第1話3章
■ 3 ■
アンジェラは部屋の隅に転がっていた。
身体中が痛くて、喉がとても渇いているのに、もう動けなかった。口の中の血の味と、あちこちの熱も辛い。
視界が狭い。殴られた顔が腫れているのだ。
狭い視界の中で、ママがテレビを見ながらお酒を飲んでいるのが見えた。
「――アンジェラ」
ママが呼んだ。
こちらを見ないまま、テレビを観たまま、ママが言う。
「自分が悪い事したって分かってる?」
うん、分かってる、ママ。
「夜遊びなんて悪い子のする事よ?」
うん、そうだよね、ママ。
「だから、ママがお仕置きしてあげたのよ?」
うん、ありがとう、ママ。
「返事も出来ないの? 本当に悪い子ね、アンジェラは」
ごめんなさい、ママ。
でも、口が動かないの。
声が出ないの。
ママが立ち上がる。
横に立ったママを、アンジェラは、精一杯笑って見上げた。
そのアンジェラを見て、ママが笑う。
「酷い顔」
良かった。
ママが笑ってる。
もう怒ってないのかもしれない。
「ま――ま」
乾いた声でアンジェラはママを呼ぶ。
笑う。
精一杯の媚びた笑み。
「ママは……アンジェラが……すき……?」
問い掛ける。
好きだから、こうやって良い子になるようにしてくれるんだよね?
だけど、思い出す。
手を繋いでくれたロック。
笑みを向けてくれたマルファス。
それから、額へのキスと優しい抱擁。
ママから貰った事の無い、それら。
思い出して、ちくりと胸が痛む。
けれど、ママが笑う。
「愛してるわ、可愛いアンジェラ」
アンジェラも笑い返す。
幼くて愚かなアンジェラだって、薄っすらと分かっている。
これが愛とは程遠い事を。
でもそれに縋るしかない。
子供であるアンジェラの世界は、ママがその殆どを占めているのだから。
でも。
――森の奥のお屋敷。悪い子を食べてしまうと言われている魔物たち。アンジェラを天使と呼び、微笑みかけてくれた彼ら。
小さなアンジェラの知る、新しい世界。
アンジェラの姿を微笑みながら見ていたママの顔が、不意に険しくなる。
アンジェラは右半身を下にする姿勢で床に転がっていた。
胸元の大きな宝石のブローチがママの目に見えたのだろう。
手が伸びる。
マルファスから貰ったブローチ。アンジェラの目に似合うと言ってくれた、宝石。
アンジェラの、宝石。
「だ――だめ」
ママの手から胸元を庇う。「だめ――だめ、なの……ママ。これは、アンジェラが……もらったの」
「誰から貰ったの」
アンジェラは迷った。
マルファス。
闇の貴族の一員。綺麗なヴァンパイア。
彼の事を口にしていいのか迷った。
「そう言えば――マリィから聞いたわよ? 男の人と一緒にいたんですって? 誰と? まさか、その人から貰ったの?」
アンジェラは首を振る。
ロックじゃない。くれたのはマルファス。
ママの顔は険しい。
その顔に怯えたアンジェラには、大きな動きなど出来ない。振られた首も僅かなもの。
「そんな大きな宝石、どうして貰ったの? 本物じゃないの、それ。ママに見せなさい」
「だめ……」
ママはアンジェラの大切なものを壊してしまう。
あの館で貰ったもの。洋服はもう汚れてしまったけど、ブローチなら洗えば綺麗になるかもしれない。アンジェラの本当の宝物になるかもしれない。
だから、渡したくない。
「アンジェラ!!」
ママの手が動いた。
殴られる。
それでもアンジェラは自分の胸を抱き締めた。
「悪い子、どうしてそんなに悪い子なの!」
殴られる。
痛い。
でもそれ以上に、手を、胸元から引き剥がされるのが嫌だった。
アンジェラは抗う。
ママの手に、生まれて初めて爪を立てた。
ママが叫んだ。
多分、アンジェラの名。
でも、よく分からなかった。
ママは何か叫びつつ、アンジェラの首に両手を掛けたのだから。
背に床を感じる。
床に押し付けられ、首を絞められている。
ぎりぎりと細いアンジェラの首を、ママの手が締め上げていた。
「悪い子。――本当にパパそっくりで悪い子」
パパは悪くは無い。
「あんたがそんなに悪い子だから、パパは出て行っちゃったのよ?」
ぴくり、と、アンジェラは動く。
霞む視界で悪魔のようなママの顔を見上げる。
ねぇ、ママ、パパは死んだんだよね?
ずっとそう言ってたじゃない。
熱い。
視界が、紅い。
「あんたみたいな悪い子、パパに渡す訳にいかない。ママが恥ずかしい思いするじゃない。あの女にこれ以上馬鹿にさせない。いくら欲しいって言っても……渡さない」
渡すぐらいなら。
「悪い子は――」
ねぇ、ママ。
パパは生きてるの?
あの女ってだあれ?
ねぇ、パパに会いたいよ。
そうしたら、また、ママも優しくなってくれるよね?
ねぇ、ママ。
「死んでしまえばいい」
アンジェラは、死にたくないよ。
息が出来ない。
一度だけ、手が、少し緩む。
最後の力、強く入れるための、ほんの僅かな緩み。
その隙間、呼吸ひとつの隙間。
アンジェラは、口を開く。
掠れた声で、言った。
たすけて、ロック。
硝子の割れる音が響いた。
そして翼の音。
ママがアンジェラの首から手を離して振り返る。
アンジェラは咳き込みながら、ママの背後の風景を見た。
窓が割れていた。枠もすべて割れて、大きな空間になっている。そこから見える外の風景は、夜。
幻だろうか。子供たちのはしゃぐような声が聞こえた。
お菓子か悪戯か。問う、声。
そうだ、今夜はハロウィン。
唐突にそんな事を思う。
「だ、誰……」
ママの驚きと恐怖に染まった声を向けられたのは、今丁度、蝙蝠状の翼を畳んだガーゴイル。
人の姿ではない。最初に会った、門の所にいたガーゴイル。その頭上をひらりと舞っていた蝙蝠が、くるりと回って広がり、降りた。
マントを着た、綺麗な男性。
ロックと、マルファス。
マルファスの顔に表情は無かった。紅い瞳がママを見ている。
ロックの表情は分からない。石の瞳がママを見ている。
けれど、アンジェラには分かる。
二人は、とても怒っていた。
「――アンジェラ」
マルファスが言う。
ママを見ずに、アンジェラの方へと足を踏み出す。
何か言っているママなど、もう、まったく見ていない。
床に転がるアンジェラを、とても優しく抱き上げたマルファスは、自分が傷付いたみたいに哀しそうな顔をした。
「可哀想に。――もう大丈夫です、アンジェラ。助けに来ました」
柔らかい闇のマントがアンジェラを胸に抱く。
ふ、と、声が漏れた。
それが嗚咽に変わる。
力の入らない腕で、マルファスにしがみ付いた。
アンジェラは泣き出した。
大声で、力一杯。
我慢する事はないと、本能的に悟っていた。
「あ、あんたたち何を――」
「アンジェラを貰いに来たんだよ」
ロックが言った。
鳥の嘴が人の言葉を操る。
「アンジェラは俺に助けを求めた。だから助けに来た」
なぁ? 「あんた、アンジェラを殺すんだろう? 殺すぐらいなら俺たちにくれよ。俺たちはアンジェラの事、一生大切にするから。傷付けようなんて絶対思わないし、傷付ける奴がいたら、全員、ちゃんと始末するから」
「こ、これは私の娘よ!」
「――その前に、一人の人間です」
マルファスの声は低かった。
微かに震えるのは怒りを抑えているから。
「貴女が、自分の恨みや怒りの捌け口に使って良い、人形ではない」
紅い瞳がママを見る。
「それほど、ご主人を愛されていたのなら、何故、アンジェラを愛せなかったのですか」
ママはマルファスを見る。
驚きの表情は、やがて歪む。
ママが、泣く。
「どうやって愛せって言うのよ。年々父親に似てくるその子を、どうやって。――愛せる訳が無いでしょう?」
「……愛してないの?」
アンジェラは問うた。
ママは答えなかった。アンジェラは目を閉じた。
マルファスがアンジェラの名を呼ぶ。優しく背中を撫でてくれた。
彼はゆっくりと歩き出す。そのままロックの横を抜けて、割れた窓枠へと。
「ま――待ちなさい!」
ママが叫んだ。「待って、何処へその子を連れて行くの。私の子なのよ、私のものなのよ、その子は!」
マルファスがアンジェラの耳元で囁いた。
「どうしますか」
「……ん」
マルファスにしがみ付く。
ぎゅ、と、力いっぱい。
泣きながら、アンジェラは、言った。
「行く。――マルファスと、ロックと、行く」
「えぇ、行きましょう、アンジェラ」
マルファスがとても優しい声でそう言った。
ママが叫ぶ。
アンジェラの名を、ヒステリックに。
その前に、ロックが立ち塞がる。
鋭い鉤爪を、ママに突きつけた。
「本当はアンタを八つ裂きにしてやりたい所だけど、アンジェラのママだ。許してやるよ。――だけど、もうアンタにはアンジェラを傷付けさせない。二度と会わせてやるものか」
マルファスのマントが広がった。
それが蝙蝠の翼になるのを、アンジェラは見る。
マルファスが笑った。
「行きましょう」
一歩。
闇の虚空へと、マルファスは踏み出す。
翼が力強く空を叩く。
アンジェラはマルファスに抱かれたまま、空を、飛んだ。
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