なんか」

 あたしにふざけた手紙寄越した愛人とやらにひとこと言ってやんなきゃ気が済まないのよ。

「手紙見てビックリして駆けつけたんだよね? 根こそぎ遺産取られちゃヤだから。借金まみれのおねーさん?じゃない。俺から見ると、親のきょーだいの子どもだからええっと」

 親のきょうだいの子ども?

「何言ってるの?あんた誰?」

「まだわかんない?父さんの血が流れてるとは思えないね。やっぱニセ」

「ちょっと待って」

 親のきょうだいの子ども?

 父さん?

「どういうこと?あんた」

「ニセのめいっ子にトクベツ教えてあげるよ。俺のみょーじ」良ノ沢。「ここまで言えばわかるよね? 頭だけはいいって、父さんよく言ってたよ」

 良ノ沢は、

 おじいちゃんの。

「おじいちゃんに息子は」娘はいるけど。

 父さん?

「いない? そう、いない。せーぶつ学的にはね。でも、ほーりつ的には」

「いつ?」養子だ。「いつよ。そんな」

「愛する人に全財産をそーぞくさせるためにはどうしたらいいと思う?」

 あたしの短所は、

 頭だけがいいこと。

 長所だなんて思ったことない。

「どうせ財産目当てなんでしょ?そんなの」

 愛人と養子が同一人物だとか。

 信じられない。信じない。

「不純?なんとでも言いなよ。父さんの遺産を食い物にしようとしてるのはどっち? 借金まみれで嫌々カラダ売ってるニセめいのおねーさん」

 無視しておじいちゃんの部屋に入ろうとしたら、立ち塞がる。

「退いて」

「イミない気なんかつかって待ってるからだよ。ついさっき」

 逝った?

「嘘。退いて。退きなさい」年下だから勝てると思った。小柄で細いし。

 全然動かない。

「ニセ孫に見せる顔はないよ」

「にせにせにせにせって。さっきから。あんたなんのつもり?あたしは」顔を見せてほしいのに。「あんたの顔見にきたんじゃないのよ。おじいちゃんの」

 メイドがドアから姿を見せる。

 いつの間に。

「滅多なことを仰らないでください」

「幾ら養子といえども容赦しません」

「あるじを侮辱されるなら」

「殺します」

 感情がこもってない分余計ホントっぽく聞こえた。

 愛人で養子だとかいうガキんちょはしぶしぶドアから離れる。

「父さんのメイドでも俺のメイドじゃないんだ」

 メイドは、

 本日何十回目かのお馴染みのフレーズを唱える。「あるじがお待ちかねです」


      3


 脱衣所のあたりで物音がする。

 曇りガラスのシルエット。見覚えのあるようなないようななかったことにしたいドレス。

「隣にいるんじゃなかったのか」

 狸狐塚タスク氏。

「あの女とどういう関係?」

「あの女?」

 誰のことかわかったがわざと、知らない振りをした。

 女は、そこにいるお前と。

 もうひとり。

 最上階に閉じ込めてある。

「それが訊きたくてこんなまどろっこしいこと」汚い臭い呼ばわりまでしやがって。

「こうでもしないと言わないでしょ? 違う?」

「ほんとのこと言うとは限らないな」

 勢いよく開いた。浴室にも鍵が要ると思う。

 プロの女が襲ってこないように。

「知ってるんでしょ?言いなさい」

「閉めろ」

「言って。言わないと」

「閉めろよ。寒みい」

 狸狐塚氏が浴室に踏み込んでくる。

 裸足。ストッキングは脱いであった。用意周到。

 最初からそのつもりだったらしい。

「教えて。あの女はおじいちゃんのなに?」

「出てけ」

「知ってるのよ。あなた、ホントは刑事じゃないんでしょ?」

「ケージだが?」

「辞めさせられたのよね?あの女捕まえ損ねて」

 ちょっとばかし腹が立った。

「退け。頭洗う」

「逃がしちゃってクビになって。いまなにやってるわけ? 落ちぶれ探偵?」

 挑発してるのはよくわかった。

 大概のケンカは叩き売りだろうがぼったくりだろうが買わずに素通りなのだが。

 駄目だ。

 椿梅のこととなると。

 立ち上がる。水面は膝の辺り。

「出てけ」

 普通の女はここで引き下がるのだが。

 引き下がらない女はお前で二人目だ。

「そんなんでビビると思ってるの? 男ってみんなそう。自分のほうが上だと思ってる。くっだらない。主治医の姿が見えないの。知ってるわよね?」

「質問が多すぎるな。仕事中もそんななのか」浴槽から上がる。

 椅子に座って髪に湯をかける。わざと、

 飛び散らせた。

 濡れようが知ったこっちゃない。

「脱いだほうがいいぞ。大事な商売道具」

「平気よ。いくらでも買ってくれるわ」

「脱がすために」

「あなたも脱がしたい?」

 シャンプーを泡立てる。

 地肌に爪を立てる。

「正答は俺にもわからない」

 椿梅は大真面目にはったりをかます。真実をごっそりすり替える。

 本気にしないことが最善の回避策。

「俺はこのゲーム自体にまったく興味がない。誰が勝とうが秘蔵コレクションとやらを手に入れようが心底どうだっていい。が、これだけは言っとく。お前らに勝ち目はない。死にたくなかったらこのまま部屋でおとなしく」

「やっぱり。殺したのはあんたたちね。ライバルを減らすために」

「なんか勘違いしてないか」

 泡を洗い流す。

 視界が拓けたところで加速度。

 こう来るか。さすがは手馴れていらっしゃる。

 脚と脚の間に。

 膝を。

 ドレスの裾は水を含んで重くなっている。

「とぼけないで。馬鹿にしてるの?」

「わざわざ死期を早めるな。まだまだやりたいこともあんだろ? カネ返して、そんで」

 腿の付け根からスリットが入ってるため、

 動きやすい反面。

 見えそうで見えない見ないように見たところでどうということもないのだが。

「俺に色仕掛けの類は効かないぞ」

「みたいね。あの女とデキてるの?」

「なにが」

「殺人犯とそれを追う刑事には見えないわ」

 そりゃそうだ。

 当の本人たちだって、

 そうとは思っていない。

「いい加減退いてくれ。身体が洗えない」

「共犯よ」狸狐塚氏の白い手が、とんでもないところへ伸ばされようと。「どう?洗ってあげましょうか?プロが」

「いい。破産する」

「サービスするわ。ただし、答え」教えて。は掻き消された。

 ブザが鳴り響く。

 高い音。質問用。

「なによ?誰?」

 ほら、

 言わんこっちゃない。

「ゲームオーヴァだ」

『間違えましたわ。暗くて手元が』

 低い音。解答用。

 上のフロアなので聞こえないはずなのだが、館内放送をオンにしたまま鳴らしたので。

『一秒でも遅れたらドアぶち壊そうと思いましたわ』

『お待たせしました』

『いま鍵を』

『結構よ。お風呂で楽しくソープごっこをしてらっしゃるお二方を待つくらいの余裕があってもよろしいのではなくて?』

 観てたな、こりゃ。

 椿梅がとどめを差しにかかってる。

『正解者以外は命を差し上げるのでしたわよね?』


      4


 今日あたり命日かもしれない。

 椿梅が王手をかけた瞬間、いつもそう感じる。

 封鎖したドアの前に参加者が集まっている。

 良ノ沢ヨシノザワ氏に鼻で笑われたのはきっと、先ほどの全館放送を拡大解釈してくれたからではないと思いたい。

 裸でないだけマシとばかりにズボンを履いてタオルで受け止めきれない雫で適当に羽織ったワイシャツの肩部分をびしょ濡れにしている姿に思わず失笑してくれたものだと。

 上着は、お色直しの済んだ狸狐塚氏が抱えている始末。

 言い訳が思いつかない。

「ケージさん? お待たせしていてよ」椿梅が嫌味を言う。

「書いたのか」解答用紙。

 封書がドアと床の隙間から。

 それをメイドの片割れが拾う。ペーパナイフで開封した。

 のをもう片割れが覗き込む。

「代理提出ということでよろしいでしょうか」

「ええ、暗くて字など書けないんですもの」

 代理提出?

「ウロコのか」

「ふーん、偉そうなことべらべらゆってた割にはさあ」良ノ沢氏が、私を見る。「じゃなくって、刑事さんのだったりして? 仲良さそうだったし、旧い知り合いっぽかったし。実は組んでたり?」

「あんたなんかと同意見とはね」狸狐塚氏も、私を見る。

 やめてくれ。穴が空く。

「で? 当の本人は」私は、ドアを見る。

 メイドが持ってる解答用紙のサイン部分が眼に入った。

「諦めて負けを認めたか」

 提出自体はどなたが行なっていただいても構いません。ただ、解答責任は用紙に書かれたサインに従います。代理提出の場合、当然その解答はサインをされた方に所有権がありますが。提出された時点でサインの主が絶命している場合。

 まさか。

「おい」なんでいま来ない。

 提出された時点でサインの主が絶命している場合、代理で提出された方に所有権が。

 地鳴り。

 何か重たいものが地表に捨て身の勝負を挑んだかのような。何か重たいもの。

 エレベータを背にして突き当りまで走ると階段。

 外の様子をうかがい知るための窓じゃない。光を取り入れるための。

 レストラン側の壁はガラスが嵌ってる。

 そこまで走った。血の海を蹴散らし。

 見下ろす。

 入り口のステップ。

 その両側に一対の。向かって左のスロープに。

 脚のような。

「どうされたのですか」メイドの二重音声。

「聞こえなかったのか」

「なによ?いまの」

 よかった。

 私にしか聞こえない音ではなかったようだ。

 狸狐塚氏が引き攣った表情で。「ちょっと。なによあれ?」

 よかった。

 私にしか見えない脚ではないようだ。

 ガラスは窓ではなかった。

 開かない。張り付こうが角度的に限界。

 その方向には。

 椿梅を閉じ込めた。

「なあ、もしかして窓がないか」

「ございます」椿梅に訊いたつもりだったが。

 メイドが代返する。

「それがどうされましたか」

 開けるか?

 いいや。そんなことしたら、いままでのあれやこれやがぜんぶ無駄に。

「わたしは逃げませんわよ? なんでしたら皆様を代表しまして」

「お前の眼は信用できない」

「下でもいい?」良ノ沢氏がエレベータに乗る。

 つられて乗る。

「あすこの真下は」

「ちょっと。置いてく気?」狸狐塚氏もついてくる。

 一つ下。

 客室のフロア。

「こっち」時計の文字盤に見立てて、

 5の位置の。

「ここだよ」

 私の部屋と通路を挟んで隣の。

「開けられないか」

「メイドならね。それにここ」良ノ沢氏が引き攣った笑いを。「あの人の」

 あの人が。

 誰を指してるのかすぐにわかった。

「あいつのカードなら」

 椿梅。

「そりゃね。あの人の部屋だから」

 念のため、通路の突き当たりまで行ってみた。壁だけ。

 引き返す。

「下は?」

「3・4・5は入れない。2階は窓ないし。本があるから」

 1階しか、

 ないと。

「あたしは厭よ?」狸狐塚氏が首を振る。「あんたたちだけで行ってきなさいよ。外出ちゃったら失格なんでしょ?」

 そうだった。

 私はあれだが。

「いい。待ってろ」良ノ沢氏に言った。

「外出なきゃいいんだ」

 エレベータは2階で終了。

 吹き抜けになっている。階段を駆け下りる。

 コンパスは確実に私のほうが勝ってるはずなのに。

 慣れだ。さすがは養子。

 エントランスホールの中央には、嫌味なくらいバカでかい水槽がある。魚類の域を遙か昔に脱したがしかしそれでも魚類以外のなにものでもない魚類をぎゅうぎゅうに押し込めて。

 階段を下りていくと水槽の袂に辿り着ける。それに遮られて発見が遅れたのだが、いままさに。建物の外へ出て行こうとしている。

 メイドの片割れ。

 いつの間に?私たちが客室の前でうだうだしている間に降りたのだろうか。

 出入り口の扉ぎりぎりまで追う。建物の外、というのが具体的にどの境界を示してるのかわからない以上、ここで大人しくするほかない。

 扉を開け放って。

 すぐにメイドが戻ってきた。

「ウロコ様はついいましがた」永遠を「手放されました」

「本当にウロコか?」

「確認されては如何かと」

 メイドが嘘をつく理由が見当たらない。

「死んだのか」

「確認されては如何かと」

「自分で飛び降りたのか」あり得ない。「突き落とされたのか」

 どうやって?

 やりそうなのは、動機充分なのは。

 椿梅だが。落下地点から見れば間違ってない。

 が、突き落とすためには。

 突き落とす対象を傍らに置かなければ。

 どうやって? あの部屋は外から鍵を。

 客室からだとしても、

 椿梅のカードがなければ。椿梅からカードを受け取っていたとしたら? 

 ドアの隙間から。

 しかし、あの隙間から通るのはせいぜいカードか封書か紙数枚程度。

 椿梅本人は通過できない。

 結論。

 突き落とせない。

 仮説。

 飛び降りた。何のために?

 どこから?

「屋上は」良ノ沢氏に訊いた。

「行ったことないよ。あるのかなあ」

「ツバメの隣は誰だ?部屋の」客室。

「ハゲじじい」陸代ロクシロ氏だ。

「入れないか」

「だから、カギがないと」

 誰かが。烏鷺口氏本人含めて、

 何らかの形で。

 陸代氏の部屋のカードキィを預かっていた。もしくは奪っていたとしたら。

 駄目だ。

 陸代氏の部屋からじゃあの位置に落下できない。

 そんなことよりなにより、烏鷺口氏が、

 飛び降りる理由がまったく思い浮かばない。

「ねえ、あのインチキ主治医だったわけ?」2階の手すりから身を乗り出して。

 狸狐塚氏が。

「どういうこと?わけわかんないわ。なんで」

 俺以外の命日になった。

 いつも塗り替えられる。椿梅は私を殺さない。

 生かしている。

 ずずずずずずずずずず。

 開け放ったままの扉の向こうで。

 ざりざりざりざり。

 何をしている。

 何の音だ。なんの。

 メイドが烏鷺口氏の足首を摑んで後退する。

 ずずずず。

 ざりざりざり。

 様子。

 烏鷺口氏はうつ伏せだった。

 顔面が引きずられて。血液がかすれた跡。

 轍のように。

 通過。

 呼び止めるべきだった。声を出すきっかけが剥離する。

 なぜ平然とそんなことができる。

 重すぎる農具の片付けを黙々とこなす。

 どこへ持っていく?

 永遠を手放した。イコール、

 命を差し出した。

 なのだろうか。陸代氏も?

 すでに。

「いまのなに?」狸狐塚氏が階段を下りてくる。「ねえ、なによ。いまの」

 そんなのは俺が訊きたい。

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