第315話


 ネイサンを見送った後、カイリはいつの間にか来てくれていたシュリアと共に二階へ戻る。

 使用人達がばらばらにだが、一列の様に並んでカイリに頭を下げてきた。何故だろうと思ったが、シュリアがふんっと馬鹿にする様に鼻を鳴らす。


「大方、あなたがネイサン殿の孫だと認めたのでしょう。中には古株もいますから。あなたに面影を見たのかもしれませんわ」

「……、……でも、俺。この家潰したも同然だけど」

「推測ですが、息子の中でもカーティス殿が一番印象が良さそうですわ。あなたが話してくれた性格だと、彼らとも分け隔てなく話していそうですし」

「……確かに。父さん、俺よりずっと人懐っこい感じだから。村の人達ともすぐ打ち解けたって母さんが言ってた」

「なるほど。初対面で喧嘩を売りまくるあなたとは大違いですわね」

「悪かったな。俺は自分の大切なものは大切だと、堂々と胸を張っていたいんだ」

「……知っていますわ」


 螺旋階段を上がりながら、シュリアと軽口を叩き合う。

 彼女との初対面は懐かしい。必要だったとはいえ、住んでいた家を壊された時の怒りとさみしさは忘れられないし、ラインについて激怒したのも昨日のことのように覚えていた。

 けれど、あれも彼女なりの信念や優しさがあったのだと今なら分かる。彼女は不器用だよな、と少しおかしくなった。


「何ですの、にやにやして。遂に頭がおかしくなりましたの?」

「ううん、大丈夫。父さんやフランツさんの方が医者にかかった方が良いと思うくらいには」

「……。あなたも言う様になりましたわね」

「第十三位に鍛えられてるんだ」


 笑って言い返せば、シュリアは呆れた様に嘆息した。

 だが、嫌な空気ではない。どこかお互いに笑い合っている様な空気さえ通っている気がする。


「良かったですわね」

「え?」

「宣言した通り、ちゃんと話が出来た様で」

「――。……、うん」


 彼女が一階まで追いかけてきてくれたのは、見届けたいと思ってくれたからだろうか。気にかけてくれたという事実に、そわそわと落ち着かなくなる。

 彼女は本当に優しい。態度が素直でないだけで、付き合っていけばどれだけ人のことを見て考えているかが十二分に伝わってくる。


「ありがとう、シュリア」

「ふん。……これ以上ヘタレになられたら困りますから。良かったですわ」

「はは、うん」


 腕を組んで外向そっぽを向く彼女に、相変わらずだなと笑ってしまう。

 そんなやり取りをしながら二人で部屋に戻れば、フランツ達が各々振り向いてきた。どうやら、中の様子を確かめていたらしい。


「おお、カイリ。戻ったか」

「フランツさん。みんな。……いきなり飛び出してすみません」

「いいや。……ちゃんと話せたか?」

「話せた、というよりは……伝えられた、という方が大きいかもしれません。また会いに行くって言いました、……」


 次に会う時は牢獄なのだろうか。ネイサンがどれほどの罪に問われるのか、カイリにはまだ想像が付かない。

 カイリの言葉の先を正しく理解したのだろう。フランツが少しだけ複雑そうに顔を歪めた。


「……ケント殿やゼクトール卿達がどの様な判断を下すかによるが……少なくとも、死にはしない。息子二人は分からんがな」

「……そうですか」

「だが、ネイサン殿に会うことは大丈夫のはずだ。……ただ、この家は、お前が継がない限りは無くなるだろうな」

「――っ」


 フランツの偽りのない結論に、カイリは胸が引き絞られる様に痛む。

 どんな理由があれ、孫であるカイリがラフィスエム家を潰す道を選択した。それは、使用人達にも恨まれるだろう。彼らはいきなり職無しになってしまうのだ。



 しかし、継ぐ、という発想はカイリには無かった。



 父もあまりそれを望んでいない様に思える。本当は、教会のことも知らないまま生きて欲しいと思っていたくらいだ。

 それに、カイリは今はフランツの息子で、彼の跡を継ぎたいと思っている。

 領地は無いと聞いているが、心情の問題だ。ラフィスエム家は父の実家であり、ネイサンを祖父と思っているが、家を継ぐのとはまた別の問題である。

 それでも、カイリはネイサンにカーティスの息子だと認められた。ならば、相続権は正しく発生するだろう。カイリが相続を放棄しない限り。


「あの、……もし俺が継がなかったら、ここにいる人達はどうなるんでしょう。屋敷は? 他にも」

「落ち着け。大丈夫だ。ケント殿やゼクトール卿達がきちんと手配はする。ここにいる使用人達の行く末もある程度考えているはずだ」

「そう、ですか」

「しかし、……本当に、良いのか? ここは、お前にとっては……」

「……っ」


 フランツの言葉に、カイリの胸が少しだけちくっと痛む。

 やはり、フランツはカイリを息子としながらも、血の繋がりのある家へ戻そうと画策している。

 彼の言いたいことは分かる。ありがたいとも思う。

 けれど、どこかでその心遣いに壁を感じて、カイリはひどくさみしい虚無感に襲われるのだ。



「フランツさんは……、……」



 ――俺と、親子じゃなくなっても良いんですか。



 そう言いたい気持ちをぐっと堪えて押し黙る。

 それに、ラフィスエム家を継げば、色々問題があったとはいえ侯爵家だ。これからのカイリに必要な権力も手に入るかもしれない。

 だが、それでも、カイリは躊躇する。

 フランツも何かをようやく感じ取ってくれたのだろうか。カイリが俯いて唇を引き結ぶのに、おろおろとした気配を漂わせてきた。



「……ご安心下さい、カイリ様」



 そんな気まずい空気に静かに踏み込む様に、背後から声がかかった。

 落ち着いた声に導かれて振り向けば、そこには老齢の執事が丁寧に腰を折ってカイリの方を向いていた。確か、ネイサンの信用出来る使用人だと記憶している。


「えっと、貴方は?」

「初めてお目にかかります。私の名はセバスと申します」

「え、……セバスさん?」


 クリスの屋敷の方にもセバスチャンという執事がいる。名前が似ているな、と驚いていると、更に仰天の情報がもたらされた。


「クリストファー様の元にいるセバスチャンは、私の孫にございます」

「えっ⁉」

「小さい頃から息子夫婦はクリストファー様にお仕え申し上げていました。生涯を捧げられる方に出会ったと、息子が言って飛び出したのも懐かしゅうございますな」


 ほっほ、と目を細めて笑う彼は、確かにセバスチャンの面影がある。

 まさかの繋がりに驚き過ぎて、カイリは声が出ない。フランツ達も初耳なのかあんぐりと口を開けていた。



「旦那様から申し付かっております。この家は、自分の代で終わらせると」

「……え。それって」

「最初から、旦那様はレナルド様とフィリップ様には継がせないおつもりでした。遺書にも書かれております。自分が死んだら、この家の権利や財産は全て教会に返還すると」



 セバスの言葉に、カイリは頭が真っ白になった。エディ達も呆然と彼を見つめている。

 ただ、フランツやレインは予想していたのか、苦い顔になっていた。


「……セバス殿。貴方達の処遇については、何か聞いているのだろうか」

「ええ。クリストファー様に采配を行ってもらえと」

「クリス殿に?」

「はい。あの方は昔から色々とうるさくてやかましくて腹が立つから、丸投げする、という契約を交わしていた様です」

「……。……クリスさん、おじいさんとも繋がりがあったんですね」


 小僧と言ってはいたが、まさかそんな契約を交わしていたとは思いも寄らない。何だかんだで信頼関係はあったのかと、少しだけホッとする。


「カイリ様。お会い出来て嬉しゅうございます。……ここを出るまでは、カーティス様のお世話もさせて頂いておりました」

「そうなんですね……。初めまして。カーティスの息子のカイリと言います」

「ええ。お顔立ちはお母上そっくりですが、目元はカーティス様によく似ていらっしゃる。気性も、お二人の良いところを継いでおられますな」

「……良いところも悪いところも継いでるって言われています」

「ほっほ。頑固で向こう見ずで、というあたりでしょうか」

「はい。……ここでもそういう認識だったんですね」


 誰に会っても同じ様なことを言われる。両親は周りから同じ印象を持たれていた様だ。

 言い換えれば、それだけ裏表が無かったということだろう。両親の在り方を、カイリは誇りに思う。


「……どうか、出来ることなら望まれるままに、もっと旦那様とお話下さい。旦那様は、いつもカーティス様のことを気にかけておりました」

「……。……おじいさんは、父から受け取った血縁断絶の書類をずっと取っておいたんですね」

「カーティス様との最後の繋がりです。この部屋もそうです。……カーティス様が使っていた家具を全てこちらに移し、お二人の目の前では別に用意した同じ家具を焼き払いました」

「……そうだったんですか」


 どうしてそこまで、と思ったが、レナルドとフィリップの気を静めるためだろう。二人の先程の荒れ狂った憎悪を思えば、父に思い入れがあると勘繰られたら何を仕出かすか分からなかったはずだ。最悪、父を探し出して殺そうとした可能性もある。



 ネイサンは、父を守ったのだ。



 また一つ真実を知れて、カイリの胸が熱くなる。


「……ここ。本当に、村の家の父の部屋と同じ造りなんです」

「そうでしたか。……カーティス様も同じ思いだったと知れば、旦那様もお喜びになるでしょう」

「……部屋に入った時とか、父は大抵ここにあるベッドの上で作業をしていて。……そこでいつも、俺のことを両手を広げて出迎えてくれました」


 窒息死しそうなくらい強く抱き締めてくれた。愛情たっぷりに抱き締めて、可愛がって、愛してくれた。

 それは、父が欲していた家族からの愛を、カイリには絶対に伝えたいと思っていたからだろう。

 先程のレナルドの怒号が、カイリの胸に深く刺さったままだ。ネイサンの想いに気付けなければ、苦しいだけだったかもしれない。


「ふっ。机に向かっていないのがカーティスらしいな」

「あ。やっぱり子供の頃からそうなんですか?」

「ああ。勉強は大の苦手だったからな。いや、成績は悪くなかったから、苦手ではないのかもしれんが……」

「ほっほ。……カーティス様は、家庭教師からもよくお逃げになって。フランツ様とよく遊んでおられましたな」

「……気恥ずかしいが、その通りだ。……何となく、勉強をすることに抵抗を感じていた気がするな」

「抵抗……ですか」


 勉強は出来るけど苦手。

 確かに父は、カイリの質問に答えてくれるほど博識だったし、頭が悪いという印象は全くない。

 必要だったから学んでいたのだろうか。もしかして兄に遠慮していたのかと、変な邪推をしてしまう。真実は闇の中だ。

 昔の父に思いを馳せながら、カイリは本棚の前に立つ。並ぶ背表紙を目にして、あ、と思わず声を上げてしまった。


「この本棚も、……村の本棚と一緒だ」

「ほう。中身もか?」

「はい。剣術の本とか、釣りの本とか、……ははっ。ああ、これ。……見覚えのある本ばっかりだ……」


 本棚から一冊の釣りの本を手に取り、カイリはぱらぱらとめくって行く。軽やかに流れて行く本の内容に、カイリは唇を引き結んだ。

 村にいた頃、いつまで経っても一匹も魚が釣れなくて、父に教えを請うたことがある。この本は、その時に父が持っていた本だ。


〝父さん。釣りって、どうしたら上手くできるの?〟

〝……カイリ……! 何て勉強熱心なんだ……っ! ご褒美に抱き締めてやろう! むぎゅーっ!〟

〝ぐふうっ! と、とう、とうさ……っ! 死ぬ! ……死ぬから……っ!〟

〝あらあら。母さんも混ぜてちょうだい、さみしいわ。むぎゅー〟

〝母さん……っ、し、……苦し……っ!!〟


 結局釣りの勉強はそっちのけで、両親と抱き締め合って、笑いながら話してばかりだった。


 実力を付けるなら実践だ! と父が釣りに連れて行ってくれた時も、結局ほとんど教えてくれることはなかった。カイリが魚が釣れないとしょんぼりしてしまったら、教えてくれるのではなく、抱き締めてくれてばかりだったからだ。

 その後、父の腕の中で父の釣竿に魚がかかるのをのんびり待って、釣れた時は喜び合って、やはり抱き締められて。


 父は、事あるごとに自分を抱き締めてくれていた。


 本当に幸せな日々だったと感謝する。

 そんな父が、村の部屋と同じ配置をし、同じ本を陳列した本棚を置いていた。

 父がここを離れても、ずっとネイサン達家族を想っていた何よりの証拠だ。

 そして、その逆も。


「……。おじいさんも、父さんのこと、思ってくれていたんですね」

「……ああ。少なくとも、一方通行ではなかったようだな」


 父から渡された永久血縁断絶の書類を、ネイサンは提出していなかった。つまり、父と親子の縁を切るつもりは無かったという意思表示に他ならない。

 秘密の鍵のこともそうだ。あの様子だと、レナルドとフィリップは鍵の仕掛けを知らない様だった。父にしか教えていなかったのかもしれない。



〝今は聖都にはいないがな。今でもそのパトロンとケムステルは互いに親子の様な関係を築いているという話だ〟



 不意に、ケムステルという画家の話を思い出す。

 並んで飾られていた絵画の中でも、微かに違和感を抱くほどに優しかった絵だ。


「そういえば……ケムステルの絵って、おじいさんが直接呼んで描いてもらったものなんですか?」

「はい。……あれは、カイリ様の家族を描かれたものです」

「えっ⁉」


 とんでもない真実を暴露される。フランツ達も仰天していたが、一人シュリアだけは眉一つ動かさずに呆れていた。


「あなた、気付かなかったんですの?」

「え、え? シュリアは、何で」

「どう見ても、あなたのご両親にそっくりではありませんの。ですから、あそこに書類があると思ったのですわ」

「え、……俺の、両親」


 カイリはちらりと一瞥いちべつしただけなので、まじまじと見てはいない。ただ優しい雰囲気を持っていて惹かれただけだ。

 そんなカイリ達のやり取りを、セバスは、ほほっと微笑ましそうに見守り、どこからともなくくだんの絵画を取り出した。


「流石はシュリア様。カイリ様の良き方というのは本当だったようで」

「……は? ……はあっ⁉ な、な、な、……な、ななななな何ですの⁉ それは! よ、よよよよよよき! はあっ⁉ な、な、な、何故! わたくしが! か、か、か、彼なんかと……!」

「あの、セバスさん。……良き方って、どういう意味ですか?」

「――」


 すこーん、と何かが吹っ飛ぶ様な乾いた音が部屋中に鳴った気がした。フランツ達はぶっと噴き出し、シュリアは真っ赤になってふるふる震えている。

 セバスは笑顔で固まった後、おかしそうな色を乗せてにこやかになった。



「なるほど。良き関係ですな」

「そうだろう。カイリとシュリアはこれからも良いコンビになると俺も踏んでいるのだ」

「はあっ⁉ フランツ様! あなた、目が腐っているのではありませんの⁉ 目医者へ行け! ですわ!」

「あの、……待って下さい。良き方って……良いコンビ? のことですか?」

「それで、カイリ様。この絵は正しくは、ご両親の写真を見ながら描かれた絵なのです」



 カイリの質問は完全に流し、セバスがにこにこ説明してくれる。どうやらカイリの質問は的外れの様だ。後でケントに聞こうと不貞腐ふてくされる。

 しかし、両親の写真を見ながら描かれた絵。

 改めて絵を見てみると、どこまでも広がる青空の下、三人の親子が楽しそうに笑ってピクニックをしている様な光景が映し出されていた。子供の顔はよく見えないが、両親は確かに面影がある。豪快に笑っている父親に、優しく微笑んで子供を愛しそうに見つめる母親は、まさしくカイリの両親の在り方だ。


「……おじいさんは、どうしてこの絵を?」

「旦那様は、カーティス様達の居場所を突き止めることは致しませんでした。もし、万が一誰かに漏れたら……非常に危険だと存じておられたのでしょう」


 ゼクトールと同じだ。

 ネイサンも、父のことを考えて探したりはしなかった。どれだけ教会が黒いのか熟知している証拠だ。

 彼らの優しさのおかげで、カイリも無事にここまで生き延びている。もし、彼らがカイリ達を探し回っていたら、既に命は無かったかもしれない。


「ケムステルとパトロンの親子の様な関係は、ケムステルの絵にも表れていましてな。旦那様は、彼ならばカーティス様達親子を、想像でも正しく描いてくれるのではないかと思って依頼したのです」

「……。……そうして出来たのが、この絵なんですね」

「はい。……もし、カイリ様が望まれるのならば、この絵画はカイリ様にとも仰せつかっております」

「えっ」


 そんな言付けまで残していたのか。改めて聞くと、ネイサンはいつからこの事態を予想していたのだろうか。


「あの、……おじいさんは、最初から今回の件をこうしようと思っていたんですか? 俺達に、証拠を渡して悪事を暴くことを考えていたんですか?」

「……最初はケント様達が処理すると考えていたようですが、最近カイリ様が任務に関わっていると知り、託そうと思った様です。証拠は元々この部屋に隠しておりましたが、やり取りなどの密書は絵画の裏に移しました」

「……どうして」

「旦那様は、あまり多くをカイリ様に語るつもりはありませんでした。なので、これは……旦那様なりの貴方様へのメッセージかと。……この絵画のタイトルは、『大切な家族』。気付くか気付かないかは本人次第。……このカーティス様の部屋と合わせて、これが旦那様のお答えなのです」


 目を閉じて語るセバスに、カイリは少しだけ考える。

 ネイサンにとって、このケムステルの絵はとても大切なものだったのではないだろうか。それをカイリに譲ってくれる気持ちは嬉しい。

 けれど。



「……この絵は、おじいさんが持っていて欲しいです」

「……カイリ様……」

「ケムステルという方は、まだ生きていらっしゃるんですよね? だったら、俺はその人に別の絵を描いてもらいます。……俺と両親と、おじいさんが一緒にいる絵を」

「――」



 もし可能だったら、二枚描いてもらおう。お金はかなりかかりそうだが、ネイサンにも持っていて欲しい。

 願う様な気持ちで告げれば、セバスはくしゃりと相好を崩して腰を折った。その綺麗な仕草は洗練されていて、ひどく優雅な芸を鑑賞している気分にさせられる。


「……カイリ様。ありがとうございます」

「い、いえ。俺こそ、嬉しいお話を聞けました。ありがとうございます」

「……。……僭越ながら、申し上げてもよろしいでしょうか」

「え? はい、何でしょうか」

「……、……カイリ様は貴族です。どうか、我々の様な使用人に敬称を付けたり、敬語は使わないで頂けないでしょうか」

「え……」


 ひどく申し訳なさそうにしながらも、毅然きぜんと真っ直ぐにセバスが意見を差し出してくる。

 一瞬戸惑ったが、カイリはその意味を理解した。



 ホテルで、ケントが頭を下げてはいけないと忠告してくれたことと同じなのだ、と。



「……それって、周りの貴族から馬鹿にされたり、相手から侮られるからですか?」

「はい。……お話が早くて助かります」


 お願いの形を取っているが、カイリのこれからを思って進言してくれているのだろう。

 カイリは童顔だ。実際の年齢も成人したばかりである。聖歌騎士とはいえ、武術もまだまだ未熟だし、周りの助けが無ければすぐに死ぬ。

 だからこそ、せめて言葉遣いだけはと思わなくもない。フランツの様にどっしりと構える風格も無いし、ケントやクリスの様に他を圧倒するほどの覇気も足りないのだ。

 けれど。



「……。すみません、セバスさん。俺には無理だと思います」

「――、か、カイリ様?」



 セバスの言うことはもっともだと感じる。ケントの注意は貴族社会では正常だ。

 カイリは未だに村人の域や感覚を脱せられない。だから、子供の言い分だと一蹴されても仕方がないだろう。

 それでも、譲れないものがある。


「セバスさんは俺よりも年齢が遥かに上だし、とても人生経験が豊かですよね。俺よりもずっと知識も豊富で、俺なんかヒヨッコも良いところです」

「え、……いえ、……」

「そんな貴方に敬意を払うことを、俺は忘れたくない。もちろん、敬語を使わなくたって、そういう態度の示し方はあると思いますけれど……俺にはその匙加減みたいなものは未熟過ぎて無理だし、多分生意気に見えるし、馴れ馴れしく思われるんじゃないかと」


 フランツは先程からセバスに対して敬語は使っていないが、彼を下に見ている節は見当たらない。クリスだってそうだ。大抵の者には口調が変わらないが、必要な時以外は、誰が相手でも一定の敬意を払っている様に思えた。

 だが、カイリがそれを真似たとしても、じつを伴っていない。中身がすかすかの裸の王様にしか見えないだろう。

 それでは駄目なのだ。


「それに、ケントだって一部の人を除いて敬語を使っていますよね。セバスさんが相手でも同じはず。それでも、セバスさんは彼を侮ったりはしないですよね?」

「え? ええ、まあ。……ケント様ですから」


 その一言に、ケントは敬語を使用してもまるで馬鹿にされている印象が無い。彼は部下や己の使用人、慣れた人達には砕けた口調だが、それ以外の者には徹底して敬語を貫いている。

 それでもケントが恐れられているのは、彼がその在り方のままでも圧倒的なオーラを発揮しているからだ。


「敬語を使うことだけが、相手へ敬意を示すことだとは俺も思っていません。でも、……少なくとも俺は、敬意を払う一つの手段として、敬語を使っているところがあります。お礼を告げる時に頭を下げるのもそうです」

「……」

「一般人同士なら当たり前のことが、貴族になったら当たり前じゃない。その概念は、やっぱり俺は変だと思います。だから、……将来もっと上に立つことになったとしても、俺は……敬語を使ったままでも、舐められない貴族になりたいんです」


 今は多くの者に舐められることになったとしても、カイリは強く己を貫いて生きていきたい。

 ケントの様には無理でも、カイリはカイリなりに風格なり覇気なりをまとえる様になって、身に付けた実力で相手に下に見られない人になりたかった。

 セバスの優しい助言をね付けることは、心苦しく思う。頭では理解出来るし、簡単に頭を下げる主に不安を抱く者もいるのかもしれない。



 それでも、カイリがなりたい理想じぶんは、その先には、無い。



 敬語を使っても、頭を下げても、それでみんなが不安にならないほどの強さを身に着けたい。

 相手に誠実で在り、真正面から向き合う。

 どれだけ難しくても、不可能に近い相手が多くても、カイリが進みたい道はその先にある。


「……この言葉自体が、生意気にしか聞こえないと思いますけど……。道のりは険しくても、俺はこうで在りたいと思っています」

「……」

「すみません。……せっかく教えて頂いたのに」

「……いいえ」


 ゆるりと首を振って、セバスは小さく息を吐く。ただ、その吐息はどこか笑っている様に聞こえた。


「確かに、ケント様の様に少数ではありますが、敬語を扱う貴族はおります。……性格も考慮しなければならないということを、失念しておりました」

「い、いえ! ただ、俺はフランツさん達みたいに慣れていないので……、実践したとしても背伸びしているだけにしか見えないだろうな、とは思います」

「仰る通り、虚勢を張って砕けた口調で話した結果、余計に侮られるという実例はあるのです。……カイリ様には、カイリ様に合った貴族像があるでしょう。その時を、楽しみにしております」


 ほほっとにこやかに微笑むセバスに、カイリも釣られる様に笑う。とても優しい空気を持つ人だな、と心が落ち着いていく。


「ああ、ですが。もし、この先自らの使用人を持たれた場合、慣れてきたらどうぞ砕けた口調で接してみて下さい」

「え?」

「その方が、距離が近くなったと喜ぶ者もおるのですよ。……旦那様の時がそうでしたから」

「――」


 悪戯っぽく唇の前に人差し指を立てるセバスに、カイリは視界が開ける様な思いを味わう。

 なるほど。そういう効果もあるのだと教えられた。カイリだって、今更ケントと敬語で話したら距離が遠く感じるし、彼自身にもショックを受けられたことがある。


「……ありがとうございます。俺、やっぱりまだまだ経験が足りませんね。セバスさんに教えてもらわなければならないことがたくさんあります」

「嬉しいことを仰って下さる。……では、いつか、この老いぼれも砕けた口調で接して下さる日を楽しみにしております」

「え! ……は、はい。……そんな風に言ってもらえて、俺、幸せです」


 満面の笑みで頷けば、セバスは一瞬目を丸くした後、眩しそうに目を細めた。



「……本当に、よく似ていらっしゃる」



 感慨深げに囁かれたセバスの言葉を、カイリは噛み締める様に受け止めた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る