第172話


 路地裏から響き渡った騒音に、カイリははっと顔を上げる。

 ケントも嫌そうに眉をひそめ、路地裏に視線を移した。

 方角は、たった今カイリが話していたメモリーズというパン屋がある場所だ。

 まさか、とカイリが青ざめて走ろうとすると、ケントが手を前に出して制止する。


「一応人通りが多いところだけど。念のため、僕が先行するよ」

「っ、ああ。分かった」


 カイリとケントとでは、ケントが先陣を切った方が何倍も頼りになる。カイリでは咄嗟とっさのアクシデントに対応出来ない可能性が高い。

 言われた通りにすると、ケントは滑る様に道を走った。足音すら立たない洗練された足運びに、カイリは緊急事態ながらも感嘆してしまう。


 ――いつか、ケントと手合わせしてみたいな。


 まだまだ全く歯が立たないだろうが、学ぶことは多そうだ。今度折を見て頼んでみようと密かに脳内メモに記す。

 あっという間に音の根源地に着くと、その先には複数の真っ黒な制服に身を包んだ者達がパン屋を外側から囲んでいた。黒い制服は言わずもがな、教会騎士を意味するものだ。


「――っ」


 慌ててパン屋を見ると、ガラスなどは壊されていないが、周辺の壁が醜く歪んだ文字で埋め尽くされていた。

 でかでかと目が痛くなるほどに真っ黒な文字や、目を背けたくなるほどに真っ赤に光っていたりと、見るだけで毒々しい。正直書かれている文字は頭で理解するのを拒否したい言葉ばかりで、カイリは吐き気と共に目を逸らす。



「おらー! パン屋なんて平凡な店、さっさとたたんじまえよ!」

「ほんとほんと。だいたい、パン屋のくせになあ。こんなどんくさい所から、何で騎士を目指す分不相応な奴が現れるんだ? ったく、どんな教育してるんだあ?」

「おら、出て来て謝れよ! 俺達みたいな貴族騎士様と並んでごめんなさい、ってな! 土下座しろ!」



 げらげらと下品な笑い方で野次を飛ばす騎士達に、カイリは怒りを通り越して無になった。こんな品の無い、しかも自分達こそ騎士の身分をおとしめる様な振る舞いに、カイリは心の底から同じ人間だと思いたくなかった。

 横でケントが「第一位じゃなくて良かった」と心底ほっとした様な顔をしているのが印象的だ。彼も同じ人種だと肯定したくないらしい。


「お、お客様、困ります! 他のお客様にご迷惑が……」

「ああ? 俺達騎士様の言うことが聞けないっていうのかよ!」

「っ、それは……」


 店から店員である女性が出てきて懸命に対応している。続けてパンを作っているはずの男性も外に姿を現し、カイリは見覚えのある顔に喉が詰まった。

 以前カイリと話をした女性と、奥でちらりと顔を見せてくれた男性だ。確か夫婦だと言っていた。


 本当ならすぐにでも逃げ出したい場面だろうに、客のために、店を守るために必死で体を張る彼らは、とても強い。


 因縁を付けている騎士達よりもよほど誇り高き人間だ。

 店の中には前に見た親子が抱き合っていたり、少し怯えた表情をする人達などもいて、見ていられない。

 カイリがすぐに動こうとすると、ケントが無言で手を前に出す。

 何故止めるのかと問おうとして――取りやめた。彼の横顔は恐ろしいまでに無表情一辺倒で、カイリの背筋が一気に凍り付く。


「申し訳ございません。ですが、他のお客様が怯えておられます。どうか、ここは」

「うっせえんだよ! その指へし折られてえか⁉」

「パン焼けなくすっぞ!」


 がっと、頭を下げていた男性の指を思いきり騎士の一人が掴み上げる。

 それを見て、「止めて下さい!」と女性が騎士の手を振り払う様に前に出た。


「パンが焼けなくなったら、店が立ち行かなくなります! それに、楽しみにして下さっているお客様にも」

「お客様お客様うるせえんだよ!」

「騎士様に逆らいやがって、この女……!」


 ぶんっと手を上げる騎士を見て、カイリが走り出すと同時に。



「はい、そこまで」



 ケントが、いつの間にか彼らの間に割って入っていた。女性に触れる寸前で、軽く騎士の手をひねり上げる。



「い、い、てててええええええええええっ‼」

「おい! 何す、……いいっ⁉ ひっ⁉」

「暴力振るったね。一般人に。現行犯で逮捕するよ」

「け、け、……ケント、様……!」



 ひっと、ケントの顔を見上げて騎士達が大きく震え上がった。手を捻られた者はあからさまに青ざめ、がくりと足が崩れ落ちる。

 他の騎士達は完全に敗北を悟ったのか、捕まった騎士を見捨てて逃げようとした。カイリがいる路地の出口へと向かってくる有様に、ふつふつと怒りが込み上げてくる。


 逃がすわけがない。


 先程の熱せられた頭が、不思議なほどにすうっと冷え切っていく。その冷たさのまま、カイリは行く手をしっかり阻んだ。


「――何処どこに行くんだ?」

「――っ! どけ! 邪魔だ!」

「……って、馬鹿! そ、その人……!」


 立ち塞がったカイリに対し、錯乱した騎士の一人が躍りかかってくる。別の騎士がカイリを認識した様だがもう遅い。

 カイリは木刀を素早く抜き放ち、殴りかかってきた騎士の右腕をすぱんっと振り上げた。面白いほど宙に躍り上がる右腕を放置し、カイリは少しだけ斜め下に回り込んで腰を落とし――。



 一気に、相手の足元を木刀で綺麗にすくい上げた。



 途端、ぎゃっと悲鳴を上げながら騎士は地面に転がる。どたん、と派手な音がして尻を押さえていた。

 最近の訓練で、「あからさまな攻撃じゃなくて、ただすくい上げるならどうだ」とフランツやレインに教えてもらった方法だ。足払いよりも動きは大きくなってしまうが、相手の行動を封じる抜け道があるのなら、カイリは一つでも多く吸収しておきたい。

 あくまで緊急用なので実戦では初めて使ったが、何とか上手くいった様だ。

 他の騎士達も怯えた様に後ずさり、それ以上は襲ってこない。「か、カイリ様だ……」「まずい……」とこの世の終わりを見たかの様な顔をしているが、知ったことではない。


「カイリ! 凄い! カッコ良かったよ!」


 捻り上げた騎士を片手で封じたまま、ケントがぶんぶんと右手を振りまくってハートを飛ばしてくる。他にも音符や星も飛び交いまくっている幻覚が見えた。彼の声援はいつでも賑やかである。


「足払いなんていつ覚えたの?」

「ルナリアから帰ってきてから。俺も少しは手段を増やした方が良いって」

「確かに。……防御特化に専念しながら、ふとした瞬間に攻撃繰り出されたら、相手は相当恐怖だろうね」


 にっこりと、ケントが真っ黒に微笑む。目を細める姿は、まるでその転がった相手を見下す光景を想像しているかの様に不穏だ。震えながら尻餅を突いていた騎士達が、更に怯えて壁にすがる。

 ケント、とカイリが呆れて背中を叩くと、仕方なさそうに唇をとがらせて騎士達に向き直った。


「何で逃げるのかな。逃げても無駄だって分かってるよね?」

「ひ……っ」

「君達の顔も名前も所属も知ってるし。第九位だよね。あ、何の研究をしているかまでは知らないけど、ろくなことにならないから移籍させるね。ああ、もちろん監視付きだよ。猶予ゆうよは付けるけど、次同じことあったら懲戒免職だから」

「え……っ!」

「そ、それだけは……!」

「――口答えする気?」


 興味無さげな視線を、ケントは彼らに向ける。

 たったそれだけだ。ケントは見るという行為を向けただけだ。

 それなのに冷え切った眼差しは、彼らを一刀両断にするかの如く真っ直ぐに風を切った。鋭い切れ味の覇気を飛ばされ、彼らは息も絶え絶えに泡を吹く。

 がくがくと足を震わせて、もはや生ける屍となった彼らを、ケントは更に無感動に見つめて路地裏の出口へと顔を向けた。


「あ、ちょうど良いや。そこの騎士!」

「は、はい!」

「こいつら、連行しといてくれる? 独房にまとめて入れといて。後で適当に尋問するから」

「はっ! かしこまりました!」


 びしっと敬礼して、巡回していたらしき騎士達がてきぱきと手馴れた様子で暴力を働いた者達を連行していった。

 すれ違いざまに「お疲れ様です、カイリ様!」と敬礼してきたので、「お疲れ様です」と同じく敬礼しておく。――何故か感激した様にむせび泣き始めたが、理由は考えない様にした。ろくなことにならなさそうである。

 しかし、第九位と言えば、前にフランツから簡単に研究機関だと教えられた騎士団だ。植物や歴史など様々な分野を研究しているそうで、頭の良い人達なのだなとぼんやりとしか認識していなかった。

 そんな彼らが、ここまで下劣な横暴を働いていたのか。同じ騎士として以前に、人として最低だ。心の底から軽蔑した。


「……あの、大丈夫ですか?」


 騎士達を見送ってから、カイリはへたり込んでいた夫婦に歩み寄る。

 手を差し出すと、女性の方が「あ、あの時の」と目を大きく見開いて手を取ってくれた。


「あ、ありがとうございます。えっと、確かカイリさん、でしたよね」

「はい。ここのパン屋の一ファンです」

「……ふふっ。ありがとうございます」


 ほがらかに答えれば、女性もようやく強張った表情を溶かした。隣で見守っていた男性も少しだけ相好を崩す。


「ありがとうございます。……あの時、オレの作ったパンを、美味しそうに味見してくれて」

「え! あ、いや。本当に美味しかったです。あのパン、団のみんなにも評判良かったんですよ! だから、お土産買って帰ろうと思ったのと、ケント……俺の友人も連れて来たいと思って」

「えっと……」

「僕がケントです。初めまして、カイリの大親友です」


 にこにことこれ以上ないくらいの満面の笑みでケントが請け負う。大親友にいつの間にか昇格していたが、まあ良いかとカイリは軽く流した。悪い気はしない。


「ケント……と言いますと、もしかして第一位の団長さんでは?」

「あー、ええ。でも、まあ今はカイリと気楽な休み時間ですから」

「そんな大それた方に助けて頂くなんて……本当にありがとうございます。カイリさんも団長さんも凄くお強いんですね」

「当然です。カイリは僕の大親友ですから。あれくらい秒殺ですよ」


 盛り過ぎだ。


 物凄い勢いで振り向いて抗議すると、ケントは涼しい顔をして背中で腕を組む。ふふん、と得意気に鼻を高くしている様子に、カイリは唇を引き結んだ。


「すみません。俺、そんなに強くないんです」

「え、でも、あのすぱーんって足を払ったのカッコ良かったですよ? ねえ、あなた?」

「ああ。……凄かったです」

「え! いや、あれは、たまたま相手が弱かっただけで……」

「カイリ、謙遜し過ぎ。……まあ、確かにあれは弱かったけど」

「だよな! あー、もう! お前は褒めるかけなすかどっちかにしろよ!」

「酷いよ! 僕はいつだって正しい意見を言うだけだよ!」


 にっこにっことひどく晴れやかに満面の笑みを見せるケントに、カイリはばしんと背中を叩いた。あいた、と痛そうに悲鳴を上げるケントは、しかしどことなく嬉しそうだ。マゾでないことだけを祈る。


「ふふ。お二人はとても仲が良いんですね」

「当然です。僕とカイリは大親友ですからね。天地が引っ繰り返っても更なる絆で結ばれるだけです」

「あー、あー、ケントの言うことはともかく。……大切な自慢の友人です」

「カイリ……!」

「そうですか。じゃあ、お二人にはとっておきのパンを差し上げなければなりませんね!」

「え? とっておきですか?」


 そんなパンがあるとは知らなかった。ぱたぱたと女性が店内に走り去っていく姿に、男性も「なるほど」としたり顔で頷く。

 一体何だろうとケントと顔を見合わせていると、女性がすぐさま店から出てきた。何やら大きな袋を抱えているが、その長さは女性の身長の半分くらいはある。

 本当に何だ、とカイリが見上げると。



「これです! 二人は世界の果てまでいつまでも! お前と共に駆け抜ける! パン! です!」



 ネーミングセンスが屋台街だな。



 どばーん、と大きなハートマークをいっぱいに描いたパンが袋から姿を現した。

 見上げるほどに大きなピンク色のそれは、甘い香りを漂わせていた。ふわんふわんと柔らかな食感を見るだけでも連想させてくる。

 匂いもなかなか甘いのに香ばしい。既にこの店のパンを食べているカイリとしては、食欲を刺激される魔の香りだった。

 しかし。


「……あの。これ、可愛らしい感じのハートに見えるんですけど」

「はい! そうです!」

「これ、恋人とか夫婦用では?」

「はい! そうです!」


 否定しろよ。


 思わず心の中でツッコミを飛ばすと、女性が慌てて付け足した。


「あ、でも! これ、大親友用でも使うんですよ! 可愛いねーって女性のお客様とかには割と好評で」


 いや。俺達、男性だから。


「一緒にどこから食べようってわいわい話しながら、話題の提供にも困らない! 同じパンを食べることで、自然と二人の空気を、より親密にさせるキューピッド! もどかしい一歩さえもぶち壊し、これで結婚まっしぐら! って評判のサプライズパンなんですよ! ですから、お二人の親密度も更にアップします! どうです⁉」


 そんな親密度はいらない。


 カイリの心の声にはまるで気付かず、女性が熱く力説してくる。彼女はカイリとケントがただの男性の親友だということを理解しているだろうか。

 しかし、隣の夫も何故かしたり顔で頷いている。妻の暴走を止めろ、と念を恨みがましく送ってしまった。


「へー。親密度アップかあ。じゃあ、もらおうかな!」

「おい、ケント」

「良いじゃない。美味しいんでしょ? せっかくだし、歩きながら食べようよ」

「……。まあ、確かに美味そうだけど」

「それに、別に照れるほどでもなくない? 僕達が仲良いのなんて周知の事実だし」

「……そうだな」

「僕としては、これで噂になってお見合いが激減してくれれば大歓迎だね!」

「……お前はいつでもどこでもタダでは転ばないよな」

「えー! 褒めても何も出ないよ!」

「褒めてない」


 なかなかに計算高い理由に、カイリは呆れながらも感心した。ケントはどんな時でも利益を忘れない。

 噂になったら、フランツ達からまたデートだのとからかわれそうだが、パンに罪は無いだろう。


「……えっと。ケントもこう言っているので、ありがたく頂戴します」

「はい! あ、お代は結構ですので! 助けて下さったお礼です!」

「あ、ああ、はい」


 むしろお金を払いたくなくなるのは何故だろうか。やはり周囲にでかでかとアピールしまくるこのハート形のせいか。

 ケントが上機嫌で受け取っているのを眺めながら、カイリはそうだ、と気になっていたことを尋ねることにした。


「あの。不躾ぶしつけで申し訳ないんですけど、聞きたいことがありまして」

「あ、はい。何でしょう」

「その、前に息子さんが教会騎士だと言っていましたよね? ……お名前とか聞いても良いですか?」

「――」


 一瞬。

 本当に一瞬だが、夫婦の表情が凍り付いた。

 いや、凍り付いたというよりは、苦しそうに固まったと言うべきか。今までの笑顔が嘘の様に落ちていく光景に、まずい質問だったと悟る。


「……すみません。その、嫌がらせを受けていると聞いたので。さりげなく様子を見れたらと思ったのですが」

「ああ、いえ。……申し訳ありません。息子からは、ほぼ縁を切られている状態で。名前も絶対誰にも言うなって言われているんです」

「え……」


 初耳だ。

 元々カイリとは初対面に近いのだから、彼らが家庭の事情を深く話すことなどあるわけがない。

 それでも話してくれたのは、今の暴行を助けたからだろうか。相手の弱みに付け込んだ様な気分になって後味が悪くなる。


「……すみません。そこまで込み入った話になっているとは知らず」

「いえ。……三年前に騎士になったばかりの頃は、まだ家にも帰っては来ていたんですけど。でも、割とすぐに連絡がほとんど途絶える様になってしまって。十代の頃から反抗的ではあったんですが、……更にひねくれてしまったというか、常にいらついている感じになってしまって」

「……」

「少し気になる先輩達がいるって最初は話していたんですけど。……今振り返ると、それを話す時も時々苦しそうだったんですよね。……親なんだから、もう少し早く思い詰めていたことがあったんじゃないかって気付ければ良かったんですけど、……」


 だんだんと視線と一緒に頭が下がっていく女性に、カイリも何と声をかけて良いか分からない。

 横にいるケントを一瞥いちべつすると、彼は全くの無だ。その真っ平らな視線には特にどんな感情や評価も抱いていない。

 それらを感じ取り、カイリは彼が黙っている理由を正しく理解した。彼は他人に興味は無いが、理由もなくくだらないいさかいは起こさない。


「私達のパンも、昔は美味しいって。よく笑顔で食べてくれたんですけど。反抗期になってからはほとんど食べなくなって、……騎士になって少ししてからは、本当に時たま帰って来ても、イライラしてばっかりで」

「……暴力とかは、振るわないんですがね。……オレのパンは、見たくもない、と」

「……っ」


 それは、言葉の暴力だ。


 男性の言葉には痛みが悲しいほどに入り混じっている。聞くだけでカイリの胸が潰されそうなのだ。男性の胸の内は想像を絶するものだろう。

 前に、彼女達が言っていた。パン屋の息子だから馬鹿にされる、と。

 ずっとそういう言葉を聞かされてきて、息子は打ちのめされて嫌な方向に突っ走っているのだろうか。出口の見えない闇の中、必死にあらぬ方向へ走り続けている様な想像さえしてしまう。


「いつか、立派な騎士になると言っていました。……だから、私達はもうそれを信じるだけです」

「……、はい」

「カイリさん。もし、……もし、……私達の息子に、奇跡的にでも出会うことがこの先ありましたら。……教えることは出来ませんし、分からないとは思いますが。……それでも、もし私達の息子だと分かった時は……見守るだけで良いんです。……そんな奇跡の様な巡り合わせが来ることだけは、願わせて下さい」


 お願いします、と女性が頭を深々と下げる。男性も続いて正確に頭を直角に下げた。


 名前も分からない。どの団に所属しているかも知らない。


 それでも、もしかしたら何処かで出会うことがあるのだろうか。第十三位は敬遠されているから近付くことがあるかは分からないが、もし邂逅かいこうする日が来たならば一言二言でも話せれば良いと思う。

 ただ、相手がどんな性格か分からない以上、カイリが彼に対してどんな心情を抱くかも分からない。見守ることも苦痛な人物かもしれないため、確約は難しかった。


「……あの。顔を上げて下さい」

「……」

「約束は出来ません。俺は、その息子さんと致命的に反りが合わない可能性もあります。俺がどんな感情を抱くかも分からない以上、仲良くどころか見守ることも出来ないかもしれません」

「……、……はい」

「ただ」


 伝えたいことは、伝えよう。

 今の夫婦の話を耳にして、これだけは心に誓った。



「貴方の父親のパンは、世界に誇れるくらい美味しいです」

「――――――――」

「それだけは、絶対に伝えたい。そう思います」



 頑なな心に全く響かなかったとしても。分厚い壁に跳ね返されても。

 父親のパンを恥じることは絶対にない。それだけは、決して否定してはいけないとカイリは感じた。

 当然感じ方は人それぞれだ。素直に受け入れられるとも思えない。

 ただ、騎士の中にはそういう風に思っている人が一人でもいるのだと、ただ伝えられたら良い。全員が店に暴力を働く様な騎士達ばかりではないのだと、一石を投じられればとだけ願う。

 カイリの言葉を目を丸くして聞き入っていた夫婦は、次第に瞳を潤ませて。



「……それだけで、救われます」



 ありがとうございます、と。もう一度深く頭を下げてきた。

 しかし。



「……。……難しいと思うけどね」



 ケントが、ぽつりと。本当にぽつりと。

 彼らに聞こえない様にささやいた声が、カイリの耳にいつまでも貼り付いて取れなかった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る