十一、鏡

「マリアの様子はどうだ?」

 憑き物が取れたように穏やかな表情で戻ってきたナギに、アッシュは瞬きを一つ落とした。マリアと瓜二つの顔でそんな表情をされると、どうにも心臓が落ち着かない。

「変わりありません。それどころか、目覚める気配すら……」

「そうか」

「はい」

「お前、マリアと何かあっただろう?」

「はい?!」

 にやり、と人の悪い笑みを浮かべるナギに、アッシュは項を詰めたい汗が流れていくのが分かった。

 何と返しても墓穴を掘ってしまいそうで、視線を右往左往させていれば、それすらもおかしかったのか、ナギが大口を開けて笑い声を上げる。

「ぶふっ。お前、見た目の割に随分と分かりやすいんだなぁ」

「ど、どういう意味ですか!!」

「普段は仏頂面のくせに、マリアのことになるとすぐ熱くなる」

「な!!」

「どうだ? 図星だろう?」

 さもそれが当たり前だと言わんばかりの笑みで豪語されては、ぐうの音も出ず、アッシュは力なく項垂れた。

 肯定の意を身体全体で示した若者に、ナギの口元がますます笑みを深める。

「……マリアがお前のことを忘れていても、お前だけは覚えていろ。今はまだ、名前をつけることが出来ないかもしれないが、その気持ちは決して蔑ろにするな」

 分かったな、と獅子の如き鋭い金色の光が、アッシュを射抜く。

「はい」

 真っ直ぐな目で己を見つめる青年に満足すると、ナギは未だ眠る白き甲冑の姫に視線を戻した。

「手荒な真似はしたくなかったが、仕方ない。因陀羅」

 バチバチ、と閃光を放ちながら子狼が、宙に姿を見せる。

「噛め」

『おまえ、本当に番人なのか? 同族にそんなことを言うやつは初めて見たぞ』

「同族だからこそ、だ。お前の雷は、コレに発破をかけるのに丁度良いのさ」

 ナギの眼が妖しく光る。

 因陀羅は仕方がない、と小さく溜め息を吐き出すと、マリアの手首に噛みついた。

 ――バチッ。

 激しい音と共にマリアの身体に電流が走る。

 次いで、カッと目を見開いたかと思うと、鮮血に似た美しい眼がナギを真っ直ぐに見据えた。

「おはようございます。聖女・ナギ」

「起き抜けに悪いが、お前にここの指揮を任せる」

「はっ」

 本当につい先ほどまで眠っていたのか、と疑いたくなるほど元気の良い返事にナギは思わず笑いを噛み殺した。

 眠っている間に幾分か体力を回復したのだろう。

 少しだけ血色の良くなったマリアの様子に、僅かばかりに心が軽くなるのを感じながらナギは踵を返した。

 黙ったまま二人のやり取りを見守っていたアッシュに近付いて、小声で言葉を紡ぐ。

「マリアの身体が炎を扱えるのはあと二、三撃ほどだ。無理をしないよう、目を光らせておけ」

「……承知しました」

「それじゃあ、また後で」

 ナギはそう言うと悪戯っ子のような笑顔を浮かべた。

 通り過ぎていく浅葱色の嵐を横目で見送りながら、アッシュは主の元に近付いた。

「お加減は如何です?」

「うん。さっきよりは良い」

「それでは、何か食べられますか?」

「ああ。頼む。鶏肉が食べたいな」

「分かりました。イザベル様に聞いてきます」

 テントを出ようとマリアに背を向けたアッシュの腕を、然してマリアは引き留めた。

「マリア様?」

「……あ、悪い。何でもないんだ」

 ただ、もう少しだけ傍に居てほしいとどうしようもなく思ってしまった。

 彼のことは知らないはずなのに。

 どうして、こんなにも胸が痛むのだろう。

「すぐ戻りますから、待っていてください」

「あ、ああ」

 きっと、とても腹を空かせているとでも勘違いされたのだろう。

 曖昧な笑みを浮かべ、今度こそテントから出たアッシュの後姿を見送って、マリアは深い溜め息を吐き出した。

『やあね、溜め息なんか吐いて』

「…………迦楼羅」

『なあに?』

 こてん、と首を傾げる大精霊に、マリアの眉間に皺が寄る。

「オレはお前に何を差し出したんだ?」

『言えないと分かっていて、それを聞くのね』

「……悪い」

『いいのよ。知りたい、と思うことは人間の美点の一つだわ』

 口元にゆるり、と弧を描いた彼女に、改めて人間とは違う存在の恐怖心が芽生えた。

 ぞわり、と項を這っていった何かに気付かない振りをして、唇を噛み締める。

 ――マリア。

 どこか懐かしい声が、頭の中に響いたような気がした。


「ナギ姉さん」

 野営地を離れようとする影に、フィンは慌てて追いすがった。

 彼女がどこに向かおうとしているのかなんて、聞くまでもない。

「……これを」

 勿論、咎めるわけではなく、少しでも力になれば良いとロゼッタと二人で作ったコーラル帝国の地図を差し出した。

「助かる」

 ナギはそう一言だけ発すると、傍らに雷の吐息を吐き出す小さな狼を連れて、森の中に消えていった。

 本当は付いて行きたい。

 けれど、自分が行けば足手まといになることは必至だ。

 コーラル側に寝返っていたのが、自分の同族――それも一族の中でも手練れの者たちばかりでは、付いて行ったところで恰好の的にされるだけである。

「行ってしまわれましたね」

「ああ」

「……本当に、姉さんは昔から何も変わっていない」

 いつも一人で背負って、誰にもそれを悟らせなかった。

 辛いのも痛いのも、全部一人で受け止めて、混血児たちを守ってきた。

 そんなナギの姿に憧れて、フィンもイザベルも剣を手に取ったのだ。

 少しは役に立てるようになったと思っていたのに。

 結局はまたナギに、そしてマリアに重荷を背負わせてしまっている。

「俺たちは俺たちに出来ることをやろう」

「はい」

「ロゼッタはどうした?」

「アッシュ様に頼まれて、マリア様の食事を作るのを手伝っているはずです」

 もくもくと白い煙を上げている一角は狼煙ではなく、調理によるものだったらしい。

 フィンはイザベルと顔を見合わせると、どちらからともなく笑みを零した。

 だが、そちらに近付いていくにつれて、血の臭いが濃くなっていることに二人の顔が曇る。

「ロゼッタ!!」

 そこに彼女の姿は無かった。

 代わりに残されたのは、湯気を吐き出し続ける鍋と血反吐を吐いて倒れる数名の騎士だけだった。


 懐かしい、と言えるほど、ナギはこの土地を気に入っていたわけではない。

 あるのは辛く悲しい過去ばかり。

 けれど、そんな中でいつも笑っていられたのは弟妹のようなあの子たちを守りたいと思っていたからだ。

 ナギが歩みを進める度に、因陀羅の雷が後を追う蛇のように道を作った。

 傍から見れば、雷撃が続けて落ちたかのようなその光景に、森の動物たちは愚か、空気でさえ怯えてしまっている。

「……来たか」

 国境の前に、それは居た。

 まるで誰かが来るのを待っていたかのように、野営が展開されている。

――誰か、というか、十中八九俺を待っているんだろうな。

 ナギは片眉を上げると、背負っていた大剣を抜いて、平原に飛び出した。

 春の空気を纏う風がナギの前髪を煽る。

「何者だ!!」

 野営の最前列、見張りの騎士がナギに向かって問いかけた。

 だが、ナギはそれに応えるつもりはなく、代わりに狼の如き速さで野営に近付いた。

「何者だ、と聞いているのだ!! 止まれ!!」

「そう言われて、止まる奴があるかよ!」

 ナギは騎士のすぐ傍まで迫っていた。

 振り下ろされた槍を躱すと、剣背で騎士の鳩尾を力いっぱい振りぬく。

 奥のテントにまで吹っ飛んでいったのを見送って、ナギは叫んだ。

「出てこい! 大聖女!! 今度こそ、お前の息の根を止めてやる!!」

 敵陣の真っ只中に居るというのに恐れもせず喚き散らす侵入者に、騎士たちは怒りを露わにした。

 雨のように降り注ぐ弓矢を大剣で全て弾き飛ばすと、次いで大剣を勢い良く地面に突き刺した。

「因陀羅」

『まかせろ』

 因陀羅がナギの声に応えるのと同時に辺りを落雷が襲った。

 次々にテントへと命中し、宛ら地獄のような光景を作り出す。

「……相変わらず、落ち着きがないのね」

 斬っては捨て、斬っては捨てを繰り返し、辿り着いた豪華なテントの中から、その声は響いた。

――一閃。

 雷を纏った斬撃で焦げた布が風に連れ去られていく。

 テントの中には一人の女が座っていた。

 見覚えのある顔に、ナギの表情が苦痛に歪んだ。

「お前こそ、相変わらず辛気臭い顔だな」

「汚らわしい声で喋るな。耳が腐ってしまう」

「そっくりそのまま返してやるよ」

 女のすぐ傍には二人の近衛騎士が立っていた。

 騎士の気配は人間のそれではない。

 かといって、魔族のものでもない。

「…………お前、後ろのそれはどこで拾った」

「答える義理はないはずです」

「確かにな。なら力尽くで聞くまでだ」

「お行きなさい! あの侵入者を捕らえるのです!」

 幾度となく対峙してきた獣の気配にナギの顔が曇る。

 だが、表情とは裏腹にその太刀筋は確実に獣の急所を狙っていた。

 因陀羅の力を纏っているお陰か、ナギの振るう大剣の後を雷が軌跡を描く。

「ええい! 何をしている! 早く殺せ!」

 捕らえろという命令が「殺せ」というものに変わったのに、ナギはほくそ笑んだ。

 どこまでも気に入らない女である。

 きっと来世で巡り会ったとしてもこの女とだけは分かり合うことは出来ないだろう。

「いい加減、その鬱陶しいローブを脱いだらどうだ? 見ているこっちが暑苦しい」

「貴様にとやかく言われる筋合いなどない!」

 女は痺れを切らしたのか、遂にテントの外へ走り出してしまった。

 ナギはその様子をゆっくりと観察してから、眼前の獣に意識を戻した。

 人型の獣に対峙するのは、鍵の力を写されたときと合わせて二度目だ。

 確実に殺すためには、やはり女神の眷属の力が必要である。

「因陀羅」

『分かっているよぉ。まったくもう! 精霊遣いが荒い!!』

 因陀羅は文句を言いながらも、ナギの意を汲んで落雷を呼び寄せた。

 テントに落ちた雷が炎と化し、辺りに燃え広がっていく。

 獣たちは、炎に怯えの色を見せた。

 神の放った雷が炎となったものだ。触れることは即ち死を意味する、と本能で理解しているのかもしれない。

 ぴくりとも動かなくなった獣に、ナギは口角を上げた。

 大剣の柄を握り直したナギに、女がヒステリックに叫ぶ。

「おのれ!! この、悪魔め!!」

「俺が悪魔ならば、お前は一体何だろうな?」

 ごとり、と獣の首が二つとも床に転がった。

 一瞬の斬撃に、何が起こったのか分からないと女の目が動揺に揺れる。

「混血児とは言え、まだ幼い子供たちを炎の海に置き去りにしたお前の方こそ『悪魔』と呼ぶに相応しいだろうよ」

 大剣の切っ先が、女の――教皇マリアの喉元を捉えた。

 恐怖と絶望に表情を染めた教皇に、ナギが溜息を吐き出す。

「あの時、大人しく死んでいれば良かったものを。意地汚くも我が同胞の身体を喰らった貴様を許すわけにはいかん」

 死ね、とナギの形の良い唇が紡ぐのと、溶けた天井の金具が降ってくるのは同時だった。

 慌てて飛び退いたナギとは反対に、教皇はその場から動けない。

 轟音と共に崩れ落ちたテントの下敷きとなった女に、ナギは救いの手を差し出さなかった。

「どうした? 何故そんな目で俺を見る?」

「……っ」

「まさかとは思うが、お前が散々罵った俺に助けを求めているのではあるまいな?」

 教皇の目には鈍い光が浮かんでいた。

 ナギはそれに気が付かない振りをすると、テントに背を向け歩き出す。

 今度こそ、アレは完全に死を迎えることだろう。

 逆鱗を探すまでもなかった、と肩を竦めていたナギであったが、不意に冷たい殺気が背中を襲った。

「……ロゼッタ!」

 瓦礫の中から教皇の身体を担ぎ上げた存在に、ナギは唇を強く噛み締めた。

「ごめんなさい。ナギ姉さん。私は、私の姉さんを取り戻したい」

 その気持ちは、痛いほどよく分かる。

 だが、もうその身体のどこを探しても、ロゼッタの姉リゼの魂は蘇ったりしない。

 それこそ、ロゼッタも分かっているだろうに。

 彼女の目には迷いがあった。

「……ふ、ふははははは!!! よくやったロゼッタ! 貴様も姉と同じく我が血肉となるが良い!!」

「ロゼッタ! 離れろ!!」

「!!」

 ナギの声がロゼッタに届くより早く、教皇は動いていた。

 大きなトカゲの姿になったかと思うと、ロゼッタの身体を頭からバクリ、と飲み込んでしまう。

「シスター!」

 伸ばされた腕は掴めなかった。

 ぼとり、と無残にも落ちた片腕を掴んで、ナギは拳を握りしめる。

「貴様!!!!!」

 ナギの周りを取り巻く魔力が、彼女の怒りに反応して逆立った。

 加えて今は女神サラより借り受けた雷の力を纏っている所為で、周囲に雷と嵐が巻き起こる。

「殺す!!」

 大剣を掲げ、化け物と化した教皇にナギは突っ込んだ。

 どこからか聞こえてくる雷の音に、迦楼羅は目を細めた。

 懐かしい弟の魔力と気配に、戦っているのが因陀羅とナギであることを察する。

 けれど、今は急がず、マリアの回復を待つことしか出来なかった。

 ナギが言っていたように、今のマリアの状態では炎を扱えるのは残り三回ほど。

 加えてマリアと同位体であるナギがこちらに来ていなければ、マリアの身体はいつ崩れてもおかしくないほどに弱っていた。

『鏡、か』

 それはマリアに与えられたアリスの力だった。

 本来は生まれることのなかった十五番目のアリス。

 何の因果か、女神サラが世界を救うため、縁を断ち切ったアリスであるナギを模してマリアは造られた。

「何か言ったか?」

 ベッドの上で、漸く食欲を取り戻したマリアが、不思議そうに迦楼羅の顔を覗き込んでくる。

『いいえ、何でもないわ』

 迦楼羅はそれに曖昧な笑みを返すと、再び聞こえてくる雷の音に耳を預けた。

 いずれ、マリアは知ることになるだろう。

 自分自身に与えられた本当の力を。

 けれど、それを教えることは迦楼羅には出来ない。

 彼女が本来の力を使うためにはある条件があったからだ。

――すべての因果を背負う。

 良くも悪くもその結果を全て、等しくその身に受ける。

 諸刃の剣、と言っても過言ではないその力は、今はまだマリアに使わせたくなかった。


 鏡のアリスと対となる今世のルーシェルが揃わなければ、その条件を回避できないことも。

 迦楼羅の口からは語ることが出来ないのであった。

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