十三、二人の縁

 昔から、何かが足りないと常々思っていた。

 心にぽっかりと穴が開いたような、そんな感覚がいつもあった。

「マリア……!」

 彼女と出会ってから、その喪失感は少しだけ軽くなった気がした。

 赤ん坊の頃に捨てられた彼女を教会の前で見つけたのは、他でもないアッシュである。

 初めてあの子の目が自分を捉えたときのことを、アッシュはきっと忘れない。

「間に合ってくれ!」

 どうか俺からマリアを奪わないでくれ。

 アッシュは無我夢中で走った。

 獣が走っていった跡を追って、先を急ぐ。

 辿り着いた先は、血の臭いで満ちていた。

「マリア!」

 獣と対峙するは、我らが大聖女に聖女、そして偉大なる勇者ナギ。

 錚々たる顔ぶれに一瞬だけ身じろぐも、何の装備もなしに獣と対峙しているマリアを、アッシュは慌てて自分の後ろへ隠した。

「おい、何のつもりだ!」

「ご自身の恰好を見てから仰ってください!」

 咄嗟に抱えてきた甲冑一式をマリアに渡し、漸く現状を把握することに成功する。

 巨大な山のように眼前へ聳え立つ獣に、アッシュは瞑目した。

「あれは一体何なのですか!?」

『「星を喰らう者グーラ」よ』

 星を喰らい、全てを破壊する存在。

 獣を統べる上位種にあたる厄介な生物だと女神の眷属は語った。

「さて、俺も実際にお目に掛かるのは初めてなんだが、アレにこちらの攻撃は通じるのか?」

「通じてくれることを願うばかりなのですが、どうなのでしょう?」

『答えは否、ね。貴女たちの攻撃、引いては物理的な攻撃は一切受け付けないと見て、まず間違いない。私たち女神の眷属を持っても、ダメージを与えられるかどうか……』

 迦楼羅の言葉に、ナギの目がにやりと細められた。

「そう言われると俄然やる気が湧いてくるな」

「ふふっ。ナギ姉さんったら」

 口元に笑みは浮かべているものの、二人の目は真剣そのものだった。

 そんな彼女たちのやり取りを視界に収めながら、マリアも漸く戦支度を完了する。

「お待たせしました」

「そんじゃ、始めますか」

 ナギの声に全員が頷く。

「気張れよ、お前ら。お前らに全部掛かっているんだからな!」

 女神から貸し与えられた眷属――迦楼羅たちの目がきらりと光った。

 迦楼羅はマリアの大剣に、因陀羅はナギの大剣へとその身を宿らせる。

 片や猛々しい炎、片や轟音と稲妻を纏った武器に、ユミルとアッシュが瞳を丸くした。

「俺は右から、お前は左を頼む」

「分かりました……!」

 マリアは返事をするや否や、飛び出した。

「行くぞ、マーブル卿!」

「はッ!」

 マリアの声にアッシュが忠犬のように後へ続く。

「それでは、私はナギ姉さんのお手伝いをいたしましょうか」

「ははっ。そいつは頼もしいな」

 ナギとユミルはどちらからともなく、笑みを零すと二人に後れを取ってはなるまい、と地面を蹴った。

 

『アリス』

 耳慣れない声が、自分の頭の中に響く。

 それは時々、思い出したようにアッシュの頭の中を支配した。

 アリス。

 知らないはずの名前なのに、どこか懐かしい。

「紅炎!!」

 ――ドゴォン。

 マリアの放った攻撃にアッシュは現実へと引き戻される。

 集中しなければならない大事な局面で何を、と自分に喝を入れるも、頭の中では絶えず「アリス」と知らない誰かの名前を呼ぶ声が響いていた。

 レイピアを握る手に力を込める。

「マーブル卿!」

「はい!」

 マリアの声に、アッシュは己を奮い立たせた。

 耳鳴りのように絶えず頭の中を支配する声を振り払うように首を振ると、少しだけ左に傾いだ獣の足に攻撃を打ち込む。

 マリアとは違い、炎を纏わないアッシュの攻撃は、迦楼羅が言っていたように致命傷は与えられない。だが、動きを鈍らせることくらいは造作もなかった。

「ナギ様!」

 マリアとアッシュが、同時に彼女の名前を呼んだ。

 心地良く耳朶を打ったそれに、ナギの顔が嬉しそうに綻ぶ。

「くたばりやがれ……ッ!!」

 落雷が、獣を襲った。

 獣を伝った稲妻が地面を割り、木々を揺らす。

 ダァン、と倒れ込んだ獣――基、星を喰らう者を見下ろしながら、ナギがゆっくりと着地する。

「これで、倒れてくれたら万々歳なんだが」

 ナギの言葉に応えるように、星を喰らう者がゆっくりと頭を持ち上げた。

 肩を竦ませる勇者に、ユミルがそっと手を差し伸べた。

「ここは私に」

「何をするつもりだ」

「効くかどうかは分かりませんが、幻術に閉じ込めてみます」

 ユミルの額にある第三の目が星を喰らう者を捉える。

 だが、星を喰らう者の眼はユミルを写してはいなかった。

 その目が捉える先、マリアとアッシュを見て、ナギと因陀羅が星を喰らう者の狙いに悲鳴を上げる。


「マリア!!」

『姉上!!』


 二人の声に、先に反応をしたのは、意外にもアッシュだった。

 星を喰らう者が伸ばした手を、細いレイピアの刀身で必死に受け止める。

「逃げろ! マリア!」

 張り裂けんばかりの声で、アッシュがマリアを急かす。

「だけど!」

「俺のことは良い! 早く逃げろ!」

 保って、一分が限界だ。

 吹き飛ばされる前に、早く、と言っても、背中で守る妹分は一向に動く気配を見せない。

「マリア!」

 呼び声に応えず、あろうことか、マリアは隣に並んでみせた。

「嫌だ」

「この……! 偶には、俺の言うことを聞け!」

「嫌!!」

 マリアは頑として動かない。

 遂には見かねた迦楼羅が大剣から姿を見せた。

『まったく、世話の焼ける!!』

 迦楼羅の両手から黒い炎が飛び出し、肉の焦げる臭いが辺りに充満する。

「か、迦楼羅」

「すまない。助かった」

『それより、あまり長く保たないわ! 一旦離れましょう!』

 アッシュは頷くと、マリアの細い身体を抱き寄せた。

 そんなことをされなくても、自分で走れる。

 マリアはそう言おうとしたのだが、見上げたアッシュの鬼気迫る表情に何も言えなくなってしまった。

「無事か!?」

「マリア!」

 駆け付けたナギとユミルの前に、マリアを下ろす。

 次いで、アッシュの怒号が響き渡った。

「どうしてあんな無茶をした!! お前がやられてしまえば、あのバケモノを倒す手段が無くなってしまうところだったんだぞ!」

「でも、」

「でもじゃない! いい加減にしろ、マリア! 俺のことなど放っておけ! 自分の命を優先しろ!!」

「そんなこと出来るわけがないだろ!」

 こんなときだと言うのに、ぎゃいぎゃいと言い合いを繰り広げる二人の様子に、ナギとユミルは顔を見合わせて苦笑する。

「――お前を守って死ねるなら、本望だ!!」

 つきり、と痛みが胸を襲った。

「何を、言って」

 それには覚えがあった。

 自分のことは二の次で、いつも周りのことばかり優先させる。

 この人のことを、放ってはおけない。

 マリアの頭の中で、何かが弾けた。

「アッシュ……?」

『そんな、制約が!?』

 固く結んだはずの制約が簡単に解けてしまったことに、迦楼羅が悲鳴を上げる。

 大剣を覆っていた炎がその色を失っていく。

 制約の代償として捧げた記憶と感情が一気に押し寄せてきたことに、マリアは過呼吸に陥った。

「マリア!」

 大剣へ凭れかかるようにして蹲ったまま動かなくなったマリアに、アッシュが駆け寄る。

 目線を合わせるために腰を下ろしたアッシュの視界に飛び込んできたのは、耳まで真っ赤に染め、瞳を潤ませるマリアだった。

「え、」

「見るな」

「いや、お前」

「見るなと言っているだろ! 離れろ!」

 いつもの彼女からは考えもつかないような頼りのない声でそう言われるも、アッシュは動けなかった。

 初めて見るマリアの表情に、身体が石のように固まってしまったのだ。

「……うぐっ」

「今度は何だ!?」

「いた、いっ!」

 はらはら、とマリアの眦を涙が伝っていく。

 涙が流れるのと同時に、マリアの顔から血の気が失われていった。

「マリア。しっかりして!」

 青白い表情で地面に倒れ込みそうになった彼女を、ユミルが受け止める。

 その身体からは、少しずつ熱が離れていた。

「やっぱり、俺の力を写しとったのがまずかったな……」

「どういう意味です?」

「マリアは本来生まれるはずのなかった十五番目のアリス。獣を倒す為だけに女神サラが俺の形を写し取って造った人間なんだ」

「な、んですって?」

 ユミルとアッシュの表情が動揺のそれで色濃く染まる。

 ナギは肩を竦めると、観念したようにマリアが誕生した経緯を彼らに伝えた。

「俺の力がもっと強ければ、お前たちにこんなことを強いたりしなかった。だが、俺の力は不安定で、門を全て閉門することが出来なかったんだ」

「それで、こちらの門を封じるためにマリアが?」

「そうだ。俺があちらから、マリアにはこちら側から門を閉めてもらうために女神サラがマリアをこちら側の、ユミルに預けるに至った」

 一同が息を飲むのが嫌でも分かった。

 ナギはユミルの腕の中で眠るマリアの額に、そっと己の掌を重ねる。

 トクトクと伝わってくる心音は弱っていく一方で、今すぐにでも消えてしまいそうな頼りなさを感じた。

「……炎はもう使えないのか?」

『ええ、駄目ね。制約が切れてしまった。結び直すには時間が掛かるし、今のマリアの体力では明け方まで保たないわ』

「そうか」

『ごめんなさい』

「お前が謝ることではない。全ての責は俺にある」

「姉さん」

「大丈夫だ。お前たちはここから離れろ」

 ナギがそう言って微笑むも、ユミルはふるふると弱々しく首を横に振った。

「い、嫌です。聖女・ナギ。私も一緒に」

「……甘ったれるんじゃない。『大聖女』を名乗るのであれば、そんな弱音を吐くな」

「でも」

「行け」

 ゆっくりとナギの瞼が落ちる。

 誰の言葉も聞く気はない、と彼女の気配が雄弁に語っていた。

「早く行け」

 鋭い刃先のような視線で自分を見るナギに、ユミルは息を飲んだ。

 それ以上は何も言えなかった。

 マリアを抱えて立ち上がったユミルを見て、アッシュも彼女の隣に並ぶ。

「行きましょう、アッシュ」

「はい」

 三人の遠ざかっていく音を背に、ナギは地に伏せる因陀羅の名を呼んだ。

「因陀羅」

『……本当に良いの?』

「構わない」

 もう、誰かが傷付くのも、死ぬのも見たくない。

 大剣を覆っていた雷がナギの身体へゆっくりと移る。

 不意に、ヴォルグに腹を貫かれたときの衝撃を思い出した。

「ふ、ふふ」

『ナギ?』

「いいや。懐かしい、と思ってな」

『懐かしい?』

「……ああ」

 脳裏に浮かぶのは不敵に笑う、魔王の姿。

 ――ナギ。

 真っ赤な眼を思い出して、ナギは唇を噛んだ。

 叶うなら、もう一度だけ彼に会いたかった。

「ヴォルグ」

 彼の王を呼ぶ。

 落雷の名を関するその名を呼ぶのと、ナギの身体を雷が覆ったのは同時だった。

 身を引き裂くような痛みがナギを襲う。

「ぐ、ぐああああ!!!!!」

 痛みで意識が持っていかれそうになる。

 だが、ナギは必死で堪えた。

『平気?』

「…………ああ」

『動けそう?』

「馴染むまで、少し待ってくれ。――その間、頼めるか?」

 手先が痺れて、言うことを聞かない。

 ナギはゆっくりと息を吐き出すと、呼吸を整えた。

 少しだけ大きさを増した因陀羅が地面を蹴る。

「炎に比べると聊か威力は劣るが、仕方ない、か」

 掌を開いては閉じ、開いては閉じを繰り返し、動きの感覚を取り戻していく。

 慣れ親しんだ相棒――大剣の柄を握った。

 因陀羅の後を追って、星を喰らう者に向かっていく。

「往生際が悪いんだよ!! このクソババアがッ!!」

 ダァン、と鈍い音が静かな森に響き渡った。


 身体が熱い。

 指先を動かすのも億劫で、傍に感じる他人の体温は宛ら炎のようだった。

「……ここは?」

 ナギの気配が近くにない。

 それに気が付くと、マリアは勢い良く身体を起こそうとした。

 けれど、己が身体を抱えていたアッシュによって、動きを封じられてしまう。

「落ち着いてください。あまり身体を動かすと、危険です」

 存外に近いところから聞こえてきた声に、マリアは視線を上げた。

 緋色の目がジッとこちらを見つめている。

 彼の目と自分の目が同じ色だ、と気が付いたのは、もう随分と前の話――それこそ子供の時分である――だが、彼の顔に収まったその色に見つめられると、どうにも落ち着かなかった。

 ふと、そこで違和感を覚えた。

 何故、彼のことを覚えているのだろう、と。

 マリアは迦楼羅に『アッシュに抱く感情と彼との思い出』を対価として差し出した。

 忘れているはずの記憶と感情がマリアの中に残っていることに、マリアの顔から血の気が失せる。

「オ、オレは、」

『……残念だけど、今から制約を結び直す時間はない。「咎の炎」を使って、貴女たちをここまで逃がすのが精一杯だった』

「迦楼羅」

『謝らないでちょうだい。貴女に無理を強いた私にも責任があるのだから』

 今にも泣きだしてしまいそうな少女の額に、迦楼羅はそっと慰めのキスを贈った。

 迦楼羅の炎が使えない。

 自分に与えられた唯一無二の役割を失ってしまったことに、マリアは絶望した。

 たった一つの役割を失った自分には、もう帰る居場所がない。

 青褪めたまま瞬き一つ落とさず、静かに涙を零す少女にアッシュは眉根を寄せた。

「マリア」

 低く、落ち着きのある声が耳朶を打つ。

 想いを寄せる相手に名前を呼ばれ、マリアの肩が僅かに震えた。

「俺と大聖女に何か言うことがあるのではないか?」

「え?」

 いつからそこに居たのか、ユミルが困ったように曖昧な笑みを浮かべて、マリアを抱えたアッシュの隣に立っていた。

 普段であれば気付いてもおかしくはない距離に居たのに、疲労と困惑が相まって彼女の気配に全く気が付かなかったのである。

「良いのよ、アッシュ。この子が無茶をするのは、昔からでしょう?」

 もう慣れました、と言いながら、マリアの前髪を愛おしそうに撫でたユミルに、マリアがハッと息を飲んだ。

「きょ、教会の結界は!?」

「……クロウから預かった貴女の髪で強化しているから大丈夫よ。全く、女の子なのに、何の躊躇いもなく髪を切るだなんて、帰ったらお説教ですからね」

 乱雑になっていたマリアの髪は、途中合流したイザベルの手によって、すっかり綺麗に整えられていた。

 ユミルの脳裏に、燃えるような赤い髪を靡かせて、戦場を駆けるマリアの姿が蘇る。

「わ、悪い」

「そう思っているのなら、尚のこと自分の身体を労わりなさい」

 ユミルの目が真っ直ぐにマリアを射抜いた。

 澄んだ瞳に見つめられて、しゅんと項垂れたマリアにアッシュが苦笑を噛み殺す。

「……それで? 動けそうかしら?」

「え、ああ。もう大丈夫だ」

「なら、聖女・ナギの援護に向かいましょう」

 ユミルの声は焦りと緊張で上擦っていた。

 表情からは微塵もそんなことを感じさせなかった彼女に、アッシュが唇を噛み締める。

「ですが、我々が行ったところで足手纏いになるだけでは……」

「あの人を一人で戦わせろ、と言うのですか?」

「そうは言っておりません! 俺だって、ナギ様のお役に立てるのであれば直ぐにでも引き返しています!」

 ただ、あのバケモノは今まで戦ってきた獣とは訳が違う。

 迦楼羅が言った通り、マリアとユミルを連れて逃げるのが精一杯だった。

 第一、今は炎も扱えない。

 八方塞がりの状態で、どう戦えというのか。

 うんうん、と唸り声を鳴らすアッシュの背に、トンと誰かが触れた。

 突然の接触に思わず「うおわっ!?」と騎士にあるまじき悲鳴を漏らすが、振り返った先に立っていた人物に、安堵と歓喜の声を上げた。

「聖子・フィン!」

「無事で良かった。間に合わなければ、どうしようかと……」

 そう言って口元の血を拭った彼は、影の中に潜んでいた部下にこの場所をイザベルに伝えてくれと言って、倒れ込んだ。

「酷い怪我……。フィン、大丈夫ですか?」

「アーロンたちが来たので、まさかと思っていましたが、本当にいらっしゃるとは」

「今度は姉さんを一人にしないと、約束していたでしょう?」

「ふふっ。貴女らしい」

 ユミルが連れてきた兵は百と少し。

 最初にマリア奪還を果たした兵たちと合わせても二百になるかどうかの、少数部隊である。

 互いにそれぞれの戦況を伝えるも、コーラルがいつ攻め入ってくるか分からない状態では国境の護りを疎かにするわけにはいかない、という結論に至った。

「ならば、俺たちを使ってくれ」

 木々の隙間から顔を出したその男に、一同は口を開いて固まった。

「レオンハルト!?」

「何、少しばかり友を助けるのに手間取ってしまってな。遅くなったことを詫びよう」

 そう言った彼の隣には、白い歯を見せて笑うシュナイダーが立っていた。

「久しいな、聖女殿。本日は少しばかり、お加減が悪そうだが」

「貴殿(ゆうれい)の顔を見れば、誰でも加減が悪くなるだろうよ」

「ははっ。違いない」

 これは失敬、と大袈裟に頭を垂れてみせた男にマリアは漸く口元を綻ばせた。

 だが、今になって初めて、自分がまだアッシュの腕の中にいることに羞恥で悲鳴を上げる。

「い、いつまで、抱いているつもりだ!! さっさと下ろせ!!」

「それは出来ない相談だな。お前は目を離すと何をしでかすか分からん」

「アッシュ!」

「断る」

「くどいぞ! 早く離せ! 皆が見ているだろう!!」

 しれっとした顔で知らんふりを決め込むアッシュに、マリアはぐっと言葉を飲み込んだ。

「アッシュってば!!」

「嫌だ、と言っているだろう。お前の言うことはもう聞かないと決めたんだ」

「このっ!」

 こうなれば自棄だと腕やら足やらで抵抗を試みるも、悲しいかな男女の力の差は歴然である。

 余計な体力を消耗するだけだ、とマリアは早々にどこか遠い目をして、大人しくなった。

 内心で勝利のガッツポーズを取ると、アッシュはマリアを抱く腕に力を込める。

『もう二度』と彼女のことを離すまいと思った。

(ん? 「もう二度と」って、前にもこんなことがあったか?)

 それがいつだったかは思い出せない。

 ただ、アッシュの中でまた誰かが「アリス」と呼ぶ声が響いていた。

 

 埒が明かない。

 切断したはずの腕が、また器用に再生されるのを見て、ナギの血管は切れてしまいそうなほど隆起していた。

「ったく、どーなってんだよッ!!」

『少なくとも獣の能力じゃない。取り込んだものの中に何か混ざっていたと考えた方がいいね』

「チッ。どこまでも胸糞の悪いババアだ」

 教皇は獣に成る直前にロゼッタを取り込んでいた。

 人魚の再生能力は魔族の中でも群を抜いている。

 女神の雷を用いても、傷一つ付けられない有り様に、思わず溜め息が零れる。

「待てよ……。人魚を取り込んだってことは新しい逆鱗が身体のどこかに出来ていてもおかしくはない」

『逆鱗って、ひょっとしてアレのこと?』

 因陀羅が星を喰らう者の頭頂部に光る鱗を顎で示した。

 赤く鈍い光を放つそれに、ナギの目が悪戯っ子のようにニヤリと細められた。

「よし! まずはあそこを狙う。そんでもって、倒れたところをお前の雷で仕留めるぞ」

『任せて!!』

 因陀羅が稲妻を自分の周りに浮かばせながら駆けていく。

 派手な音を立てて、稲妻が星を喰らう者の身体に激突するが、穴の開いた箇所はすぐに修復が始まってしまった。

 だが、それでいい。

 それが二人の狙いだった。

「いくぞ!」

『いつでもいいよ!!』

 因陀羅が修復されつつある穴の中へと、器用に着地を成功させる。

 ナギは大剣を両手で持ち、眼前に浮かぶ稲妻を勢い良く打ち上げた。

「因陀羅!!」

『せーのっ!!』

 因陀羅が放つ稲妻は、謂わば彼の身体の一部。

 身体から離れたそれは、必ず因陀羅の元へと戻る。

 二人はその特性を利用して、塞がりかけの中身を晒した場所へ攻撃を仕掛けたのだった。

――ドォォオン!!

 激しい轟音が、辺りを襲う。

 ナギたちが思った通り、内部へのダメージには弱かったらしい。

ぐらりと巨体が揺らいだ。

「トドメだ!」

 星を喰らう者が倒れたのと同時に、ナギは走り出していた。

 斜めになった星を喰らう者の足を器用に駆け、胴体を渡り、頭部へと着実に近付いていく。

 だが、星を喰らう者も彼らの狙いに気付いたようで、剛腕を用いてナギの行く手を阻んだ。

「このっ!」

 重い一撃を剣背で受け止める。

 襲い来る腕は次第に分裂し、なかなか攻撃へと転じることが出来ない。

 先に進もうとすればするほど、抵抗は激しさを増す。

「チッ!」

 良いところまで行ったのに、とナギは悔しさを露わにしながら、星を喰らう者の身体から一旦距離を取った。

「二人だとあの距離が限界だ。どうする?」

『僕の稲妻にもそろそろ耐性が付く頃だ。そう長く時間は掛けられないよ』

 茂みに身を潜めながら、星を喰らう者がゆっくりと起き上がるのを二人は息を殺して見つめていた。

 ここに隠れていても事態は改善されない。

 だからと言って飛び出したところで何か策があるわけでもない。

『……ギ。ナギ!!』

「んだよ。びっくりした。どうした、女神サマ?」

『「あの子」が起きるわ! もう少しで、目を覚ましそうなの!』

「あの子ォ? 一体誰の話だ?」

『ルーシェルよ!!』

 女神サラの声は興奮に満ちていた。

 告げられた名前に、ナギの目が驚愕に染まる。

「ま、待て。誰が起きるって言った?」

『ルーシェルだと言っているでしょう! ああやはりアレは失敗ではなかった。いつものうっかりだと思っていたけれど、こういうときのために彼を造ったのね、私』

「……話が見えないんだが」

 女神曰く。

 十五番目のアリスとしてマリアを造る前に、間違って「ルーシェルの転生者」を造ってしまったらしい。

 女神の権限で世界に干渉できるのは三度まで。

 一度目はナギの出産の際に、既に使用してしまっているため、後々のことを考えると下手に干渉出来なかったのだと言う。

「それで? その転生者は今どこに?」

『あら、彼は常にアリスの傍に居るものでしょう?』

「……まさか」

『それに、今回のルーシェルとアリスは少しだけ特別なの。二人には迦楼羅の炎と同じ力を与えている。彼らが互いを番として認識すれば、力を扱えるようにしたわ』

「二人を呪いから解放すると言っていたんじゃなかったか?」

『呪いは貴女の手によって葬られた。けれど、二人を繋ぐ縁は消せない。私が一度運命の相手として定めたのだもの。そう簡単に消されては困るわ』

 悪戯っぽく笑う声に、ナギは肩を竦めた。

 だが、これでこちらの勝利は目前である。

『ただ、厄介なことが一つだけ』

「何だ?」

『アリスはアリスだった頃の記憶を持っていないのよ。それは全て貴女に引き継がれているから』

「……なるほど」

『ルーシェルの方は問題ないとして、あの子がきちんと覚醒できるかどうか』

 先程までの明るさが嘘のように静かな口調となった女神に、ナギは歯を見せて笑った。

「問題ねえよ」

『どういう意味?』

「アリスは必ず、ルーシェルに惹かれる。例え記憶が無くても、それは変わらない。それにアンタが言ったんだろう? 二人を繋ぐ縁は消せないって」

 よっと軽い掛け声と共にしゃがんでいた茂みから立ち上がると、ナギはバケモノに剣先を向けた。

「あいつらが来るまで、もうひと踏ん張りといくか!!」

『おっけー! サラ様! 僕の活躍、しっかり見ていてね!』

 ナギと因陀羅が勢い良く茂みの中から飛び出して行く。

 まるで、子供が燥いでいるようだとその場にそぐわない不謹慎なことを思いながらも、サラは彼らに幸あれと祝福のキスを水晶越しに落とした。


「オレには、皆に好かれる理由がない」

「どうして?」

「だって、オレは自分に与えられた役目を果たせなかった」

 ぽつぽつと言葉を零すマリアの髪に、アッシュは鼻先を埋めた。

 獣の血を浴びた所為で、錆びた鉄のような臭いがツンと鼻を刺激する。

「オレから武器を取り上げないでくれ。それを取り上げられたらオレには、何も残らない」

「マリア」

「オレの居場所は戦場にしかないんだ」

 ぎゅう、と痛いくらいの強さで腕を掴まれて、アッシュは眉尻を下げた。

 そんなことはない。

 そんなことはないよ、と先程より強い力で、彼女の身体を腕の中に閉じ込める。

 伝わってくる心音はひどく小さくて、耳を澄ませなければ聞こえないほど頼りない。

——泣くな、アリス。

 頭の中で一際大きな声が響いた。

 この光景は苦手だ、と本能が警報を鳴らしている。

「泣かないでくれ、マリア。お前に泣かれるのは苦手なんだ」

「……っ、泣いていない」

「そんな睫毛を濡らしながら言われても、説得力が無いぞ」

 アッシュは肩を竦めると、そっとマリアの顔を覗き込んだ。

 雫で濡れた睫毛がキラキラと淡い光を放つ。

「なあ、マリア。どうして彼らがここに来たのか分かるか?」

 彼らとは、紅蓮の騎士団とコーラル帝国の騎士団のことを言っていると、マリアには正しく伝わったらしい。

 けれども、彼女はふるふると弱く首を横に振った。

「分からない」

「本当に?」

 マリアの目が僅かに揺れた。

「お前は皆に好かれる理由がないと言っていたが、彼らはお前のことが好きだから、お前のことを助けにここまでやって来てくれたのだと、俺は思うよ」

 告げられた言葉が上手く飲み込めない。

 マリアはそう言わんばかりに瞳を丸くした。

「違うか?」

 自分と同じ緋色の目が真っ直ぐにこちらを捉える。

「だから、泣かないでくれ」

 ちゅ、と額に口付けを施せば、懐かしい香りが鼻腔を衝いた。

 ずっと昔から知っている、芳しく、甘い匂い。

――ルーシェル!

 花が開いたような笑みで笑う少女の顔がマリアと重なる。

「……そうか。お前が、俺のアリスだったのか」

 今度はアッシュが瞬きを落とす番だった。

 銀色の睫毛の隙間から見え隠れする炎のように熱い光を宿した眼に、マリアが訳も分からずに眉根を寄せる。

 嬉しそうに破顔したアッシュの鼻先が、マリアの鼻を掠めていく。

「ち、かい」

「わざとだ」

「じょ、冗談にしては質が悪いぞ」

「どう受け取って貰っても構わないが、いい加減思い出せそうか?」

「何の話だ」

 アッシュの指先がマリアの髪を捕まえた。

 指の隙間から溢れそうになった緋色に口付ける。

「スカーレット」

 その名前に、マリアは「え」と声を漏らした。

 整った唇から囁くような低い声が「スカーレット」と再び紡ぐ。

『お前の髪は朝焼けと同じで美しいな』

 にっこりと笑う子供の頃のアッシュの姿が脳裏を過る。

 そうだ、オレの、私の名前は――。

「アッシュ、兄さん」

「思い出したみたいだな」

「うん」

 素直に頷いたマリアのイヤリングから、迦楼羅が呆れたようにため息を吐きながら姿を見せる。だが、その顔は心なしか嬉しそうに綻んでいた。

『第二の制約も解除。これで漸く、第三の制約が使えるわね』

「貴女は最初から知っていたんですね」

『全てマリアが望んだことよ。第二の制約はナギが与えたものだったけれど、これはマリアを守るためのものでもあった』

 妖艶に微笑んだ女神の眷属は背中に纏った焔をアッシュとナギの前に差し出す。

『さあ、手を出して』 

 二人は互いに視線を合わせると、迦楼羅の前に手の甲を差し出した。

 迦楼羅の炎が二人の手を優しく包み込む。

 赤い炎が二人の肌に触れた途端、白銀の炎へとその色を変えた。

「これは……」

『炎は女神の息吹。これがサラ様の本来の炎。そして、俺自身の炎の色でもある』

 鈴を転がすような凛とした声が、心地の良い低音に変わったことに驚いて顔を上げると、そこには見知らぬ青年が微笑んでいた。

「迦楼羅?」

『応とも。これが本来の姿さね』

 くるり、と空中で一回転してみせた迦楼羅の姿は、しなやかな女体からは考えもつかないような強靭な男のそれに変化しており、とても同一人物には見えない。

 口を開けて呆けるマリアを他所に、アッシュが右手に宿った炎を器用に浮遊させた。

「なるほど。咎の炎と浄化の炎が合わさっているのか」

『流石はアッシュ坊や。察しが良くて助かるぜ。さ、急いでナギの元へ戻ろう』

「ああ」

『動けるか?』

「当たり前だ」

 言うや否やアッシュは走り始めていた。

 その脚には雷が纏わりついている。

 彼が走った後を稲妻が軌跡を描く。

「しっかり掴まっていろ」

「あ、ああ」

 きゅ、とマリアが自分の首に腕を回したのを確認すると、アッシュは更に速度を上げた。


 稲妻が踊る。

 落雷と共に、地を這う閃光を纏いながら、ナギは歯噛みしていた。

 この場を任せろと啖呵を切ったにも関わらず、何の成果も上げられていない。

 番人とは名ばかりで、何の役にも立てない自分に対する怒りと悔しさで血が沸騰しそうだった。

「ナギ様!!」

 不意に聞こえてきた声に顔を上げると、斜め前方から雷を纏ったアッシュに抱きかかえられたマリアがこちらに向かってくるのが見えた。

 その雷は赤き血潮の色そのもので、思わずごくりと喉を鳴らす。

「お前……。今、どっちだ。アッシュ」

「俺は俺ですよ。ただ忘れていたものを思い出しただけです」

「そうか」

 その目は、焦がれてやまないナギの片割れを彷彿とさせた。

 刺すように冷たい光を揺らす緋色の眼に、知れず口角が上がる。

「トドメはお前たちに委ねる。上手くやれよ」

「承知しました!」

 アッシュとマリアの並んで立つ姿が、かつての自分たちと重なった。

 ヴォルグと自分は共にあることが出来なかったけれど、彼らは違う。

 ならば、せめて露払い程度の働きはせねばならない。

 ナギは柄を握る手に力を込めた。

 傍らに控えていた因陀羅は変わらず、落雷で攻撃を続けているが、それも威嚇しているだけになりつつある。

「とっておきをくれてやる。精々、良い声で啼けよ?」

 魔力を扱うのは苦手だが、一つだけ得意としているものがあった。

 ヴォルグに身体を造り変えられた影響で、雷に耐性がついているナギだからこそ使える大技。

「我が身体は剣となりて、業魔の一撃を繰り出さん」

 因陀羅の雷が、ナギの身体へと引き寄せられていく。

 先程は異なる魔力を受け入れたため、身体への負荷も大きかったが、これは違う。

 ナギ自身が避雷針となり、雷そのものを身体に宿していた。

舜雷剣サンダー・ブレード

 ゴウッと強い風が吹き抜けるように、ナギは地面を蹴った。

 剣先が化け物の身体を捉えるや否や、雷が反発するものを全て破壊していく。

――一閃。

 両足の膝から下を無くした化け物が、バランスを崩して後方へ倒れ込む。

 ナギは、動きの鈍くなった身体で、それを避けると大剣を握りしめたまま、地面に沈んだ。

「ナギ様!」

「……いい、構うな! 早く、トドメを!!」

「……はい!」

 少女の華奢な手には不釣り合いの大剣が、鈍い光を放つ。

 そして、その隣には誰よりも頼りになる男が並んでいた。

「行くぞ、マリア!」

「ああ!」

『二人とも、死んでも狙いは外すなよ!』

「言われずとも……!」

 不敵な笑みを浮かべた顔は、どこかナギに似ていた。

 形容しがたい声を上げた星を喰らう者の身体を、マリアとアッシュが駆け上る。

 ナギが邪魔されたときと同じく、腕を使って反撃を繰り出す化け物に、迦楼羅が笑い声を上げた。

『させるかッ!!』

 ボッと一瞬にして星を喰らう者の身体が発火した。

 白銀の炎が、襲い掛かってくる腕を次々に燃やしていく。

 そうして、肩に辿り着く頃には、星を喰らう者の身体はその大半が灰と化していた。

 ナギの稲妻でひび割れた個所が崩れ、真面に立ち上がることも出来ない。

「これで本当に終わりだ!」

「灰になれ……!!」

 額に埋め込まれた逆鱗を二人の武器が捉える。


銀炎シルフレア!!」


 白銀の炎が空を覆う。

 レイピアと大剣が、額に輝く逆鱗を貫いた。

 赤い、獣の血がマリアの肌を、大剣を汚す。

 頭から順に崩れ始めた化け物をマリアは黙って見つめていた。

 地面にそっと着地すると、傍らに立っていたアッシュの胸に額を預ける。

「終わったな」

「ああ」

「これで漸く、お前に武器を持たせなくて済む」

 ただの少女となったマリアの華奢な身体を、アッシュがそっと抱き寄せた。

「……っ」

 熱い雫が頬を伝って、足元に染みを描いた。

 抱きしめられた身体から伝わってくる体温に、胸が掻き乱される。

「アッシュ、」

「ん?」

「おれ、は」

 見上げた瞳の中に、涙で顔をぐしゃぐしゃにした己が映り込む。

 マリアはそれが酷く恥ずかしく思えて、再びアッシュの胸に顔を埋めた。

「みんなと一緒に居てもいいのかな」

 武器を持たない自分があの場所に帰っても良いのか、とそんなことを宣う少女に、アッシュは深い溜め息を吐き出した。

「お前は、もう少し皆に好かれている自覚を持て」

 ほら、とそう言ってアッシュが示した先にはたくさんの人がマリアに向かって手を振っていた。

「これでもまだ、帰る場所がないと言うのか?」

 ぽろぽろと零れる涙を拭うこともなく、マリアはアッシュの背中に腕を回した。

「それでも帰る理由がないとお前が怯えるのならば、俺がお前の帰る理由になるよ。……マリア、俺と結婚しよう」

「はあっ!?」

 突然のプロポーズに、色気の「い」の字もない声を上げていると、背後でくつくつと笑う声が聞こえてきた。

「やはり、いつの時代のルーシェルもアリスには甘いと見える」

 ナギがボロボロになった身体を因陀羅に支えられながら、二人の後ろに立っていた。

「お世話になりました。十四代目」

「元はと言えば、俺の不始末が招いたことだ。礼を言うのはこちらの方だよ。ありがとう、二人とも」

 我が子にするように、ナギは二人の頭を掻き抱いた。

 ふわり、と香る懐かしい香りに、ナギの口元に笑みが浮かぶ。

「マリア、胸元を少し緩めてみろ」

「こ、こうですか?」

「そうだ。それと腹に力を入れてくれ」

「はい」

 ぐ、とマリアの腹が内に少しばかり引っ込んだのを合図に、ナギがマリアの胸に手を差し込んだ。

 物理法則を無視してマリアの胸へと吸い込まれたナギの腕に、アッシュが、そしてマリア自身の目が、大きく見開かれる。

「なっ!?」

「落ち着け。大丈夫だ。魔力を弄っているだけだから、痛みは感じないだろう?」

 言われてみると、確かにその通りであった。

 それどころか、戦闘の後は決まって飢餓感が襲ってくるはずなのに、いつもの嫌な感覚がいつまで経ってもやってこない。

「女神の眷属を宿していることで、魔力が安定していないようだったからな。少し弄らせてもらった」

屈託なく笑った勇者の顔は、これ以上ないくらいに嬉しそうで、知れずマリアの頬にも笑みが浮かぶ。

「じゃあな、ユミル。精々長生きしろよ」

 いつの間にか、三人の周りには紅蓮の騎士団やコーラル帝国の騎士たちで溢れかえっていた。今度こそ、ナギにきちんと別れを告げるために、ユミルたちが慌ててやってきたのである。

「姉さんも。どうか健やかに、そして幸せになってください」

「……無茶を言うのはお前も一緒だな。流石は俺の妹だ」

 くくっと喉を鳴らしたかと思うと、ナギは徐に空間を大剣で斬り伏せた。

 大きな裂け目が開いたかと思うと一瞬にして、白い門へと姿が変わる。

「ルーシェル! 今世こそ、幸せになれよ!! あと、マリアを泣かせるな!!」

「分かっています。必ず、幸せにしますとも!!」

 一歩を踏み出したナギを朝焼けが照らす。

「ナギ様!」

――ありがとうございました!

 聖女の声に、ナギがにっかりと歯を見せて笑う。

「達者でな!」

 古びた音を立てた門は、ナギの身体を飲み込んで、静かに消えていった。


「それで? マリア=スカーレット。プロポーズの返事はいつ聞かせてもらえるのかな?」

「お、おま……! 何も今、蒸し返さなくても良いだろ!!」

「この流れで聞いておかないと、はぐらかされてしまうからな」

「な、うっ……」

 にやり、と人の悪い顔をしてこちらを覗き込んでくるアッシュに、マリアはグッと言葉を詰まらせた。

 何と返したものか、と暫く悩んでいたマリアだったが、不意にあることを思いついた。

「アッシュ」

「何だ?」

「こんな人前で言うのは恥ずかしい。耳を貸してくれないか?」

「……良いとも」

 薄っすらと眦を赤くしたアッシュの顔が、すぐ傍まで迫ってくる。

――ちゅ。

 唇に触れた柔らかい感触に、アッシュがバッと顔を上げた。

 悪戯が成功した子供のように笑うマリアと目が合う。

「どうした、アッシュ。顔が真っ赤だぞ?」

「なっ……!」

「少しはオレの気持ちを味わうと良い」

 べー、と舌を突き出して、走り去ったマリアの耳が、髪と同じか、それ以上に赤く染まっていた。

「……勘弁してくれ」

 これ以上骨抜きにされては敵わない。

 アッシュは音もなく彼女の後を追った。

 

 朝焼けの中を聖女と、その騎士が駆けていく。

 もう、泣き虫で、虚勢を張って周りを気にする子供はどこにも居なかった。

                                      《完》

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朝焼けと聖女は踊る 神連カズサ @ka3tsu0

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