第252話


「カイリ。もしまだ体力が残っているなら、少しだけ二人で話がしたいのだが」


 遅い夕食を部屋に運んでもらい、カイリがたらふく平らげた後。

 フランツは遠慮がちに切り出してきた。レインが「ほいほい」と早々に立ち上がるあたり、話の内容が見えているのかもしれない。


「構いません。俺も、少しフランツさんとお話がしたかったですし」

「そうか。……」


 ホッとした顔を見せたのもつかの間、微かに緊張を帯びたフランツの表情にカイリは首を傾げる。もしかして、今回カイリがやらかしたことの戒めだろうか。

 無事に帰ってくると約束したのに、またもぶっ倒れたのだ。潔く受け入れようとカイリは心に決めて拳を握る。

 覚悟を決めている内にレイン達が去り、二人っきりになったが。


「……」

「……」


 互いに、何も切り出さない。妙に重い沈黙が室内を這う様に満たしていく。

 フランツは黙りこくったきり、視線を下に向けたままだ。しかも床に正座をしている状態で、ベッドの上にいるカイリは何となく座りが悪い。

 これは、カイリも床に正座で向かい合うべきだろうかと真剣に悩み始めたその時。



「――すまなかったっ」

「――、え?」



 がばっとフランツが頭を下げる。

 思ってもみない反応に、カイリは目を大きく見開いてしまった。ぱくっと、口が勝手に開いて間の抜けた顔になる。

 何故、彼が謝るのだろう。あまりの動揺に、カイリはぶんぶんと首を振る。


「あの、フランツさん? 顔を上げて下さい」

「昨夜、俺は本当に酷いことを言ってしまった。……正確には、かなり大人気ない態度を取ってしまった。本当にすまなかった」

「え、ええ?」


 頭を下げるどころか、むしろ床にめり込む様に土下座をしてくる。そのまま本気で穴を掘って墜落していきそうな勢いに、カイリはいよいよ混乱した。

 昨夜と言えば、カイリが無茶な提案をしたことに対する反応だろう。

 だが、あれはカイリの方も悪かった。フランツばかりの非ではない。


「フランツさん。昨夜は、俺も悪かったんです。それに、無事に帰ってくると約束したのに――」

「いいや。……昨夜俺は、わざと冷たく突き放す様に話を切った挙句、ケント殿に嫉妬して……あるまじき言動を取ったのだ」

「え?」

「だから、……もしお前に非が潜んでいようと、俺が悪いんだ」


 ごつっと、フランツが額を床に軽く打ち付けた音がする。カイリも困惑で頭が上手く働かない。

 ケントに嫉妬した。

 フランツが彼に嫉妬するとは、どういう意味だろうか。話の行先が分からなくなってきて、取り敢えず続きを待つことにする。

 フランツはかなりの間沈黙を保っていた。頭を下げたまま、どこか上げづらそうにしているのが大揺れする気配で伝わってくる。

 しかし観念したのか、緩々と少しだけ頭を上げた。それでも顔は床と平行になったままで、カイリからは表情が全く窺えない。



「……ミサの時。俺は、お前を助けに行く勇気が出なかった」

「……ミサ」



 それは、教皇に連れ去られようとした時だろうか。

 あれは、団長としての意思を優先した結果だろう。あの時フランツ達が助けに割って入っていたら、間違いなく指名手配を受けていた気がする。教皇拉致事件があったからこそ、カイリにも容易に想像出来た。


「でも、あれは」

「シュリアは助けに行こうとしていたのにな」

「え……」

「俺は結局あの時、お前の父親になると言いながら、まるで父親になる覚悟が無かった。クリス殿にもケント殿にもかなり呆れられてな。……だからこそ、ルナリアでもお前に酷い態度を取ったわけだが」

「フランツさん……」


 自嘲気味に語る吐息が、笑っているのに泣いている。あの時を回顧しているのだろうか。ミサはともかく、ルナリアでの一件は思い出すとカイリも苦しいし、切なさが傷に染みる様に痛む。

 しかし、シュリアはミサの時助けようとしてくれていたのか。かなり意外だ。あの時点では彼女とそこまで仲良くなれているとは思っていなかった。――今もどこまで仲良くなれているかは不明だが。

 でも。


 ――助けようと、してくれたんだ。


 あの時――クリスがケントに万が一何かあったら、「何が何でも助けに行くから」と言い切っていた時、カイリはひどく郷愁に駆られた。無性に両親に会いたくなった。

 カイリは口でも思考でもフランツ達が助けに来てくれるのは無理だと断じていたのに、それでもやはり心のどこかでは無意識にさみしがっていたのだ。



 今の自分には、両親の様な存在はもういないのだ、と。



 けれど。


「――……っ」


 シュリアは――シュリアだけは、どうしようもない事態に陥ったカイリを助けようとしてくれていた。

 意外なところで意外な事実を知って、じわじわと頬が熱くなる。少なくとも仲間として懐に入れてくれていたのだと思うと、喜びが抑えきれない。目の奥が濡れる様に熱くなった。

 ぐ、ごほん、と軽く咳払いをして、カイリはフランツの語りの続きを待つ。


「……ゼクトール……卿、に拉致された時も。俺は、ただただ連れ去られるのを見送るだけだった」

「……。でも、助けようと必死に動いてくれたって聞いています。事実、助けに」

「俺が直接お前を助けに行くことは出来なかった。足手まといになると分かっていたからな。……だから、シュリアとレインを送るしかなかった」

「……」

「最善だった。あれ以外に方法が無かった。それでも、……不甲斐なくて。お前が戻ってくるのを待つだけしか出来なくて。……情けない」

「――」


 フランツの言葉に、カイリは目を見開く。

 不甲斐ない。情けない。

 それはしくも、カイリがケントに吐き出した弱音と同じだった。

 フランツはカイリよりも遥かに腕が立つ。人生経験もある。それでも彼も迷うし、情けないと打ちのめされるのだ。

 ルナリアで一度聞いていたはずなのに、それでもやはり驚いてしまう。カイリは呆然と見つめてしまった。


「おまけに、お前が水で取り乱した時、何度も突き飛ばされたからな。……俺の方が力が強いはずなのに、聖歌語に咄嗟とっさに太刀打ちできなかった」

「……す、すみません」

「いいや。……だから、……俺は恐かった。お前が俺の見ていない場所で、また苦しんでいたらどうしよう。助けを求めていたらどうしよう。いや、……助けすら求められずに倒れてそのまま、……二度と会えなかったら」

「……、フラン……」

「だから、……お前が村に調査に行くと言った時、……お前らしい、と。怯えながらも雨の中を進もうとするお前が誇らしい、と。そう思ったのに、……怖くて、送り出せなかったっ」

「――」

「……話を冷たく切り上げて、突き放せば、……お前は外には出られないと。強引にでも守れると。そう勘違いしたんだ」


 ようやく顔を上げたフランツは、後悔と悲憤が入り混じった目を伏せていた。

 きつく組んだ両手が微かに震えている。引き結んだ唇も、時折震えてはまた閉じるを繰り返していた。

 本当に怖かったのだと。そう切に訴えてくる様な彼の様子に、カイリの心がぎゅっと握り締められる様に痛む。

 カイリとしては、あの時フランツが急に怒りだした本当の理由を知れて、むしろ納得した。よくよく考えれば、フランツはカイリをたしなめたりいさめたりする時は、もう少し穏やかに諭してくれていた。言い分だって最後まで聞いてくれていた。

 昨夜は、かなり急激に空気が変わったし、カイリの話を無理矢理打ち切っていた様に思う。ケントに論点を突きつけられて黙りこくったのは、痛い部分を突かれたからだと今なら分かる。


 フランツは、過保護だ。


 それでも、カイリを心から心配した故の行動だった。それを知れて嬉しさが滲む。


「……フランツさん。ありがとうございます」

「カイリ……」

「確かに、昨日は……悲しかったですけど。それでも、俺のことを思ってくれていたんだって知れて良かったです。……心配され過ぎるのは心苦しいですけど、でも、それでもやっぱり心配されるのは、大事に思ってくれているっていう証だと思うから」


 過保護が過ぎると、人は成長は出来ない。

 それでも、心配してくれることを煩わしいとは感じない。特に今なら、フランツはきっと心配しながらも最後まで話を聞いてくれる。そう強く信じられた。


「……すまないな。俺は、……父親の思い出がきちんとないから。どういう風に見守れば良いのかとか、良い距離感がどれくらいだったりするのかも分からなくて。カーティスの過保護っぷりばかりを手紙で知ったから、他に手本が無くて迷ってばかりなのだ」

「……フランツさん」

「……やはり近道はないな。一日でも早くお前の父親らしくなりたくて、焦ってもいたのだと思う。……ゆっくりと親子になるしかないと実感したぞ」


 ぽりぽりと頭を掻くフランツは、バツが悪そうだ。カイリとしても、まだまだ親子という単語がむずがゆい。

 それでも、彼と少しずつでも近くなっているのだと思えば、悪い気はしない。

 きっとこれからも、ぶつかったりするだろう。親としても子供としても、まだまだ知らないことだらけなのだ。距離感に戸惑うこともあるかもしれない。

 だが、それも共に乗り越えていければ良いと願う。

 それに、おかげで共通点が見えた。


「……俺達、少し似ている部分があるって、今さっき知れましたよ」

「なぬ?」

「不甲斐ない、情けない。自分の至らなさで、そういう風に思う気持ちがあるんだって」

「むむ、……それは、何というか、……複雑だな」

「はい。でも、俺は嬉しいです。……実を言うと、調査の時に俺もそう思ってしまって。……ケントにはそれで良いじゃないかって肯定されたんですけど」

「むぐうっ!」

「ふ、フランツさん⁉」


 カイリが朗らかに笑うと、フランツが変なうめき声を上げて再び突っ伏した。今度は恨めしい音と共に床にめり込んでいく。

 あたふたしていると、「また、ケント殿か……っ」と呪詛を吐く様な低い声で唸られる。ケントが何なのかと、カイリが目を白黒させていると。


「……ケント殿には先を越されてばかりだっ」

「え? ケントに?」

「雨の中の調査だって、俺達が動ければ共に行けたのにっ。……ケント殿に先を越されるとはっ」

「え? ……え」

「お前に、雨の中の調査に行く勇気を持たせたのは、きっとケント殿も要因なのだろう。俺達じゃない。それだけでも腹立たしいのに、更にケント殿に、お前の心を軽くする様なことを言われるとは……っ。どこまで俺の親としての役割を先回りしていくのだ……っ!」


 地の底から這う様に吐き出され、カイリは何と声をかけて良いか迷う。というより、随分と子供っぽいことで張り合われている気がしてならない。

 なるほど。ケントへの嫉妬とは、そういう意味か。

 フランツがしたいことをことごとく先回りされ、役割まで分捕られた気がするから、嫉妬。

 もしケントがフランツと逆の立場だったら、同じ様に膨れている姿が容易に思い描ける。――この二人も変なところで似通っているのだなと、変な発見をしてしまった。

 しかし、今はそれだけで終わらせてはいけない。


「……それについては、俺もやっぱり謝らないといけません。……すみませんでした」

「いや、違う。俺が悪いんだ。……子供っぽいと自分でも分かってはいるのだが」

「いえ、……調査の相談の順番です。……俺の気持ちは変わらないし、判断が間違っているとは思っていません。でも、……最初にフランツさん達に話を通すのが筋なのは事実でした。本当にすみませんでした」

「む……」


 頭を下げて謝罪する。フランツが困った様にたじろいたのが分かった。

 確かに、フランツは己の私情を優先してカイリを不条理に叱り付けたのかもしれない。

 だが、それでも、フランツの指摘が正しい部分は確かにあった。それは、団長としての立場も彼は忘れていなかったからだ。


「俺は、……第十三位と世界の謎を解き明かすって覚悟を決めました。パーシヴァル殿や王族と繋がりを持つのも、その謎を明かすために味方は多い方が良い、第十三位の地位も少しずつでも確かなものにしたい。そう思ったからです」

「……ああ。カイリの言う通りだ」

「けれど、……今回第十三位が受けた調査なのに、謹慎中で動けないとはいえ、真っ先に別の人に頼りました。……その判断自体は間違っていないと思っているし、その道はどんな状況でもっていたと思います。でも」


 順番は間違えた。

 ケントはカイリの親友だ。

 けれど、対外的にはケントは親友の前に第一位の団長という立場がどうしても先立つ。

 もし今回、カイリがケントやクリスに真っ先に相談したと他の騎士達に聞かれていたら、第十三位は『聖歌騎士』のカイリにないがしろにされている、やはり役に立たない騎士団なのだというレッテルを貼られてしまっていただろう。

 それだけではない。



「ケントという第一位団長と、プライベートだけではなく仕事でも癒着がある。そう思われるのは、第十三位だけじゃなくて、ケントにとっても醜聞になります」

「――」

「あいつは、腐っても第一位団長です。精鋭の、そして騎士団のトップなんです。……あいつをおとしめられて、それこそ騎士団に抑止力が無くなったら、統率が乱れて教会は今より悪い状況になります」



 もちろん、ケントがその程度の悪評で揺らがないことは分かっている。鼻で笑って、むしろやり込めてしまうだろう。

 それでも、隙を与えるわけにはいかない。そのかせに、カイリがなるのはご免だ。

 それに。


「第十三位の力を付けていこうと思った矢先に、その力を削ぎかねない行動をしたのは、やっぱり俺の失態です」

「カイリ……」

「もちろん、迷っている暇がない場面では、俺はこれからも困っている人を真っ先に助けたいと思っています。でも、……今回みたいに、少しの猶予があるのなら。俺は、ケントに相談をすると同時に、第十三位の組織としての力を付ける方の選択もしていかなければならなかった」


 昨夜だって、すぐに宿舎に帰ってフランツ達に相談し、その日の内に改めてクリスやケントに頭を一緒に下げる。それが十分に出来た。それに頭が回らなかったのは、どちらにせよカイリに考えが足りなかったからだ。

 そう。――自覚が、足りなかったから。



「俺、……聖歌騎士だって。本当の意味で理解していなかったんだと思います」



〝駄目だよ、カイリ君。そういう特権は、行使するしないに関わらず、ちゃんと知識として持っておかないと〟



 クリスに指摘されて、気付かされた。

 今まで散々、聖歌騎士としての恩恵を受けてきていたのに、カイリはそれを受け入れていなかったのだ。


「……俺、教会のこの独裁みたいな体制が嫌いで。聖歌騎士ばっかりが崇め奉られている状況も嫌いで。……聖歌騎士だから、色々と大目に見てもらえる。聖歌騎士だから、色んな特権が与えられる。聖歌騎士だから、特別扱いされる。そういうのが嫌で、……俺自身が教会の組織の一員なんだって。ちゃんと、受け入れていなかったんだと思います」


 教会が嫌いなのに、教会のおかげで生活に不自由をしていない。

 教皇が生殺与奪を握っている様な体制に心底吐き気がするのに、それを変える力が無い。

 カイリは、どこかで距離を置いて教会を見ていたのだと思う。

 もちろん、他人事の様に思っていたわけではない。それでも、カイリは自分は彼らとは違う、こんな騎士ではないと、どこかで自分が堂々と聖歌騎士と名乗ることをしていなかった。相手の態度が変わるのを本能で恐れ、自分から名乗り出ることは一度もしたことはなかった。

 けれど。



〝けれど、これが現実です、カイリ様。……あなたが打ちのめされても、何も変わりはしない。綺麗ごとでは生きていけない。それが、この歓楽街です〟



「それじゃあ、駄目なんですよね」



 力が無いまま吠えたって、誰も信じてはくれない。

 力や地位が悪いわけではない。それを扱う者次第なのだ。

 頭では分かっていたつもりだったけれど、理解はしていなかった。

 だから、歓楽街でだって何も変えられなかったのだ。ロディ達も、カイリを信頼出来なかった。

 何かを変えたいのならば、力も地位も付けて、それを正しく扱っていかなければならない。


「組織の一員であるのなら、それを上手く使う場面だって出てくるはずです。……だから」


 だから、単純な武術や聖歌だけではなく。

 聖歌騎士であることを、それに付随する特権を、正しく誰かのために使える様に。



「俺は、……村人としての一般市民の視点を忘れないまま、自分が持つ力や地位を、救いを求めている人達に使える。そういう聖歌騎士になりたいです」

「――――――――」

「……とは言っても、まだまだ道のりは遠いですけどね」



 防御特化の剣術も完成していないし、聖歌語と剣術の同時行使もまだまだ心もとない。ケントほど聖歌語を自在に扱える様になっているわけではないし、聖歌もまだまだ未知の領域だ。今は水という大きな障害だってある。

 未だに理想は遠いけれど、それでもなりたい自分は見えている。ならば、もう邁進まいしんするしかない。

 また怯えてうずくまっても、逃げたくなって後ずさっても、カイリは何度だって立ち上がる。

 みっともなくても良い。情けなくても構わない。


 足掻あがくことなく無理だと諦めてしまうことの方が、よっぽどカッコ悪いと気付いたから。


 だから、カイリは目指し続ける。様々な欠点を克服しながら、前へ。


「……まったく」


 ふうっと疲れた様に息を吐くフランツは、しかし口元が笑っていた。

 反応が気になったが、ひるがえすことはない。ひたすらにカイリが貫く様に前を見据え続けていると。



「……本当に。お前には教えられてばかりだな」



 ぽんっと、フランツに頭を撫でられる。どこか眩しいものを見る様な目は、一瞬濡れた様に映った。

 わしゃわしゃと頭を撫で続けながら、フランツは観念した様に目を閉じる。


「今度からは、俺もきちんと最後まで話を聞く」

「フランツさん……」

「もう、お前の道を無理矢理閉ざそうとはしない。……多分、また過保護になりがちなことも言うだろうが……ちゃんと、俺の気持ちも伝える。だから、お前も怯まずに最後まで伝えてくれ」

「……、……はいっ」


 フランツの優しい微笑みに、カイリも満面の笑みで頷く。


「だが、それと今回の無茶は別だ。……肝が冷えすぎたからな。少しはお前を思う俺達の気持ちも考えてくれ。それに、組織としても、お前を失うのは大きな痛手なのだからな」

「……は、はい」


 むんっとフランツが腕を組んで叱るのを、カイリは縮こまって受け入れる。ケントという託せる相手がいたとはいえ、血を吐くまで無茶をしたのはやり過ぎた。反省している。

 だが、彼の親としての気持ちが知れて嬉しい。四苦八苦しながらも、カイリの親になりたいと願ってくれる心が、喜びを与えてくれる。

 カイリも、それに応えたい。彼が誇れる様な息子になりたい。大切な人をこの手で守れる様に強くなりたい。

 そのためには。



〝だから、約束して。――必ず、僕を倒せるくらい強くなってね〟



「――……」



 そう。

 ケントのことも――。


「……俺。明日、図書室にこもりたいんですけど。良いですか?」


 突然話が変わった様に思えたのだろう。フランツは一瞬目をぱちくりしていたが、すぐに快く頷いてくれた。


「ああ、構わない。明日は体を休めるんだな?」

「はい。それに、……少し調べものがしたくて。勉強を始めてから、世界の常識がやっぱりまだまだ無いんだなって分かりましたし」

「そうか。なら、存分に調べると良い。品揃えだけは豊富だぞ」


 胸を張って得意げにするフランツに、カイリも噴き出す様に笑う。

 第十三位の宿舎はどこも規格外だが、図書室もちょっとした図書館だ。本物と遜色が無いくらいの広さで、高さも三階まである。

 そこなら、異世界についても何か書かれているだろうか。

 カイリやケントが転生してくる前の世界――日本についても。


〝でも、それくらい強くなったら、……一緒に歌えるのかな、……聖歌〟


 彼に早く追いつきたい。彼が抱えているだろう不安を、早く共有したい。

 そうだ。

 だって、見つけたのだ。



 ――【、追いついたのだ】。



 ここで見送るわけにはいかない。

 ようやく掴まえた手だ。

 絶対にもう彼の手を離さない。

 そうでないと。



『大好きだよ! カイリ!』



 また。



『だから』






『――――、カイリ』






「……【冗談じゃない】」



 も【う、絶対】。


「……カイリ?」

「――――――――」


 名を呼ばれ、唐突に我に返る。

 くらっと一瞬眩暈めまいがして、思わず額を押さえた。


「どうした、カイリ?」

「え、っと。……」


 説明しようとして、声が出なくなる。正確には、説明が出来なくなった。



 ――今。俺、何を考えていたんだろう。



 ケントに追いつきたい。彼の隣に立ちたい。

 彼の不安を取り除きたい。

 そんなことを考えていたはずだが、その後の記憶が無い。

 何故数秒前のことを思い出せないのだろうか。嫌な不安に駆られたが、カイリとしてもどう話せば良いか判断が付かない。


「えっと。……ぼーっとしてました?」

「何故疑問形なのだ。……」

「えーと……」

「大丈夫か? ……何だか一瞬、お前の意識というか……空気が、ここには無い様に感じたぞ」

「え……」


 言いにくそうではあったが、先程の言葉を実践したのだろう。はっきりと伝えてくれたことで、カイリは益々不安に駆られた。

 カイリはさっき、何を考えていたのだろう。



 ――何を、思い出したのだろう?



 重要な鍵が隠されている気がするのに、何故こんなにも恐怖を覚えるのだろう。

 カイリは、一体何を忘れているのか。最初は他の騎士達と同じで記憶に穴があるだけだと思っていたが、だんだんと己が食われていく様な恐ろしさを感じる。


「……。俺、ケントのことを考えていて、……考えがまとまらなくて、……それで、ぼーっとした感じになりました」

「そうか……。……確かに、先程ケント殿と最後に話していた時、お前はどこか焦っている様に見えたな」

「……」

「お前ももどかしいところがあるだろう。だが、……お前がいつも言っている様に、焦っても状況は好転しない。……焦らず、一歩一歩確実にな」

「……、……はい。ありがとうございます、フランツさん」


 ぽんぽんと頭を撫でてくれるその大きな手が、カイリに温もりを伝えてくれる。その現実にどうしようもなく安堵した。

 カイリは、ここにいるのだと。確かな感触で知らせてくれる。


 フランツの言う通り、焦っているから心や思考が飛ぶのだろうか。


 知らないことが多すぎる。叶えたい願いも多すぎる。

 その先には、一体何が待ち構えているのか。

 まだ根強く穿うがたれた不安を少しでも掻き消したくて、カイリはしばらく彼の撫でてくれる手に意識を集中させた。


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