第253話
カイリを送り届けて村の偵察の
第二位を締め上げる準備だけして、後はデネブとアルタに監視を任せた。最近の二人は、ケントを盲目的に崇拝するだけではなくなってきている。他の連中より少しだけマシになった今なら、任せても大丈夫だと判断した。「ごゆっくり」と家に送り出すあたりも、変わったと思う。以前なら、例えば父の「お願い」であっても、すぐに帰って来て欲しそうな空気を
「……あの二人が変わってきたのも、カイリとぶつかってからなんだよね」
そう考えると、やはりカイリは偉大だ。未だに彼らに敵意を抱かれてはいるが、決してそれだけではないのはケントの目からも明らかである。良い影響を与えたのだというのは、嫌というほど伝わってきた。
「カイリは、分かってないなあ……」
本当に、自分の力を理解していない。
もし、前世でも彼が彼らしく前を向き続けていたらどうなっていただろうか。事態は好転していただろうか。
全ては希望的観測であり、単なる推論だ。それ以上でも以下でもない。
それでも、夢を見てしまう。
あの日の悪夢が切り裂かれたかもしれない、本物の夢の続きを。
「なんて。……所詮、前世は前世だけど」
今のケントには不要だ――とまでは言い切れないが、それでも今の方が大事だと断言出来る。
ここには家族という大切な存在が生まれた。前世とは違うカイリも傍にいる。これほどまでに幸せな世界があるだろうか。
「だから、僕はここを歩いてしまってるんだよね」
既に九時は回っている。この時間帯になると、貴族街は商店街と違ってひどく
夏も半ばのこの時期だが、聖都は比較的気温差が緩やかだ。夜風はさらりと頬を撫で、ケントの
「……カイリ」
〝お前さ、さっき……歌って、なかったか?〟
先程のカイリの言葉を思い出す。
ケントは、フュリー村で気を失ったカイリを相手に『故郷』を歌い紡いだ。
前世で初めて彼と出会った時、彼と共に歌った初めての曲。ケントにとっては、彼との始まりを告げる歌でもあった。
眠る彼に歌った時、彼は苦しそうな寝顔を
だから、彼も同じだと思ったのだ。
みんな、ケントの歌は地獄の様だと評する。
ひとたび耳にすれば、誰も彼もが恐怖を覚え、心に激痛を訴えて
故に、歌詞もそれに合わせて作り上げた。童謡唱歌を歌ってもまるで効果が無かったけれど、未練があってそれを想起する様な歌詞に編曲したのだ。
それで効果があっただなんて、どんな皮肉だろうか。
みんな、ケントの歌は危険だと口にする。同時に崇め奉り、誰もが膝を突いてひれ伏していく。
カイリにとっても、苦痛を与えるだけ。それを思い知らされて、自然と心と一緒に頭が下がっていったけれど。
〝ケント、……お前、さっき、……泣いて、いなかったか〟
彼には、違う様に聞こえたのだろうか。
「カイリは……恐かったんじゃ、なかったのかな」
あの苦しそうな顔は、ケントの泣き声に反応していただけなのだろうか。
別にケントは泣いてなどいなかった。声だって普通通りの調子を保っていたはずだ。
それなのに、彼はいつもケントの心を拾い上げていく。前世でだって、あれだけ邪険にしようと必死に演技をしていたのに、ケントが本気で落ち込んでいる時は気付いて傍にいてくれた。
〝約束してくれないか。一緒に、『故郷』を歌ってくれるって〟
カイリは意地悪だ。
ケントにとって世界の始まりであるその童謡唱歌を、よりによって一緒に歌いたいなどと申し出てくるとは。
何よりも大切なその思い出の歌を、ケントは一緒に歌っても穢してしまうかもしれないのに。
「……、着いちゃった」
とつとつと思考を垂れ流している合間に、ケントは己の屋敷に辿り着いてしまった。
家族には遅くなると連絡は入れておいてある。ただ、九時も過ぎているので、本当ならばもう宿舎に帰らなければならない時間だ。
それでもここに足を向けたのは、一目家族に会いたかったからだ。会って、一言二言でも言葉を交わして、明日を向く糧が欲しかった。
ケントは、本当に弱くなった。
前世の時よりも遥かに力も付け、より知恵も身に着け、思い切りも増し、強くなったはずなのに。カイリが絡むとこんなに弱くなる。
彼を傷付けて、無理矢理にでも強くすることに躊躇いは無い。例え彼に嫌われてでも、黒い策謀に巻き込むことを迷いはしない。
けれど。
〝……ケント、ごめんな。いきなり倒れてビックリしただろ〟
彼に優しさを向けられるたび。
彼からの好意を感じるたび。
ケントは、彼に
彼と共に在る日々が、こんなに幸せだとは夢にも思わなかった。前世の頃から絶えず思い描いていた願いは、叶ったら想像以上に幸福に満ち満ちていて、離れがたくなる。
離れるつもりは無い。彼の隣を誰にも渡すつもりもなかった。
それでも。
この世界に来た当初の様に、彼に嫌われても傍にいることが出来るだろうか。
今が幸せ過ぎるから、手放しにくくなってくる。
ケントの歩んできた道を知ったら――カイリを巻き込んでいる陰謀の内容を知ったら、彼は果たして同じ様に接してくれるかどうか。
分からないからこそ、恐くなる。
特に、こうして弱っている時は決意がぐらつきそうになるのだ。
〝……、……我らが、……じょ、じょ、……じょ、お、う。――ファルエラの、女王〟
ファルエラが、関わっているから悪いのだ。
ケントの因縁が、どこまでも嘲笑う様に追いかけてくるから、苦しくなる。
「……父さん。母さん、……チェスター、セシリア」
名を呼んで、求める様に扉に手を伸ばす。
それなのに、一瞬ケントの手は怯える様に止まってしまった。伸ばした指先が躊躇して丸まっていく。
時折、この屋敷の扉を己の手で開けるのが恐くなる時がある。
今まで温かな家族と笑顔で暮らしていた日々は、本当はケントが渇望していた夢でしかなくて。
この扉を開いた先には、前世のあの狂った家の続きが待ち受けているのではないかと。
「そんなこと、あるはずがないのにね」
ケントはもう知っている。生まれてから虐待を受け続け、それを父に助け出されたその日から、今の今まで歩んできた道は決して幻ではないのだ。
本来は血のつながりの無い義母を、母と呼ぶまでの絆を結び、半分しか血の繋がりのない双子を大切な弟妹と呼べる日々は、紛れもなくケントが積み上げてきた幸せの
だから、この手は怯えはしても迷いはしない。
ここは、ケントの幸せの在り処だ。
「……ただいまー! 帰ったよ!」
勢い良く扉を開き、ケントは屋敷に飛び込む。ノックをしなくたって、ここは勝手知ったる我が家だ。近くにいたセバスチャンが「お帰りなさいませ」と朗らかに出迎えてくれた。
そして。
「ケント! お帰り!」
「お帰りなさい、ケント! 待っていたわ!」
「兄さん、おかえりー! お腹空いたー!」
「お兄様、お帰りなさい! 早く食べましょう!」
「――」
何故か全員、入り口のホールに大集合していた。
一瞬呆気に取られたが、ケントはすぐに笑顔になる。
「ただいま! 父さん、母さん、チェスター、セシリア! 会いたかった!」
「まあ、ケント。甘えん坊さんね。お母さん、嬉しいわ!」
「うんうん。ケントはいつまでも俺達の子供だからね! さあ、存分に甘えると良いよ!」
「父さんや母さんばっかりずるいよ! 僕だって兄さんに甘えるもん!」
「ふふ。お兄様もみんなも甘えっこですね! 私も甘えちゃいます!」
ぎゅぎゅーっと、全員で抱き合う。揉みくちゃにされる様に抱き締められ、ケントは幸せな温もりを全身に浴びる。
心の奥にまで沁み通っていく様で、弱り切っていた気持ちがむくむくと元気に復活していくのを感じ取った。
「んー。やっぱり家族は良いなあ。会いに戻ってきて良かった」
「何だい、ケント。会わずに帰るつもりだったのかい?」
「うん。……ほら、九時過ぎちゃったし。明日は仕事だから、宿舎に帰らなきゃならないかなって思ったんだけど」
「あら。ケント。お母さん、宿舎に手紙を送っちゃったわ。『今日はケントは帰りません』って」
「え?」
あらあら、と頬に手を当てて爆弾を落とす母に、ケントはきょとんと目を瞬かせる。
一体何故そんな流れになったのか。こてんと首を傾げると、母が良い笑顔で人差し指を立てた。
「だって、せっかくの休日なのに、あんまりお話出来なかったから。お母さん、お父さんに頼んで一言添えてもらっちゃったの」
「当然だね! 俺達家族の憩いの場は、命と同じくらい大切な時間なんだから。元第一位団長のお願い、って両手を添える様にメッセージを付けたら、二つ返事で了承が返ってきたよ!」
「これで、今夜はお兄様と朝までランデブーですね!」
「やったー! 兄さんとトランプの続きできるね!」
わーい、と互いに両手を叩き合う家族を目にし、ケントはぽかんと口を大きく開けてしまった。なるほど。デネブやアルタの「ごゆっくり」はそういう意味かと納得する。
しかし、今の今まで、確かにそういう我がままを母なり弟妹なりが口にしたことはあったが、実際に実行するのは数えるほどしかなかった。何故なら、腐ってもケントは第一位団長だからだ。示しが付かなくなる。
それなのに、何故今回は父も、母の願いを押し通したのだろうか。
疑問を持って父を見上げれば、父はとても輝かしい笑顔で隕石を脳内に落としてきた。
「今日は、ケントは元気が無いまま帰って来るだろうと思ってたからね」
「――」
「お疲れ様。……間者と接触しても、きちんとここに帰って来たこと。父親として誇らしいよ」
岩石が直接脳天をかち割るよりも、酷い衝撃がケントに激震をもたらす。
見回せば、母もチェスターもセシリアもみんな笑顔が柔らかかった。すりっと、チェスターとセシリアはすり寄ってきて、母は何度も頭を撫でてくる。
父は、今回の事件の黒幕を既に掴んでいるのだろう。そして、家族も把握している。そういうことだ。
父がその情報をケントに教えないのは、あくまで現役が解決するべき事案だと線引きしているからだ。そんな、父の厳しくも信頼する優しさがケントには眩しい。ケントには持ち得ない強さだ。
間者、という言い方をした。父は、最初から村の近くに何がいるか熟知していたことになる。
ならば、その間者がどこの国の者なのかも、知り尽くしているだろう。
つまり。
〝ケント。食事が――〟
「――っ」
ぎゅうっと、反射的に父に抱き着く。しまった、と舌打ちしたくなったがもう遅い。
父は慌てずにケントを抱き止めて背中を撫でてきた。弱り切った心を宥める様な触れ方に、じわじわと熱が胸から上へとせり上がってくる様だ。
故に、ぼろっと零してしまう。枯れ果てたはずの涙の様に、一滴の弱音が口の中から転がった。
「父さん」
「何だい?」
「……前世が、カイリを襲うんだ」
「……」
ファルエラにいるのは、きっとケントの前世の因縁だ。第一位の団長に就任し、他国と本格的に関与する様になってから、外交に関係するだろう人間は洗い出して調査していた。
その中に、見つけてしまったのだ。二度と見たくもない顔写真を。
前世が、ケントを追いかけてくる。
ケントが撒き散らしたままにしてしまった前世が、今、カイリを襲っている気がしてならない。
もし、カイリを狙っているのがケントの前世に関係した者達の仕業だとするならば、それはケントの責任だ。ケント自身の罪が残したものだ。
「……前世は、振り切っても振り切っても、……どこまでも、僕を追いかけてくる」
「……」
「僕が放置した前世が、カイリを襲っていると思ったら……。僕は……」
――僕の罪は、どこまでも重い。
カイリを傷付けただけでは済まない。決着を着けなかったせいで、今カイリは狙われている。
もし、前世でケントが逃げようとしなければ、カイリは今、平和な世界で笑って暮らせていたのだろうか。
その場合、ケントは二度と彼に出会えなかったかもしれない。彼は村で静かに過ごし、ケントはこの陰謀渦巻く黒い聖都で暮らしていた。
カイリと出会えた巡り合わせに感謝している。カイリに起こった身の上を思えば、単純に喜んではいけないことも分かっていた。
それでも。
カイリが隣にいて、これ以上ないほどに幸せだ。
家族がいるのに、それだけでは心の穴は埋まらなかった。カイリがいて、初めて残りの穴も満たされたのだ。
それなのに、ケントがカイリに与えているのは痛みと苦しみと恐怖である。前世の因縁がどこまでも追いかけ、彼を食らい尽くそうと牙を剥く。
カイリがケントに与えてくれるのは、喜びと幸せの温もりなのに。
ケントは――。
「ねえ、ケント」
きゅうっと、母がケントを優しく抱き締める。
その抱き締め方が揺りかごに揺られる様に心地良くて、ケントは思わず
「こう考えてはどうかしら? 転生は貴方に、貴方の弱さを乗り越える機会を与えてくれたんだって」
「――――――――」
温もりを移す様に、母の言葉がケントの心を温める。
思わず顔を上げると、母はふわりと綺麗に微笑んだ。柔らかいのに、芯を秘めた優しい強さを感じ取る。
「だって、ケントは弱さを乗り越えて、『今の』カイリさんとお友達になれたじゃない」
「……え?」
「貴方が弱さを抱えながらも、それでも手を伸ばしたから。カイリさんも今の貴方に手を伸ばせたんじゃないかしら」
「え? え、……」
母の言葉に、ケントは一瞬噛み締める様に思考を停止し。
「――っ!」
理解して、弾かれる様に父を凝視した。
だが、当人は「ごめんね」と可愛らしく舌を出しているだけだ。てへ、と子供っぽい声まで聞こえてきそうな表情に、ぎゅうっと父を掴む手に力がこもる。
「父さんっ⁉」
「ごめんね。……でも、ケントの前世の秘密は、家族には話しておいた方が良いと思ったんだ」
「どうして……っ」
「だって、家族だからね。……ケントが時々前世を思い出して
「――」
よしよしと頭を撫でる父の仕草は、本当に子供をあやす様だ。
しかし、ケントが魘されていると言えば、寝ている時しかない。いつも目覚めたら一人だったから、まさか気付かれているとは思わなかった。
けれど、確かに目覚めた時、いつも誰かが手を繋いでくれていた様な熱が残っている気がしてはいた。
ケントが気にするからと、いつも通り振る舞ってくれていたということか。この家族は本当に、どうしてこんなにもケントの心を掻き乱し、――優しく温めてくれるのだろう。
「ねえ、ケント。前世で乗り越えられなかったことは、貴方にとってひどい後悔として残っていたんじゃないかしら?」
「……、……それは」
「だからきっと、同じ場面が来たの。……前にその弱さや後悔から逃げたから、巡り巡ってやってきた。……だったら、貴方はもう乗り越え方を知っているはず」
「知って、いる?」
「そう。……今の貴方は、前世とは違う。貴方には、私達家族がいるわ。……弱さは、最終的に自分で乗り越えなければいけないけれど、何も一人で乗り越えなくても良いのよ。……誰かを頼ったって構わないの」
誰かを頼る。
その発想は、前世のケントには無かったものだ。
前世ではずっと一人で戦ってきた。カイリの傍にはいたけれど、彼には決して気付かれない様に必死だった。
カイリは今、そのことを悔やんで隣に並ぼうと努力してくれている。
そして、家族もケントを支えたいと傍にいてくれる。
確かに、今のケントは、前世とは異なる位置を歩いていた。
「ケント。……もう二度と後悔したくないのなら、ちゃんと自分の心に耳を傾けなさい」
「……心に、耳を?」
「そう。……自分の心から逃げないこと。本当に自分が願う心の声に従うこと。そうすればきっと、越えられそうにない壁も乗り越えられるわ。貴方なら、大丈夫」
木漏れ日の様に柔らかく微笑まれる。
その奥に、何となく母の静かな想いが眠っている気がした。
だから、問うてみる。母の心の扉を、開いてみたかった。
「……母さんも。もしかして、後悔したことがあるの?」
口にすると、母は一瞬目を丸くして。
それから、「ええ」と悲し気に目を細めた。
「私もそうだけれど……。でもきっと、……私が救えなかった人の言葉が、何より胸に焼き付いているのよ」
「……救えなかった?」
「そう。……数日だけ同じ……場所で過ごしただけの人なのだけれど。……離れ離れになってしまう前に、懺悔の様に私に話してくれたのよ」
「懺悔……」
「たった数日だけだったのに、その人の想いを聞くととても苦しかったわ。……そして、思い出すたびに私は後悔しない道を生きると、強く前を向く力が湧いてくるの」
少しだけ、母の瞳に悲しみの陰りが落ちた。ふっと笑う目元は泣きそうだ。
それでも、母の瞳に宿る輝きは強い。それほどまでに強烈な思い出なのだろう。
父は、そんな母の肩を抱き寄せ、慰める様にぽんぽんと撫でていた。父は母のその思い出を知っているのだと確信する。
「その人が言うにはね。その人は、自分はずっとずっと弱い人だったのだって。……でも、昔はその弱さを認めたくなくて、当時傍にいた……『彼』、という人のせいにしていたそうよ」
「……、……彼?」
「そう。途中から、『あの子』という言い方に変わっていたけれど……最初は戒めの様に『彼』と。……彼だって、ずっと傷付いていたのに。それを心の奥底では認めていたのに、彼に酷いことを言ったり、八つ当たりで酷いことをしてしまったのですって」
「……」
「本当は分かっていたらしいの。彼は、なんにも悪くないって。……でも、どうしても現実を見たくなくて。彼が死んだ直後も必死に取り繕って、虚勢を張って、酷いことばかり言っていたのだけれど」
でも、その時気付かせてくれた人がいたらしいわ。
遠くを見ながら語る母は、果たしてその瞳に何を映し出しているのか。
分からないけれど、何故かケントの胸が不意に痛んだ。ぎゅっと、抱き締められる様な痛みを覚えて苦しくなる。
「彼のお友達という人がね、すっごく怒っていたのですって」
「……お友達……」
「そう。酷いことを言っていたその人のことを、怒っていた。……その人は、彼のお友達のことまで傷付けてしまったと。家に帰ってから、崩れ落ちる様に泣いたそうよ」
「……」
「その時に、その人は気付いたらしいわ。いえ、……ようやく向き合えたのね。自分がとてもとても弱かったということに。……本当に取り返しの付かないことをしてしまったっていうことに。……もう何を言っても、謝っても、許されないことをしてしまった。……傷付けた人は、既にいなかったから」
死んでしまった彼に詫びることは叶わない。
例え出会ったとしても、謝罪だけで
そう思い出語りをする母の口調は、なだらかだけれど底知れぬ悲しみを宿していた。まるで母を通して、その救えなかったという人の想いが強く迫ってくる様だ。
「だから、その人は決めたの。……もう、自分の心から逃げないって。絶対に諦めずに
「……」
「結局その人は、……無念のまま死んでしまったと。そう言っていたけれど」
「え? 死んだ?」
「ええ。……色々と勇気を振り絞って立ち向かって、彼のお友達という人を秘かに手伝おうとして……そのまま」
「え、……」
何だろう。何かが引っかかる。
そもそも、彼のお友達という人は、一体何をしようとしていたのだろうか。そして、母が語る『救えなかった人』はお友達の何を支援しようとしていたのか。
ざわざわと心の奥に波立つものが湧き上がったが、母の語りを邪魔したくはない。故に続きに耳を傾ける。
「……ねえ、母さん。その人は、前世の記憶を持っていたってこと?」
「そうよ。その人は前世で無念の内に死んだからこそ、……フュリーシアに逃げてきたと言っていたわ」
「え?」
何故、そこでフュリーシアに逃げるという話になったのだろうか。いまいち道順が辿れなくて、ケントは軽く混乱する。
「えっと。母さん? よく、分からないんだけど」
「……ごめんなさいね。私も、急ぐ様に聞いただけだから……。でも、その人はこうも言っていたわ。生まれ変わったのは、自分だけではない。あの人達まで、……このままじゃ、また、……と」
「また? あの人達? ……」
「もし、自分がこのままここにいたら、……もし、あの子までこの世界に生まれていたら、同じ結末を辿るかもしれない、と」
「……」
「……その後、少しだけ話をして、別れてしまうことになってしまったの。だから、詳しくは最後まで分からなかったわ」
「そう、……」
何だか、嫌な符号が重なる。母が、『救えなかった人』と会話をした状況も気になった。
だが、それ以上は恐らく聞き出せないだろう。母の口調は柔らかいが、眼差しは悲しみに満ちていた。言葉にした以上の出来事があったのだろう。
故に、ケントも口を閉ざす。母が語ろうとしていることを一欠片も逃すまいと、耳を傾けた。
「でもね、その人のおかげで、私も強く心に刻んだの。……私もその人みたいに、何があっても立ち向かうって。例え志半ばで力尽きたとしても、心に正直に、大切なものを守ろうって」
「……母さん」
「その人のおかげで、私も勇気を持てたわ。お父さんとまた同じ道を歩むことも決められた。……貴方に初めて出会って恐がられてしまった時もね、決めたのよ。私は絶対に貴方と親子になるんだって」
「――」
「貴方をめいっぱい抱き締めて、愛して、幸せにするんだってね」
こうやって、と母が両手いっぱいで抱き締めてくる。これでもか、と詰め込む様に母の愛情を一心に感じられた。
母は出会った時からそうだった。
ケントが恐る恐る伸ばした手を、父が力強く取ってくれて安心したのもつかの間。程なくして母のエリスを父が連れて来たのだ。
また、前世と同じ様に義母が出来る。
前世の義母は家族の中では一番マシだったし、唯一まともな感性の持ち主だったとは思う。普通に出会っていたなら、普通の関係が築かれていただろうことは、今のケントなら何となく想像はついていた。
だが、義母にどんな事情があれど罵声を浴びせられた事実に変わりはない。幼い頃から突き放されていたケントは、義母のことをどうしても好きにはなれなかった。
そんなトラウマだらけの『義母』という存在が、今生でも生まれる。
だから、今度は逃げることにしたのだ。父の背に隠れ、泣き
けれど。
〝ケント! お母さんと一緒に絵本を読みましょう! これはね、お母さんが小さい頃に作ったお話なのよー〟
〝今日はケントと一緒にお菓子を食べたくて、たくさんクッキーを作っちゃったの。セバスチャン、部屋の中央に置いてくれるかしら?〟
〝今日はケントと同じ部屋で寝たくて、枕とシーツを持ってきたわ。お父さんを真ん中に挟んで、一緒に寝ましょう!〟
母はケントの全力以上に全身全霊で追いかけてきた。
最初はその執念が恐かったが、母は強引にはケントとの距離を詰めてはこなかった。
いつだって、一定の距離を保っていた。同じ部屋にいる時は、必ず対角線上の隅っこ同士にお座りをして語りかけてきた。
ケントは何の反応も返さず、警戒心を
笑いながら、「おいでー、おいでー」と。両手を広げて、飛び込んでくるのを待ってくれていた。
母は、強い人だ。今のケントにとって、これほどまでに愛情深い大切な家族は他にいない。
もし、母が究極的には前世の義母であったとしても、今のケントなら笑って受け入れるだろう。
それくらい、今の母はケントに優しくて温かな想いを注ぎ続けてくれている。
故に、ケントは母を『義母』とは呼ばない。
血の繋がりがなくても、ケントにとって母は血が繋がっているのと等しい存在だ。
「……僕も。……母さんや、……その人みたいになれるかな?」
自分の心から逃げずに、受け入れて、向き合うこと。
ケントには向き合わなければならない罪が多すぎる。そのせいで、カイリを傷付けることも多々あるだろう。
だが、母は力強く肯定してくれた。
「なれるわ。だって、お母さんの子供だもの」
「――」
「お母さんや、その人みたいになるのが正しいかどうかは分からないけれど。でも、どんなに
「……、うん」
「それに、カイリさんも。……貴方が勇気を出せば、きっと。全て受け入れてくれるって、お母さんは思うの」
だから、大丈夫。
ひらひらと舞う様に、母の優しい言の葉がケントの元へと降り注ぐ。
母は、どこまで知っているのだろうか。父は本当に全部話したのかと恨めしくなる。
だが、母の言葉に織り込まれた心は、ケントを奮い立たせるには充分だった。
ケントは、本当に一人ではない。
今までも思ってはいたけれど、こんなにも実感出来たのは生まれて初めてかもしれなかった。
「……母さん、……大好き」
「あら! ……ふふっ。お母さんもケントが大好きよ!」
「むー。父さんも混ぜておくれ。
「あー、僕もー!」
「私もです!」
ぎゅぎゅーっとみんなで抱き合い、笑い合う。
そんなささやかだけれど、咲き乱れる幸せに包まれ、ケントはようやく肩の力を抜いたのだった。
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