2章

【2章】

Ⅱ.


 翌日の五月三十日。一日の授業を終わらせて、私はクラスメイト達とのおしゃべりもそこそこにすると、部室の理科準備室へと足を運ぶ。


 昨日の帰り際に、マリアの提案した実験がどういう内容かが気になって、朝から放課後が待ち遠しく感じていた。

 『待ち遠しい』というのは個人の感覚によって時間の流れ方が違うという現象で、楽しく夢中になっていることは時間が速く過ぎるように感じ、興味もなく退屈な時間は遅く過ぎるように感じる。っていうのは誰でも体験したことがあるかと思う。


 この現象は脳が時間の尺度を比較することで測っているからで、時間というのは実体などなく感覚によって認知され、人間の脳が作り出しているものという説もある。


 理科準備室の扉を開けると、部室にはマリアの姿は見えず、まだシュウと由那のふたりしか来ていないといった状況だった。


「あれっ、マリアは居ないみたいね? 提案者が遅れるなんて困ったものね」

「僕達もいま来たとこだし、もう少ししたら来るとは思うけどなぁ」


 マリアが思わせぶりにして帰った所為で、みんな気になってしょうがなかったはずだ。


 かいがいしく由那がいれてくれたお茶で茶菓子をつまんでひとくち味わった後になって、廊下の先から騒々しく近づいて来るかけ足の音が聞こえてきた……。

 続いて勢いよく開けられた部室の扉は、やっぱりマリアによるものだった。


「すいません! お待たせしました!」


 よほど急いできたのか、大きく息をついている。


 今度は、私が部室の棚からマリアの湯呑を取り出して、常備されているポットからお湯を注いで、ぬるめのお茶を出してあげた。

 部室は至る所を私物化してあるけれど、この学校では伝統的なもので他の部でも慣例となっているため、誰も問題にしたことはない。比較的自由な校風なのだ。


「未那ちゃん、ありがとう……」


 渡されたれた湯呑を受け取ると、マリアは熱くもないお茶を、ふぅふぅしながら口を付けて飲む。そのへんの女子よりも愛らしいその振る舞いには、あざとさは感じられない。


「それで? 結局おもしろい物ってなんなのよ」

「あ、はい! ちょっと待ってください!」


 ひと息ついて、マリアはいつもの元気を取り戻した。鞄の中からよくわからない物体を取り出しては机のうえに並べていく。

 大きさは四立方センチぐらいの金属ケースの箱みたいで、同じ物が丁寧に四個置かれた。


「なぁ、マリア。これは何だ?」


 シュウは謎の物体のひとつをつまみ上げて、まじまじと眺めている。

 箱の一部には細かな端子のようなものが並んでいるから、何かしらの電子部品だということだけは予想ができた。


「ええっと、これはチップスケールの原子時計というやつらしいですよ!」

「えっ!? 原子時計って、すっごく高価なんじゃないの?」

「いえいえ! これはそれほど高精度のものじゃなくって、家にいくつかあったのをこっそり持って来ました!」


 廉価版とはいえ原子時計の実物を見れるとは思ってなかったので、正直驚きは隠せない。


「マリアちゃん……。これを使って時間の相違を検出できるか、実験でそれを検証しようってことでいいのかな……?」

「そうです! そうなんです! これは小さいですけど電池を内臓してあるから、こうやって単体で計測し続けられるんですよ!」


 元気よく答えながら、マリアは鞄の中からもうひとつ、今度はA4ノートぐらいはある板状の物を引っ張り出した。

 盤面にデジタルの表示部が二列並んでいて、原子時計の端子が的確に取り付けられる形状をしていることから、これが原子時計の表示装置に間違いない。


「見ててください! いまこの四つの原子時計は同期しています!」


 マリアが小さい原子時計の中から、ふたつを手に取って表示機にセットし装置の電源をオンにすると、デジタル表示部は赤く光り、とてつもないスピードでカウントアップしているのがわかる。

 この数値が原子時計が刻む振動時間だとしても、目からはいった情報が脳で処理されるまでのリフレッシュレートの限界があるから、実際には三桁ぐらいしか読み取れない。


「それで、このボタンを押してるとホールドされるんです!」


 説明と同時に装置の黄色いボタンを押しこむと、デジタル表示の流れる数値がふたつともピタリと止まった。

 停止したそれらの数値は、最後のひと桁まで完全に一致。


「おどろいた。本当に同期してるわね」


 廉価版というわりには、それでもじゅうぶんな精度だとわかる。

 マリアが黄色いボタンから指を離すと、デジタル表示はまたも凄まじいスピードで走りだした。


「ほかのやつも一緒ですね!」


 装置には一度にふたつしかセットすることができないようだから、一旦は電源を切って原子時計のひとつを入れ替える。

 いまと同じ手順で、残りふたつの原子時計も、ちゃんと同期していることが確認できた。


「ところで、マリア。なんでこれは四つも用意したんだ?」


 はぁ……。シュウがまだ気付いてないのがあまり気にいらない。


「あんた、そんなこともわかんないの?」

「検証結果に原子時計の誤差が無いか比較するのよね……?」


 それをすぐさま由那がフォローにはいった。


「昨日、シュウが自分で言ってたでしょ? 静止状態じゃない不安定な環境が原子時計に誤差を発生させる、可能性があるかもしれない。ってね」


 当時の飛行機実験では地上と飛行機内のふたつで比較されたので、どちらか片方にでも原子時計に速度・重力以外の要因で遅れがでていたとしてもわからなかったはずなのだ。


 一般的に使用される計測器には、本当にその数値が正確なものかを測るための、より高精度な計測器が存在する。

  重さの基準でいえば、最近ニュースにもなった『キログラム原器』の定義が変更されたことで有名だ。

 そして、時間の基準であれば、決定しているもの。かつては地球の自転周期から換算された八万六千四百分の一を『秒』と定義してこられたが、現在では原子核の運動周期を基準とした時計。すなわち原子時計が採用されている。


「なるほどな、それぞれ基準側に二個と測定側に二個用いることで、相互に固体誤差が無いかチェックしようってことか!」

「そういうことよね? マリア」


「はい! そうすれば、何かの結果が見えると思うんですよ!」


 確かに。一見地味だけど、それを知ることには意味がある。


「ここは形式的に原子時計は基準となるふたつをAとB。測定のふたつをCとDとするなら――」

「相対性理論が正しければ……。実験後は(A=B)≠(C=D)の結果になるよね……?」


 もし違う結果が出たとしたら、それは相対性理論が正しくないという証明になる。


「それで、どうやって実験するのがいいかしら」

「やっぱり飛行機に乗って往復ですか!?」


「どこまで行くつもりだよ、僕はそんなにお金なんて持って無いからな」


 私もこの実験のために飛行機を使えるほど裕福ではない。


「なるべく速い乗り物がいいとは思うけど、あたし達の予算じゃちょっと無理ね」

「それなら、スカイツリーがいいんじゃないかな……?」


 私が腕を組んで思案していると、由那は私達でも実行できそうな案を勧めてきてくれた。この学校からでもいまからいけない距離じゃない。


 スカイツリーは説明するまでもなく、2012年に開業した世界一の自立式電波塔で、その全高は六百三十四メートルというのは誰もが知るところではあるが、一般客用のエレベーターで上れるのは、天望回廊の四百五十メートルまでとなっている。


「いいですね! スカイツリー。みんなで上りましょう!」


 気の早いマリアは、もう勝手にはしゃいだりしているけれど……。


「あのねぇ、みんなで上ったら誰が地上でこの装置を持つのよ」

「ツリーかぁ。待って、ちょっと調べてみる」


 取り出したケータイで、シュウは何やらネット検索しだした。すぐにいくつかの情報がヒットする。


「エレベーターの速度は六百メートル毎分ってことだったから、時速だと三十六キロメートルだろ? 実験にしてはちょっと物足りなくないか」

「うん……、エレベーターはそれほどだけど、たぶん大丈夫……」


 シュウが言う物足りないとは、この実験での基準であって、最長エレベーターの三百五十メートルを加速・減速も含めておよそ五十秒なんてスピードは、本来なら驚嘆すべきことである。


「『ポンド・レブカの実験』によれば一般相対性理論によって、タワーの上部と地上とでは時間の流れが違うとされているのよ……だから」

「面倒な計算はひとまず置いといて、とりあえずこの原子時計どうしを比較したときに、僅かでも違いが出るかどうかで検証だけはできるってことね」


 由那の知識量は妹ながらいつも関心させられる。頭がよすぎるだけに、時々変なことを考えているみたいだけど、基本的には努力タイプの天才だ。


「あれっ!? 実際、スカイツリーでは『光格子ひかりこうし時計』って装置で時間の進み方の違いを調べてるみたいだぞ?」


 検索していたネットで、偶然興味深い情報を見つけていた。

 その光格子時計ってやつの実験データを取らせてもらえれば手っ取り早い話なんだけど、そう簡単にいくわけがない。


「それじゃあ、決まりね! それだけスカイツリーは時間実験に適してるってことよ」

「そうだな、今回の検証目的から考えたらそれぐらいでいいのかもな」

「うん! うん!」


「じゃあ、マリア。ソレ、見分けられるように印を付けるわね」


 セロテープを短く切って原子時計のケース上部に貼り付け、マジックで個々にA・B・C・Dと書き加えておく、これで間違って入れ替わる心配はない。


「絶対忘れちゃダメよ」

「そうですね! もう片付けちゃいますね!」


 マリアは注意しながら、自分の鞄へ四個の小さな原子時計と、その表示装置を仕舞っていく。


 目的地が決まったので、我々科学研究部一行は学校を出て、早速スカイツリーへと向かった。





 私達はそれから山手線、メトロ銀座線、スカイツリーラインを乗り継いで、どうにか目的のスカイツリー駅へと到着した。


 建物にある時計を確認すると十七時をちょっと過ぎたところ。

 営業は二十二時まで。最終入場は二十一時だから、まだまだ間に合う。

 その足で、エントランスのある4F入口フロアのアリーナまでやって来る。


「やっぱりすごいですねー!」


 普段は遠くからシルエットを眺めることはあるが、こうやって真下からツリーを見上げると、その高さはまさに圧観のひとことだった。


 旧約聖書の創世記に『バベルの塔』という巨大な塔が登場する。

 物語では、ノアの洪水ののち、人間達は天に届くような高い塔を建設して、その街にひとつの民を創ろうとしたのだが、その行いに神は怒り人間の言葉を混乱させたために建設は頓挫とんざし、ついには人々が世界に散らばったという解釈がなされている。


 かたやその裏には、「塔は円環である歴史の始まりから終わりまでに積み上げるもの」といった時間的全蓄積の象徴の意味があるという。


 つまり、時間理念を表すバベルの塔にも通じる、世界一の搭、『スカイツリー』こそ今回の実験にはふさわしい。


「チケットは当日券で、三百五十メートル天望デッキまでなら二千六十円。その上の四百五十メートルの天望回廊までだとプラス千三十円よ」

「けっこうするよなぁ」


 私達庶民レベルの高校生の金銭感覚だと、なかなか馬鹿にならない額である。四人ともバイトとかはしていないので、自由に使える小遣い一ヶ月分の何割かを消費する。


「実験の趣旨からしたら、べつに全員が上る必要はないわよね。どうする?」

「えーっ! みんなで上りましょうよー!」


 実験発案者だったマリアの目的が、若干変わりつつあるのは本当に困った。


「できれば、ひとりは地上に残って、基準となる原子時計を見ててもらいたいわね」

「ひとりだけ残るってのは寂しいよな。まぁ、僕が残るならそれでもいいけど」

「シュウ君もそんなこと言わないでよー!」


 遊びで来たわけじゃないけれども、誰かがつまらない思いをするのも避けたい。


「せっかくここまで来たんだし、みんなで行きましょ……? 地上の原子時計はコインロッカーに預けておけばいいと思うよ……」


 由那も同じ気持ちだったみたいで、結局のところその案が最良にも思える。

 それに、コインロッカーなら状態を一定の場所に保管される、という観点でもいいかもしれない。


「わかったわ、マリア。それでいい?」

「あ、ハイ! 大賛成です!」


 ここから一番近い、北エントランスそばのコインロッカーを使用することにした。


「念のため、ロッカーに入れる前にもう一度、同期が取れているか再確認しましょ」


 近くに手ごろなベンチがあったので、そこで装置を持ち出して作業する。

 先ほど部室でやったように、表示装置に二個ずつ原子時計をセットして同期を順にチェックしていく――。


 間違いない。現時点では、ABCD全ての原子時計は完全同期できていた。


 ロッカー前に移動して、そのなかからひとつ空いている箇所を定める。


「それじゃあロッカーにはAとB、それとこの表示装置も一緒に入れるわね」


 扉を閉じて、硬貨を投入するとコードが印刷されているレシートを受け取れる仕組みになっている。


「シュウ、ここはお願いねっ」


 反論するのは無駄だと心得ているのか、抵抗はせずしぶしぶといった感じで、シュウは支払いとレシートの受け取りを済ませた。


「このCとDの原子時計は誰が持ちましょうか?」

「誰でも変わらないと思うけど、未那でよくないか? 部長だし」

「何よそれ。でも、べつにあたしはいいわよ。由那もひとつ持つ?」


 マリアの所持品なので、本人が管理するのが筋だけれど、やっぱり多少の不安はあった。


「え……、わたし? どうしよう……」

「由那ちゃん! ひとつ預かっててくれる!?」


 マリアも自分で携帯する自信が無いので、ここは由那に任せたいようだ……。


「うん……。わかった…………」

「じゃ、あたしがDを持つから、Cのやつは由那が持っててね」


 私は、由那の手の平にCと書かれた原子時計を握らせると、大事そうに両手でしっかりと受け取ってくれた。


「準備はいい? そろそろいくわよ」


 ひと声かけて、北エントランスからスカイツリーの建物内へと入っていく。


 私達は今日の実験で科学の歴史を塗り替えるかもしれない……。そう考えると、いやでも緊張感が高まってくる。


「見てみて! シュウ君! これすっごいですよ!」


 マリアは入り口付近にあったツリーのオブジェに大はしゃぎだった。


(はぁぁ……)


 口には出さないが、心の中で大きなため息が漏れる……。

 きっとマリアはすでに実験どころではない。私の緊張感を返してほしい。


 チケットはこの場合、四人とも天望デッキまでのものになる。更に天望回廊に上るときは天望デッキフロアで追加購入することになっているのだけれど、あくまで実験が目的で、観光に来たのとは違う。


 エレベーター通路前には出発ゲートがあり、そこでセキュリティチェックされる。もしかしてポケットの中の原子時計が金属探知機に引っかかるかと少し焦ったけど、思いのほか普通にスルーできた。


「いよいよねっ」


 エレベーターのドアが開かれる。中はざっと畳三帖ぶんぐらいの広さ、ごく僅かとはいえこの空間が私達を未来へいざなうのかと考えれば、少しはロマンが感じられるというもの。


 エレベータールームにみんなや他のお客達も乗り込んだ。

 次に、アナウンスが流れたあとでエレベーターが動き出した。――――瞬間。


 あれっ? 何かがおかしい。

 エレベーターの始動とともにが上へ持っていかれる。

 けれど、意識はその場に残されたまま――。


(な、何これ……!?)


 そう思ったのも束の間。その現象も錯覚だったかのように、今は元の状態に戻っている……。


 仏教の時間単位『弾指だんし』それは字のごとく指を弾く一動作のことだから、誇張っぽくなるけれどまさにそう表現したいぐらいの短い出来事だったと思う。

 エレベーター特有の重力加速度変化による、あの不快感とはまったく違うものだったはずだ。


「未那、どうかしたか? 顔色が悪いみたいだぞ」

「お姉ちゃん……。大丈夫!?」


 ぼーっと無言で立ち尽くし、目を泳がせていた私の様子に気付いて、シュウと由那のふたりに声をかけられていた。マリアも心配そうに覗き込んでいる。


 どうやら、いまの現象を体験したのは、私ひとりだったようだ……。


「あぁ、ゴメン。さっきのやつ、どうも苦手なのよね。もう大丈夫よ」

「そうか、あんまり無理するなよ」


 しまった……。咄嗟にでまかせが口をいたけど、私はそんなにくなかった……。シュウはともかく由那にはウソだとバレたかもしれない。


 そんなやりとりをしていると、五十秒なんてあっという間。エレベーター内上部の液晶画面は、もう減速にはいっていることが表示されていた。

 最後はゆっくり速度はゼロになり、エレベーターは停止する。


 ドアが開くとそこには、地上三百五十メートルからなる壮大なパノラマが広がった。


「ここでぼさっとしてたらほかのお客の迷惑になるから、向こうへ行きましょう」


 フロアの案内表示に従って、少し場所を移動するようにみんなに促した。


 現時点ですでに原子時計にほんのちょっとでも違いが現れているのか気になるところだけど、この実験ではエレベーターによる速度の影響よりも、重力の影響のほうが強い。

 よって、長くこの場に留まったほうが結果が出せるはずだった。

 フロアの展示品を鑑賞したり、都内のビル群をひととおり眺めて楽しんでもまだ時間があり余る。そこで、今思いついたことを題材にして、タイミングを見計らって切り出すことにした……。


「ちょっと時間があるみたいだから、暇つぶしにひとつ問題を出してあげるわ」

「あぁ、そろそろ来ると思ってたよ」


 私の毎度の厄介事にも、シュウはイヤな素振りは見せない。


「ここ、三百五十メートル天望フロアでケータイはどうして使えると思う?」

「何を言ってるんだ? ほら、普通に使えるだろ……それをどうして、って?」


 私からの不鮮明な出題に、シュウは少し首をひねってから自分のケータイを取り出して、その画面で電波状態を確認してみせた。アンテナはバッチリ三本立っている。


「確かそれって、ツリーに基地局があるんじゃなくて……、周辺ビルの基地局とで通信してるんだったよね……?」

「…………?」


 なんの疑問もいだかなかったマリアは、問題の意味すらわからずにキョトンとしている。


「いや。よくよく考えるとおかしいような感じもする」


 シュウの目つきが鋭くなり、そこからやや考え込んでから話を続けた。


「何度も言うようだけど、一般相対性理論が正しければ、ここは地上よりほんの僅かだけど未来になるはずなんだ」

「空にある軌道衛星だとその差はより大きくて……、それをきちんと補正しているって聞いたことがあるけど……」


 GPS衛星はその補正が正しくされているからタイムラグが無い。由那はそのことを付け加えようとしていた。


「それは衛星内の装置としての時計を補正してる。ってことだろ?」

「……? それなら何も問題無いんじゃないですか!?」


 どちらかを基準にしてズレが出ているほうを修正する。それ自体はたいした問題ではない。


「不思議なのは、実際に飛ばされている電波のほうだ」

「電波……? 目に見えないけど、電磁波の振幅なんだよね……光もその一種っていうけれど」


 電波が空間を伝搬する速度は光速とほぼ同等だ。


「地上より僅かでも未来にあるここからケータイの電波を送って、地上までそのデータがいっさい欠損しないで受け取れるってことは? ようするに」

「それって、もしかして! 送れてるってことですか!?」


 いままで何の支障も無く普通にやれていたことだから、誰も疑問に思わなくても無理はない。

 ここでやっと、マリアが問題を理解して一段階テンションをあげた。


 ――数年前。日本では、ある情報がネット上の掲示板で話題になったことがある。


 それは、今から百年先の未来人と名乗る人物が、未来からネットワークを通じてメールを転送し現代の掲示板にメッセージを書き込んで、そこの住人といくつかやりとりをした。というものだ。

 そのなかで自称未来人は、前東京都知事の辞任と現アメリカ大統領の当選を事前に言い当てている。


 それが単なる偶然かはいまだ判明していない。だが人の意思では変動しないであろう事象、東海地震(ここでは南海トラフと同じ)の発生する年を予言しているので、それを待って立証することになる。


「実際は電波の特性で可能としてるのかもしれないけど、時間系列から見るとそうなるな」


「時間って……、よく川の流れに例えられるけど……」

「ほんのちょっとですけど、その流れのギャップを乗り越えてるってことですか!?」


 シュウは目を閉じて、何かをイメージしているみたいだった。


「太陽の光ってのは地球に届くまで、光速でも八分以上かかってる計算なんだ」

「うん。その光の粒子は……太陽では八分前に過ぎた出来事。地太陽から見て未来の球に飛んできたともいえるよね……」


「えーっと? それだと地上からここまで電波が来るっていうのは、なんとなくわかりますね!」

「でもな、この問題では逆のことも起こっていることになるんだよな? 現在の地球から八分過去の太陽に電波を送るようなものだ」


「アレッ!? シュウ君。でもそれって、ってことになるんじゃないですか?」

「…………!」


 マリアの素直な疑問に、シュウと由那のふたりは目をしばたたかせた。


「それって……、現在の地球から見て、未来はもう決定していたことになるんじゃ……」


 少なくとも八分前まで太陽が存在しなければ、いま地球に飛来する太陽光はないし、一万光年離れた恒星から放たれた光は、現在の地球より一万年先の未来まで決定していたからこそ今届いている。


「未来は決定してる? って、もうわけわかんないな、どうなんだ未那?」


 シュウは頭を掻いて降参した。

 それはそうだ。時間の概念というものに対して、「時間は流れではない」と言う者や、「そもそも時間など存在しない」と唱える者すらいるぐらいなのだから。


 いくらシュウが賢くても答えを出せるものではない。意地悪すぎたと思わずクスリと笑う。


「残念ねぇ、そういう風に考えてたらダメなのよ、シュウ」


 私は、わざと大げさにやれやれって感じのジェスチャーをして返す。


「答えはもっとシンプルよ。ケータイから送った時点はすでに過去だし、受け取る側はそこからは更に未来なんだから」


「あっ……」


 やられた……と、驚きの顔。由那とマリアも小さく口を開けた。


「固定観念は時間の概念を想像するうえでは禁物ってことよ」


 シュウはひとり、まだ考え込んでブツブツと口を動かしていた。


 騙された気がするのもうなずける。正解はひとつとは限らないからだ。


 時間そのものの本当の仕組みは、物理学・哲学・宗教理念を以ってしても、まだ誰も知るよしもない。

『過去』という実体は人間の脳の記憶・物の記録でしか存在せず、『今』という瞬間の連続だけがある、とも取ることができるのである。


 私は、いつものようにシュウを言いくるめようと、他にも別解を用意してありはしたが、ネタがバレる前に話を切り上げることにした。


「さぁ! バツよシュウ。あそこのカフェスタンドでみんなに飲み物をおごりなさい!」


 シュウは小さく肩をすくめたあと、フロアのカフェスタンドへ向かって行った。


 たぶん言わなくても、最初からそうしてくれるつもりだったんだろう。とても自然にホットのカフェラテを手渡してくれた。

 この時期でも外は少し肌寒かったので、ちょうど心地よかったし、心まであったまるような気もしてくる。


 なんだかんだでシュウは、長い付き合いのこの仲間を何より大切にしていたし、口には出さずとも優しいことは、皆よく理解している。


 私達はそれから、天望デッキ345・340のフロアで陽が落ちるのをゆったりと待ちながら、二時間ほど羽をのばした。マリアも心置きなく楽しめたようだ。



「もういい時間になっちゃったわね、原子時計にちゃんと変化が出てるかわからないけど、ともかく下りましょうか?」

「そうだね……、家に帰るまでの時間を考えたら、そろそろかな……」


 下りは340フロアのエレベーターからで、上りとは別の専用エレベーターで下りるようになっている。

 遅い時間なだけにもう客足はまばら。私達四人だけがエレベーターに搭乗するとドアは閉じられた。


 今度は大丈夫かな……。上りに味わった感覚が何だったのか考え――――。などという暇はなかった。


 あっ……。不意にがエレベーター床から突き抜けて落下した。

 まさかこんな所に、テレビのバラエティ番組的な落とし穴の仕掛けがあるはずがない。


(ウソ!? やばっ――)


 エレベーター構造の暗闇を意識が猛スピードで墜落していく。


(死ぬ――……)


 いくらそう感じても、身体はここには無いので悲鳴は口から出せていない……。


 落下速度はみるみる加速していく――。


 バンジージャンプやスカイダイビングのような、安全が保たれているわけではない心理的恐怖が、あるはずのない心臓の辺りを締め付ける。


 奈落に落ちるってこんな感じかな……。

 と、そんなバカなことを思いかけていたその時。


 エレベーターの箱と身体が、高速で上から降ってきて意識に追いついた。


 身体が意識をすくい取り、感覚が結びついて合致する……。


 見開いたその目には、明るいエレベータールームの壁が映る。


 助かった!? いまのは真剣にやばかった……。


  喉が乾いてカラカラ。そこに胃液が逆流しそうになったけど、ぐっと飲み込んだ。

 あまりにリアルな恐怖体験ゆえ、解放で張り詰めていた体の芯から力が抜ける。


 脚が震え、膝が崩れかけたところを、シュウが素早く伸ばした腕で、肩を支えられた。


「おい、未那!?」

「お姉ちゃん……。しっかり」

「未那ちゃん? どこか悪いの?」


 私はどんな顔をしてたんだろう。三人に懸命に呼びかけられる。


 やっぱりだ。いま身に起こった怪事も、私しか体験していないらしい。

 まずい……、これはごまかせそうにないかも。


「あぁ、ゴメン。大丈夫! 昨日からちょっと寝不足でね……。少しウトウトしてたら膝の力が抜けちゃった」


 目をこする真似をして、下手な言い訳をしてみる。


「マジかよ、心配させないでくれ」

「なぁんだ……びっくりしちゃった……」

「未那ちゃんにしてはめずらしいですねっ!」


 案外あっさりごまかせた。それはそれで、もうちょっと心配してくれてもいいとは思う……。なんだか微妙な気持ちにさせられてしまった。


 間もなくして、5F出口フロアにエレベーターは到着する。

 今日の実験はこれで終了。計測器ともいえる小さな原子時計に、しっかりデータは刻まれているはずだ。


「ちゃんとロッカーのやつも回収しないとね、行きましょ」

「未那、こっちのエレベーターから下りられるぞ」


 シュウが5FからB1まで各階用のエレベーターを見つけて指さしていた。

 けれど、さっき起こった落下感覚現象が、ふと私の脳裏を掠めて恐怖心を掻き立てた……。


「西エントランスから出るのよ、こっちのエスカレーターのが近いの!」


 いけない。さっきのことでいささか神経質になってるっぽい。語気が荒かったと反省する。


 エスカレーターの手前にやって来て、ここでも何か起きないかと不安になった。

 やたらに躊躇ちゅうちょしていてもみんなに不信感を与えると思い、意を決してステップに一歩足を踏み入れる――。


 懸念けねんに反して何も起こりはしない。内心では、ほっと胸を撫で下ろしながらそのまま下の階へと降りる。


「こっちよ」


 西エントランスを通ってスカイツリーを出て、原子時計を預けたコインロッカー前へと場を移した。


「シュウ、アレは?」


 こういうとき、ざっくりとした言い方でもシュウには大抵通用する。「アレってなんだよ?」とかいうわずらわしい掛け合いなんかもあえてしない。

 一緒にいても、私にストレスをイチミリも感じさせない。シュウのそんなところが好きだった。


 すみやかに財布の中から、受け取ったレシートを抜いて用意していた。


 シュウがヘマをして、レシートを紛失したりするなんてトラブルを起こす心配も杞憂きゆうだ。これでもなかなかのしっかり者で通っている。

 手慣れた感じでコインロッカーのタッチパネルを操作して、レシートのコードを読み込ませると、ロックが解除されたことが知らされる。すると、用を終えたレシートを手の中で丸めてズボンのポケットに突っ込んだ。


 こうして、無事に地上の原子時計を回収することができた。

 回収した原子時計と表示装置、それに私と由那が預かっていた原子時計も、ここで全部マリアの鞄の中に収めておいた。


「一刻も早く確認したいわね」

「でも、ちょっと……。ここじゃなんだから……」


「来るときに、向こうにお店があったから、そこを使わせてもらおう」


 お昼からたいしたものをお腹に入れてなかったので、ついでに軽く済ませようということになった。

 異存はない、空腹では頭の働きも鈍るというものだ。


 ウエストヤードにある、間近のファーストフード店に入る。


「ここはあたしが出してあげるわよ」

「おっ、どうしたんだ未那」


「ほんとにいいの? お姉ちゃん……」

「いいの、いいの。好きな物注文しなさい」


「わーい! それじゃあ、ごちそうになりますね。未那ちゃん!」


 気前よく支払いは私が済ませた。シュウになにかとお金を使わせてしまったし、たまにはこうやって可愛い妹や後輩達に威厳を見せるのも悪くない。

 これでみんなの忠誠心が、は上がっただろう……。『アメとムチ』人心掌握術とはこういったものだ。なーんて、勝手な妄想で納得する。


 各々が注文した料理のトレーを受け取って、テーブルの席に着いた。

 いよいよ本題に取りかかる。


 マリアは鞄から四個の原子時計と表示装置をテーブルの中央へと整列させた。


「ドキドキしますねっ!」

「まず地上に置いてあった、AとBを調べるわね」


 同じ環境状態にあったAとBに差がなければ、地上に置かれていた原子時計に誤差はなく、互いの精度は保障される。


 私はテーブルの上の原子時計からAとBのふたつを選んで装置にセットし、電源をオンに切り替えた。

 赤く光ったデジタルは驚異的なカウントアップを繰り返している。


「それじゃあ、止めるわよ」


 三人とも料理を口に運ぶ手が止まった。

 慎重に黄色ボタンに指を置いて、そっと押し込むと……。


 滑ることもなくビタ止まりした数値は、一目瞭然。やはり最後のひと桁まで狂いなく一致。


「同じ……。だな?」


 がっかりする必要はない。これは予定どおりなので、むしろ成功といえる。


「それはそうよね、でもこれで地上のふたつは、お互い正確って証明されたわよ」


 ボタンを何度か押したり、戻したりとしてみても結果は変わらない。


「問題は次よ! 地上に置かれていた物と、重力の弱い場所にあった物とが変化あるのかどうか?」

「普通なら、重力の弱い地点は僅かに時間が速く進むんだから、原子時計に問題が無ければ数値も進んでるはずだな」


「もし……、もしも数値が同じなら……。アインシュタインの相対性理論は誤っていることが証明されて……」

「同時に! これまでのタイムマシン理論の殆どが、メチャクチャになっちゃいますね!?」


 そんなことがあれば現代物理学の崩壊だ。相対性理論ありきの教科書で教えられていることも、最新の論文も真実を持たない幻想か。


「いまの検証で地上にあったAとBは同じと証明されたから、今度はAとCを比較するわね」


「えっと、Cは由那が持ってたやつだ」

「うん……。そうだよ」


 私は装置の電源を一度オフにし、Bを外してCの原子時計と入れ替えた。


 続いて電源を再度、オンにする。これまでどおり正常にデジタルが点灯し数値がめまぐるしく変動している。

 さあ、今日の実験成果を試すこの時は、準備万端整った――。


「みんな、よく見てるのよ?」


 答えがでるのは一瞬だ。せっかくなので溜めるだけ溜めてみる。


「いつもおおげさなんだから」

「未那ちゃん! あんまりじらさないでくださいよー!」


 ホールド機能の黄色いボタンを押さえる指が、うっすらと汗ばんで震える。緊張の瞬間――。

 全員の目が、赤いデジタル表示へと釘付けになる。


「えいっ!」


 気合をいれてボタンを押したら、何故かおかしな声が出てしまった。

 デジタル表示にガッチリ固定されたふたつの数値は……。


「ねぇ、シュウ君! これは!?」


 よくみると、CはAより最後のひと桁の値が『』大きい。


「つまり、CはAより僅かに時間が進んでいる」

「この場合……。わたしが持っていたCのほうが、重力の影響で速く進んだ結果になってて……」


「この短時間の実験だったけど、およそ三百十七億年で一秒速くなる計算だ」


 シュウは瞬時に時間計算を終わらせていた。


「一般相対性理論が、ちゃんと証明されたわね」

「そうなんですか!? でも、それはそれでよかったような気がします」

「そうね、学界にとんでもない波乱を巻き起こすとこだったわ」


 おもしろくない結果だったので、なんだかいままでの緊張と興奮もすっかり冷めてしまった……。


「ちょっと待って……お姉ちゃん。まだCの原子時計に誤差が出た可能性があるよ……?」

「えっ、ああ……、そうだったわね。そういうことが無いかを確認するために、Dの原子時計も用意してあったんだっけね」


 テンションが戻らないまま由那に返した。


 CとDが一致するなら検証結果はより正確になって、ABDらが同じでCのみ差がある場合は、Cの固体誤差の可能性が高いことになる。


「シュウ、ちょっとあんた調べてみてよ」

「僕が? いいけど……。じゃあ、CとDを比較するから」


 私がやったのと同様に装置の電源をオフにして、今度はAとDを入れ替えた。


「じゃあ、やるよ」


 返事を待たずに電源をオン。


 …………。

 シュウは黙ってデジタル表示を凝視していた。


「未那。コレ……」


「何よ……? その黄色のボタン押さないとわからないわよ」

「いや、そうじゃない。いいからコレ見て」


 めずらしく動揺の色をしたシュウの言葉に、何事かと由那とマリアのふたりも盤面を覗き込んだ。


「…………あれっ!?」

「これって……?」

「……ウソ!? 何なのこれ、ありえないでしょ……」


 煌々と廻り続ける7セグメントディスプレイ。それを停止するまでもなかった。


 異常は目視でも確認できる。


 そこには、DのほうがCよりもカウントアップする数値が刻々と変動をみせていたのだから……。

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