第2話 蹴魂;けたたましい

      1


 夜になっても自分の部屋に戻ろうとしない。若者二名。

 狸狐塚ココヅカ氏はひどく眠そうな顔で眠れないから、と言うし。

 烏鷺口ウロコ氏はお構いなく、と言いながら構ってほしそうな顔をしている。

 フロアを横断する通路を挟んだこちら側と向こう側に敷かれている真紅の絨毯が、床面に直に腰を下ろすこの眼線からだと、血の海に見えて仕方ない。

 暖炉にくべられた火も、眠たいせいか、荒れ狂う血の海にしか見えてこない。

 血の海なんか見たいと思わない。

 が、この大悪党を、国家権力を笠に着て大っぴらに追っていたときは、頻繁に血の海に遭遇した。血の海の源泉にあるのは、血液の零れた容器ではない。

 椿梅ツバメアザミユウ。

 証拠は何ひとつないが。

「なにか飲まれたら?」椿梅もいっこうに眠る気配がない。

 ひっきりなしに話しかけてくる。それこそどうでもいいようなことをひたすら畳みかけてうんざりさせることで。

 私を扉の前から退かそうとしている。

「無駄な足掻きはやめてさっさと」

「あら?わたしが眠るのを待っていてくださったの?」

 壁の振り子時計が、一秒おきにかちかち、一時間おきにぼんぼん鳴る。

 鍵の在り処に手を遣る。いっそ握ってるか。

「そうゆうプライヴェイトなことは部屋に行ってやられては如何かと」なにを勘違いしたのか。烏鷺口氏が耳打ちする。

 呼気がぞわぞわ気持ち悪かった。

 お蔭でうつらうつらが吹っ飛ぶ。

「グルかお前ら」

「なにを仰られてるのか僕にはさっぱり」

「わたしもさっぱりですわ」

「許可なく会話するな」

「ああ、そうでした。ゲームに夢中でつい聞きそびれてたんですが」

「ずっと聞きそびれていい」眼を瞑って追い払う。

 烏鷺口氏が、私の鼻先を舐められる位置まで顔を近づけたのがわかった。

「欲しいんじゃないのか」

「それはもう。欲しいですよ。喉から出た手を見せて差し上げたいくらいに」

 顔を動かすとどうなるか考えたくもなかった。

「いいから退け」

「お気づきではありませんでしたか」

 参加者が一名いない。

「寝てんだろ?ガキはおねむの時間だ」

「ロクシロ先生がボタンを押されたときすでにいなかったと記憶してますが」

 無理矢理眼を瞑ったから眠気がぶり返してきた。仕方ない。

 開けるか。

 烏鷺口氏の顔はそこになかった。

「噂をすれば。こんばんは」

 エレベータを挟んだ反対側の突き当たりに、良ノ沢ヨシノザワ氏が。

 頭からタオルをかぶって。濡れた髪を拭いているらしかった。昼間の服にカーディガンを羽織っている。

「なに?刑事まで引き込まないとわかんないとか?」

 手足が長い。服の丈もいちいち長い。袖も裾も。

 襟首が大きく開いたカットソに、木製の玉がランダムに配置されたネクレス。膝下まであるロングブーツは、狸狐塚氏の靴の踵に匹敵する高さ。

 そのせいか、狸狐塚氏よりも大きく見える。

「ちょっと、どこ行ってたのよ」

「てっきり降りられたものと」嫌味だ。

「それ、ゆう必要ある?」

 やれやれようやく矛先がほかに逸れたと思ったが。

 良ノ沢氏は、私の正面までやってきた。「後ろの人と話させてよ」

「聞けない相談だな」

「なんで?刑事さんのってわけじゃないんだよね?」

「どこほっつき歩いてた」

「それ言ったら話させてくれる?」

 椿梅との共通話題が見出せないが。

「会話が続くんならな」

「もう出した?」良ノ沢氏がドアに話しかける。

「そっくり返しますわ。出されましたの?」

 良ノ沢氏はタオルを首に掛けて、長い前髪をピンで留める。髪を洗う際に外していたようだ。

「俺が養子だってこと、忘れないでね。ぜんぶ俺のだから」

 宣戦布告だ。

 死にたいらしい。

「その勇ましい自信はこれが根拠ですかしら」

 ドアと床の隙間から見えた封筒を、良ノ沢氏が血相変えて引っ手繰る。

「なんで、これ。だって」

 立ち上がるのが面倒だったのでよく見えなかったがおそらく。

 遺書。

「ニセモンだろ?」

「偽造なんてちゃちなことをわたしがするとお思い?」

 確かに。

 そんな面倒なことをするくらいならさっさか札束を積み上げる。

「だってこれ。そんなわけ」

「そんなわけもどんなわけもありませんのよ。預かってほしいと頼まれただけのことですわ。書かれましたご本人に」

「ウソつくな。ウソだ」良ノ沢氏がドアを壊さんばかりに叩く。

 とばっちりを食らいたくなかったので、少しだけよけた。

「出てこい。説明してよ」

「ご希望に沿いたいのは山々なのですけれど」

 結局とばっちりだ。

 憎しみの形相。

「開けて。こいつに用がある」

「口のききかたに気をつけたほうがいいんじゃないか」

 殺されるぞ。

「うるさい。開けてよ」

「いままでどちらに? ケージさんとの交換条件をお忘れにならないでね」

「なんでお前が言う」

「わたしも知りたいんですもの。どうして髪が濡れているのかなどを」

 風呂入ってたんじゃないのか。

「乾かすの面倒だったとか」そうじゃない。

 違う。

 なんで。

 良ノ沢氏も気づいた。眼が合う。

 一緒にドアを。

「見えてるのか」

 まさか。

「遺書でも何でもありませんわ。よくご覧になって」

 勘違いしたのは私だけだったようだ。封筒に見覚えが。

 私の上着のポケットに入っているのと同型の。

「持ってたんだな」招かれざる客は椿梅ではなく。

 椿梅じゃない?

「お寝ぼけさんでしてよ? よくよくご覧になってくださいましな」

 本当に寝ぼけている。頭がちっとも働いていない。

 宛名は。

 親愛なる息子へ

「受け取ってくれないのだと、嘆いていましたのよ」

「受け取るわけないよこんなの。だって、ここは。ここにあるものぜんぶ」

「あんたのじゃないわ。少なくともね」狸狐塚氏が言う。偽孫呼ばわりされた反撃だ。「おじいちゃんのよ」

「それも違いますね。ヘッヘルフはすでに」烏鷺口氏が口を挟む。「このゲームの勝者のものでしょう。違いますか」

「まだわたしを疑ってますのね?招待状でしたら」

 す、と床との隙間から。

 引っ張ろうとしたら引っ込んだ。

 絶妙なタイミング。

「やっぱ見えてんだろ」

「解答用紙を奪られてしまっては困りますもの」

「確められない」信じない。

 椿梅が招かれざる客でなかったら一体誰が。

 ――――この中で招待状を持たない方がいらっしゃいます。

 ルール説明の前に、ドロシィだかルーシィだかがそう言った。

 なんのために?

 持ってないなら追い返せばいい。参加の資格がないんだから。

 持ってなくても参加できる?のなら、わざわざ招かれざる客について言及する意味はない。お集まりの皆さん、でことは済んだ。

 意図がわからない。

 椿梅が勝者になることを妨害したいのだろう意志は感じたのだが。むしろそのために私が呼ばれたのでは?ないのか。

「おい」全員に向かって言った。「招待状を出せ」

「確認してどうするつもりでしょうか」烏鷺口氏が言う。

「わかってることを訊くな。招かれざる客ってのを吊るし上げる」

「なによそれ。孫のあたしが持ってないって言うの?」

「孫だから持ってないんじゃないか。本当の孫だから」持ってなくても参加できたとか。

「冗談じゃないわ。見たいなら見なさい」狸狐塚氏に封筒を投げつけられる。「ほら、あるでしょ?見たなら返し」

 返そうとした。

 ところを良ノ沢氏に奪られる。

「まごまごまごまごうるさいなあ。父さんに孫なんかいないよ」

 やけに確信じみてるが。自信満々なのは良ノ沢氏の仕様か。

「父さんってなによ。ニセはどっち? 返して」狸狐塚氏が手を伸ばすが。

 身軽にするりと。

 あっという間にエレベータのあたりまで。

「返してほしかったら土下座でもしなよ」

「いないってのは」

 いないのか。

 孫なんか。

「いないわけないでしょ。あたしが孫なんだから」

「ヘッヘルフの名誉のために墓まで持っていこうと思っていましたが主治医としてはやはり患者の個人情報に守秘義務が」烏鷺口氏オンザステージに突入しそうだった。口から生まれてきた氏が墓まで持っていけるはずがない。

 骨くらいだ。

 持っていけるのは。

「診断書はあとで書くとしまして。亡骸にプライヴァシィはありませんので」ちらりと養子を見遣る。アイコンタクトをしようとしたのだが。

 養子はそっぽを向く。

 勝手にしろ、ということらしい。

「黙認ということで、お教えしましょう。あなたを孫と認められない理由。僕も疑っていますよ大いにね。ヘッヘルフに孫などいるわけがない。子がいないのですから。どうやって孫を産みましょう? 子どもの子どもが孫ですよ?そこはおわかりですか」

「馬鹿にしてるの? だから、その子どもの子どもがあたしだってゆってるの。どうして信じてくれないの?」

 その証明を突きつければいいのに。

 偽造だと思われるのが落ちか。同じだ。

 あろうとなかろうと。

「いないのか」こっそりドアに話し掛ける。

「いますわよ。そちらに」

「養子だろ?」

「養子は子に違いありませんでしょう? 養子の子は孫になりません?」

「寝ぼけてないか」年齢を考えろ。

 孫のほうが十も年上だ。

「ドン=ヘッヘルフに孫がいるのかいないのか聞いてる」

「ですから、いますでしょう?そこに」自称孫が。「信じてあげては?」

 信じていないわけじゃない。疑っているわけでもない。

 どうだっていい。

 壁の時計がぼんぼん鳴る。

 狸狐塚氏がエレベータに乗るのが見えた。

 孤立無援で四面楚歌で背水の陣なのはお前だけじゃない。教えてやる義理もない。

 良ノ沢氏も見える範囲にいなくなっていた。ぽわぽわあくびをしていたからいい加減部屋に戻ったのだろう。

「もしかすると、盛大な茶番に巻き込まれてるのかもしれませんね僕らは」烏鷺口氏は残っていた。「ヘッヘルフが死の間際に仕掛けた生への抗いに捧げられる愚かな贄といったところでしょうか」

 相槌だけでつけあがるので黙っていた。正直眠くて瞼が勝手に落ちてくる。

 言っている意味をわかって言っているのだったら大したものだが。

「順番的に僕が第二の生贄っぽいので、続く第三、第四そして」烏鷺口氏はこん、と軽く扉をノックする。「わかっていらっしゃるんでしょう? 唯一絶対の解などすでに。あなたは記入が済んでいる。僕らが自滅するのをそこで優雅に見物、おっと見えませんでしたね。見えるはずがありません」

 見えてないと思うのだが。

 たぶん。

「おそらくは提出したところで正当か誤答かの審判が下されるだけで、唯一絶対の解を知ることは出来ないでしょう。僕にはそれが悔しくてなりません」烏鷺口氏は、思いもよらないところからカードを出したマジシャンのごとく、白衣のポケットから封筒を出す。「そこでどうでしょう? ヘッヘルフの茶番に乗って一心不乱に踊っている僕に、手向けとして。教えてくれませんか。この通り。僕のはすでに封をしてあります。改竄も何もできません。するつもりもこれっぽっちも」

「お医者様のくせに睡眠を妨害されるのかしら」

 寝てたのか。

 寝る必要があるのか。

 椿梅に、ニンゲンの。

 三大欲求は当て嵌まらない。

 ニンゲン以外の。しかも、

 生体じゃない。死んでもいない。

「失礼しました」烏鷺口氏が微笑む。「人類の夜明けまで待つとしましょう。それでは、僕の誠意を示すためにこれを」紙切れ。手帳の端を破ったらしかった。

 二つに折り畳んで、私に手渡す。

 と思いきやドアの隙間から。

「おい、俺に無断で」腕を摑んだがすでに紙切れは部屋の中へ。

「おやすみなさい。寝ている間に僕が殺されませんように」それを捨てゼリフに、烏鷺口氏はエレベータに消えた。

「なに書いてある?」

 烏鷺口氏が提出しようとしている解。

「お医者様とは思えない答えですわね」

「どうなんだ」

「違いますのよ」ドアと壁の隙間から落ちてくる。

 見ようか迷った。

「あれは狂気でもなんでもありません。わたしにしてみれば、ここにあるものは実物以外の何かであって、決して実物ではないの。模した何か、ですらありませんわ」

「だったらなんだ?」

「ご覧になったら?」

 見る。

 だらだらと無駄に長くてざっと眼を通しただけではわからない。

「なんだ?要するに」

「人類の夜明けまでお待ちになって。それとも解放してくださいます?」

 徹夜で暗号解読したほうがよさそうだった。


      2


 送れども送れども送り返される。

 莫大な報酬が得られるにしても、もれなく心身を害するという交換条件では割に合わない。カネより地位より名誉より大切なものを、僕らは身をもってわかっている。

 前主治医の交友範囲に教授がいた。その教授から伸びる枝と蔓のだいぶ末端の方にいた僕に声が掛かるのも時間の問題だった。

「先生とは古い付き合いでね」断ることはできない。しかし、自分がやりたくない。

 てっぺんの教授の傘下で、かつ一番下っ端で新参の僕に押し付けようという魂胆だ。

「お言葉ですが、まだ臨床経験の浅い僕にはとても」

「そうかな。君ならやれると思うんだがね。返事は急がないよ」

 急ぎはしないが返すべき返答は一種類に限られる。

 返事を引き延ばせば延ばすほど、それは強固に定まる。

 カルテすら見せてもらってないというのに。

 見せてもらわなくて正解だった。

 その患者は、教授の交友範囲にいるヤブ医者の手に負える症例ではなかった。汚されていない鋭敏な僕の眼と耳とその他の感覚で仕入れた情報のほうがよほど有益だった。

 臨床に飛び込んだその同日に臨床からかけ離れようと藻掻いている僕には、まさに絶好の研究材料になり得る。

「どうかね」患者は自慢のコレクションを披露してくれた。

 これだ。

 主治医が主治医を辞退したくなる原因は。

「本当に模型でしょうか」

「そうせざるを得ないだろうね。下らない質問をしないでもらえるかな」

 純粋に褒めたつもりだったのだが。

「果てた暁には晴れてここに並べられるわけですね。模型の域を出た第一号として」

 患者が初めて意味のある沈黙を呈した。

 車椅子が向きを変えて戻ってくる。

「随分と若いのを寄越したと思ったが。君は医者に向いてないな。私が保証しよう」

「貴方の狂気も決して治りはしません。僕が保証します」

 永遠がほしい。

 それが患者の主訴だった。寝ても覚めてもそれに取り憑かれている。

 本物以上にリアルな人体模型がそれの習作だとしたら。

「何の比喩でしょうか。まさかこのご時世に不老不死でもないでしょうに」

「もし君にこれが解けたら、私のコレクションを預けてもいい。君にはその価値があるようだからね」

 人体模型自体に興味はなかった。正直言って、こんなのに囲まれて正気でいられる大脳がおかしい。まとめて医療廃棄物にしたいくらいだった。それこそ果てた暁には晴れて実行に移したい。

 自分だけは正常だと天狗になっている教授よりも、

 自分だけは異常だと妖怪になりかけている患者のほうが。

 僕の価値をわかってくれている。その一点のみにおいて、

 自分だけは尋常じゃないと神になりたい僕は甘んじて患者のコレクションを貰い受けたいと思うのだった。認めてもらった恩返しとして。

 ただ、物事はそう簡単には行かない。患者のコレクションを、コレクションそれ自体に価値を見出して狙っている輩がそれなりにいるのだ。

 彼らから見れば、僕のなんと邪道なこと。

 例えば、その旧友。

 十も年下で旧友だと胸を張れる図太い神経には恐れ入る。

 人体模型と近似する領域を蒐集している。それだけでは飽き足らず、陣地の拡大を企んでいる。集合論的には、患者の興味関心領域に、旧友の縄張りが含まれるのだ。

「若造が。お前さんにもらわれたところで、こやつらが不幸なだけじゃて。燃してかすを」

「さぞ燃やしたいことと想像に難くありませんね。肉は目障りでしょう?」

 その下が見えない。

 臓器にも筋肉にも、

 彼が満たされることはない。

「ふん、知った口を。あやつの遺志を継ぐことができるんは、ワシだけじゃ。思い上がるなよ」

「そうかっかされると血圧が上がりますよ?」

 患者には子がなかった。

 模型を作らせることに全精力を注ぎすぎて、肝心なところにいかなかったようだ。

 行き先は、肝でも心でもないが。

 人体模型は、人形にも見えなくない。

 ある意味、通常の方法とは別の代償行為として自分の遺伝子を遺そうとしていたのかもしれない。

 患者の分身とは思えなかった。似ていない。

 ニンゲンには。

 永遠がほしいという解が、自分そっくりの人体模型を作ることではないとしたら。

 なんだろう。

 自分をモデルに模型を作ったところで永遠は手に入らない。

 自分の存在を人体模型に移植したところで永遠は。

 どうなる?

「まだいたんだ」患者の養子が目敏く僕を見つける。

 所狭しと展示された模型に紛れたところで、

 僕は模型ではないのだから。ニンゲンに留まっているという確証もないが。

「すぐにお暇しますので」

 僕より二十も年下なのだが、斯くの如く生意気な口調で接してくる。つい癖で敬語を使ってしまうから尚更に嘗められるのだろう。

 やめる気もないが。やめ方を忘れてしまったらしい。

「どう?父さん治りそう?」治る見込みがないことをわかっている。

「とっとと追い返したいのではないですか?用が済んだら帰れと」他ならぬ患者本人に言われている。

「そう聞こえた? ごめんね。いちお家族団らんだからさ。ふつー息子が留守なときに回診時間とか決めない?」そんなことを言いにわざわざ。

 患者の秘密は守らなければならない。

「気が回りませんで。以後気をつけます」

 誰にも言いやしない。言ったところで、

 何の意味がある?

 患者が六十も離れた少年を養子に迎えた理由。

 患者に子がいなかったもう一つの理由が、この辺りにある。僕の推測だが。

 旧友が言うように若造でしかない僕を、主治医として認めた理由が。養子の年代に関する事情と同じ背景によるものだとしたら。

 用が済んだら速やかに帰ったほうがいい。僕にその気がない限りは。

 ないな。

 考えたこともない。

 考えたくもない。僕に、「見られたくないなら鍵をかけてください」


      3


 館内放送で眼が覚めた。結局睡魔に負けたか。

 真っ先に鍵の所在を確認する。

 大丈夫。

『皆様、おはようございます。よく眠れましたでしょうか』

 ドロシィだか。

『一夜明けてもまだ正答に辿り着けたものはいません』

 ルーシィだか。

『引き続き、わたくしどもはその運命たる刻限を迎えるまで』ドロシィだかルーシィだか。『皆様の回答をお待ち申し上げております』

 この世に存在するモーニングコールのうちで飛びぬけて最悪の部類に入るだろう。

「どうぞ。お手洗いに行かれて?」椿梅に見えているはずがないのだが。

 眼の前の通路沿いに、

 手前が男用。奥が女用。

 行きたくないわけじゃない。

 行く理由は椿梅が想定しているものとは断じて違う。

「あとでな」

 烏鷺口氏がゼリィ飲料を咥えながら現れた。白衣を羽織っていなかったので、骨と皮なのが余計目立つ。「すみません。朝食を終えたらすぐにでも」

「医者じゃないのか」そんなものばっか吸ってるからがりがりなのだ。

「お節介かもしれませんが、先にトイレに行かれたほうが」

「お節介だ」どいつもこいつも。

「どうでした?コメントを戴きたいのですが」非健康志向の医者がドアの向こうに言う。

「ケージさんをお手洗いに連れて行ってあげてくださらない?」

「おい」大概にしとけよ。

「そうしたら教えてくださいますか」

「勝ち目のないゲームなど降りてわたしに隷属しませんこと?」

「無視していい」

 椿梅は冗談は言わない。

 被害者を増やさないためもあった。閉じ込めたのは。

 会話をさせなければ。防げたはず。

 なんてザマだ。

「聞かなくていいぞ」

「とても気に入りましたわ。是非わたしの」コレクションを増やしては。

 烏鷺口氏が、ゼリィ飲料の空容器を小さく折り畳む。「それはヘッヘルフの領域でしょうか。ロクシロ先生の分野でしょうか」

「どちらでもなくてよ。生きている間も、死んだあとも」永遠に「わたしに隷属してもらいますわ。センセイがお求めになる唯一絶対の解も」

「本当ですか。本当に」

「騙されるな。そこにいる女はな」

 ニンゲンを人肉塊としか思わない。

 人体コレクタ。

 ドン=ヘッヘルフに永遠を与えるくらい造作もない。死んでるなら。

「ここだけの話ですわよ?」椿梅が、私にしか聞こえない音量で言う。

 怨みの言霊。

「思考大系もアプローチもまったく見当違いでしたけれど、だらだらと長いのを要約してしまえばわたしと」同じ。

 正解していますの。

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