七、糸の先

「チッ!」

 見ていることしか出来ない自分が悔しくて、ナギは鋭い舌打ちを零した。

 二人の子供はまだ幼く、彼らをこちら側に残してマリアたちを助けに行くことが出来ない。

「アンタが望んだ結末がアレなのか?」

 ナギの言葉に、空間が震えた。

『……私はいつも貴方たちの幸せを願っているわ』

 空気の波間から現れた女神サラが困ったように眉根を寄せて、ナギを見つめる。

「はっ。どうだか。なら何故、俺を直接あちらに送らない?」

『それは、』

 グッと唇を噛んで俯いた彼女に、ナギはもう一度舌打ちをした。

 自分にもっと力があれば、マリアに『聖女』の役割など継がせなかった。

 忌まわしい呼び名は、呪いのようにナギの心を蝕む。

「ごめんな、マリア」

 門越しに見えたマリアの泣き顔に、そう呟くことしか出来なかった。

 

 開戦を合図する銅鑼の音が身体を震わせる。

 マリアを人質にするだけでは飽き足らず、コーラル帝国が攻め入ってきたのが昨日のこと。

 夜戦を経て、漸く休むことが出来ると喜んだのも束の間、再び聞こえてきた銅鑼の音は、アッシュたち紅蓮の騎士団の気力を根こそぎ奪っていった。

「……アッシュ様」

 テントの外で来訪を告げた声に、アッシュは息を飲んだ。

「クロウ!? 何故貴方がここに! マリアは、マリアはどうしたのです!!」

「――落ち着いて、聞いてください」

 クロウはそう言うと、マリアの現状を掻い摘んでアッシュに報告した。

 そして、懐からマリアに託された彼女の髪を取り出して、アッシュへ渡す。

「いつ獣が現れてもおかしくはない、とマリア様は危惧されておられます。この髪は迦楼羅様の炎と同義。教会の周りに埋めれば結界になるだろうと仰っておりました」

 託された髪を見て、アッシュは瞑目した。

 風に揺れる彼女の緋色の髪を見るのが、好きだった。

 戯れに触れると、怒ったように唇を尖らせるマリアの表情が脳裏を過ぎる。

「アッシュ様!!」

 大変です、と部屋の中に飛び込んできたイザベルにアッシュは視線だけで何事かを問うた。

「――獣が現れました!」

 アッシュは思わずクロウと顔を見合わせた。

 丁度マリアの話をしていたところに降って湧いた獣に、タイミングが良いのか悪いのか、双方の眉間に深い皺が刻まれる。

「どこに現れたのです!?」

「それが……コーラル帝国の王都だそうで……」

「まさか……」

 イザベルは俯いてその表情を隠してしまった。

 それだけで彼女が何を隠そうとしたのか十分に理解出来てしまう。

「帝国の豚どもはマリアを囮に逃げようとしているのか」

 イザベルが下唇を強く噛みしめるのを見て、アッシュは舌打ちを零した。

「国境を攻めていた帝国軍も一時撤退しました。マリア様を救うのであれば、この機を逃す手はないかと」

 いつから部屋の中に居たのか、そも初めから誰かの影に紛れていたのかは分からないが、ゆらりと姿を見せたフィンが全員の顔を見ながら言った。

「……大聖女に進軍の許可を取ってきてください。我々は馬の準備をしてきます」

「承知致しました」

 来たときと同じように、野に放たれたウサギの如く俊敏な動きで部屋を飛び出していったイザベルを見送ると、アッシュはフィンとクロウに向き直った。

「クロウをお借りします」

「では、彼の小隊も一緒に連れて行ってください。俺はここでイザベルと共に皆の帰りを待っています」

 アッシュはこくり、とフィンの言葉に頷きを返した。

 見慣れた景色の中にマリアが居ない――それだけで世界が途端に色褪せたように思えた。

「待っていろ、マリア。俺が必ず迎えに行ってやるから」

 ギュッと握りしめた掌の中で、少女の髪が夕日に照らされて焔のように淡く光った。


 獣が現れた、と衛兵の一人が訪ねてくるや否や、急に鎖を引っ張られたかと思うと、ワンピース姿のまま野に放り出された。

「……せめて、服だけでも返せよ」

 大型の巨人を睨め付けながらマリアはひとり悪態を放つと、自身を加護する精霊の名を呼んだ。

「仕事の時間だぜ、迦楼羅」

『まだ炎が馴染んでいないのに。全くせっかちな獣だこと』

「要は街に入らせなければ良いんだ。なら、浄化の炎で結界を張っちまおう。それに奴さんたちはオレとアイツに相討ちになってもらいたいみたいだしな」

 見張り台からこちらを眺める帝国の騎士をちらと横目で一瞥しながらマリアは肩を竦めた。

 こんな小娘がどうやってあの化け物を倒せるのかと思っているのが半数、残りは捻り殺されてしまえと思っているのが手に取るように伝わってくる。

 迦楼羅の炎を宿す大剣が無いため、近距離戦は避けるしかない。

 門に結界を張ることも考えたが、獣の大きさを考えると、門よりも獣の周りに結界を張る方が負担も少ない、と判断するとマリアは低い姿勢を取った。

 宛ら若い狼のように疾走する彼女に獣はまだ気付いていない。

 渡されたワンピースが白いもので良かった、と苦笑しながら、獣へと近付いていく。

 獣は総じて目が悪い。色を認識できるほどの視力は持ち合わせておらず、代わりに耳と嗅覚が異様に発達していた。

 個体によってはそれが顕著に現れるのだが、この獣は体だけがいやに大きい巨人型のようである。

 目も鼻も口もない顔面と、ダラリと垂れ下がった両腕に、マリアは違和感を覚えた。

「初めて見るタイプだな」

『そう言われてみれば、そうねぇ』

 迦楼羅が訝しそうに首を傾げる。

 マリアは獣に近付くのを止めて、背の高い草の中に身を隠した。

 息を潜めてじっと獣の動きを観察した。

「……何だ? 何か探しているのか?」

 能面のような顔を時折、キョロキョロと動かす獣に、マリアと迦楼羅は揃って眉根に皺を寄せた。

 結界を張るにも今の位置からでは遠すぎる。

 もう少し近付く必要があるが、丸腰で飛び出すほど、マリアは馬鹿ではない。

 常であれば、頼もしい仲間達が獣の気を引いている間にマリアがとどめを刺す。

 けれど、ここには誰も居ない。

 ひとりぼっち、という言葉がマリアの胸を穿った。

(大丈夫、大丈夫だ……。ひとりでも、オレはアレを倒せる。だってオレが倒さなければ、誰が……!?)

 意識を逸らした一瞬の出来事だった。

 獣の姿が突如、視界から消えた。

『マリア!! 上よ!!』

 迦楼羅の声にマリアは胸の前で十字を切った。

 淡い橙色の炎が彼女の周りを包み、炎の衣と化す。

 タン、と地面を蹴って飛び上がると身体に不釣り合いな腕を地面に叩きつけて、跳ね上がりながら移動を開始した獣と目が合った。

「咎の炎よ。罪深き獣に裁きを!」

 マリアの声に彼女の周りを覆っていた炎が青く変化した。

 豪と、まるで獅子が雄叫びをあげるように風を巻き上げて炎が獣に襲いかかる。

 愚鈍に見えた獣は寸でのところで、方向を転換すると炎を躱してしまった。

「チッ! やはり、咎の炎ではこの程度か……」

『あと少しの辛抱よ。それまで何とか持ち堪えてちょうだい』

「簡単に言うがな、今は大剣も鎧も無いんだ。これでは逃げ回るのが精一杯だぞ!」

『逃げてもいいから集中させて! 本当にあと少しなのよ!!』

「ったく!! 分かったよ!! 逃げればいいんだな!!」

 炎の衣を補修すると、マリアはふわり、と地面に降り立った。

 いつの間にか前後が逆転し、追う者になった獣が、尚も地面を抉り取りながらこちらに向かってくる。

 背後に迫る獣の気配を感じながら、マリアは門とは反対の方――森へと走った。

 ここに愛馬が居たならば森を抜けることは容易い。

 だが、今は自身の足で走らなければならなかった。

 木の根や不自然に転がった岩を飛んだり、避けたりしながら先を急ぐ。

 けれど、地面を抉ってマリアの後を追ってくる獣の方に分があった。

「迦楼羅!! もう限界だ!!」

『まだよ!!』

「くっそ!!」

 マリアは一際太い幹を蹴りつけると宙に浮いた。

 軽い身のこなしで枝を掴むことに成功すると、タンッと枝の上に着地してみせる。

「どうしたもんかなァ……」

 嫌な汗が頬を伝って頤を濡らす。

 マリアの心境を映したような曇天が重く空を覆った。


 ――夜が来る。

 それまでにマリアの元へ向かわなければ。

 焦燥感に駆り立てられながら、アッシュは馬の腹を蹴った。

「アッシュ様、あれを!!」

 先導していたクロウが突然大きな声を出した。

 アッシュは伏せていた顔を上げ、クロウが示した方向に視線を移す。

 そこには黒煙が上がり、無残な姿となった国境の門が崩れ落ちていた。

巨人級ギガントか……」

 地面に点在する巨大な穴と門を見比べて、アッシュは歯軋りをした。

 あの時、無理矢理にでも引き留めておけば、こんなことにはならなかったかもしれない。

「恐らく、この先にマリア様は居る!! 見つけ次第お助けしろ!!」

「はっ!」

 到着速度を優先するために少数精鋭で来たのが仇になった。

 巨人級が相手となるとこの人数で戦うのは厳しい。

 マリアを見つけたらすぐにでも避難する。

 アッシュはそう結論づけると再び馬の腹を蹴った。

 ここは雪残る自国とは違って、草木が芽吹き始めている。

 獣の目にこちらがどう映るのかは未知であるが、マリアを助けることが出来るのであれば、己が命など安いものであった。

「マリアーッ!!!」

 気が付けば叫んでいた。

 見知らぬ地にひとり。

 彼女が獣と相対しているのかと思うと、気が気では無い。

 だから、失念していた。

 ここが敵国であるということを。

「止まれ! 貴様ら!! ここは我がコーラル帝国の領地であるぞ!!」

「我が主、マリア様の窮地と聞き馳せ参じた!! 邪魔立てするのであれば容赦はせん!! そこを通してもらう!!」

 マリアから賜った聖剣を抜刀すると、アッシュは通り抜けざまに一閃した。

 アッシュを制したコーラル帝国の騎士が口から血反吐を垂らして落馬する。

「アッシュ様」

「責任は全て俺が取る。皆はマリア様を見つけることに専念しろ」

 刀身についた血を振り払うと、アッシュは地割れが酷くなっている方へ馬を走らせた。

 ちらほらと緑が顔を覗かせる南の大地は、獣の足跡で深く傷付いていた。

 せっかく芽を出した花も、その蕾を咲かせることなく、無惨な姿で倒れ込んでいる。

 そんな名も知らぬ草木の姿がどういうわけか、マリアと重なって見えた。

 背筋を冷たい汗が伝っていく。

 一刻も早くマリアの無事をこの目で確認したい。

 そんなアッシュの思いが通じたのか、眼前の木から、白いワンピースを纏った少女が飛び降りてきた。

 その後ろには、獣が迫ってきており、知れずその人が誰かをアッシュに教える。

「マリア!!」

 アッシュの声に、少女はびくり、と怯えたように眉根を寄せた。次いで、こんな状況であるにも関わらず、パチパチとゆっくりと瞬きをしてみせた彼女に違和感を抱く。

「……あー、悪い。コーラルのお迎えって訳じゃあなさそうだが、アンタ誰だ?」

 後頭部を鈍器で殴られたような衝撃がアッシュを襲った。

 人間は本当に驚くと声も出せないのだな、とどこか他人事のように思いながら、伸ばしかけた腕をどうにか引っ込めることに成功する。

「我々は聖アリス教会の者です。貴女様の迎えに馳せ参じました」

 彼女の背を守るように宙へ浮いた迦楼羅の視線が痛い。

「馬と着替えを用意しております。こちらへ」

 アッシュは連れていた女性騎士たちに視線を遣ると、彼女らは心得たようにこくり、と頷いてみせた。

 悪戯に混乱させるより、今は彼女をこの場から退却させた方が良いと判断したのである。

「……何をしたのですか?」

『あの子が望んだことをしたまでよ。皆を助けるために、あの子は自らの感情を贄にした』

 迦楼羅の目は真っ直ぐに、そして冷たくアッシュを射抜いた。

『貴方があの子を守ろうとしたように、あの子もまた貴方を、そして皆を守るためにその身を犠牲にしたのよ。かつての英雄――ナギがそうしたように、ね』

 炎を司る女神の眷属はそう呟くと、女性騎士に連れられていったマリアの後ろ姿を厳しい目つきで見送った。

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