第1話2章




 ■ 2 ■





 翌朝、柔らかいベッドの中でアンジェラは目を覚ます。

 息を殺す。ママの気配を探す。ママがまだ眠っているようなら、アンジェラは起きてはいけない。ママがアンジェラを呼んでいるようなら急いで駆けつけなきゃならない。

 じっと周囲を探る。

 だけど聞こえてくるのは鳥の鳴き声ばかり。

 アンジェラは蒼い瞳で周囲を見た。

 見覚えの無い、アンジェラがママと住む部屋が丸ごと入りそうなぐらい、大きな部屋。

 そこでアンジェラは昨夜の事を思い出した。

 此処は森の奥。そこにあるお屋敷。悪い子を頭から食べてしまう魔物たちが住む場所。

 だけど魔物たちはアンジェラをこの部屋に連れてきた。

 食べてしまうかの相談は終わったのだろうか?

 アンジェラはそっと床に下りる。

 靴を履いて、ドアに手を掛けた。

 静かに、静かに――扉を開く。

 扉はほんの少ししか開かなかった。

 隙間から覗けば、ドアに誰かが寄りかかって眠っている。

 若い男の人だった。

 細身のレザーパンツに、ライダースジャケット。色は両方とも黒。足にはごついエンジニアブーツ。

 ドアに寄り掛かり、男の人はだらしなく眠っていた。

 許される範囲で顔を出し、男の人を見る。

 昨日見た誰とも違っていた。

 いたずらっ子がそのまま大きくなったような顔立ちに、つんつん尖った灰色の髪。組んだ腕は太く、アンジェラはずっと前に死んでしまったパパを思い出した。男の人はまだ20代はじめぐらいで、アンジェラが覚えているパパよりずっと若かったけど。

 黙って見ていると男の人の目蓋がぴくぴくと動いた。

 ふっと瞳が開く。

 髪と同じ色の瞳。

「ふわぁああっ」

 男の人は大きく伸びをした。

 それからドアの隙間のアンジェラに気付く。

 彼は大きく歯を見せて笑った。

「おはよう、“天使”」

「お、おはよう……」

「さぁ、顔を洗って服を着替えて、街まで遊びに行こう。それと、美味しいものを食べに行こう!」

 はしゃぐ声で誘う男の人。

 その声には聞き覚えがあった。

「……ロック?」

「うん」

 男の人――ロックはにこにこ笑って立ち上がる。

 胸元に金鎖のネックレスが揺れていた。

「ガーゴイルの姿じゃ買い物にも行けないだろ? だから人の姿になったんだ。 どう?」

「……どう、って」

 アンジェラは困る。

 困って、それでも、言った。

「パパみたい」

「……パパ?」

 小鳥のように首を傾げる。昨夜、見た仕草。

 あぁ、本当にガーゴイルのロックなんだ。

 ロックは少し難しい顔をして――「まぁいいか」とすぐさま笑った。

「はい、“天使”」

「……?」

 差し出されたのは黒い布地。

 広げてみれば、まるでお葬式にでも着ていくような黒いワンピースだった。

「着替えはそれぐらいしかないけど――まぁ許してくれよ」

 ロックは魔法のように靴と帽子も取り出した。

 アンジェラの手にそれを渡すと、背中を押す。

「さぁ着替えて着替えて、右側のドアが洗面台。俺は此処で待ってるから、準備が出来たら出てきてくれよ」

 アンジェラは室内に戻された。

 気付けば靴と帽子以外にも靴下やら小さなポシェットやら……いつの間に用意したのだろうと思わせる子供の服。

 アンジェラはワンピースのスカートに頬ずりした。とても柔らかい、肌触りの良い服。思わず笑みが浮かぶ。

「あ」

 小さく声を上げて右側のドアを見た。

 洗面台。

 頬ずりなんてしてられない。ロックが待っているのだ。用意をしないと。

 アンジェラは慌てて動き出した。





 用意を終えて部屋から出ると、ロックは嬉しそうに腕を広げた。

「うん、似合ってる」

「あの、ね」

「うん?」

「食べられる時は、お洋服、脱ぐね」

 ロックが笑い出した。

 彼は首を左右に振って、アンジェラに手を差し出す。

「アンジェラは食べない事にした」

「どうして? 私は悪い子なのよ?」

「その代わり、食べるよりも凄いことをする事にした」

「……なぁに?」

 どきどきする。

 ロックは長身の身体を屈めて、アンジェラの顔を覗き込んだ。

 にぃ、と笑う。

「俺たちの仲間にする事にした」

「なか、ま?」

「そう。“天使”を俺たち魔物の仲間に。――どぉ?」

「魔物に、なるの?」

 少しの不安。

「天国に、行けなくなっちゃう?」

「分からない」

 ロックはにこにこしながら答えた。

 アンジェラよりもずっと幼くさえ見える、ロックの笑顔。

「俺は死んだ事ないし、俺の仲間たちも死んだ事ないし」

「魔物はいつか神様に倒されるんじゃないの?」

「さぁ、知らない。俺は神様に会った事もないし、滅ぼされたやつの話も聞いた事がない」

 ロックは人間の手をひらひらさせる。

 さぁ、と促す。

「アンジェラ、行こう?」

 アンジェラは考える。

 ロックの笑顔を見上げて。

 これは魔物の作戦なのかもしれない。

 アンジェラを食べる為の。

 でも、そうだとしても……いいかもしれない。

 悪い子、とアンジェラを叩くママの顔を思い出した。

「――どうせ、悪い子は天国に行けないしね」

「ん?」

「ママが、そう言ってたの。悪い子は天国に行けないって」

 ロックの手に、自分の手を重ねた。

 石の手かと思ったら、ロックの手は人の手のように暖かかった。

「私も魔物になれる?」

「あぁ、大丈夫」

 ロックは楽しげに歩き出す。

 アンジェラも一緒に歩き出す。

「魔女が言っていた。子供は天使にも魔物にもなれる存在だって。だから、大丈夫。“天使”なら立派な魔物にもなれるさ」

 嬉しそうなロック。アンジェラも何だか嬉しくなる。ロックを見ている限り、魔物も悪くないものかもしれないと、そうさえ思えた。

 部屋から出て階段を降りる。玄関の前にマルファスが立っていた。

 彼は相変わらず綺麗な顔。優しい笑みがその顔に浮かんでいる。

「おはよう、マルファス。珍しいな」

「“天使”に渡したいものがあって」

 アンジェラの前に騎士のように屈みこんだマルファスは、そっと手を伸ばし、ワンピースの胸元に触れた。

 すぐに手は離れ、代わりに大きなグリーンの宝石が飾られたブローチがアンジェラの胸元で光っていた。

「やっぱり貴女の瞳には緑が映える。――それは贈り物です、アンジェラ」

「有り難う、マルファス」

「いいえ」

 優しく笑ってマルファスが立ち上がる。

 彼はロックと視線を合わせた。

「夜まで私は外出出来ません。それまでアンジェラを宜しくお願いします」

「あぁ、勿論」

「では、気を付けて」

 マルファスはアンジェラに笑い掛け、音もなく歩き出した。

 その後姿を見送ってから、アンジェラはそっと尋ねる。

「――マルファスは、なに?」

「何、って?」

「ロックはガーゴイルなのでしょう? なら、マルファスは?」

「ヴァンパイア」

 アンジェラは小さく声を上げて頷いた。

 納得した。

 闇の貴族たちの一員ならば、あの美しさも納得出来る。

「吸血鬼ってお城に住んでいると思ってたわ」

「マルファスは自分の城を無くしちゃったんだよ」

「お城を?」

「うん」

 ロックは手を引いて歩き出す。

 玄関の扉は手を触れずに開く。いってらっしゃいと言うように音も無く。

 二人で扉を出た。

 朝の風は冷たい。だけど厚手のワンピースはちっとも寒くなかった。

「マルファスの事はマルファスに聞くといい。――俺の事だったら何でも話してあげるけど」

「聞きたい」

「うん」

 嬉しそうにロックが笑う。

 ちょっと怖そうな格好をしているけれど、ロックはとても優しく笑う。まるでお日様みたいだ。

「俺の生まれはフランス。大きな教会の天辺でね、見張りと……まぁ、もうひとつの仕事はいいか。見張りがメインだったし」

 アンジェラはロックの顔を見上げて話を聞く。

「その教会が壊される事になってさ。俺は今みたいにまだ自由に動けなくて、そのまま売られてこの近くのホテルの屋根に取り付けられた。――で、そこのホテルも廃業しちまって、もう一回取り外された俺はそのまま倉庫の中」

「倉庫の中から此処に来たの?」

「そう。――長老が見つけてくれなきゃ、あと100年ぐらいは倉庫の中だったかもしれない」

 ああ、とロックは声を出した。

 アンジェラを見て笑う。

「長老って言うのは、昨日の爺さん。覚えてるか?」

「魔法使いみたいなおじいちゃんね?」

「そう。あの人が長老。俺たちの代表。正体不明だけど誰も逆らわない。俺たちの中では誰もあの人には勝てない」

「強いのね」

「そう」

 ロックと手を繋いで歩くのは楽しい。

 昨日、暗いだけだったこの道は、朝の日の中では柔らかい印象になっていた。

 新しいけど足に馴染む靴も嬉しい。自然、足がスキップになる。

 ロックはそんなアンジェラを見て笑う。

 灰色の瞳は石と同じ色だけど、とても暖かい色だった。

 街へ、手を繋いだまま、向かう。

「アンジェラ、何が欲しい?」

「何、って?」

「女の子が生活するのに必要なものって、何なんだ?」

 ええと、と、ロックはジャケットのポケットからメモを取り出した。

 見つめるアンジェラにメモをちらつかせ、にんまりと笑う。

「魔女に書いて貰ったんだ、女の子に必要なもの。こういうのでいいのかな?」

「見せて」

「うん」

 差し出される紙を受け取って、ざっと目を通す。

 アンジェラは細い眉をきゅっと寄せた。

「……私、こういうのは、要らないな」

「ふぅん?」

 ロックは首を傾げる。「要らないの?」

「うん……」

「ふぅん。――女の子にも色々あるんだな」

 メモを畳んでポシェットへ片付けながら、ロックの独り言に頷いた。

 メモの中は、ちょっとまぁ、悪い子には必要かもしれない凄いものが色々と名を連ねていた。アンジェラの分からないものも大半。

「じゃあ、アンジェラは何が欲しい?」

「ほしいもの……」

「マルファスは、最低限、身に付けるものを買い揃えるように、って言っていた。ただし、夜になれば自分が行くから候補を選ぶだけにしておいてくれ、って。俺の趣味が悪いって言うんだぜ、奴は」

「私、ロックのお洋服、好きよ?」

「お?」

「パパみたい」

 革の匂いがする洋服は、パパを思い出させる。

 アンジェラがずっと小さい時に死んでしまったパパ。抱っこしてくれた思い出だけは、ほんの少し、覚えている。

 ロックはにこにこ笑っている。

 パパと言われても悪い気はしないらしい。

 そして、二人は街へ到着する。

 まずは最初は朝ごはん。ママなら絶対許してくれないような、買い食い。おいしそうな焼き立てパンを買って、公園の端っこで食べた。ロックはにこにこ笑ってみている。どうやら食べ物は要らないようだ。

 それから、再び街を歩く。

 少しずつ増えていく人の流れ。

 ロックは何だか上機嫌で口笛を吹いていた。

「ハロウィンが近い街はいいな」

 ぐるりと、と道の左右に並ぶショーウィンドウを眺める。

 オレンジと黒の2色で染め分けられたような、世界。お化けカボチャが笑う。シルエットの魔女が飛ぶ。ぬいぐるみの黒猫が、プラスチックの目で二人を見送る。

「魔物もハロウィンが好きなの?」

「あぁ、俺たちは大好きだよ」

 ロックはアンジェラを見る。「ハロウィンが終わったら、此処を去らなきゃ駄目だから、ハロウィンの世界をたくさん楽しむんだ」

「何処へ行くの?」

「次のハロウィンへ」

「それまで、どうしてるの?」

「人の世界の裏側。闇の入り口。夜の隣で遊んでる。――なぁに、すぐだよ。一眠りしたらすぐにハロウィンだ。俺たちは永遠に生きるんだから、一年なんてあっと言う間だよ、アンジェラ」

 ロックの声は明るい。

「寂しいなら俺が昔話をしてあげる。マルファスにピアノを弾いて貰ってもいい。魔女と悪戯するのもいい。スカーとチェスも楽しいし、ブラフと紙細工も悪くない。イオナとレオンとかくれんぼもきっと良い。他の奴らも……アンジェラとなら、きっと自分の居場所から抜け出して、遊んでくれる」

 きっと、と、彼は言う。

「みんな、アンジェラが大好きになる」

「……だと、いいな」

「大丈夫」

 ロックはそう言ってアンジェラの手を強く握った。

 力強く、暖かく、優しい手。

 灰色の瞳はとても優しい。

「さぁ、アンジェラ。買い物をしよう。何を買おうか。――俺は、あれがいいな」

 ロックが指差したのは、お菓子屋さんに並んだオレンジと黒の包装紙に包まれたお菓子たち。

 子供みたいに目を輝かせるロックが、大人の姿をしているのにとても可愛く思えて、アンジェラはくすくす笑った。

「うん、行きましょう、ロック」

「うん!」

 ロックは頷き、アンジェラの手を引いた。

 引っ張られるまま駆け出した。




 両手いっぱいのハロウィンのお菓子。お店の人が入れてくれた袋もハロウィン仕様。『お菓子をくれなきゃ悪戯するぞ!』の見慣れた文字が躍っている

 ロックが手に持ったそれにアンジェラは笑った。

「どうしたの、アンジェラ?」

「ロックが、お菓子ばかり買うんだもの」

「だって、みんなの分を買わないと」

 袋を片手に、指折り仲間の数を数えだすロックは真剣だ。何本も指を折って伸ばしを繰り返し、「ほら必要だろう」と胸を張る。

 アンジェラはもう笑いを堪えきれない。

 此処最近で一番笑った。

 ロックは少しだけ不思議そうな顔をしていたが、アンジェラの笑顔に嬉しそうに目を細めた。

「じゃあ、次は何処へ行こう? アンジェラ、欲しいものは?」

「お菓子はもうたくさん」

「なら玩具か?」

 ロックが真顔で言った台詞に、アンジェラは涙が浮かぶほど笑った。

「あのね、ロック」

「うん?」

「買い物って、私が生活するのに必要なものを買うの?」

「そうだよ」

「なら、玩具は要らない。もっと、ね、べつのものを買わないと」

 生活する為の必需品。そういうのにどうやらこの青年は疎いらしい。

 小鳥のように首を傾げる。

「何処に売ってるんだ?」

「こっち」

 今度はアンジェラがロックの手を引いた。

 歩いて行ける距離に、大きなお店があった。食料品も、雑貨も、洋服さえも。何でも売っている大きなお店。あそこなら必要なものが全部揃うだろう。

 ロックはやはり楽しそう。

 周囲を見回す灰色の瞳が笑っていた。

 アンジェラも楽しくなる。

 ロックも、マルファスも――みんなみんな、良い人だ。魔物だけど、とても優しい人たち。これからこの人たちと一緒に生活するなら、きっと、楽しい事ばかりだろう。

 でも――と、アンジェラは考える。

 少し、ほんの少し。

 ママの事を。

 昔はとても優しかった。パパが生きていた頃。小さな頃。その頃の思い出を、アンジェラは少しだけまだ記憶している。家族三人で公園まで遊びに行った。ママが作ったお弁当。パパの肩車。パパとママが笑う。アンジェラも笑う。

 パパが生きていた頃。

 ママは今よりもずっと笑っていた。お酒も飲まなかった。煙草も吸わなかった。

 そして、アンジェラを悪い子と怒らなかった。

 でも――

 パパがいなくなって、一番哀しんだのはママだ。

 アンジェラまでいなくなったら――ママは、どうなるのだろう。

 哀しむだろうか。

 今よりも、ずっと、ずっと。

「――アンジェラ?」

 考え込むアンジェラを呼んだのは、ロックの声ではなかった。

 聞き覚えのある女の子の声。

 アンジェラは顔を上げる。

 駆け寄ってくる女の子が見えた。

「マリィ」

「どうしたの、アンジェラ、こんな所で!」

 そばかすの目立つマリィは、本当に驚いた顔でアンジェラを見た。

 ロックを見て不思議そうな顔をする。ロックはそのマリィにも笑いかけた。見覚えの無い男の人とアンジェラが一緒にいるのを、マリィはどう考えたのだろう。彼女は少しばかり緊張した様子だ。

 アンジェラの手を、掴んだ。

「アンジェラ、昨日は何処へ行っていたの、お母さんが心配してたよ」

「……」

 ママ。

「うちにも何度も来てたんだから」

 マリィはアンジェラと同じアパートに住んでる。

 沈黙するアンジェラに、マリィは声を潜めて言った。

「その人、誰? その人と一緒にいたの? もしかして……誘拐されたの?」

「ちがう」

「じゃあ、アンジェラ、帰ろう? ママの所に」

「――なぁ」

 ロックはひょいとマリィの顔を覗き込む。

 一歩後ずさったマリィを、灰色の瞳で真っ直ぐに見た。

「アンジェラの親は、アンジェラを虐待してるんだろう? 虐待って酷い事なんだろう? そんな酷い事をするって事は、親は、子供が要らないんだろう? なら、俺たちが貰ってもいいじゃないか。帰る必要なんて無いだろう?」

 アンジェラはロックの顔を見た。

 ぎゅ、と手を握る。

 無意識の動き。

 ――要らない子。

「俺たちはアンジェラを嫌わない。要らないなんて絶対に言わない。だから、俺たちと一緒にいるのが良い事なんだよ」

 ロックは笑う。

 石造りのガーゴイルは、やはり、少々人の心に疎いのかもしれない。

 アンジェラの強張った顔にも、気付かない。

 なぁ、と、その顔に笑い掛ける瞬間にも、気付かない。

 マリィはすっかり怯えたようだ。一歩ずつ、後ずさる。

「あ――アンジェラ、絶対、私は帰った方がいいって思ってるから!」

 言って、彼女はアンジェラに背を向けた。

 駆け出していく。

 此処から、住んでいるアパートまでさほど遠くは無い。真っ直ぐに帰ったのなら、ママには話がすぐに届くだろう。

 知らない男の人と二人っきりのアンジェラを、ママはどう思うだろうか。

 悪い子だと思うだろうか。

 マリィの言葉を思い出す。

 心配していた、と、その言葉。

 ……心配してくれているのだろうか。

 悪い子。そう怒るママだけど、それはアンジェラが本当に悪い子だからで、ママは本当は――

「――……」

 アンジェラはもう少しだけ迷って、恐る恐る、ロックの手を解いた。

 繋がれていた手を外されて、ロックは目を丸くしている。

 その彼を見上げ、言った。

「帰る」

「……」

 ロックは首を傾げた。

 小鳥のような仕草。

 けど、彼はすぐに笑う。

「分かった」

 アンジェラは驚いた。

 ロックの笑顔に、言う。

「引きとめないの?」

「約束なんだ。アンジェラが帰るって言い出したら、それで俺たちの仲間になる話は終わり。――俺たちは、アンジェラの意思を優先するよ」

 可愛い“天使”。

 彼はそう呼んで、身体を屈めた。

 アンジェラの前髪をそっとかき上げて、額に柔らかく口付ける。

 石の筈のロックの唇は、やはり暖かい。

「覚えていて“天使”。俺たちはずっと君を覚えてる。君を忘れない。――だから、何かあったら、俺たちを呼ぶといい」

「……分かった」

「うん」

 ロックはアンジェラをぎゅっと抱き締めて身体を起こす。

 彼は首を傾げる。

 笑み。

 だけど、グレイの瞳は少しだけ寂しげだと、アンジェラは思う。

 それでもロックは笑ってくれる。

「アンジェラ、独りで帰れる?」

「うん、だいじょうぶ」

「そう、気を付けて」

 アンジェラはロックに背を向けて――服に気付いた。

 ロックは目を細める。

「いいよ、そのままで」

「うん」

 ありがとう。

 アンジェラはそう言って、ロックに背を向けて歩き出した。

 少しずつ足が速くなる。

 最後は駆け出した。

 じんわりと目に涙が浮かぶのを感じる。

 それでもアンジェラは振り返らなかった。

 ロックの灰色の瞳が自分を見ているのを感じている。それを見てしまったら、アンジェラは、彼の元へ戻ってしまうと思ったから。

 一日にも満たない時間だと言うのに、アンジェラはロックを――そして、森の中のお屋敷の彼らを気に入ってしまった事に、気付いていた。




 息を切らして駆け抜けて、階段で3階の家まで駆け上る。

 そのままの勢いで、アンジェラはママと住む自分のアパートの扉を開けた。

「ママ!」

 ママはいつも通りだった。

 テレビ前のテーブルに座って、お酒を飲んでいる。仕事に行ってない昼間は、寝ているか、お酒を飲んでばかりいる。

 酒に酔ったママの瞳が、アンジェラを見た。

 そこに誰が立っているのか分からないと言わんばかりに、ぼんやりとした酔った瞳。

「ママ。――ただいま、アンジェラよ」

 アンジェラは言う。

 一歩、踏み出した。

 ドアを閉めて、室内へ。

 背後で扉の閉まる音。ママが立ち上がる音。床に転がる空き缶を蹴飛ばして鳴った音。

「ママ」

 目の前に立ったママに、アンジェラは笑い掛ける。

 両手を伸ばして、口を開いた。

 ママ、御免なさい。昨夜、帰ってこなくて御免なさい。心配させて御免なさい。

 私、頑張るから。ちゃんと良い子になれるように頑張るから。

 だから――

 一生懸命に伝えようとした言葉。

「マ――」

 最初の一音が口に出ると同時に、アンジェラは殴られた。

 手で頬を打たれた。

 伝えようとした言葉は悲鳴に変わる。

 アンジェラの軽い身体は飛び、背中からドアに激突した。痛みに息が出来ないアンジェラの髪を掴んで引きずり上げると、酒臭い息でママが行った。

「何処へ行ってたの」

 言葉が出ない。

 痛みで、巧く言葉が出ない。

 身体が震えている。

 ママは怒っている。

 鳴る歯で、アンジェラはようやく言葉を口にした。

「ご――ごめんなさい……」

「そんな事を聞いてるんじゃないの!」

 頬を張られた。

 髪を掴まれているアンジェラには、身を竦める事も出来ない。

 必死に唇を噛み締める。悲鳴をあげちゃ駄目。助けを求めても駄目。ママはますます怒るから。

 強く強く瞳を閉じて、アンジェラはこの嵐が過ぎるのを待っていた。

 頬を強く数度打たれて、床に落とされる。ようやくアンジェラは身を竦める。亀のように小さく丸くなる。

 ママのつま先がアンジェラの身体にめり込んだ。

「――悪い子」

 言葉が降って来る。

「夜遊びなんて、本当に悪い子」

 蹴られる。

 アンジェラは我慢出来ずに吐いた。床に広がったそれを避ける事も出来ずに、転がる。

 お洋服が。

 アンジェラは思う。

 黒いお洋服。マルファスから貰ったブローチ。汚れちゃう。汚れちゃう。

 でも、庇えない。

 アンジェラは動けない。

 貰った洋服が汚れちゃう。

 折角貰ったのに。似合うって言ってもらったブローチも汚れちゃう。

「悪い子」

 私は悪い子。

 悪い子だから――こうなっちゃうのかな。

 アンジェラは瞳を開く。

 暗いだけの床しか、見えなかった。

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