第80話


「お前。一から、わしに学べ」

「――っ!」



 ぐいっと、カイリは教皇にあごを掴まれ、強引に上向かせられる。

 一瞬で教皇の顔が間近に迫り、カイリは息を詰まらせながら軽く錯乱した。身を引こうとしたが、彼に顎を更に強く掴まれて押し止められる。


 教皇の顔は、ヴェールで全体が仕切られていた。


 故にどんな顔をしているのか、表情はどうなっているのかまでは詳しく見えない。

 それなのに、ヴェール越しの瞳だけがぎらぎらと野獣の様にぎらついていて、カイリを内側から鷲掴わしづかみにする様に身動きが取れなくなった。

 カイリの瞳が、嫌でも恐怖に染まる。屈したくないのに震えそうになって、必死に膝をつく足に力を入れる。

 だが、その抵抗すら加虐心をあおるのか、教皇がヴェールの奥で薄く笑った様に見えた。益々顎を上向けさせられ、喉が痛くなる。


「第十三位、お前を、たぶらかした」

「……っ、そ、れは。ちが」

「誑かした」

「いっ、……っ!」


 反論は許さないと、手だけで怒鳴り付けられる。顎の骨が軋んで悲鳴を上げ、カイリの吐息が悲鳴と絶望に染まった。


 わしに学べ。


 つまり、彼はカイリに第十三位を抜けろと実質命令しているのだ。教皇の元に毎日跪ひざまずけと。

 このままでは。



 ――フランツさん達と、引き離される。



 思い至って、瞳から光が消えるのが自分で分かる。

 嫌だ、と頭を振ろうとしたのに出来ない。この細い老人の手のどこにそんな力があるのかと疑いたくなるほど、顎を固定されて苦しくなった。


「げい、か」

「聖歌、歌え。しきたり、わしの元で学べ」

「……っ、お、れは」

「返事」

「――っ!」


 顎を引っ張られる様に限界まで上向かされて、カイリは堪らずうめいた。

 嫌だ、と喉元まで出かけて押し止める。


 もし、ここで嫌だと言えばどうなるのだろうか。


 カイリはもちろんだが、フランツ達も無事では済まない気がする。

 ならば、肯定して後から抜け出したらと考えて、今まで脱出に成功した人間がいるのだろうかと考えてしまう。教皇の周囲は厳重な警戒が敷かれているだろう。カイリ一人をねじ伏せるくらい訳が無いはずだ。

 どうしよう、と焦る間にも教皇のもう一方の手がカイリに伸びる。まるで抱き込む様な動きに、カイリが反射的に抵抗しようとしたその時。



「――教皇猊下げいか。僕に発言させて下さい」

「――――――――」



 杜撰ずさんな物言いと共に、カイリの体が勢い良く後ろに引っ張られる。教皇の手も、あっという間に遠ざかった。

 そのままぎゅうっと背後から抱き締められた腕に、カイリは目をみはった。どくり、どくりと恐怖と緊張と驚愕で心臓が大きく脈打つ。

 そんな恐怖を見透かしたのか、よしよしと手が撫でる様に腕を叩いてくる。


 その温かさは、声は、カイリがよく知る友人のものだ。顔が見えなくても間違うはずがない。


 認識した途端、がくっと大きく一度右足だけが震えた。


「……ケント。何する」

「ケント殿っ! 無礼な! 今、猊下はカイリ殿とお話をされて」

「だから発言の許可を求めたじゃないですか。良いですよね、猊下?」


 傍で控えていた司祭らしき人物が怒鳴るも、ケントは飄々ひょうひょうと聞く耳を持たない。益々カイリを抱く腕に力を込めて、挑発的に首を傾げた。

 にっこりとケントが微笑んだのが、気配だけで分かる。

 そのいつも通りの声に、カイリは力が抜ける様に泣きたくなった。嫌でも右手だけですがり、回された彼の腕を掴む。みっともなく小刻みに震えてしまって、情けなさで死にそうだ。

 しかし、ケントはそんなカイリを責めずに軽く手を叩き返してくれた。大丈夫だと、安心させる様な叩き方にまた泣きたくなる。


「猊下?」


 問いかけるケントの口調は軽やかではあるが、声には妙な威圧感が発揮されていた。

 長い沈黙の後、教皇は少しだけ躊躇う素振りを見せてから深く息を吐く。


「……許す」

「どうもありがとうございます。では、早速。……カイリを第十三位に入団させるのを許可したのは、僕です。初日に、僕がそうすべきだと判断しました。前に、お話しましたよね?」


 ケントの告白に、教皇の仕草が止まる。傍にいた司祭は今にも憤死しそうな顔でケントを睨みつけていた。

 思案する様に微動だにしなかった教皇は、短く呻く様に疑問を投げる。


「……何故」

「だって、最初っから第一位に入れたら、万が一驕おごり高ぶって実力以上の傲慢人間になったら困るじゃないですか。第一位はエリート集団です。彼はまだ武芸は素人同然ですし、聖歌だってきちんと制御出来るわけじゃない。ぶっちゃけ、僕の率いる団にそういう足を引っ張る人がいたら面倒です」

「……なら、他の騎士団に」

「無理です、無理無理。教会のこと何にも分かっていないど素人ですよ? 他の騎士団だと、不調法過ぎて教える前に音を上げますよ。聖歌騎士が高確率で第一位に来るのは、第一位が一番規則にうるさくてプライド高くて何としてでも恥をかかせるなというそれだけの根性で、規律だけは真っ先に叩き込む輩ばかりだからです」

「……」

「でも僕、最初っから色々知っている人の方が楽だし、何よりそこで手間なんて取られたくないですし。だから、第十三位は一番暇だから良いかなーって。任せました」


 辛辣しんらつだ。

 しかし、カイリに関してはその通りなので黙っていると、続きがあった。



「それに。せっかく友人関係になれたのに、あっという間に上下関係が出来上がっちゃうじゃないですか。うわー、考えただけで嫌です。落ち込みます」



 ――本音が出たな。



 ケントの膨れた物言いに、カイリの目が半眼になる。どんな時でもケントはケントだ。


「せっかく出来たなのに。『ケント様』『団長』『それはいけません』『もっと団長としての自覚を』とか! 急に敬語や敬称使われて挙句の果てに説教までされてみて下さいよ。いつでもどこでも一線引いて他人行儀とか! もう友人じゃないですよね。ただの上司と部下ですよね。そんなの、さみしくてストレス溜まり過ぎて死んじゃいますよ。カイリは僕の大事な大事な友人なのに、それを取り上げられるなんて。猊下でも許せませんね」


 ねえ、とケントが可愛らしく小首を傾げる。「初めて」の「友人」を強調しながらカイリに同意を求める様に聞いてきたので、慌てて頷いておいた。

 本当は声も出したかったのだが、先程の教皇からの威圧感で喉がやられている。

 思わず喉に手をやると、ケントの気配が物騒にとがった。ぎくりとカイリの体が強張ったが、我関せずといった風にケントの目が据わっていくのを肌で感じる。


「……。……ねえ、猊下。僕の初めての友人、取る気ですか?」

「……」

「聖歌隊に入れたり、ましてや貴方の手元に置かれたら、『僕が』気軽にカイリに会えなくなるじゃないですか。冗談じゃありませんよ」

「……、ケント」

「仕方がないので、教会のしきたり云々は、僕が一から手取り足取り教えます。第十三位が不安だって言うなら、これで構いませんよね?」

「……」

「ねえ、猊下。お答え下さいませんか? ――いつも頑張っている健気な僕に、少しくらいご褒美を下さい」


 下から物を言っているはずなのに、何故だろうか。

 今カイリの目には、ケントの方が上から見下ろしている様な景色に映った。教皇の背が縮んだ様に見え、圧せられている錯覚に陥る。

 教皇はしばらく黙り込んでいたが、やがて深い深い溜息と共に目を閉じた。



「――許す」



 短く、けれど何より重みのある言葉だった。

 これに慌てたのは、教皇の傍に控えていた司祭の方だ。目を吊り上げて、ケントを睨みつけた後に教皇を見上げる。


「……げ、猊下!? 本気ですか!」

「……ケント。これまでの功績、無視出来ない。故に、褒美」

「し、しかし!」

「それに、試しただけ。……冗談」


 教皇が冷たく切り捨てる。

 冗談。試す。


 つまり、カイリを手元に置くということ自体が嘘だった。そういう体裁だろう。


 どこまで本音か分からないが、間違いなくカイリは目を付けられていた。それが分かっただけでも収穫だ。

 足が震えそうになるのを全力で堪えていると、ケントの腕が更に強く抱き締めてきた。とことん見透かされているなと、益々泣きたくなる。


「わあ、ありがとうございます! さっすが猊下。懐が広い。……流石は、教会に君臨される大器をお持ちの方です」

「うむ。……ケント、この後、茶に付き合え」

「……はいはい。元よりそのつもりでしたよ。テラスに行きましょうか」


 面倒くさそうに溜息を吐いて、ケントはカイリと共に立ち上がる。

 教皇はさっさと祈りの間を出て行ってしまった。その際、司祭が振り返り、ケントを強く睨んで去って行く。

 カイリは呆然とそれを見届けたが、続いて離れていくケントの後ろ姿を見た途端。


「――っ」


 咄嗟に、彼の腕を掴んだ。無意識に、彼を引き止める。

 彼は軽く目を開いて振り返ってきたが、すぐにふにゃっと締まりのない笑みを浮かべてきた。ぽんぽんとカイリの頭を叩いて、なだめてくる。


「カイリ。これからも第十三位にいられるよ。良かったね」

「……っ、でも、ケント」

「本当にただお茶をするだけだよ。みんなの目にさらされた状態で、地上のテラスでお茶だから。……大丈夫」


 もう一度、ぽんっと頭を撫でてケントがひらりときびすを返した。颯爽さっそうとした足取りは軽く、満足気な背中に何も言えずに見送ってしまう。

 ざわざわと、周囲の騒音が鬱陶うっとうしい。雑音が不快で、思わずカイリがふらりと一歩追いかけようと踏み出すと。



「――カイリ!!」

「――」



 だんっと、真横にフランツが勢い良く着地してきた。シュリア達も追いかける様に現れて、カイリは再び心臓が跳ねる。

 だが、すぐに自分を案じてくれている存在だと気付いて力が抜けた。倒れそうになるのを、フランツが腕を使って受け止めてくれる。


「カイリ、平気か。怪我は」

「……、大丈夫です。ケントが助けてくれました」

「……っ、……そうだな。ケント殿には、大きな借りを作ってしまった」


 フランツが疲れた様にカイリの肩を抱き寄せた。本当に心の底から安堵したと言われている様で、堪えていたものが溢れ出しそうになる。

 彼らが、傍にいる。それだけでこんなにも心強いのだと改めて知った。



「やあ、カイリ君。災難だったね」



 戻ってきた平穏を噛み締めていると、クリスが苦笑しながら声をかけてくる。

 カイリはフランツから離れて顔を上げた。クリスの顔に苦味が広がっているあたり、やきもきしていたのかもしれない。


「でも、カイリ君は良い判断をしたよ。ひたすら己を低くしていただろう? あれは、教皇の気分を良くする言葉選びだ」

「……、そうなんですか」

「うん。でもまあ、少し効果があり過ぎたね。君のことは警戒していたはずだけど、手元に置きたがるなんて。……分からなくもないけどね」


 最後のクリスの言葉は、小さすぎて聞き取れなかった。

 カイリが疑問符を浮かべても、しかしクリスは笑顔で「何でもないよ」と濁すだけだ。こういう部分はケントとそっくりである。


「ちょっと注目浴び過ぎているから、外に出ようか。フランツ君達も、どう? この後お茶でも」

「……、はい」

「そうですな。では」


 フランツも先導して、さっさとカイリを連れて祈りの間を出ようとする。周囲から刺さる様な不躾ぶしつけな視線が苦しかったが、カイリも努めて平静を装う。

 だが。


「カイリ・ヴェルリオーゼ君」


 背後から、声をかけられた。足を止めざるを得なくて、カイリは渋々立ち止まる。

 フランツに支えられたまま振り向けば、そこには指揮隊長が佇んでいた。他の聖歌隊よりも立派な意匠いしょうをあしらったローブで、一目で格が高い人だと見て取れる。

 両目を閉じた状態のまま、指揮隊長はじっとカイリを見つめていた。目を閉じたままなのに凝視されている様な感覚に、カイリは一気に警戒心を高める。

 黙っていたのは数秒。

 指揮隊長は、目を伏せる様に顔をうつむかせる。



「――可哀相に」

「――」



 投げられたのは、予想していたどの言葉とも違った。

 全くの予想外の感想に、カイリは困惑して目を瞬かせる。フランツ達も怪訝けげんそうに指揮隊長を凝視していた。

 しかし、カイリ達の視線の束など意にも介さず、彼は目を閉じたままくすりと笑う。


「いえ。……私は目が見えないのですよ。ですから、他の感覚が鋭くなりましてね。特に、聴覚や触覚は過敏になっているのです」


 目が見えない。

 その事実に驚いたが、同時に納得もする。彼が今も目を閉じているのは、焦点が合わない瞳を他者に見せないためだろう。

 しかし、触覚や聴覚が過敏ということは、それだけ遠くの音も聞き取れ、空気の変化も肌で感じやすいということだ。これほど厄介な能力は無い。

 だから、だろうか。



「カイリ君は、最近悲しいことがおありだった様ですね」

「――っ」



 降りかかった宣告に、カイリの心臓が嫌な風に跳ねる。

 その途端、指揮隊長の表情がわずかにほころんだ。的中したとほくそ笑む様な変化の仕方に、カイリはぐっと胸を掴んでざわつく心臓を鎮める。


「確かに、猊下の仰る通り健気な方だ。……そして、同時に愚かでもある」

「……、別に健気では無いと思います」

かばいますか。それとも、取りつくろいますか?」


 言われた意味が、いまいちよく掴めなくてカイリは首を傾げた。何を庇い、何を取り繕うのか。悲しみがあった事実を隠すのか、という意図だろうか。

 だが、次に彼から放たれた一言は、カイリが予測したものとはどれも違った。



「第十三位に、悲嘆に暮れた隙を付け込まれたことは、とても愚かで堕すべきことです」

「――――――――」



 瞬間、カイリの頭からすっと熱が引いていった。今までの恐怖も悲憤ひふんも、全てが遠くの出来事の様に押し流されていく。

 またか。彼もなのか。

 誰も彼もが第十三位を遠ざける。悪く言う。彼らの存在を、邪険に扱う。

 存在させているくせに、彼らを無いもの様に扱いたがる者達。

 そんな彼に――彼らに、無性に腹が立って仕方が無かった。



「俺は」

「やはり庇いますか。……今抱える悲しみは、身近な裏切りが潜んでいたが故のことだったでしょうに」

「――」



〝エリックさんに聞いたの。歌が歌えるって〟



 不意に、近くであの狂信者の声が叩き付ける様に鼓膜を打つ。

 裏切りが、悲しみを呼んだ。

 村が滅んだ理由。そもそも目を付けられた原因。

 両親が、友人が、村のみんなが無残に殺された元凶。

 それは。



〝……なるほど。のぼせたか〟


〝ええ。まあ、十中八九そうでしょうね。狂信者に上手くおだてられたのでしょう。良いカモですわ〟



 ――それは。



「――っ、……俺、は」



 裏切りがあった。結果、村が滅んだ。

 どす黒い感情が、今でも底に眠っている。

 それは認めよう。悲しみが未だに己を取り巻いているのも事実だ。

 けれど。


「……俺は、庇ってもいないし、取り繕ってもいません」


 断言して、カイリは真っ直ぐ前を見る。拳を握り締め、挑む様に指揮隊長を見据えた。

 彼は微動だにしない。ただ両手を前で重ね合わせ、静謐せいひつにカイリの闘気を真正面から受け止めていた。



「俺は確かに、悲しい経験をしました。……けれど、同時に嬉しいこともありました」

「……なるほど。それは何です?」

「第十三位の人達と出会えたこと。そして、友人が出来たことです」

「――」



 指揮隊長の眉が、わずかに片方だけ跳ねた。その反応が不快感からくるものなのか、それとも別の感情からくるものなのか。カイリには判断不能だった。

 故に、伝えるだけだ。理解されなくても、主張だけは個人の自由である。


「だから、俺は別に可哀相なんかじゃないです。……むしろ、運が良いと思います」

「……」

「言いたいことはそれだけです。では」


 頭を下げて、カイリは踵を返す。

 そのまま出口へ向かおうとすると、「カイリ殿」と呼びかけられた。迷ったが、無視をするのも感じが悪いので、仕方なしに振り返る。

 だが、それは間違いだった。遅れて、思い知らされる。



「猊下のお言葉、ゆめゆめお忘れなき様」

「――」



 穏やかに発せられた響きは、しかし抗いがたい圧倒的な暴力を叩きつけてきた。

 目を伏せたまま、和やかな表情をしたまま。

 けれど、その言葉は何よりも彼の人となりを如実に物語っていて、カイリは震える足を懸命に奮い立たせて恐怖を振り払う。



「――ご忠告、ありがとうございます」



 真正面から指揮隊長を見据え。

 それだけを残し、今度こそカイリは立ち去った。



 だが、教皇や指揮隊長の言葉はしこりの様に心の底にこびり付き、しばらく取れることは無かった。


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