第2話 縞馬をサムしてしまうまでは

      1


 いまちょうど新しい年を迎えた。

 なんだか気が抜けたので一旦家に戻る。

 死を覚悟したいま、人生に悔いを残すべきでない。

 私の悔いになるその人物は、私のそんな事情など知りもせずに、いや知っていてもらったほうが困るのだが、リビングのソファで眠ってしまっていた。

 照明も空調もパソコンの電源もなにもかもが点けっぱなし。スリープ状態のモニタは、マウスに触れるとすぐに回復した。

 サイトを作っていたらしい。フライング、という文字が眼に入った。

「あ」オズ君が眼を覚ます。「おかえりなさい」

「ベッドで寝たほうがいい」

「帰ってきてたんですね」オズ君はやおら身体を起こすと、テーブルのパソコンに眼を遣った。「あ、え、ちょっと」

「別に隠すようなものでもないだろう。それは君に与えたものだ。サイトを作ろうが株式売買を始めようが君の勝手だ」

「見たんですか?」

「意味を教えてくれないか」フライングエイジヤ。

「帰って来たと思ったら、そうゆうことしてくわけですか」オズ君はいそいそとパソコンをシャットダウンする。「早いこと戻ったほうがいいんじゃないですか?」

「まさか起きているとは思っていなかったんだ」

 とっくに寝てくれているものだと。

 家に帰れるのは三日に一回程度。これでも増えたほうだ。オズ君がここで暮らすようになってから、夜になると家に帰りたくなってきた。

 私が帰宅するのは深夜なのでオズ君は大抵は眠っている。オズ君の寝顔をのぞいてから風呂に入って適当に酒類を流し込む。そうやっているうちに眠くなり、リビングのソファで居眠り。オズ君が起きる頃には職場に戻らなければいけない。

 眼と眼を合わせて会話をしたのは、何ヶ月ぶりだろうか。

 オズ君は私が買い与えたパジャマを着ていた。

「寝ますんで」口調がとげとげしている。

 気持ちよく寝ているところを起こされては無理もない。

 しかし、こんなところでうたた寝されて風邪を引かれては困る。

「毎日こうなのか?」ベッドに入らずにソファで眠ってしまっているとしたら。

「少なくとも誰かさんが帰って来る日は陣取ってないつもりですが?」

 驚いた。

「知っていたのか」私がこのソファで眠っていることを。「顔を合わせていないつもりだったが」

「白々しいんですよ、もう。いちいちいちいち」オズ君が部屋に持って帰ろうとしたパソコンをテーブルに置いて、私と距離を詰めてくる。「僕はあなたの子どもじゃない。ガキ扱いとかもううんざりなんです。自分がやってることわかってます? 道端で拾った家出少年を勝手に家に連れて来て住まわせてるわけですから。現役の警察官が」

「いまは警察官じゃない。ちょっとばかり違うんだ」

「屁理屈はいいです。もういろいろ限界なんです。今日が最後です。もし今夜帰ってこなかったら書き置きしてくつもりだったんですけど」

「何に対して腹を立てているのか詳しく説明してくれないか」

「そうゆう態度が一番腹立つってんですよ」オズ君は怒鳴りながら何かを誤魔化しているようにも見えた。「説明? 誰が。しませんよ。ご自分の胸に手を当てて聞かれたらどうですか?」

「私に愛想を尽かした。今日中にここを出ていく。そういうことかな」

 日付は変更された。年も新しくなって。

 オズ君は私を見たまま。

「あけましておめでとうございます」新年のあいさつをしてくれた。

「おめでとう」

「とにかく、そうゆうことですから」

「止めてほしいのか」

「誰が」オズ君は荒い足取りで部屋に入ってしまった。

 そこからはいつもの流れだ。風呂に入って適当に酒類を流し込む。

 いつもと違うのはまったく眠くならないところだ。おそらく意地でも眠らまいとしているのだろう。

 私が眠ったその隙にオズ君が出て行ってしまう可能性。

 それを想像しただけで眼が冴えわたってくる。

 可能ならばいなくなってほしくないが、オズ君が出ていくと決意した以上、上から押さえつけて強制的に止めるべきでない。わかっている。わかってはいるのだが、

 オズ君がいなくなったら、

 寂しくなるだろう。

 私はまたここに戻ってこなくなる。

「寝たほうがいいですよ?」

 子守歌代わりにいっそ事件のことを考えようかとした矢先、オズ君がひょっこり顔を見せた。

「かもしれない」

「自棄酒ですか?」

 オズ君は私の向かいのソファに腰掛ける。私が買い与えたパジャマと私が買い与えたカーディガンと。

「僕がいなくなるから」

「かもしれない」

「なんで僕を拾ったんですか」オズ君の指がスルメを摘まむ。

 くるくると回す。

 指示棒の代わりかもしれない。

「そうゆうつもりだったんじゃないんですか?」

「かもしれない」

「犯罪ですよ?」

「だろうな」

 オズ君がスルメを口に含む。

 舌でもてあそぶのを見ていた。

 唾液の音。

「僕は本気ですよ? 本気で出ていきます。誰かさんが仕事に出かけたが最後、僕はここから消えます。どろんと」

 消えてほしくなかったら仕事に行くなと、そういうことだろうか。

「僕はあなたを待ってました。あなたが待っていろと言ったからです。でもあなたはちっとも帰ってこない。騙されたんでしょうか、僕は」

 あのときの発言の責任を取れと、そういうことだろうか。

「何とか言ってくださいよ」

「何と言ったら君は満足するんだ?」

 オズ君はしゃぶっていたスルメを口から解放し、私に向ける。

 喰えと、そういうことだろうか。

「あなたはできない。僕はあなたを待ちきれない。さようなら」

 スルメは、オズ君の口に消える。

 唾液が絡まる音。

 それをしばらく聞いていた。

「寝ます。おやすみなさい」

「本当に行くんだな?」

 オズ君は立ち上がってから私を見る。何度も言わせるなとばかりに。うんざりした面持ちで。

 私はソファの後ろの本棚に隠しておいた封筒をテーブルに置く。

「受け取りなさい」

「なんですか?」

「お年玉だ」

「最後までガキ扱い」

「君の歳の数だけ入れてある」

 オズ君は怪訝そうな顔をしながらも封筒の中身を検める。

「あのお、僕の歳こんなに多くないですよね?」

「その枚数の歳に達したら改めて話がある」

「うわ、キモい。ないです。ないない」

「君が座っているクッションを外しなさい」

「今度は何が出てくるんですか? 金塊とか?」文句を言いつつもオズ君は私の言うことに従ってくれる。「え、あ、うわあ。こうゆうこと、します?」

 通帳を隠しておいた。オズ君の名義の。

 血縁でもない他人名義の通帳を作るのは簡単ではないが、ちょっと裏工作をさせてもらった。言えない方法ではないが、敢えて言う必要もない。

「やっぱそうゆう資金なわけですか? キモすぎますけど」

「生憎と私には君の成長につぎ込む以外にカネの使い道がない。もらってくれ」

「結婚詐欺とかほいほいされるタイプですって。絶対」

「好きに使ってくれて構わない。それは君のカネだ」

 オズ君の眼と指は、私がオズ君のために貯めたカネの桁を数えていた。

 自己満足でしかない。

 自己満足ですらない。

 こんなことをして、一体何の保証があると。

 オズ君は、きっと今日を限りに私に顔を見せることはない。

「君は家に帰りなさい」

 これだけは言いたくなかった。

 これだけは言うまいとしていた。

 シンデレラの十二時の鐘。

 青髭公の金の鍵の部屋。

 オズの魔法使いの、

 物語は実は読んだことがない。

「返しませんよ?」

「そう言った」

 オズ君が部屋に入る背中を見届けてから、

 私は眼を瞑る。

 泣ければきっと楽なんだろうが。

 泣いている場合ではない。

 私には、

 やるべきことが残っている。

 連続眼潰し事件の真犯人を捕まえるふりをして、

 対策略的性犯罪非可逆青少年課の失態としてなすりつけ、

 課長から課長の座を剥奪し、

 素性の怪しい祝多イワンごと潰す。

 一月一日、

 ショッピングモールの開店時刻まであと。

 何時間なのか。

 時計を見る気も起きなかった。



      2


 その大型ショッピングモールのイメージキャラクタは、ホワイトタイガーとブラックパンダだとのことで、イベントスペースで福袋を売る役を仰せつかっているようだった。

 開店して三十分ほどが経過した。

 先着各五百名限定のホワイトタイガーセットとブラックパンダセットは、順調に売り場から客の手に渡っていく。

 どの売り場からもまだ、眼球発見の一報が入らない。

 バイトやパートも含め、全従業員のシフトと担当売り場のデータはここにある。

 福袋内に異物を混入させるとしたら、売る方か買う方か。

 眼球は発見されなければならない。売れ残ってしまっては困る。

 一月一日、

 なんとしても本日中に返却されなければならない。年賀状の宣言通り。

 福袋の開封は家に帰ってからだろう。本日中に開かれるという保証は何もない。

 課長はそれを逆手に取った。

 名づけて、開運のおみくじ作戦。命名はもちろん課長だ。

 わざとだろうが、返却第2会場の手口を流用している。

  新年最初の運試し

 おみくじ。犯人を挑発したい意図があるのかどうなのか。

 すべての福袋には、開運のおみくじと称したカードを入れた。このカードはスクラッチ式になっており、大吉・中吉・小吉・吉の四つの賞がその場で与えられる。

 福袋売買時に客の立ち会いの下、店員が福袋の中身を検める大義名分を得た。店員が客に、客が店員に異物混入の罪をなすりつける責任分散も封じた。

 店員が犯人だった場合、客と一緒に眼球を発見するほかない。

 売り場の店員をその場で逮捕できる。

 反対に客が犯人だった場合、異物が入ってたことを報告した時点で現行犯も同様。

「かかりますか」私は念のため口元を隠して言う。

 通話の相手はこの場にいない最高責任者。課長だ。

「かかってもらわないと困るな。でもこの作戦にはでっかい穴が空いてる。君にはお見通しみたいだったけどさ」

「発見されますね」

 店側の最高責任者が満面の笑みを浮かべてアイコンタクトを寄越した。

 嫌な眼線だ。

 適当に会釈してその場をしのぐ。

 そう。

 その場しのぎでしかないことは拝金主義のお前らには気づけない。

 この作戦は、ショッピングモール側の都合を最大限に考慮している。

 店側としては眼球が発見されては困るのだ。発見されることがすなわち犯人側に不利になるような作戦になっている。

 犯人がまだ逃げおおせたいと切望しているのなら、眼球は発見されないだろう。店側の都合通りに。

「格別その店に怨みがあるってんなら別だけど?」課長が鼻で嗤う。

「捕まることは二の次。眼球を返すことが奴の最上の望みです」

「君の読みかな?」

 最初の定期報告。

 なべて異状なし。

 捜査員にはそれぞれ肝となるポイントで従業員或いは客を装ってもらっている。

 イベントスペースは、建物のほぼ中央に位置し、吹き抜け構造なので2階3階部分が一望できる。昨日課長がここを陣取っていた理由がよくわかる。

「こっちはまだだよ」

 課長はいま、指定された第3会場にいる。

 初売りの海鮮市場。

  新年最初のおご馳走

「海っ端は寒いねえ。ふう。君と代わればよかったよ」

「いまからでも」

「買い物を兼ねて来てる人がいるからなあ」

 最初から私は埋立地に行くつもりでいた。課長にはここで陣を構えていてもらいたかった。が、一人の女の我が儘に寄ってそれはあっけなく覆された。

 祝多イワタイワン。

「僕、あんまり刺身得意じゃないんだけどなあ」課長が嘆く。

「何かありましたらまた」

「愚痴は聞いてくれないわけだね。君らしいよ」

 おそらく第3会場のほうが発見が早そうだ。

 犯人がいるなら、こちらの会場を選ぶ。

 昨夜から降り積もった雪は本日中に溶けるだろう。気になるのは空で待機中の雪雲。そのせいか気温が上がらないという予報だ。

 吹きっ晒しの埋立地では、寒さも雪もしのげない。

 犯人側は、眼球が確かに返却されるところを見たいだろうか。

 開店して一時間足らずでイベントスペースの福袋が売り切れた。完売と書かれた赤い札をホワイトタイガーとブラックパンダが掲げる。なんだか物悲しかった。

 福袋が売り切れたら彼らはお役御免というわけではなく、これからが本番とばかりにイベントスペースで客とたわむれ始める。福袋売り場は、撮影会場となった。

 第2回定期報告。

 異状なし。

 第3回定期報告。

 異状なし。

 課長からの連絡も来ない。

 どうなっているんだ。

 神社での早期発見を受けて手の内を変更して来たのか。

 まだ、六つもあるというのに。

 さすがに緊張の糸が途切れて来たので胃袋に何か入れようと思った。客に紛れてレストランに入ってもよかったが、あの行列を見たら引き返したくなる。

 従業員用の休憩スペースは、弁当を食べたりだらだらと喋ったり、とても客側に見せられない弛みきった空気が充満していた。ここにも入れそうにない。

 どうしたものかと佇んでいたら、ホワイトタイガーに声をかけられた。正しくはその中身に、だが。

「どうしたんすか。リフレッシュタイム?とかすか」

 答えに困って黙っていたら勝手に喋り出してくれた。

「俺やっぱ食品売り場が怪しいと思うんすよ」

 従業員側に知らせた情報は、福袋に異物が混入されている可能性があるということのみ。

「針とかそうゆう系? 毒とか?めっちゃヤバくないっすか」

 ホワイトタイガーの中身は、市内の私立大学に通う19歳の青年。

「うわやっべ。もしお客さんが見つけちったら、ここ?営業停止とか?マジやっべ」

「ホワイトタイガーは喋らないだろう」黙れと伝えたつもりだが。

「ケージさん心配しすぎっしょ? だいじょーですって。百戦錬磨のケージさんなら絶対見つかりますって。俺、全力で協力?してますんで」

「協力というならまず自分の仕事をやったらどうだ?」こんなところで油売ってないで相方のブラックパンダを手伝えと言ったつもりだったが。

「あ、ケージさん。もしかご飯まだすか。俺の食います?」そう言うとホワイトタイガーは、さっき私が入室を諦めた休憩スペースから弁当を持ってきた。

「どーぞ。遠慮とかなく」

「君が食べればいい」

「俺ならもう食ったんで。重労働してっけどさすがに同じもん二つは食えねえつーか。天ぷらとかフライとか油ぎったぎたでマジ勘弁」

「誰かほかの奴の分なのか」

「要らねえっつったんで俺がもらったんすけど。まあ、そーゆーわけすわ」

 全然わからない。

 若者はよくわからない。

「食ってくださいすよ。俺、こう見えても応援?してるんで」

「誰の分なんだ」

「どぞどぞ」ホワイトタイガーは得意そうにタオルで鼻をこする。

「返してきてくれないか。気持ちはありがたいが」

「うわ、それ、いまのケージさん、ギャグっすか。うっわー、俺そうゆうの嫌いじゃないんで。ますます応援?したくなってきちゃったつーか。やっぱり弁当食ってください。食わねんなら捨てることになるだけなんで。んじゃ、俺、交代しねーといけないんで」

 だから、誰の分をかっぱらって来たんだ。強引に押し付けられてしまった。

 ホワイトタイガーと入れ違いに、ブラックパンダが休憩スペースへつながる通路に入ってきた。私の姿を見て小さく会釈をくれた。

 ブラックパンダの中身は、市内の私立高校に通う女子。17歳。

 女子が入っているにしては大きい。着ぐるみ自体が大きいだけなのか。履歴書に身長を書く欄はない。直接中身と会っていないのだ。

 休憩スペースに入るのかと思いきや、更衣室へ。そこにはついいましがたホワイトタイガーが入ったばかりだったが。内部は目隠しがあるのだろう。そうでなければノックもせずに入る度胸が信じられない。

 若者はわからない。

 女子はもっとわからない。



      3


 第4回定期報告。

 異状なし。

 張り込みみたいだな、と思った。

 ホワイトタイガーが好意でくれた誰かの弁当はそっと休憩スペースに戻して、代わりに昨日課長が寛いでいたコーヒーショップで、チキンサンドとコーヒーをテイクアウトしてイベントスペースに戻る。と言っても眼と鼻の先だから別に店内で食べてもよかったような気もする。

 ショッピングモール内を練り歩いていたホワイトタイガーとブラックパンダが、再びイベントスペースに帰って来た。あんな重くて暑い着ぐるみを背負ってよくやる。それが仕事か。

 私も人のことは言えないな。

 第5回定期報告。

 異状なし。

 痺れを切らして課長に連絡を取ることにした。

「あ、ごめんごめん。忘れてた」

 眼球は、鯛の眼玉の横にそっと置かれていたらしい。

 二つ。

 ふざけているのか。遊んでいるのか。

「そっちは? こっちはもう海鮮三昧で」課長が溜息まじりに言う。

「本当に」この店なのか。

 何も見つからないまま15時を回ろうとしている。

「君の読みだと店員?客?」

「教授と連絡を取っても?」

「なるほど僕に愛想を尽かした」課長が腕辺りをぽんと叩いた。「僕もそろそろ合流するよ。待っててくれてもいいけど」

「失礼します」電話を切る。

 祥嗣しょうじ教授の私用電話の番号をもらってある。無理を言った甲斐があった。

 内容が内容なので表に出ようか迷ったが、イベントスペースの客はホワイトタイガーとブラックパンダの寸劇に釘付けだ。視線誘導も完璧。役に立つじゃないか。

 歓声が上がる。

「祥嗣教授のお電話でよろしいでしょうか」

「誰だね君は」

「昨日お世話になりました。対策略的性犯罪非可逆青少年課の」

「知らないな。弟の電話と勘違いしてはいまいか」

 もしや。

 今度こそ本当に、朔世さくぜ院長につながったのか。

「失礼しました」

「いや、弟が君にこの番号を教えたということはそういうことだ。私にも重い腰を上げろと言っているのだろうね。四年前のことだろう」

 これが、

 あの。朔世院長。

 電話口でも充分に伝わってくる。

 この人は、本物だ。

 レプリカなど霞む。正真正銘のオリジナル。

「後ろが騒がしいようだが」

「先生の話を盗聴されないための最善の方法です。どうかご容赦のほどを」

「面白いことを言うね、君は。リュウシが気に入るわけだ」朔世院長はそこで絶妙な間を取った。「間違いないだろうね。彼女だ」

 連続眼潰し事件。

「早く保護してやってほしい。自分でも止まらなくなっているのだろう」

「そのつもりです」

「彼女の発作を利用している者がいる。厭な友人に唆されたんだろう」

「単独ではないと?」

「人殺しなどできんよ。私が診ていた当時のままならね」

 ホワイトタイガーは、ブラックパンダと友だちになりたかった。

 ブラックパンダも、ホワイトタイガーと友だちになりたかった。

 子どもたちの声援。

「どこにいると思いますか」

文葦ぶんいだろうに。行ってないのか」

 やはり知っていたか。

「男子禁制だそうで」

「そこの顧問医とは知らない間柄じゃない。私が言ってみよう。今日中に文葦から是非にと申し出がされるだろう」

「重ね重ねお世話を掛けます」

「礼ならリュウシに言ってくれ。あれがそこまで入れ込むことはそうない。十年に一回あるかないかだ。君にはそれだけの価値がある」

「恐縮です」

「私の患者だ。最後まで診れなかった私の責任でもある。君への協力は惜しまないよ」

「勿体ないお言葉です」

 電話が切れた。汗で通信機器が滑る。

 ホワイトタイガーは、ブラックパンダと友だちになりたい。

 ブラックパンダは、ホワイトタイガーと友だちになりたい。

 子どもたちが口ぐちにアドバイスを叫ぶ。

 どれも正攻法だ。間違っていない。

 すべて試してみればいい。

 すべて試してそれでも駄目なら、新しい方法を試せばいい。

 17時を回る頃、課長が疲れた顔をしてやってきた。課長の手みやげを受け取って持ち場を譲る。新鮮な海産物ではない。

 文葦学園の見学許可証。

 あくまで見学という体だが、充分だ。

「先生に逆らえる医療関係者なんかいないよ」課長は力なく手を振る。

 祝多イワンの姿がない。

「ああ、店主? 夕飯の仕込みに戻ったよ」

「ご愁傷様です」

「だと思うんなら同席してくれてもいいよ」

「失礼します」

 文葦学園までの最短ルートを確認しようと思った矢先、雪が降ってきた。平たく大きな粒だ。車での移動は諦めたほうがいいか。しかし、地図を見る限り半径十キロ以内に公共交通機関の気配がない。

 電話が鳴った。

 嫌な予感しかしなかったし非通知なので予想はついたが出ないわけにいかなかった。

「アチは許しとらんよ。理事長のアチは」店主からの猛抗議だった。

 ワイパを動かす。

 無意味な雪かき。

「理事長の許可取れとらんよ」

「どうしたら取れるんだ」

「女に生まれ変わるんやな」

「許可できないんだな?」

「女に生まれ変わったらええよ。生まれ変わったらな」

 無茶しか言わない女だ。

「だったら文葦の外で重要参考人と面会できる手筈を整えてほしい」

「お断りやな」

 埒が明かない。

「串字路修真に会わせろと言っている」

「やっとらんよ。無実やわ」

「当時の主治医がそう言っている」

「いまの主治医はそうは言っとらん」

 いまの主治医。それが顧問医だ。

「会わせへん」

 回線は乱暴に切られる。

 理事長こと祝多イワンが夕飯の仕込みに勤しんでいるとしたなら。逆に考えれば夕飯の仕込みに勤しんでいるからこそ、わざわざ牽制の電話を寄越したことになる。本当に会わせたくないなら文葦学園の門で直接私を締め出せばいい。

 祝多イワンの優先順位は、課長とともに何らかの日常行事をこなす以外を勝れない。

 見学の許可をもらった私には、訪問の権利がある。

 止めたいのか止めなくても構わないのか。

 行けばわかるか。

 結局車を使うことにした。雪の降りしきる夜、知らない道をひたすらに歩く以上のもの悲しさを私は知らない。

 一瞬頭をよぎった映像をワイパでかき消す。

 オズ君はもう、私の手の届く範囲にはいない。

 駐車場がわからなかったので文葦学園の正門に横付けした。周囲は雪と闇による視野狭窄を鑑みても目立った建造物はない。

 敷地をぐるりと取り囲む高いブロック塀が更生施設を思わせた。ある意味その通りなのかもしれない。

 世界のどこからも見放された少女の保護。

 ものは言いようだ。

 青白い街灯が照らす鉄柵の内側に、透明なビニール傘を差した白衣の女が立っていた。傘への雪の積もり方から考えて、だいぶ長い時間そこで待っていたことがわかる。

 第二ボタンまで開いた薄手のブラウス。脚こそ黒のストッキングで覆われてはいるが、膝上丈のミニスカート。濡れた路面には不向きな高さの踵を誇るブーツ。防寒具らしい防寒具は首に巻かれた真っ青なマフラーのみ。

「遅くなって申し訳ない」私は自分の身分証明と見学許可証を見せながら言う。「対策略的性犯罪非可逆青少年課の」

「祝多にな、ああ、理事長のことだが。お前を入れるなと釘を刺された」白衣の女は鉄柵越しに私を見ない。

 横顔は華奢な印象を受ける。二十代後半から三十代前半。それにしては物腰が落ち着いている。医者の特性か。

 医者にしては過激な身なりだ。

「だが困ったことに、私の身分を一方的に保障する権力の長から是が非でもと圧力もかけられている。要するに板挟みの状態だ。どちらに従おうがどちらに逆らおうが、私はこの先お先真っ暗だ。まったく余計なことしかしない。ガキというのは」

 厭きれているのか怨みごとをぶつけているのか。

 返答すべき言葉が浮かばなかったので私は黙っていた。

「串字路修真は脱走した」顧問医は言う。「昨日から帰ってきていない」

「それは裏付けと取っていいのか」

 連続眼潰し犯は。

「現主治医の私の見立てとしては、彼女はひどく危うい状態にある。昨日の面接も途中で打ち切らずを得なかったほどだ。いまになって思えば、打ち切らずに問い詰めていればよかった。後悔している」

「カルテを見せてもらいたいんだが」

「見ることで何かわかるのか。生憎と彼女の過去しか書かれていないが」

 これから起こることを防ぐことはできない。

 顧問医はそう言っている。

「たまたま通りかかった見ず知らずの他人にこぼせる愚痴はこのくらいだ。帰ってくれ」

「私はそちらに入れない。しかし、先生ならこちらに来ることができる。そこで寝泊まりを?」

「失礼なことを言うな。買い物くらいはしている」顧問医が本日の衣裳を見ろとばかりに腰に手を当てる。傘を首と肩で挟んで。

「院長から言われていることがある。違うか」

「それと相対することを祝多から言われてる。ダブルバインドだ。最悪のストレス状態でしかない。肌が荒れる」

「先生は患者の主治医だ。違うか?」

「自殺志願者の背水の説得か何かか。なかなか言うじゃないか。噂通りだ」顧問医は傘を持ち直して私を視界に収める。湿気のせいか無造作にうねった髪を掻きあげて、私を観察する。

 私はこれと同等の眼光をつい最近味わっている。

「言い忘れていた。私の専門は、ガキのお守りでもガキを日常生活に復帰させることでもガキの取るに足らない悩みを聞いてやることでもなんでもない。カウンセリング?莫迦を言え。私の専門は、そいつの解剖だ」

 白く細い指が、私の眉間を射抜く。

 もし顧問医の指先からレーザビームのようなものが発射されていたら、私は間違いなく頭蓋に穴を増やしていた。

「ここにいれば研究材料に事欠かないんでな。純粋な善意で始めた祝多には悪いが、私には純粋な悪意しかない。串字路修真はやってくれたよ。私の編み出した最先端治療を跳ねのけて」

「本心か」

「医者は平気で嘘をつく。それが患者のためならな」

 嘘だ。

 顧問医は嘘しか言っていない。

「串字路修真を匿っているんじゃないか。再逮捕させないために」

「逮捕したところでまたここに逆戻りだ」顧問医は言う。「むしろ連れ帰ってもらいたいもんだがな。だいじな研究材料だ」

「協力してもらえないだろうか」

「何に対する協力が要るんだ? 串字路修真は逃げられない。お前たちが優秀だからな」

 この女の本心はどこにあるんだ。

 なんだかんだ言いつつも話に応じてくれているところを見るに、決して拒絶の意はなさそうだが。いい暇つぶしの相手か。

「どうして眼玉を抉り出す?」意見を聞きたい。

「井戸端で話す内容から逸脱しているな」

「眼玉が欲しいのか」

 顧問医はかぶりを振る。それ以上は口に出すわけにいかない。議論を交わすわけにいかない。会話の強制終了を告げる合図だった。

「串字路修真を捕まえろ。話はそれからだ」顧問医がくるりと向きを変える。

 傘に積もった雪がばさばさと落ちる。

 激励の言葉だったのかもしれない。ショッピングモールの駐車場に戻って来てから改めてそう思い返した。

 捕まえなければいけない。

 串字路修真を。なんとしても。

 課長から電話がきた。耳に当てながら店の中へ。

「見つかったよ」

 眼玉が?

 犯人が?

 尋ね返そうとした私の思考など先読みされていて。

 課長は無感動にこう続けた。

「ブラックパンダが」



      2加


 ホントは休憩なんかしなくたって大丈夫だったんだけど、偉いおじさんがうるさいから仕方なく。ホワイトタイガーとセットじゃないと子どもが悲しがるから。

 なるほどそっか。それならわかったかも。

 手前の部屋は人がいっぱいいるから入れない。

 奥の部屋には、ホワイトタイガーがいた。ホワイトタイガーの中の人がホワイトタイガーになろうとしてるところだった。

「ノックくらいしろって」

「ごめん」衝立の向こうの椅子に腰かける。

 衝立にホワイトタイガーの影が映ってる。

「弁当な。人にやっちまったが」

「うん」

「なんか飲むか」

「ううん」

 ホワイトタイガーは優しい。

 わたしのことを気づかってくれる。

「いつやんだ?」

「もうちょっと」

 あと。

 すこし。

「ついさっきな、ケーサツと話した」

「うん」わたしもすれ違った。

 こわい顔のこわい人。

「てめえ、またあそこ戻りてえのかよ」

「そうじゃないよ」眼玉を返してるのは。「要らないんでしょ?」

 要らないってゆわれたらしい。

 欲しいってゆったから持ってったのに。

 そんなの要らないとかゆわれる。

 ゆわれた人の気持ちを考えてみてよ。

「捕まるのは手段」

「意味ねって。俺のことはいいんだ。俺よか」

「やさしいね」

「だって共犯だろ?俺ら」

 共犯。

 それって友だちと、

 どう違うの?

「お前だけむざむざ捕まらせるわけにいかねえよ」

「わたしは大丈夫。捕まっても裁かれない。常人のあいつらにわたしを裁くことはできない。わたしはおかしいの。異常なの。家族全員の眼玉をくり抜いちゃうくらい異常なの」

 ホワイトタイガーの影が揺れる。

「大丈夫だよ。もし捕まってもあなたのことは言わない。だってわたしたち」

 共犯。

 なんだから。

「先戻ってて。トイレ行く」

「わーった」

 影が消える。

 ドアの音。

 鍵を閉める。

 衝立をドアの前に移動。

 足音が遠ざかったのを聞いてから。

 皮膚を一枚剥がす。

 鎧とも言い換える。

 これはわたしを守ってくれる。

 お前たちの視線から。

 穢されないための防具。

 今日もありがとう。

 これからもよろしく。

 白と黒の。

 獣の君は。

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