若さ原石上昇・女
伏潮朱遺
第1話 白虎の足は何百個?
0
ずっとわたしを見ている。
アレとアレが。
観ている。
お母さんも。
視ている。
お父さんも。
診ている。
先生も。
見ないで。
お兄ちゃん。
観ないで。
お姉ちゃん。
視ないで。
弟も。
診ないで。
妹も。
友だちは、
いないけど。
わたしは見られている。
いい子にならなきゃ。
違う。
わたしはそんなにいい子じゃない。
大人が思ってるほどできた子じゃない。
視ないで。
診ないで。
白い球に。
黒い円が。
赤い線と。
青い縁を。
切り裂いて。
引きずり出して。
そこには何も、
ないはずなのに。
まだある。
穴が。
見ている。
わたしを。
わたしだけを。
なんで。
なんでなんでなんで。
赤が飛び散る。
残像は緑。
意識が黒塗りになって。
見えたのは、
白い。
白い白い。
「なんとかしてやるよ」
その白い人は、
わたしを見ずに言った。
その人が見ていたのは、
そこで転がっていた二つの黒い球。
わたしは眼を逸らす。
見てない。
わたしは見てなんか。
「なんも心配すんな。俺が付いてる」
そう言ってその白い人は、
二つの黒い球を手の平で転がす。
「こいつさえくれれば俺はお前が世界から誰も見えなくしてやる」
そんなこと、
「できっこないか?」
わたしはその白い人の足元を見る。
白い脚。
靴の下に広がっている白い白いそれとおんなじ色。
白い。
白い塊が落ちてくる。
ゆっくりと。
わたしは空を見ていた。
白い。
白い空。
「いいか? 俺とお前はいまから」
友だち。
だったらいいなと思ったけど。
友だちなんかいたことないから友だちになったとしてもその人とどう友だちとして振舞っていいのかわからない。
友だち。
だったらいいな。
「共犯だ」
その人の白い歯が満ち欠ける。
アヘヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャy。
月とおんなじで狂った嗤いだった。
*
真冬よりも冷たいことで有名なその院長は、私を見るなり電話をかけ始めた。
「カゲト? うん。いまね、変な子来ちゃってさあ。そう。どーしよ? 用件?ごめんごめん。なんかね?そーさきょーりょく?してほしーんだって。そう。めんどーだよね?なんで僕らがそんなこと。うん。じゃあ反対二票ってことで」
駄目か。
確かに不躾ではあったかもしれない。アポだってないに等しい。が、こちらが取りたくともそもそも受け付けていないアポをどうやって付けろと。
チン。
アンティーク調の受話器が小気味のよいを立てて置かれる。
「君。なんだっけ?」
いや、待てよ?
私が捜査協力を依頼に来た朔世院長の下の名前は、
「そっくりお返しします。院長、あなたは」
朔世翳冬院長ではない。
とするなら、答えは一つ。
「ふーん。さすがはケーサツ。鋭いね」
朔世翳冬院長は、一卵性双生児の片割れだ。
「よく聞いてたね。ごーかく」彼は大袈裟に手を叩く。「この程度のことに気づけなかったらお帰り願ってたところだったけど。いいよ。そーさきょーりょく?だっけ。やぶさかじゃあないなあ」
「感謝します」
病室をそのまま宛がったかのような無機質な印象を受ける。院長室には、必要最低限の設備。事務用のデスクと椅子。面会用のソファセット。アンティーク調の電話機だけがいやに場違いな存在感を放っている。
朔世翳冬院長もとい、双子の兄のふりをした双子の弟・
「どーも。悪ふざけが過ぎてる?」
「初めてとは思えませんが」
「看破った他人は君が初めてだよ」教授が口元を上げる。
黒く艶のない髪とは対照的に、肌は白く目映い。細身の体型で身長もそこそこに高い。若干35歳にしてこの業界の未来は彼のその類稀なる大脳に委ねられている。
業務用のカーテンが揺れる。空調の温風の照準はデスクの真上に合っている。
「そんな君の名前を憶えたい」
「このほど対策略的性犯罪非可逆青少年課に配属となりました」私は手帳を見せる。
「ケーサツじゃないの? 軍隊じゃないんだからさあ」教授が身を乗り出す。「良い名前だね。英雄の名だ」
「本題に移ります」用意してきた資料を出そうとしたが。
「いいよ、そんな紙切れ」断られた。「君の言葉で聞きたいな。君が感じてる見解とかそうゆうのも織り交ぜながらね」
「客観性に欠けます。教授には事実だけを」
「事実だけ見てるから君たちはいつまで経っても犯人を逮捕できない。犯人の思考のその前に踊り出せない。言い方を変えようか? 起こるべくして起こった犯罪を未然に防げない。連続殺人事件なんか、捕まえてくれってゆう犯人側のメッセージ以外のナニモノでもないんだから」
「ご存知でしたか」
「ご存じだよ。顔に書いてあるじゃん」
課長に無理を言って担いできた捜査資料をファイルに戻し、呼吸を整える。教授の本職は心理学者。私の心の内や底を読んだり覗いたりするのはお手の物だろう。
全部お見通しならば話が早い。
「連続眼潰し殺人事件のことです」
「摘出じゃないの? 殺された被害者は全員眼球が抉り出されてたって聞いてるよ」
報道規制が上手く行ってないわけではない。
言いように捉えれば、話す手間が省けた。
悪いように捉えれば、言い包められる恐れがある。
「目ん玉なんか抉り出してどーしたいんだろうね?」教授が両手でメガネのフレームを摘まむ。「君の意見を聞きたい。僕を痺れさせるような生々しい仮説を頼むよ?」
「私には時間が」
「僕にだってないよ。今日が何の日かわかってずけずけやってきてる?」
一年最後の日。大晦日。
新しい年を迎えるまであと十二時間を切った。
「カゲトが働き詰めでね。倒れられちゃ敵わないから僕が代わりにお人形さんやってるんだ。カゲトが過労死したら病院ごと廃人にしてやる」
「ことは一刻を」
「カゲトじゃないから言えない?」教授が顔を近づける。
見れば見るほどそっくりだ。
これでは入れ替わりをされても見分けがつくかどうか。現についていない。
「院長を呼んでもらうわけに」
「いかないね。君たちの身勝手な都合でいままでどれだけカゲトが。見たくもない被害や聞きたくもない加害でどれだけすり減ってきたか。土足どころか戦車駆り出してくるんだからね。何も残らない。もぎ取って行く。押し潰していく。根こそぎだ。もう二度とカゲトにそんなつらい思いをさせたくない」
「お気持ちはお察します。しかし」
「しかしもお菓子もないよ。帰ってくれて構わない」教授の眼が氷のように凍りつく。
その眼はまさに、朔世翳冬院長の。
「教授が院長でないという証拠がない」
「その仮説は僕の脳神経を痙攣させてくれる?」
ぞっとした。
部屋は充分過ぎるほどに暖房が効いている。にもかかわらず、
肩の後ろ。背骨から腰にかけて、壊死したみたいだった。一瞬。
「先生は招かれざる客である私を厄介払いするために演技をしている。あえて弟のほうを演じている。兄のままでは断れないから」
「カゲトは優しいからね。全世界の悪意をその身にすべて受け止めるんだ。僕はそんなことできない。世界の悪意は僕がすべて破壊する。皮を剥いで肉を切り刻み骨をしゃぶり尽くす。何も残しやしないさ。何もね」
勝てない。勝てるはずがない。
負ける気で挑んだが。
負けることでなにかしらの参加賞が得られるという軽い考えを棄てるべきだった。
得られない。
吸い取られる。それこそ、皮を剥いで肉を切り刻み骨をしゃぶり尽くされて。
「帰るといい。僕が君をヒトで亡くす前に」
「本日未明に捜査本部に届いた」
仕方ない。これを見せるしか。
「ふうん。是が非でも明日に間に合わせるように速達にでもしちゃったのかね。致命的な手違いだ」教授は宛名の書かれた面をじっくり睨んでから葉書をひっくり返す。
年賀状。
教授の黒眼が右から左に行ったり来たりするのを見ていた。
その黒眼が再び私を射抜くまで。
「どうですか」
「汚い字だね」教授はもう一度葉書を裏返す。
宛名は、
大晦日も正月もない皆々様へ
差出人は、
「わかさげんせきじょうしょう、おんな?」
若さ原石上昇・女
「院長に」
「カルテなら見せないよ。だけど」教授がにやりと笑う。「君たちの読みは大幅には外れてないってことだけは伝えとくよ」
「では院長の」
「だいぶ前だよ。そっか。噂を聞かないと思ったらやっぱりケーサツのお世話になってたかあ」
本年は誠にお世話になりました。
来年もどうぞ末永くご贔屓に。
来たる1月1日、
「あの子が最初にカゲトのところに来た時もケーサツ御用だったからね」
「正月に怨みでも」
以下の三つの会場におきましてお返ししたく存じます。
「着眼点が嫌いじゃない」教授が年賀状を指ではたく。「そだね。カゲトよりも先に僕に見せてせーかいだったと思うよ。カゲトはこうゆうシュミの悪い仮説検証は大嫌いだから。そこらへんが精神科医の了見の狭さじゃないかなあ」
「教授ならば」
「あの子にもう一度会えるんならね。捕まえたら真っ先に僕に連絡して? 脳の髄まで裏返して根底曝け出してあげるから」
つきましては、
お迎えに来て戴けるよう心よりお待ち申し上げております。
わたしの手に入れました、
眼球すべてを持ってして。
「行くといい。時間がないね」教授が年賀状を手渡す。
私の眼を見つめながら。
大晦日も正月もない皆々様へ
本年は誠にお世話になりました。
来年もどうぞ末永くご贔屓に。
来たる1月1日、
以下の三つの会場におきましてお返ししたく存じます。
つきましては、
お迎えに来て戴けるよう心よりお待ち申し上げております。
わたしの手に入れました、
眼球すべてを持ってして。
第1章 白虎の足は何百個?
1
返却会場その一
新年最初のお買いもの
対策略的性犯罪非可逆青少年課・課長の推理と、私立●●大学心理学部・看板教授の推理が一致した。
県内最大のショッピングモール。
母艦や要塞を思わせる。その規模は、250を超える専門店が立ち並ぶ。
スタッフ通用口の奥に関係者が雁首を揃えて、この場を預かることになった責任者を銘々の言い分で責め立てていた。
「確かにうちが狙われるという確証があって」
「いったい幾らの損失が」
私がここを離れる前と、内容面においてまったく変化がない。
要点は二つ。
会場は本当にここなのか。いや、違ってほしい。
会場を封鎖した場合の損失は保証できるのか。反語。
「違った場合は名誉棄損どころの問題では済まされないよ、君」
「もしそうであって、何の手立てもせずに起こってしまった場合のダメージのほうがよっぽど取り返しつかないと思うんですけどねえ。あなた方の信用はその程度ですか」課長が私を発見する。「おかえりさん。随分怖い顔だけど」
「元から」
関係者一同が立場の弱そうな私を再びターゲットに選ぼうと体勢を立て直すが、なまじ相槌を打ってくれる分、課長相手のほうが気は晴れるのではないだろうか。
ついこの12月、私は異動を言い渡された。実験的色合いの強い割に物々しい戒名が冠されている。その仰々しさをたった一人で背負う男。
人の良さそうな外見だが、触れようとすれば柳のごとく飄々とかわされる。軽いようでいて深い。重いようでいて浅い。つかみどころのない、つかませない。
歳は私より一つ上。噂通りの人物像を鵜呑みにするならもう5歳は上だと思い込んでいたが。
「その分だと協力のキの字くらいは得られたかな?」課長が言う。
「無駄足で」
「同じ見解ってことでしょ? これほど心強い裏付けはないな」課長が関係者を視界の端に収めて。「とゆうわけで、福袋というおめでたい福の神の名を騙った売り場一掃セールで儲けようとするのは諦めたほうがよろしいかと」
店側に受け入れる入れないという選択肢は最初からない。
それは確かに起こっている。
起こってしまっている。
防ぎようもない。私たちには、起こってしまった被害を最小限に食い止めることしかできない。
「変な人だったでしょ?」課長が関係者という藪を突っ切って言う。
鳴き止まない。吠えるのは愚かな拝金主義者。
「課長のほうが」変人だった。
「それ、褒め言葉?」
儲け第一主義の関係者を黙らせるためにも、さっさと発見されてくれないものか。
課長と教授の読みでは、新年恒例の初売り福袋の中から発見されると踏んでいる。
眼球が。被害者の。
「二個?」課長がピースサインをする。
「均等なら」
現時点で発見された遺体は三体。
よって、眼球も六つ。
それを三つの会場に置いていくとなると。
「4・1・1の可能性もなくはないな。その子が意地悪じゃないといいけどさ」
エスカレータを上がって4階へ。吹き抜け部分の手すりに肘を載せて、全フロアを眼下に捉える。課長の眼差しはひどく乾いている。
「店の数は約250、そのほぼすべてで最小値20、最大値300の福袋がせっせこ作られているとしたら。ふう、途方もない話だよ」
「すでに目星は」
「へえ、すごいじゃないか」
「私ではなく」課長を見る。
院長のふりをした教授にだって目星は付いていたのだ。当然、同じ思考結果の課長にも。
意地悪なのはどっちだ。
つい一週間前まで赤と緑と白に彩られていたというのに。変わり身の早さは資本主義にとって好都合。作っては消費し、新しいものへと買い変える。
赤と白は引き続き、そこに金が加わる。緑の面影も見えつつ。
新年まで5時間を切った。
閉店まで3時間もある。
「君はさ」課長が音量を調節する。そばを通りかかった家族連れに配慮したのだろう。「僕を潰すためにブラックボックスを開けに来た。違うかい?」
「意味がよく」
「白々しいな。まあいい。開けたいんなら開ければいい。でも中身は気体かもしれない。液体かもしれない。開けたら最後、証明は不可能かもしれない。そこに何があったかなんて」
家族連れ。恋人同士。友だち。暇潰しのカウントも厭きて来た。
どうして課長に部下がいないのか。
いるにはいたのだ。過去三名ほど。いたのだが。
彼らは三名とも、殉職している。
「僕が殺したと思っている。違うかな?」
「いえ、私は」
「君は思っていなくとも、君を遣わした上の方はそう思ってる」課長が柔らかさでカムフラージュした鋭い眼光を向ける。「結果から言えばそうなるね。僕が殺した。すべては僕の監督不行き届きに端を発する判断ミスが取り返しのつかない形で」
「私が死ねば証明と」
「上に騙されてるよ。さあて、潰したいのは君か僕か」
課長の元に経過が報告される。
捜査員の数が決定的に足りない。間に合わない。すべての福袋を開けられない。
「困ったな。僕らも徒労の人海戦術に加わろうか?」課長がイヤフォンのコードをいじりながら言う。
「店側に協力を」
「販売を自粛しろって? 言うこと聞くかな」
「中身を見てから封をしろ、と」
「お毒見係と一緒だよ」課長が通信機器を上着のポケットに戻す。「お毒見係は死なない。毒を入れるのは、お毒見係がお毒見したあと。上様のお口に入る前。どれだけ防ごうとも盛られる。上様のお口に届く。みたいなことを言ってなかったかな?院長は」
「無意味です」
この時間にどれだけ足掻こうとも、眼球は確実に福袋に混入される。
もっと言えば、現時点ではまだ福袋に混入されていない可能性が高い。
「何かやってるってところを見せないと」課長が言う。「あくまで裏舞台で。誰にも気づかれないようにこっそり眼球の入った福袋のみを見つけて回収することを望んでいる。眼球が出てきて得するのは、眼球の持ち主の遺族以外にないんだ」
課長に続いてエスカレータで下りる。1階にいた捜査員がそれとなく近づいてきて、課長に何かを耳打ちする。
視線が集中する。
このフロアにいる、いや全フロアの捜査員がこの様子を見ている。
吹き抜けのイベントスペースに、私たちはいる。
「はいはい」課長は無感動にそれだけ言って撤収の合図を出す。こめかみのあたりに漂う空気をちょいと押す。
捜査員が次々に散る中、課長は彼らの行かない方向へ。
行列で賑わうグルメゾーンへと。
「緊張が解けたらお腹すいちゃったなあ。さすがにどこも混んでるか」課長が左右を見ながら通路を進む。「どこがいい? 君はどこなら待てるかな」
「正気ですか」
「ちょうどそんな時間だ。僕と合い席が嫌なら二時間後に集合としようか。場所は」
先ほどの耳打ちの内容はおそらく、別の会場で何らかの動きがあった。
不審人物を見かけたか確保したか。現行犯なら言うことはないが。
目玉を、見つけたのかもしれない。
「向かわなくて」
「行きたいなら止めないよ。場所はわかるかな?」課長がグルメゾーンのパンフレットを見つめながら言う。「院長の推理通りだよ。年賀状の二つ目」
返却会場その二
新年最初の運試し
神社のおみくじだ。
「閉店までには」
「いっそ手分けしてもいいよ」課長が言う。「もう一つがフリーだけど」
返却会場その三
新年最初のおご馳走
海鮮市場だ。
「前任者が死んでなければよかったな」課長は人ごとのように言う。
そうでなければ、私はここにいなかった。
対策略的性犯罪非可逆青少年課は、課長と新人のたった二名のみで構成される。
決定的に足りない捜査員は、警察の人間じゃない。
課長は、とある民間団体と癒着がある。
課長の耳に埋められたイヤフォンの先に、その人物はいる。
「彼女は君を気に入るかな」課長は僕を見ずに言う。
気に入られたほうが生き残れるのか。
気に入られないと生き残れないのか。
行けばわかるか。
「失礼します」
「やっぱ蕎麦にしようかな。年越しだし」課長はイヤフォンの向こうに話しかけていたのかもしれない。
最初から、私ではなく。
2
大晦日も正月もない皆様へ
まったく同意せざるを得ない。
院長のふりした教授の推理によるなら。毎年初詣客がテーマパークに引くとも劣らない行列を成すという、県内で最も有名な神社仏閣の一つ。
●●神宮。
新年まであと4時間弱。
駐車場の入口は満車と書かれた看板が遮る。交通整理と駐車場案内に勤しむ制服を横目に。見つかろうが問題ないが、説明する時間もない。
やけに寒い。
息が白い。
視界に、
白い。
降ってきた。
雪が。雪だ。そんな声が上がる。
見ればわかる。
積もらなければいいが。
閉店前に帰れなくなる。
参道の両側に屋台が立ち並ぶ。人を掻き分け掻き分け、新年最初の運試しの元へ。
境内は眩しい光源が照らし出していた。
木製で角柱のおみくじ箱を持った人物が私と眼を合わせる。
高級そうなファーコートを纏った三十代から四十代前半くらいの女。メガネを掛けており、髪は肩のあたりで緩くたわむ。
化粧のせいかもしれないが、この暗さでも印象がきつい。強烈という意味。
「今年最後の運試し」女はそう言って、私に筒を手渡す。「振ってみやあ」
「この中に」
持っただけではわからない。振っても雪に吸収されて。
音が。
聞こえない。
ゆっくりと、
逆さにする。
ゆっくりと、
滴り落ちる。
のは、
真っ黒な、
丸。
白い雪に、
黒い点を落とす。
おみくじの箱を抉じ開けた。
細長い棒に紛れて、
中に、
血まみれの。
「ある意味大凶やな」女が箱を覗き込む。
まずは一つ。
残りは五つ。
「しけとんな。神さんハシゴさせる気やろ」
「失礼だが」
「聞いとらんの? ソチの上サンとええ感じの」
「課長と?」
「他におらん。ああ、せや」女が私を検分しつつ。「ソチの上サンは別におった。元気? 空っぽの鉄砲玉撃ち込むだけの悪あがき」
課長の女か?
「たぶん、ハズレやて」
捜査員が来て箱ごと目玉を回収して行った。
その様子を訝しそうに見守る視線。おみくじやらお守りやらを売る建物内から。
「広い意味で協力者や。よろしゅうな」女が握手を求めるが、
気が乗らなかったので首を振った。
寒い。
戻るか。
「せっかく来といて無視かいな」女が拝殿を見遣る。
長蛇の列ができている。
「急いでいる」
「ほんならここで」女は私に合わせろとばかりに眼線を寄越す。
二礼二拍手一拝。
仕方ないから付き合った。
「叶うとええな」
「失礼」
白の粒が真っ直ぐに落ちてくる。
永劫に眺めていたいような絶景。
雪というのは、
ここまで綺麗か。
境内を煌々と照らすライトアップの光が、白銀をも光り輝かせる。
囚われる。
吸い込まれる。
息が、
凍りつく。
澄んだ、
世界。
「仕事忘れとるよ」女が隣にいた。「見惚れるのもええけど」
「ここにもう一つ」
あるか。
ないか。
「どう思う?」
「アチに聞いとるの?」
白銀の世界で記念撮影をしようと騒ぐ若者たち。シャッタ係を依頼されそうだったので眼を合わせないように立ち去る。
参道を、鳥居を。
白が覆い尽くそうとしている。
「運試しならおみくじしかあらんけど」女は私の二歩後ろを歩く。「運試すんなら願掛けも立派な運試しやと」
願掛け。
参道の行きつく先。
拝殿。
白の落下に視界が阻まれる。
「悪いが捜査員に」
「自己紹介もしとらんのに」女が言う。
私の正面で。
眼と眼を交わして。
「アチは
祝多出張サービス?
性風俗か。けばさも頷ける。
「裏は」
「あとでな」
「ことによっては」報告が必要になる。
課長にではない。
本当の上司に。
「早よ行かんと」祝多店主が私を追い払う。
参道を逆戻り。若者の記念撮影を、雪でムードを高めるカップルを、そこにいる参拝客という参拝客を煙に撒いて。
目前で足が取られた。原因は雪でない。砂利に。
なんとか持ちこたえる。指で支える。
身体は、
全然軽い。
「失礼」
いままさに願掛け中の年配夫婦に割り込んで。
賽銭箱。
無理矢理抉じ開ける賽銭泥棒にならずに済みそうだ。
大量に押し寄せる初詣客に対応し、拝殿の前を区切って賽銭入れにしてある。
目視。
札や小銭に紛れて、明らかな異物が放り込んである。
あった。
二つ目。
願掛けを邪魔された年配夫婦は迷惑そうな顔で立ち去ったが、それをやり過ごしたところで次。またその次、と参拝客は途切れない。
仕方がない。おおごとにしたくなかったが。
「警察だ。離れろ。爆弾だ」
最後の駄目押しが効果覿面。
参拝客が小さい悲鳴を上げて我先に逃げ帰る。蜘蛛の子散らすように。砂利と雪のお陰で足元と視界が覚束ないが。
「世にも
宮司らしき男他二名が胡散臭そうな視線を向ける。祝多店主が連れて来た。姿は見せないが、捜査員もいつでも飛び出せる距離で待機。
「あの」警備職らしき制服の男はそこから先を言えない。
爆弾はどこなのか。
「ここに土足で踏み込む許可が欲しい」私は宮司に言う。「嫌なら取って来てほしい。代わりに」
宮司が質問を発する前に、私は目標物を指差した。
眼玉のなれの果て。
「なんですか?」宮司が言う。「あれが」
爆弾じゃない。
「悪かった」嘘をついて。
「どういうことですか? 爆弾では」
「そんなんあらんよ」祝多店主が視線誘導してくれている間に。
高さは一メートルほど。敷居を乗り越えて賽銭入れの中へ。
宮司他二名が制止の文句をぶつけるが聞こえないふりをした。さすがに気が咎めたので靴は脱いだ。カネを水に見立てた風呂に入る奴の気がしれない。足元に札や小銭が転がっている光景はあまり眼に良いものではない。
これだ。
回収完了。
絶妙なタイミングで通信機器が振動する。課長だ。
賽銭入れから脱して通話に応じる。
「完了しました」
「ご苦労さん。寒いだろうに。戻っておいで」
祝多店主を介して眼玉が捜査員の手に渡る。
宮司と他二名が不満そうな眼差しを向ける。主に私に。
「君のことだ。万全を期しすぎて少々やりすぎたんじゃないかな?」課長にはこの状況がお見通しらしい。
サイレンが遠くで鳴る。
逃げよう。
3
連続眼潰し殺人事件。
院長を騙った教授も指摘したように、遺体からは死後、眼球が摘出されているので、正しくは眼潰しではないがマスコミ報道対策だ。すべての事実を公表する必要はない。公開捜査の利点は今回の事件で発揮されるとも思えない。
私が対策略的性犯罪非可逆青少年課に急遽異動になる一ヶ月ほど前に、その一件目が発生した。
当初はその戒名では呼ばれてはいなかった。
共通するのは、被疑者が次なる被害者となる点。
まずは市内のラブホテル。
被害者は四十代の男。ごく一般のどこにでもいる会社員。
遺体発見時、男は全裸で倒れていた。バスルームのシャワーが出しっぱなしであり、室内は湯気が立ち込めていたという。
死因は絞殺。
衣類を始め手荷物の一切が持ち去られ、現場から凶器や指紋は検出されず。死体の状態等疑問点はいくつかあったが、被疑者は一も二もなく明らかであった。
男と一緒に入室した女。フロントの防犯カメラが捉えていた。
よくある事件。動機は痴情のもつれ。
事件はすぐに解決すると思われた。
一週間後、その被疑者が殺される。
場所は市内のカラオケボックス。死因はまたも絞殺。
女は一件目の被害者と不倫関係にあったが、彼女としては沢山いる男の一人でしかなく本気で結婚を求められ困った末の突発的解決策でしかなかった。その証拠に、男を殺したのち彼の銀行口座から預金をすべて下ろし、足の付くような真似を平気でしている。
捕まることがわかっていてやったのだろうか。どうせ捕まるならその前に男の預金(恐らくは結婚資金)を使い尽くして遊んでやろうという一種の開き直りだったのか。
いまとなっては知る由もないが。
とにかく事件は続いている。
二件目も早期解決が見込まれた。カラオケボックスの受付を防犯カメラが捉えていた。
女と一緒に入室した少年二人。彼らの犯行の一部始終がモニタされていた。受付にいた店員が居眠りをしていなければ女は殺されなかったかもしれない。
そして、三件目。
案の定というか、被害者はその少年の片割れ。
もう片割れは現在行方不明だが、四件目の被疑者になる可能性が高い。重要参考人として捜索中だが、望みは限りなく薄い。すでに絶命していると思ったほうがいい。
そこまでわかっていてなぜ彼らを捕まえなかったのか。すぐに捕まえていれば、少なくとも殺されることはなかったというのに。
捕まえられない理由があった。
一言でいえば、警察上層部の膿。
「どうしてあの人が預かることになったかわかっとる?」祝多店主が景色の映り変わらない窓を見ながら言う。
交通渋滞と所要時間の両方の点から車を使うのは得策でないと判断した。
雪はまだ已まない。地下鉄は順調に運行している。
「裏稼業をまだ聞いていない」
「こないなとこで言われへんよ」
乗り換えの駅に着く。乗車率はさほど高くないが、祝多店主の派手な外見は視線を集めやすい。その一挙一動に車内の興味が注がれていたので滅多なことは話せなかった。
人をやり過ごしてから歩き出す。電車も発車しホームが空っぽになる。
「裏稼業は」
「そんなんより本業やわ」祝多店主がファーコートの首元を締める。「寒うなあ。さっきの答えも聞いとらんし」
「二件目の被疑者は少年でかつ性犯罪。三件目の被害者は少年でかつ未解決。対策略的性犯罪非可逆青少年課の出動に何の異論もないが」
「完璧や完璧。完璧すぎて逆に嫌やわ」祝多店主が乾いた拍手をする。手袋の材質上そんな音になってしまう。「で?潰す算段は付いたんか?」
「牽制か」
「脅しやわ。あの人のやること止めたらいかんよ。アチが黙ってへんもん」
乗り換えのホームに着く。電車が来るまであと7分。
「こら間に合うやろか」祝多店主が呟く。
閉店時刻まで三十分を切った。
新しい年までは二時間半ほど。
「二件目までカムフラージュやないんか?」
「目的はこいつか」私は自分の眼球を指差す。
この連続殺人事件は、被疑者が次の被害者になるという一見推理小説のような体裁をとってはいるが、おそらくその構図自体が捜査を攪乱させるための罠である。見過ごされてしまった本質を見誤ってはいけない。
私の推理ではない。
課長と教授の意見は示し合わせたかのように一致している。
「一件目と二件目の幇助者が、三件目の被疑者だ。そいつがやった」
眼球をくり抜いた。すべての被害者の眼玉を。
そして、本日未明に年賀状を直接本部に送りつけ、三カ所の会場にて合計六つの眼球を返すという。
いや、待てよ。
四件目がすでに起こっているとしたら、返却される眼球の数は。
「なんやおかしない?」祝多店主が言う。「来んのやけど」
電車の話か。
「遅れているんじゃないのか」
「いかんよ。間に合わん」
「別に裏口から入ればいいだけの」
「夕飯一緒に食べよう思うとったのに」
課長と、か。
「先に食べていたが?」
「なんやのその浮わついた年末。いかんわ。懲らしめんと」
地下鉄は五分遅れ。車内アナウンスで遅延の言い訳を並べていたが、昂った祝多店主の神経を逆撫でるだけで。
四件目だが。
起こっているならさっさと遺体を発見してくれないものか。
誰でもいい。
こちらは年中無休の不眠不休も辞さない覚悟がある。二十四時間受け付けている。善良な一般市民からの親切な通報を。
それによっては福袋に納まる眼球の数が変わってくる。
ショッピングモールに着いたのは、閉店時間二分前。聞くと条件反射で家路を辿りたくなるBGMに乗せて、今年もありがとうございました来年もどうぞよろしくという内容の店内アナウンスが繰り返されていた。
祝多店主がもの凄い剣幕で大声を上げる。
課長のフルネーム。
課長は閉店間際のコーヒーショップでテイクアウトをしていた。
「アチに吹雪んなか立ちんぼさせといて自分はのんびりほっこりタイムしおって」
「はい」課長は笑顔でカップを手渡す。「君の好きなブレンドにしといたよ」
「そんなんで誤魔化されんよ」祝多店主が眉間にしわを寄せる。
「困ったなあ。どうすればいいと思う?」課長は私を見る。「世の中が君に追いついた。さっき第一報が入ったよ」
四件目だ。
「行くかい?」現場に。「あ、君さっき車置いてきちゃったんだっけ?」
「近いんですか」
「手口を変えてきたね。大通りに放置ときた」課長が住所のデータをメールでくれる。口頭で言えるほどに住所を確認していないだけだ。
「何が何でも今日中に発見されたかったと?」
「条件をフェアにしたいのか。はたまたなにがなんでも眼玉を引き取ってほしいか」
別の車を借りた。ここからそう離れていない。
祝多店主は課長と仲良くコーヒーを啜っているだろう。大手を振ってそういう関係なのか。癒着を隠す気もないか。何も後ろめたいことはしていないということなのか。
課長の読み切れない行動に翻弄されてはいけない。読ませまいとしてやっているのだから、読んでやればいいだけのこと。
潰したいなら潰せ。
そういう宣戦布告だ。
新年を間近に控えたお祭りムードの繁華街は、違う意味で騒然としていた。遺体発見現場は、スクランブル交差点のちょうど中央。なにもそんな迷惑極まりないところに放置せずとも。
片側三車線もある大通りが全面通行止めになり、大勢の人間が足止めを喰らっていた。なおも降り続く雪もさすがに、眼障りな赤いランプと耳障りな笛の音と気に障る怒号を覆い隠すことはできず、いたずらに地面を湿らせている。
野次馬を押しのけて、結界代わりの黄色いテープと衝立代わりのブルーシートをくぐろうとしたところを、制服姿の同業者に止められる。かじかんだ手で証拠を見せつけようとしたが、私の顔に気づいた私服姿の同業者が手招きして花道ができる。
遅い。
「相変わらずひでえツラだ」口の悪い同業者は言う。「道すがら何人か殺ってきたみてえな形相しやがって。持病の心臓止まりそうだったぞ。俺じゃなきゃ職質かけてまあ、よくて任意同行だわな」
「どうやって」ここに捨てた?
「まあ、積もる話もあんだろう。どうだ?」彼は私を車に案内しようとする。「寒くてかなわん。なんか温けえもんでも飲みながら」
「日付変更までに戻らないといけない」
「相変わらずだなお前。真面目は早死にの元だ」
「質問に答えろ」
「へいへい。わーったよ」彼は諦めて手帳を開く。「被害者はだな、お前らの想像の通り件の少年の片割れで」
「聞かれたことにだけ答えろ。耳に雪でも詰まっているのか」
鑑識がやってきて彼に作業終了を告げる。
「よーし。撤収でいい」
黄色いテープとブルーシートが撤去され、車と人の流れが元に戻る。野次馬出身の歩行者の視線は熱心に地面を検分するが、肉眼では血痕ですら発見できないだろう。
そこが、犯行現場でない限りは。
「車でな、ぽいと荷台からな、落ちたらしい。目撃者の証言だ」
「その車は」
「あんだけ人がいて誰ひとりナンバを覚えとらん。車種もばらばらと来た。何見てやがったてな具合でよ」
彼の存在自体が煙草臭い。車も同じ臭いで充満していると見ていい。
乗りたくない。
「どうした? 遠慮するな」
「時間がない」
助手席のシートが目一杯下げられていた。往路は彼がこちらに座っていたのだろう。その腹周りでは無理もない。
彼が煙草に火をつけようとしたので睨んでやった。
「ああ、すまん。お前さん、大の嫌いだったな」彼は不満そうに上着の内ポケットに煙草を仕舞う。「こいつがないとなあ、こう手持無沙汰っつーかな。なんかねえか?」
「情報はそれだけか」
「は。さっさとゲロって伝家の殺人光線から逃れてえもんだわな」彼は手帳を私に横流しする。「このがてっとり早ええだろうがよ」
「読めない」字が汚すぎて。
「そうか?」
四件目。
これで殺人事件は終わるのか。
眼球は全部で八つ。
すべてを返してすべてが終わるのか。
狙いは何だ。
「手遅れな検問をやってはいるがなあ。かかるのは別口のうるさ型てなもんだ」彼の手が上着のポケットの中に入る。煙草を吸うのは自動運動と化している。
帰るか。
四件目が発生したことをこの眼で確かめられただけで、現場に来た大方の目的は果たせたようなもの。
「何かわかったら課長経由でなくてもいい。頼りにしている」
「ちょいと待てや。な?お前さんの見解を聞かせろや」彼はあの顔をしている。
とびきりの悪人ヅラ。
とても私のことを言えた義理ではない。
「お前さんの新しい潰し先。そこの預かりんなってんのがどうにも腑に落ちねえ。単なる連続眼潰しだろうが。殺人でしかねえ。お門違えじゃねえのかなあ」
対策略的性犯罪非可逆青少年課。
この一連の事件は性犯罪ではない。彼はそう言っている。
「邪魔した」
「おいおいおいおい。ギブアンドなんやらってのを知らんのか」彼は不満そうに声を荒げるが、追ってきてまで吐かせる気はなさそうだった。
彼は彼独自の方法で何かをつかんでいる。それを私に気取られたくなくて、私が一方的に去るのを待っていたのだろう。
小細工は意味を成さない。いずれは知れる。
必要な情報は上の方から下りてくる。この白い雪のように。
コインパーキングに戻ったタイミングで課長から連絡が入った。どこかで見ているのではないかと疑いたくなる。例えばその街灯に設置されている防犯カメラあたりで。
「君でもリップサービスを使えるとは驚きだな」課長が笑う。
私の身体に盗聴器が仕掛けられている可能性。
頼りにしている。のは半分本当だ。
「犯人は逃走中だそうです」通信機器を持っていないほうの手で自分の身体チェックを行なう。
「見つかっても見つからなくてもどちらにせよ福袋は売られる」
主語は犯人か。
盗聴器の類か。
「今日はもういいよ。今日というか明日の開店時間まで好きにしていい。犯人が客だってゆう可能性もある」
「課長は?」あなたの見解は。
「僕? そうだな。半々かな。でも僕が犯人なら、そうだね。従業員と協力するかな」
「複数犯だと?」
「どうにもたった一人でやってるとは思えない。攪乱のつもりだろうけど、会場を分散させるにしては手際がよすぎる。院長もそう言ってなかったかな?」
「そこまでは」
相談に行った時点でまだ眼球が発見されていなかったからだろう。四件目の遺体も出ていなかった。ここまでの情報が院長、否、教授の耳に入っていればおそらく、課長と同じ見解を示したと思われる。
「院長にも」逐一情報を流したほうがいいだろうか。
「君に任せるよ。四年前のも含めてさ、当人に会って来てもいいし。面会可能時間を著しく逸脱してはいるけど」
「当人?」面会?
「いかんよ。男はいかん」
聞こえてきた声が変わって吃驚した。
祝多店主が課長から電話を横取りしたのだろう。
「男は立ち入り禁止んなっとる」
「行方不明では?」ないのか。
四年前。
一家惨殺事件の生き残り。
その娘は、殺された親兄弟姉妹の遺体から、その眼球をすべて抉り出した。
「アチの裏稼業。教えたるわ」祝多店主が言う。「世界のどこからも見放された少女を保護する学園の理事長。
「そちらが表だろうに」性風俗よりよほど聞こえがいい。
「初耳やろ? 男には内緒んなっとるの。つまりは、誰も知らんとおんなじ」
「そこにいるのか」
四年前の一家惨殺事件の生き残りが。
この連続眼球抉り出し事件の最重要参考人が。
「会わせへんよ。男なん滅んだほうがええ」
乱暴に切られた。
かけ直して食い下がろうとも面会許可が下りるとも思えない。
文葦学園。
持っている端末で検索をかけてみる。
見つかりませんでした。
じゃあない。
ないわけがない。
検索エンジンを変えようが無駄だった。検索に引っかからないような裏工作が施されていると見たほうがいい。
四年前の生き残りの娘の名は、
四年前、事件現場で保護されて真っ先に連れて行かれたのが、政府御用達でかつ警察組織が全面的に信頼を寄せている朔世院長のところであり、裁判が行われなかった代わりに娘には診断がつけられた。長年その娘は院長の患者であった。
当初はまともに口もきけず、茫然自失状態でしばらく入院生活を余儀なくされていたが、娘が退院したのちどこでどうしているかの記録が一切残っていない。
残していない。
何者かが残させることをよしとしなかった。
その人物がようやく明らかになったわけだ。
祝多イワン。
文葦学園理事長。
世界のどこからも見放された少女、すなわち本人かその周囲の環境かに何らかの問題を抱える少女たちを保護し守っている。
裏稼業なのは、誰にも知られたくないから。
知られてしまっては、そこで暮らす少女たちに危害が及ぶ。DV被害者のシェルタと同じだ。
しかし疑問も出てくる。
誰にも知られていない学園に、娘を引き渡すに当たって、引き渡す側が学園の存在を認知していなければそれは叶わない。
上の方で秘密裏にやり取りされたのか。
それとも、あまり考えたくはないが、娘が文葦学園とやらで匿われているという事実を誰も知らないのか。上の預かり知らぬところで娘が、言い方が適切でないが攫われた。その不始末を伏せようと何の記録も残していないのか。
わからない。
上司に尋ねれば答えが返ってくるだろうか。よくぞそこまで突き止めたと、口を封じられるのがオチだろうか。
わからない。
今回の私の任務は。
怪しい民間団体と癒着のある対策略的性犯罪非可逆青少年課を潰せ。
それだけではないのか。
課長の荒探しをして失脚に導いて課自体の存続を危ぶませる。
そういうことではないのか。
潰したいのは課長か私か。
課長の言うとおりだ。
私もいよいよお役御免か。
新しい年まであと数分。
カウントダウンでもしようか。
私の存在が亡くなるまでの。
1和
アレがわたしを見ていた。
ずっと。
ずっとずっとずっと。
アレとアレが。
どうして?
どうしてお前は生きている?
どうして助けてくれなかった?
お前なら助けられたのに。
お前が。
お前が母さんを殺した。
父さんを殺した。
兄ちゃんを殺した。
姉ちゃんを殺した。
弟を殺した。
妹を殺した。
ちがう。
ちがうちがうわたしは、
わたしは。
お前だけ助かりたかったんだろう。
私たちを見殺しにして。
お前だけ逃げた。
自分だけ助かりたかったから。
家族を見捨てて。
お前だけ、
のうのうと生きている。
ちがう。
ちがうよ。
わたしは、
わたしだって。
助けようとしたよ。
あいつは、
助けるってゆったんだよ。
でも、
でも駄目だった。
わたしのせいじゃない。
わたしは、
みんなを助けるために。
あ
ん
な
こ
と
までしたのに。
やめて。
やめたら死んじゃう。
死んじまってもいいのか。
いや。
だったら、
わかるだろ?
「ゆっくり眼を開けろ」先生の声がする。
先生が、
そこにいる。
見える。
見えない。
見てる。
見てない。
「今日はやめにするか?」
「いいえ」
逃げてちゃ駄目なんだ。
きちんと向き合わないと。
言わないと。
吐き出さないと。
自分の中で溜まってるからこじれておかしくなるんだって。
先生が教えてくれた。
毒は外に出す。
異物は排除する。
この記憶は、
抉り出してしまわないと。
「やめだ。ドクタストップ。主治医の私が言うんだ。従ってもらう」
「わかりました。ありがとうございました」わたしはお礼をゆって診察室を出る。
今日は何食べよう。
アントシアニンがいいかな。
ビタミンAも摂らないと。
「一ついいか」先生が廊下に出て来た。
追ってくるのは珍しい。
診察が終わればそこで終わりだ。
わたしと先生の関係は。
「なんでしょうか」
「外出の制限はしない。だが、申請した通りの時間で帰ってきてもらいたいものだが」
「叱りますか?」
「言えるようになったじゃないか」先生が笑う。
どうなんだろ。
わたしをこてんぱんに叱ってくれるお母さんはもういない。
わたしは先生にお母さんを見ている。
「そうです」
先生のほうがずっとずっと美人だけど。
「叱ってください」
「駄目だぞ」
「ごめんなさい」わたしは頭を下げる。「もうしません」
「わかってくれればいい。呼び止めて悪かったな」
「さようなら、先生」
「また来週な。同じ時間に」先生が手を振る。
もう来ないよ。
さようならは、
そうゆう意味。
ここは優しい世界だけど。
誰もわたしを見てないけど。
それじゃ駄目なんだ。
先生もそうゆった。
駄目だって。
ゆってくれたから踏ん切りがついたよ。
ありがとう、先生。
逃げちゃ駄目なんだ。
立ち向かわなきゃ。
わたしを見てくるあいつらの眼なんか、
ぜんぶ。
ぶっ潰してやる。
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