八、聖剣

 自己犠牲の塊だ、と誰かがマリアのことを揶揄していたのを嫌でも思い出してしまう。

 たった十五歳の少女が背負うには大きすぎる使命を、アッシュはただ傍で支えてやることしか出来なかった。

 何と声を掛けて良いのか分からない。

 後衛に獣の監視を任せると、アッシュたちは急いでその場を離れた。

 少数精鋭で隊を組んだのが功を成し、何とか獣から逃れると、霧深い森の中で野営の準備に取り掛かる。

「イザベルにクロウ、それからアーロン」

 マリアが順番に騎士の名を上げていく。

 そして、最後に残ったアッシュの方を見て、こてんと首を傾げた。

「あー駄目だ! やっぱりお前のことだけ、思い出せない」

 何故だ、と宣う彼女に、聞きたいのはこっちだとアッシュは表情で雄弁に語ってみせた。

 けれど、それの答えを知ってしまえば最後、また制約を結び直さなければならない。

 巨人級の獣が徘徊している森で、それは遠慮願いたかった。

「……アッシュ・マーブルです。副騎士団長を務めております」

「副騎士団長ってことは、オレの次に偉いんだよな? そんなやつのこと、何で忘れてるんだ??」

『マリア。それ以上はお止しなさい。制約に綻びが出れば、炎を貸すことが出来なくなるのよ』

 地雷原の上を駆け抜けんばかりにアッシュを質問攻めにしていたマリアを咎めると、迦楼羅はそっとアッシュの顔を覗き込んだ。

『許して、とは言わないわ。貴方にも非はあるんだもの』

「分かっています」

『随分と物分かりが良いのね?』

「ユミル様にも、こってりと絞られましたから」

『それなら「二度目」なんてことが起こらないように、マリアのことをしっかり補佐しなさいな』

「勿論です」

 アッシュは小さな声でそう決意を表明すると、食事の準備を手伝うために、テントを後にした。


「おい。女神」

『いい加減、もっとマシな声の掛け方を覚えなさいよ。失礼な子ね』

「アンタがもっと真面な女神なら、俺だって敬う姿勢くらい見せるっつの」

 ナギは不機嫌を隠そうともせずに、空間へ唾を吐き出した。

 マリアが選んだ道はまさに茨の道である。

 そんな決断をさせてしまったことにナギは激しい自己嫌悪に陥った。

「それと、アンタが寄越した子犬。ぜんっぜん、強そうに見えないんだけど、本当に迦楼羅の弟なのか?」

 ナギの声に小屋の方からキャン、と甲高い抗議の声が上がった。

『なんだと! おれはこう見えて、あに、じゃなかった姉上のつぎにつよいんだぞ!! おまえ!! サラさまにあやまれ!!』

 銀色の毛玉がモフモフと怒りのパンチをナギの足に繰り出すも、肉球が気持ち良いだけでちっともダメージはない。

「な?」

 ナギが呆れたように顎で子犬を示せば、サラはどこか遠い目をしながら言った。

『迦楼羅の炎で灰になりかけていたのを無理矢理直したのが駄目だったみたいね……』

「……」

『心配しないで。能力はそのままだから、獣には強いはずよ。多分』

「多分かよ!」

 ふぅ、と一息吐き出すと、ナギは尚も抗議の声を上げる子犬を抱き上げた。

「因陀羅(いんだら)」

『な、なんだよぅ』

「お前に頼みがある」

 ナギの声に、因陀羅はパチパチと瞬きを繰り返す。

「これは、お前にしか頼めないことなんだ」

 聞いてくれるか?

 真摯な眼差しに、思わず首を縦に振ってしまった因陀羅であったが、ナギの放った次の一言で撃沈した。

「俺を人間界に送ってくれ」

『むりだよ!?』

「無理じゃない。お前なら出来る」

『むりむり!! むーり!! おれは姉上とちがって雷しか使えないの!! 向こうに渡れても、こっちに戻ってこられないよ!!』

 先程まで「失礼だ」「僕だって」と強気な発言をしていたのが、嘘みたいに全否定を始めた因陀羅に、ナギは鋭い舌打ちを放つ。

「無理か?」

 堪らず女神に視線を遣れば、彼女は苦笑しながら肩を竦めた。

 その仕草が答えであることは明白であったが、ナギはどうにも諦めきれずに、うんうんと唸り声を上げる。

「最悪、一方通行でも構わねえ。もしもの時は、あっちに送ってくれ。その代わり、子供たちと境界のことはお前に頼んだぞ」

『サラ様、この人間さっきよりおうぼうなこといっている!!』

 わーん、とついには泣き出してしまった子犬を抱き上げて、ナギは水晶に映るマリアの様子を覗き込んだ。

 人間を守るために、自らを犠牲にすることを選んだ聖女。

 それはまるで、かつての自分を見せられているようで、腹の底がざわざわと落ち着かない。

『ナギ』

「何だ」

『あまり、深入りしない方が貴女の身の為よ』

「……それこそ、今更だな」

 これ以上、どこの深みにはまるというのだ。

 ナギは人の悪い笑顔で女神を見送ると、因陀羅を抱えたまま、自分の住居へと戻るのであった。


 濃紺に染まった緋色の髪が、見慣れない長さで揺れているのにアッシュは顔を顰めた。

 己が故郷を守るために、遠慮なくナイフ――正しくはガラス片である――を入れたというのだから、この少女はどこまでも自分のことに無頓着であった。

「マリア様」

 アッシュの声に、マリアがちら、とこちらを一瞥する。

「何だ、マーブル卿か」

 もう以前のように二人きりになっても、名前を呼んでくれない。

 それが少しだけ寂しくもあったが、自分が犯した罪の大きさを思えば、それはとても小さな報いのようで、アッシュはチクリと痛んだ胸に気付かない振りをした。

「戦闘準備が整いました」

「分かった」

「……」

 報告を済ませたら素早く自分の持ち場へ戻ろうと思っていたのに、アッシュの足はその場に縫い付けられたかのように動かなかった。

 自分の身体が、自分のものではないような錯覚に、思わず歯噛みする。

「どうした?」

 気が付くと、すぐ傍にマリアが立っていた。

 心配そうにこちらを覗き見るマリアに、記憶を無くす前の彼女がいやでも重なる。


「マーブル卿? どこか調子でも悪いのか?」

『アッシュ。どこか痛めたのか?』

 

 いつもと同じ顔で、いつもと違う名前を呼ばれる。

 痛い。

 堪らず、鎧の胸元部分を押さえれば、マリアの手がアッシュの手の甲に重なった。

 十五歳の少女に心配される己が酷く情けない。

 思わず零れ落ちそうになった涙を何とか堪えると、アッシュは彼女の小さな手をそっと押し返した。

「ありがとうございます、マリア様。寝つきが悪かったので、少し眩暈がしただけです」

 すみません、とそう言って苦笑すれば、マリアは眉根を寄せ、アッシュの頬に触れた。

 まろい、まだ子供の感触が残る柔らかな掌の感触に、アッシュが瞑目しているのを良いことに、マリアの手は大胆にも頬を辿って額に落ち着く。

「……熱は無いみたいだが、少し顔色が悪い。お前は無理をせず、この場で待機していろ」

「そうはいきません。私は貴方の側近です。お供いたします」

「途中で倒れられても、オレは面倒見ないぞ」

「承知しております」

「なら、いい。お前の好きにしろ」

 マリアはそう言って身なりを整えると、踵を返して行ってしまった。

 そんな彼女の後姿を見つめ、アッシュはゆっくりと指を組む。

 先程までマリアが触れていた所為で、妙な熱さを孕んだ手先に意識を持っていかれないようにしながら、大聖女に誓いの祈りを捧げた。

「さて、ここからは奴らの時間だ。地の利もないオレたちは苦戦を強いられよう。だが、恐れることはない! オレが倒れんかぎり、紅蓮の騎士団は不滅だ!! 剣を構えろ!! 気付かれぬ間に、あの首を掻っ切るぞ!!」

「おー!!!」

 マリアの鼓舞に、騎士が一斉に雄叫びを上げる。

 隊は全部で三つ。

 マリアの率いる本体とアッシュ、イザベルが指揮を取る第一、第二小隊である。

 三つの部隊で獣を包囲し、認識されるより早く首、もしくは心臓を焼く。

 そうすれば、獣の動きは封じられるはずだ。

 問題は今回の獣が、大きさの割に素早く、多少目も良いという点であった。

「こればかりは時間との勝負だ。少数精鋭であることの強みを存分に生かすぞ」

「はっ!!」

「分かりました!」

 マリアが剣を縦に二度振った。

『分散』の合図に、アッシュとイザベルがそれぞれの隊を率いて、本体を離脱する。

「マーブル卿!!」

 ふと、背中に掛けられた声に、アッシュは反射的に振り返った。

「無茶はするなよ」

 ギリギリ聞き取れるような小さな声が、アッシュの胸に響く。

「……はい! マリア様も! どうかご無事で!」

 にこり、と笑ってそう返すと、アッシュは馬の腹を踵で蹴った。

 嘶きと共に走り去ったアッシュの後姿が小さくなるまで見守ると、マリアは獣の気配が濃くなった高原を目指す。

『アッシュ坊やなら、大丈夫よ』

「ああ、そんな気がする。でも、何故か分からないが、言っておきたくなったんだ」

『そう』

 手綱をぎゅっと握り直した少女の旋毛に、迦楼羅はそっと唇を落とした。

『最初から、出し惜しみなんてしないわよね?』

「当たり前だ。さっきの屈辱、倍にして返してやる!」

 敵に背を見せることを嫌うマリアが、武器もなしに逃げ回ったことに怒りを抱かないわけがない。

 グルル、とまるでどちらが獣なのか分からないような低い唸り声を上げたマリアに、迦楼羅はそっと口元を綻ばせた。


 獣は存外、すぐに見つかった。

 マリアを探して明かりを片手に隊を成していた帝国騎士が襲われていたからである。

「ええい! 何をしておるのか!! 武器を取れぃ!」

 先の大戦で兵を失った騎士団の殆どは、老兵で賄われているようで、しわがれた声が夜の中で嫌に響いた。

「クロウ」

「ここに」

「あの馬鹿な老害どもの避難は任せたぞ」

「御意」

 ゆらり、と影の中に沈んだクロウが、老騎士たちの方へ向かったのを確認すると、マリアは大剣を抜いた。

 真っ赤な炎を纏ったそれが、彼女の後ろに列を成す紅蓮の騎士団を熱く燃え上がらせる。

「我らが世界に仇成す者に、報いを!! 総員、突撃!!!」

 白い甲冑が闇の中で蠢く。

 傍から見れば異様な光景に違いなかったが、残念ながら獣の目は空気の揺れしか感知できない。

 この獣は、これまで戦ってきた獣よりも少しだけ視力が良いようであったが、悟られる前に包囲してしまえば、あとはマリアの独壇場である。

「動く前に、足を狙え! 崩したところをオレが一気に燃やす!!」

 予定通り四方八方から現れた紅蓮の騎士団に包囲され、獣はコーラル帝国の騎士団を相手にしている余裕はなくなったようだ。

 力任せに長い腕を振るう獣と一定の距離を保ちながら、足を切り崩していく。

 その間にも、何人かの騎士が吹き飛ばされてしまったが、今はそちらに意識を向けている暇はない。

 先に音を上げたのは勿論、獣のほうであった。

 悲痛な叫びと共に突如逃亡を図った獣に、マリアが大剣を振るう。

「紅炎!」

 凛とした声が、響き渡った。

 縦に真っ二つに割れた獣の死体に着地したマリアが、違和感に顔を歪ませる。

『マリア?』

「……手応えがない。脱皮しやがった」

『何ですって!?』

 迦楼羅の悲鳴に、マリアは今しがた自らが斬り捨てた獣の死体に、再び大剣を突き刺す。

 肉の感触が全くと言っていいほど感じられない。

 中身は空洞のそれに、舌打ちが零れる。

「まずいな。こいつは恐らく吸収型。ナギ様が懸念していた能力の獣がこいつだったのか」

 くそ、と毒吐いたマリアを知ってか知らずか、彼女の後ろにピタリと張り付いていた小隊から悲鳴が上がった。

「きゃああ!?」

「ヤロウ! そこか!!」

 大剣を構え直し、踵を返そうとしたマリアの頬を熱が襲った。

「……お前、何を」

 剣を構えていたのはクロウだった。

「も、申し訳ありません、マリア様! 身体が勝手に!?」

 何かに操られているかのように腕を振り回すクロウを避けながら、何とか後方部隊に近付くも、マリアがそこに辿り着いたときには既に多数の怪我人が出ていた。

「動ける者は怪我人を支えて後退しろ」

「はっ!」

 命令を飛ばしている間にもクロウがマリアをしつこく追いかける。

 薙ぎ払うわけにも、斬りつけるわけにもいかず、ただ剣背で受け止めながら後退するしかない。

「獣はどこだ!!」

「分かりません! 一瞬だったので、見逃してしまいました!」

 これ以上被害が出ては敵わないと、人の波を縫って進み、マリアはクロウと対峙することにした。

「おいクロウ! お前もいい加減にしつこいぞ!」

 柘榴色の目がマリアを捉えた。

 その目は先程までの困惑したそれとは違い、冷えた殺人鬼のようなそれに変わっている。

「……それはこちらのセリフだ、聖女もどき」

 底冷えのする声でそう吐き出した彼に、マリアは「なるほど」と目を細めた。

「操られていたのではなく、お前が『獣』を操っていたわけか」

「理解が早くて助かる。故に、貴様にはここで死んでもらう」

 クロウはそう言って、今まで持っていた剣を捨てると背負っていた薙刀に持ち替えた。

「我が大義の前に、散れ」

 音もなく斬りかかってきたクロウの一撃は先程までとは比べ物にならないほど重く、剣背で受け止めたというのに、風圧で弾き飛ばされる。

「ほう。これを止めるか」

「……何故、こんなことを」

「何故? 何故だって?」

 クロウの顔が歪んだ。

 柄を握る手に、力が籠る。

「お前がナギ様のお力を奪ったからに決まっているであろう!!」

 言葉に節々から伝わってくる嫌悪と妬みに、マリアは戸惑った。

 この力は女神から借り受けたものであり、ナギの力を奪ったわけではない。

 他ならぬマリア自身がそれを一番良く理解していた。

「オレがいつ、ナギ様の力を奪ったと言った?」

「そんなものは見ていれば分かる! あの焔はナギ様にしか扱えなんだ!! その聖剣も全て!! あの御方にのみ授けられたお力!!」

 猛り狂うクロウの薙刀は徐々に鋭さを増し、マリアの肌に赤い軌跡を描き始める。

「どうした聖女!! 己が聖女と言うのであれば、その聖剣を振るってみよ!!」

 傷よりも、胸が痛かった。

 父親のように慕っている彼からそんな風に思われていたのかと思うと、抉られるような痛みが胸を襲って、腕に力が入らなくなる。

「貴様は誰に刃を向けているのだ!! クロウ!!」

 地面に膝をつきそうになったマリアを叱咤したのは、アッシュの声であった。

 どこからともなく飛んできたレイピアが地面へと突き刺さる。

茂みの中から現れたアッシュがマリアの腕を引いて、庇うようにクロウとの間に立ち塞がった。

「マリア様! お怪我は!?」

「だ、大丈夫だ」

「そうですか。では、その頬や腕の傷は私の目の錯覚なのですね」

静かに怒りを孕むアッシュの力強い腕に抱かれて、マリアは息を飲む。

「お、落ち着けマーブル卿。これくらい掠り傷だから平気――」

「俺が我慢ならんのだ!!」

 悲鳴に近い叫びに、マリアはびくりと身体を震わせた。

「俺は、これ以上お前が傷付く姿を見たくない!!」

 その言葉に脳髄へ痺れが走る。

 彼が傍に居るだけで、心臓が忙しない。

 こんな感情は知らない。

 ――知らないはずなのに。

 先程まで荒んでいた心が落ち着きを取り戻す。

「……アッシュ」

 自然と零れた名前に、アッシュのみならず紡いだマリア自身も驚いて瞑目する。

「何だ?」

「オレは平気だ。だから、下ろしてくれ」

 主にそう言われては、いつまでも抱えているわけにもいかず、慎重に地面へと彼女を下ろした。

「さて、待たせたな」

 聖剣を構え直したマリアをクロウは鼻で笑った。

「貴様に俺が斬れるのか? なあ、聖女もどきよ!」

 不気味な笑い声と共に斬りかかってきたクロウの刃を、マリアは軽々と受け止める。

 その目にはもう迷いがなかった。

 緋色の焔が燃える。

 己が聖女と言う役目についた理由を今一度再確認するときがきたのだと思った。

「参る!!」

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