十二、聖女マリア

 姉の姿を視界に収めたとき、ロゼッタは嬉しさで胸が弾け飛んでしまうのではないかと思った。

 もう会うことも出来ないと思っていた姉が生きている。

 例えその中身が紛い物であろうと、ロゼッタにとってはたった一人の姉であることに変わりはない。

 だからこそ、躊躇した。

 本当はこの手で全てを終わらせようと覚悟を抱いてナギの後を追ったはずなのに。

 ナギの負担を少しでも軽くしたかったのに、結局は彼女の怒りを、痛みを増幅させたに過ぎない。

 教皇の中は、深い闇で満ちていた。

 光など、どこにも存在しない。

 失った片腕の痛みすら感じさせないほど、この空間は冷たく、ロゼッタの存在を否定していた。

「姉さん」

 リゼ姉さん、とロゼッタは震える声で呟いた。

 ロゼッタの声に応える者はいない。

 だが、遠くでナギが叫んでいるような気がした。


 もはや人の姿を保つ気はないらしく、教皇はトカゲの姿のまま、にやりと口角を上げた。

「どうした、ナギ。私を殺すのではなかったのか?」

 厭らしく細められた眼に、ナギはぎり、と歯軋りをした。

 かつては平然と出来ていたことが出来ない。

 あの時は自分の身体に流れる血が、魔族の物であると知らなかったから、同族殺しという禁忌を何食わぬ顔で執行できた。

 だが、目の前の少女は違う。

 幼い頃から面倒を見ていた、可愛いリゼとロゼッタ。

 見た目が一つ変わるだけで、中身が憎い女だと分かっていても、剣を刺し穿つことが出来ない。

「チッ」

 ナギは舌打ちを零すと、柄を握る手に力を込めた。

(これはもうリゼではない。ロゼッタでも、ない。――迷いは捨てろ。全ては獣を倒すため、この世界の理を正しきものに戻すためだ)

 まるで、呪文のようにそう自分へ言い聞かせる。

 けれども身体は一向にナギの意思を汲んでくれない。

 刃が震える。

 ここでこの女を止めなければ。

 頭と身体がちぐはぐで、耳のすぐ傍で心臓がなっているようなそんな錯覚に捕らわれる。

「聖女・ナギ」

 不意に、懐かしい声が耳朶を打った。

 それはここには居ないはずの、今は遠き北の地で母の役割を担う妹の声。

「ユ、ミル」

 その手には剣が握られていた。

 武器を持たせたことなんて一度もない。

 それなのに、彼女の華奢な掌の中に、その武器はしっくりと馴染んでいた。

 にこり、と微笑むユミルの目だけが笑っていない。

「一人で抱え込まないで、と貴女に頼んでも無駄なことくらい分かっていました。けれど、そう願わずにはいられなかった」

 初めて見る戦装束を纏った彼女は美しかった。

 ユミルの青い髪に、白い甲冑がよく映える。

 マリアが戦場に咲く赤い薔薇ならば、彼女は凛と佇む百合を名乗るに相応しい。

「私たちはもう、守られてばかりの子供じゃないのよ。姉さん」

 その言葉に、ナギの中で何かが弾けた。

 眦から涙が溢れ、視界が乱れる。

「……そうか、そうだったな」

 すっかり忘れていた。

 彼女が、そして自分たちが何年も虐げられてきた中で心が折れなかったのは、互いの存在があったからだ。

「すまない」

「謝るより先に、やることがあるでしょう?」

 ユミルの剣は迷いなくリゼの――教皇に向けられている。

「さあ、剣を取って私たちの勇者さま」

「何故だろうな。お前にそう言われるのは嫌いじゃない」

 ふふ、と笑いながら、ナギは大剣を構え直した。

「その顔はユミルだな? 見ないうちに、随分と偉そうになったものだ」

「……お久しぶりです。大聖女、ああ今は教皇さまと呼ぶべきなのでしょうか?」

「相変わらず、可愛くないこと」

「我が同胞の身体、返して頂きます」

 隣に立つ妹のなんと頼もしいことか。

 ナギは笑いが止まらなかった。

 先程まで悩んでいたのが嘘のように、今は心が落ち着いている。

「行くぞ」

「はい!」

 二人は揃って一歩を踏み出した。


「マリア様!」

 テントの中に飛び込んできたイザベルに、マリアは脱ぎかけていたガウンの襟を元に戻した。

 彼女の傍らで、置物と化したアッシュが助かったと言わんばかりに、イザベルの方へ歩み寄る。

「どうなさいました?」

「ロゼッタが居なくなりました……!」

 マリアの眉間に皺が寄る。

 立て掛けていた大剣に手を伸ばすと、それを見たアッシュの表情も険しくなった。

「駄目です、マリア様。貴女はまだ本調子ではないのですよ!」

「お前にオレを止める権利はないはずだ」

「ええ。ありません。ですが、貴女の傷付く姿を見たくないのです」

「何の話を――!?」

 続けるはずだった言葉はテントに血塗れで飛び込んできたフィンによって掻き消された。

「お、お逃げください、聖女。アレは、我々の手には負えません……!」

 テントの中が急に明るさを増した。

 見上げれば、今までに見たことのないほど大きな獣がぎょろり、と一つしかない眼をこちらに向けていた。

「逃げろ!!」

 マリアは咄嗟に、フィンを蹴飛ばした。

 イザベルが彼を受け止めるのを確認したのち、大剣で布の残骸と化したテントを斬り捨てた。

「オレがこいつを惹きつけている間に、隊列を組め!! 良いな!!」

「マリア!!」

「行け!!」

 鎧も何も身に着けていない夜着のままで走り出した少女の姿に、アッシュは歯噛みした。

 今すぐにでも彼女を追いかけたい。

 だが、傷付いた仲間たちを放っていけるわけもなく――。

「行ってください」

 空気を震わせたイザベルの声に、アッシュは耳を疑った。

 金糸雀色の髪の隙間で揺れる瞳の中で炎が揺れていた。

「あの子を頼みます」

「で、ですが」

「我々は混血児ですから、このような傷は直に塞がります。でも、あの子は違う」

 イザベルの目は、段々と小さくなっていくマリアの後姿を見つめていた。

「マリアを頼みます」

「イザベル様」

「さあ、早く」

「……どうか、ご無事で」

 アッシュは二人に一礼すると、マリアと獣の後を追って走り始める。

 辺りには血の臭いが充満していた。

「……まったく、貴方も無茶をする」

「お前にだけは言われたくない」

「ふふ。さ、お立ちになって。あの子たちが戻ってくるまで、ここを死守しなければならないのですから」

 近付いてくる無数の足音にイザベルは笑みを深くした。

 それに釣られて、フィンの眦も柔らかいものへと変化する。


 固い鱗に阻まれて、刃が弾き飛ばされる。

 幾度となく連撃を繰り出すも、教皇の身体に傷一つ付いていない。

「どうした! それで終わりか!」

「だ、まれっ!!」

 ナギの大剣が、教皇の背を捉えた。

 だが、鈍い金属音が響き、刃は拒まれる。

「チッ!」

「姉さん、退いて!」

 ぎり、と歯軋りする間もなく、ナギの後ろからユミルが飛び出した。

 ナギが攻撃した場所と同じ部分へ攻撃を加えるも、鋼と違わぬ強度を誇る鱗はビクともしない。

「ははは! どうした小娘ども!」

 声高に笑い声を上げる教皇に、ナギとユミルは辟易とした。

 これ以上攻撃を続けるのが無駄なことくらい分かっている。分かってはいるのだが、現状を打破するための決定打――逆鱗が見当たらない。

「……ユミル」

「ええ」

 ユミルはナギの呼びかけにそっと瞼を閉じた。

 そして、額にある第三の目を開く。

 彼女の眼には少し先の未来を覗く力があった。

「一分後にマリアが獣を連れてやってきます。大聖女は後ろに飛び退きますから、左足を付け根からバッサリ斬り捨ててください」

「よしきた」

 べろり、と舌で唇を舐めると、ナギは大剣の柄を握る手に力を込めた。

 ――一分。たった一分が、いやに長く感じた。

 こんなに意識を集中させたのは、ジグを殺したあの時以来ではなかろうか。

 ナギが口元を緩めるのと、マリアがナギの視界に飛び込んできたのは殆ど同時だった。

「何!?」

「今です、姉さん!」

「おう!!」

 マリアが連れてきた獣に驚いて、教皇が後方によろけた。

 それを見逃すナギではない。

 深く、懐に踏み込んだナギの一撃は教皇の片足を奪うには充分だった。

「ぐあっ!?」

 左足を失った教皇が地面に叩きつけられる。

 ナギが斬り伏せたその部分には、煌びやかな鱗が一つ。

 探していた逆鱗が光を帯びて存在を主張していた。

「よくやった、マリア! 後は俺とユミルに任せろ!!」

 ナギは畳みかけようと教皇に近付いたが、マリアの様子がおかしい。

「駄目です!! 来ないでください! 獣が!」

 獣の爪はナギを標的にしていた。

 だが、それで臆するナギではない。

「小賢しいッ!!」

 ナギは剣背で獣の爪を受け止めると、そのまま大きく振りかぶって、獣の腕を斬り飛ばした。

 辺りに血の臭いが充満する。

 噎せ返るようなそれに、最初に音を上げたのは痛みと怒りが限界に達した教皇だった。

「おのれ! きさまら!! よくも! よくも!!!」

 血を流しすぎた所為で、意識が朦朧としているのだろう。呂律が回っていない。

 だが、ナギは女の言葉に耳を貸す気はなかった。

 あの調子では直に失血で死に至る。

 それよりも、獣を葬る方が先だ。

「あと少しだってのに、邪魔しやがって……! 細切れに切り刻んだくらいじゃ足りない。灰も残さず屠ってくれる!!」

 ナギの目は怒りで燃えていた。

 その後ろに控えるユミルも、同じ眼を獣に向けている。

「ナギ姉さん」

「分かっている。こっちは俺たちに任せろ」

 ユミルはこくり、と頷きを返すと、剣を手に教皇の方へ向かった。

 失血により、本来の姿を保つ魔力も無くなったのか、教皇は人間の姿に戻っていた。

 左足が無くなった状態では動くこともままならず、その場に蹲っている。

「貴女が私たちにしたこと、忘れたとは言わせません」

「……ッ」

 教皇の目に恐怖の色が滲む。

「た、たのむ。ころさないでくれ」

「そう言った私たちの仲間は、誰一人として助けてくれなかったくせに。自分は助かろうとするのですね」

 ユミルの刃が鈍く光を帯びる。

 どろり、と首筋を伝った赤い血が教皇の身体を汚した。

「先に地獄へ送って差し上げます」

 現・大聖女の声は、冷たく、深く、教皇マリアの胸を穿った。

 グッと、刃を横に滑らせようとしたユミルの背に、ナギの悲鳴が被さる。

「避けろ!! ユミル!!」

 大きな影が迫っていた。

 寸でのところで、避けることに成功するが、動けない身体の教皇は無残にも地面へ押しつぶされる。

「ぎゃあああ!!」

 痛い痛い痛い!!

 泣き叫ぶ教皇の姿に、誰も手を差し伸べようとはしなかった。

 女がこれまでしてきたことを思えば、それは当然のことだったのかもしれない。

 だが、教皇はそう思っていなかった。

 娘時代から今まで、全て神の思し召しと信じて行動してきた。

 正しい行いをしてきた自分がこんな最期を迎えるのか、と命が燃え尽きそうになった今、強烈な怒りが彼女の心を燃やしていた。

「ふざ、けるな!! きさまらも!! みちづれにじでやるゔっ!!」

 そして、あろうことか己が上に覆い被さっている獣の肉に歯を立てたのである。

「……げぇ」

 見るからに不味そうな肉をよくもまあ、むしゃむしゃと。

 ナギは舌を突き出してそれを最後の悪足掻きとばかりに見守っていたが、彼女の傍らに立つ因陀羅が怯えたように姿勢を低くしたことによって、異常を察知した。

『ま、まずいよぉ。ナギ。アレは、アレは!』

『落ち着け。因陀羅。ここには聖女が二人も居るのだ』

『だ、だけどさ……』

 臨戦態勢になった精霊たちに、マリアとナギが顔を見合わせる。

 動きが鈍くなった教皇と獣から、邪悪な魔力が溢れ出たのは、そのすぐ後であった。

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