第299話


 にこやかにクリスに案内されたのは、客間だった。

 軽やかにノックをした後、「はい」と溌剌はつらつとした声がカイリ達の元に届いてくる。思ったよりも元気なその声に、カイリはフランツと顔を見合わせた。


「失礼するよ。……やあ、ルーシー殿。お加減はいかがかな?」

「クリストファー様! ありがとうございます。まだ疲労感は残っていますけど、ご飯は美味しいし、お風呂にも入れたし、久しぶりにぐっすり眠れてすっきりしました」


 ベッドの上から答えてきたのは、快活そうな一人の少女だった。

 年齢はカイリよりも少し下くらいだろうか。緩くウェーブがかった栗色の髪は肩ほどに揃えられ、大きな茶色の双眸そうぼうは光に満ちている。

 とてもではないが、つい昨日まで一ヶ月間拉致されていた人物には見えない。

 集めた情報との齟齬そごが発生した様に、カイリは首を傾げた。


「あの、……クリスさん」

「ああ、紹介が遅れたね。彼女はルーシー。ガルファン殿の娘さんだよ」

「初めまして、ルーシーです。いつも父がお世話になっております。こんな格好でごめんなさい」


 上半身を起こした状態で、ルーシーと呼ばれた少女が頭を下げる。品は良いが、活気に満ち溢れていて、ベッドの上なのに活動的な印象を与えてきた。桃色のカーディガンを羽織った姿は、可愛らしく健康的である。


「俺はカイリ・ヴェルリオーゼです。初めまして、ルーシー殿」

「俺とは何度か会ったことがありますな。お久しぶりです、ルーシー殿」

「初めまして、カイリ殿。フランツ殿、お久しぶりです。ふふ、フランツ殿ってば、息子さんがいらっしゃったんですね」

「いや、お恥ずかしい。……四月に養子に迎えた子なんです。とても可愛らしく天使の様に素直で良い子で、時々ちょっぴり良い性格をしていますが、かけがえのない息子です。天使です」

「ふ、フランツさんっ! そういうこと言うのは止めて下さいってあれほど……!」

「あはは。仲が良いのですね。……少し羨ましいです」


 一瞬だけ彼女の目にさみしげな影が過ぎった。

 カイリが目を丸くしていると、彼女はすぐに持ち直して「ごめんなさい」と微笑む。


「最近、お父様とお話する機会が少なかったから。まだ親子になって四ヶ月くらいなのに、お二人は本当に仲がよろしいのですね」

「当然です。俺はカイリを生涯大切な息子として育て、守り抜くと誓っておりますので」

「……、……フランツさんは大袈裟ですけど。俺も、フランツさんと少しずつ家族になっていけたらなって思っています。助けられてばかりだから、俺も支えられる様になりたいです」

「……カイリ……っ!」


 涙をだばーっと流して号泣し始めるフランツに、カイリは肩を跳ねさせる。クリスが腹を抱えて爆笑しているあたりが憎たらしい。まさしくケントの父親である。


「まあ、こんな二人なんだけどね、『腕』は確かなんだよ。……すまないけど、私に話したこと、彼らにも聞かせてあげてくれないかな」

「あ。……もしかして、村の件を調べている方々って」

「そう。第十三位なんだ。……頼むよ。フランツ君やカイリ君も、質問があったらしてあげて。大丈夫だから」

「は、はい」

「心得ました。……ルーシー殿、お願いします」


 フランツの要請に、ルーシーも幾分居住まいを正した。どことなく空気が張り詰めた様に感じ、カイリも気を引き締める。



「えっと、……あの、最初に言っておきますけど。誘拐されて、髪を乱暴に掴まれたりして、結構辛そうな姿で写真を撮られたんですけど! 誓って、それ以外は何もされていないんです! 信じて下さい!」

「え?」



 いきなりとんでもない弁解をされ、カイリの顔がきょとんと呆けてしまう。フランツは表情を変えなかったが、空気がやはり同じ様に呆けたものになった。

 予想とは全く違う方向だったので当然だ。レインが写真を隠したせいで、もっと深刻な状況だと疑っていなかった。

 カイリ達の変化に、ルーシーが少しだけ困った様に微笑む。取り敢えず、髪を乱暴に掴まれた写真だったということだけは理解した。


「え、えっと。写真……は、脅迫のために撮られたんでしょうか? 昨日、俺達の仲間がそれを見つけて、ルーシー殿の居場所を特定したみたいなんですが」


 レインは、写真は見せるわけにはいかないと譲らなかった。カイリとしても愉快な気分になる内容ではないと推測したから、それ以上考えるのを止めたのだ。

 まさか、ここで掘り返されることになろうとは。カイリはもう少しポーカーフェイスを本気で学ぶべきだと反省する。


「助け出された時は、色々混乱してしまって。満足にお礼も言えませんでした。……あの、レイン殿という方にお礼を伝えて下さい。本当にありがとうございましたと」

「あ、はい。もちろんです。レインさんも、貴方のことを心配されていたので」

「ああ、もう! 本当に申し訳ないです。……何もされていなかったのですけど、誘拐された時も突然だったので。だから、昨日も突然乱入してきたレイン殿が味方なのかもよく分からなくて混乱していたのです。この人を相手に声を出しても良いのだろうかと戸惑った部分もあって……本当にごめんなさい」

「……大丈夫です。きっと、それを伝えたら安心すると思います」


 カイリも、口をけない状態だと聞いていたので正直驚いたが、元気なのが何よりだ。ガルファンに報告する時もどうにかなりそうだと安心する。


「ルーシー殿。では、監禁されている間、何も無かったという認識でよろしいのですね?」

「はい。……急に捕まって、訳も分からずどこかに閉じ込められた時は、正直もう駄目かと思いました。でも、……いきなり髪を掴まれて写真を撮られたら、何だか申し訳なさそうに謝罪をされてしまって。それっきり何もされなかったのです」

「謝罪……それ、っきり……」


 まさか、乱暴なことをした後に即座に謝っていたとは。

 極悪な誘拐犯の印象が、一気に崩れ落ちていく音がする。


「外への出入りは禁止されましたけど、食事は普通に用意されるし、手足も自由だったし、お手洗いもありました。お風呂……は無理だったのですけど、毎日大きな桶に水とかぬるま湯とかタオルとか持ってきてくれて。それで顔を洗ったり、体を拭いたり、髪を洗ったりは出来たんです。もちろん、覗きはされませんでした」

「……。……それは、……待遇が良かったということですかな?」

「そうですね……。お部屋はとてもぼろかったのですけど、……おしゃべりもしました。最初はぽつぽつとでしたが、その内談笑する様になって。部屋の中でなら、運動も許されました」

「え、う、運動も?」


 誘拐された人間に、運動を推奨する誘拐犯。

 予想の斜め上なのか斜め下なのか分からない真実に、カイリは頭が混乱してきた。


「はい。筋肉が衰えたら困るだろって。もちろん見張りが何人も付きましたけど、一緒に運動もしました。クイズも出し合ったりしましたよ」

「い、一緒に……、クイズ……」

「誘拐の理由とか身の上とかは一切話してもらえませんでしたけど……罰が悪そうな様な、さみしそうな様な、影が差して聞きにくかったです。あと、何かと気にかけてくれました。具合悪くなっていないかとか。物はあまり無かったんですけど、えっと……即席で知恵の輪? というものを作ってくれて。一緒に解いて遊んだり、笑ったり……その、……色々」

「……知恵の、輪、……」

「何もされないし、父にも無事だと知らせていると聞いていたので、大人しくしていようと思っていました。こう言っては楽観的と思われるかもしれませんけど……あまり悪い人達にも見えなかったし、その、……楽しませてくれようと頑張ってくれていたというか、……私自身不安もありましたけど、楽しかったので……」


 とつとつと語られていく内容に唖然あぜんとする。開いた口が塞がらない。フランツも同じらしく、目と口が引きつりながら半開きになっていた。

 逃げようと躍起になっていたら、その拉致した人物がどう動いていたかは分からない。故に、大人しくしていた判断は懸命だ。


 しかし、何もされない上に、食事などの生活に必要な最低限のものどころか、衛生上の管理まで気にしてくれていたのか。


 おまけにお喋りもして、一緒に運動もし、挙句の果てはクイズの出し合いっこをしたり道具を使って遊んでいたとは、予想よりも遥かに仲良く過ごしていたらしい。

 当然、長い間監禁されていたのだから身体的だけではなく精神的疲労も大きかっただろう。レインに助け出された直後は混乱して口も利けなかったのだから、大変ではあったはずだ。

 それでも、普通の拉致監禁だったら、こんなに回復は早くない。それくらいはカイリにも分かる。歓楽街に行った時の体験からすると、相手が比較的常識人だったとはいえ違和感だらけだ。

 それに。


 ――ガルファン殿に、無事を知らせていた。


 何とも親切過ぎる誘拐犯だ。

 フランツも同じなのだろう。ルーシーの手前、表情は柔らかかったが、空気が深く考え込んでいる。


「……。とにかく、無事で何よりです。……更に、……嫌なこと……? ……嫌なことを思い出させて申し訳ないですが……、ルーシー殿を捕まえた人物達の顔は、見れたのですかな?」

「はい。特に顔は隠されていませんでした。でも、面識はなかったです」

「数は?」

「えっと……」

「五人だよ。屋敷の地下できちんと尋問して猿轡さるぐつわ噛ませて縛り上げているからね。……とはいえ、大した情報は得られなかったんだけど」


 それでも微妙な顔をするクリスに、フランツは溜息を吐く。カイリとしても、彼の考え込む姿に、何か推測があるのかもしれないと疑った。

 その中で猿轡や尋問と聞いて、ルーシーが心配そうに目を伏せたのが印象的だ。本気で仲が深まっていたらしい。


「クリスさんは、その……彼らの話を聞いてどう感じましたか?」

「うーん。……そうだね。まずは、ルーシー殿から話を聞いてみて。二人ならではの気付く点があるかもしれないからね」

「承知した。……ルーシー殿。その、見張り役は五人だったということですが、他に誰か出入りしている者はいませんでしたか?」

「えっと、……私は見ていないのですけれど。時々、来た、と言ってから出ていって、外でお話している様な感じはしました。それは、五人以外の人達だと思います」

「何人とかは……」

「……ごめんなさい。分からないです。ただ、……」


 ルーシーが一生懸命思い出そうと、口元に手を当てて眉をしかめる。うーん、うーんと唸りながら、自信がなさそうに見上げてきた。


「何となく、……私のことを話している様な気がしました」

「ルーシー殿の?」

「は、はい。……生きてる、とか。何もして、とか。早く帰してやれ、とか。細切れに聞こえてきた声は事務的なんですけど。……相手の声は、よく聞こえなかったので分かりません」

「ふむ……。何もして、か。……何もしていないぞ、という感じだろうか」

「……フランツさん。早く帰してやれって、誘拐犯は今回の誘拐に賛同していなかったということでしょうか」

「う、む。……待遇が良かった上に、早く帰したがっていた、か。それが本当なら……。乱暴をしようとしている写真を撮ること自体が目的だったということか?」

「ガルファン殿を脅せさえすれば良かったんでしょうか……」

「……そうだな。ルーシー殿には危害を加えるつもりは全く無いし、無事に返してやりたかったということになる。正直、今回起こっている内容の残忍さからすると……ちぐはぐなイメージだな」


 フランツの言う通り、カイリも軽く混乱している。

 ガルファンが関わっているホテルの爆弾やフュリー村の件に関して、内容はかなり非情な方法を採っている。実際に死人も出ていた。

 それなのに、拉致監禁したルーシーに関しては、決して心身ともに痛め付けず、それどころかかなり丁重に扱われていた節がある。

 脅迫をし、目的を実行するための手段は選ばないが、女性には紳士であるとでも言うのだろうか。

 犯人像が結び付かない。


「……分からんな。カイリ、どうだ?」

「……。俺としては、拉致をして一番最初に写真を撮ったのに、写真の日付が二日前だったことが気になります」

「む、……確かに。最初に撮って脅迫のために送るのは別に不思議なことではないが……、何故二日前なのか、ということか。そういえば、レインは何をもって日付を確認したのだろうな……」

「……あの、ルーシー殿。確認しますけど、写真を撮られたのはその時だけですか?」

「え? あ、はい。そうです。後は本当に何も……」


 困惑した様にルーシーが答えてくる。彼女が嘘を吐いている様には見えない。写真は本当に最初に撮ったものなのだろう。

 そういえば。


「写真って、比較的高価……ですよね」

「……ああ。そうだな。貧民街の者達で手を出せる代物ではない。……彼らを雇った黒幕が、それなりに金があるということだな」

「間者……ではないですよね」

「……間者と手を組んでいる者が、間者に貸し与えてというのはあり得るが、……ホテルの件とはやはり印象が異なるな。事件は別々で、犯人も別ということか……?」

「ガルファン殿は、ルーシー殿が無事なのを祈って、脅されながら協力していたというのが俺達の推測ですよね。それまで、写真ではなく言葉だけで脅されていた? ……なのに何故、今更写真を送ったんでしょう。それに、二日前って、……」


 二日前は、ホテルでちょうどガルファンと出会った日付だ。

 写真を送られてきて絶望し、カイリ達に口を割ることにしたのだろうか。

 けれど、爆弾が仕掛けられていた階数から、彼は元々カイリ達にいつか助けを求めようとしていたと推測していたのだ。爆弾をあの日に全て設置するなど不可能だし、支配人のダーティも一ヶ月前からスタッフや客がぎすぎすし始めたと言っていた。少なくとも、一ヶ月前には設置されていたことになる。


 助けを求めてきたというのは、思い違いだったのだろうか。


 けれど、ガルファンのメモや会話のおかげで、カイリ達は爆弾を突き止められた。あれが偶然だとはどうしても思えない。

 ガルファンは脅されていた。ファルエラの間者が関わっている。ラフィスエム家は首謀者。二つの村の領主権はいつの間にか移されていた。

 今まで、ばらばらに得たヒントを繋ぎ合わせて、推測を立てていたけれども。



 ――もし、前提が全て違っていたとしたら?



「……っ」


 突然降って来た閃きに、ぞくりと嫌な悪寒がカイリの背中を駆け巡る。足元から這い上がる寒々しい現実が、嘲笑っているかの様に体を震わせた。

 恐怖を頭から振り払って、カイリは確認のためにルーシーに向き直る。


「あの、……ルーシー殿。ガルファン殿が誰かに脅されていたとか、この時期を境に変になったとか、そういうことに気付いたことはありますか?」

「え? えっと、……」


 ルーシーの顔がはっきりと曇る。

 やはり、父を案じているのだろうか。カイリは胸を痛めたが、彼女の口から出てきたのは予想外の一言だった。



「……実は、さっきも言いましたけど、お父様とは春頃からあまり会話をしていなくて。一ヶ月前も、突然おばあ様のところに行っていなさいって追い出されたんです」

「……えっ?」



 彼女の口から出てきた単語に、カイリもフランツも驚愕し過ぎて声が出なかった。ただ一人、クリスだけが柔らかな笑顔で傍観している。

 一ヶ月前。おばあ様。

 何の話だと、カイリは混乱の極みに陥った。レインから聞いた話と随分違う。

 いや、正確には『村人から聞いた話』と、だ。

 レインは確かに、村人達が「一ヶ月」という期間を述べていたと報告している。

 カイリの嫌な予感が、ひたひたと忍び寄って来る音を、確かに聞いた気がした。


「……あの、ルーシー殿」

「ルーシーさん、で良いですよ。何だか、年上でも年齢の近い方に『殿』って呼ばれると、くすぐったいです」

「あ、では、俺のこともそれで。……ルーシーさん。あの、一ヶ月前からおばあ様の家にいたんですか?」

「はい、そうです。フュリーシアの北の方に。でも、お父様が手紙で一度屋敷に戻って欲しい、さみしいって言ってきたから。お父様がそんな風に言って下さって、私も嬉しくなっちゃって、一週間前に馬車で戻ろうとしたんです。……その時に捕まってしまって」

「――」


 ルーシーの憂い顔に、カイリは嫌な音が、今度こそ胸にひび割れる様に走るのを感じた。フランツの顔も厳しいものへと変じていっている。

 一週間前と言えば、八月の十六日。拉致監禁は一週間だったことになる。

 しかし、一ヶ月前に祖母の家へとは、ガルファンはルーシーを安全な場所に逃がそうとしたのだろうか。

 いや、そもそも何故、村人は「一ヵ月も」と悲愴な空気を醸し出していたのか。ルーシーがただ単純に祖母のところへ行っているのならば、そんな言い方はしないはずだ。


「……ルーシーさん。そのこと、村の人達は知っているんですか?」

「え? ……多分、知っていると思います。出発したのが夜中だったので、直接は会っていないのですけれど」

「……、……そうですか」


 噛み合わない。

 夜中に出発したのは何故だろうか。秘密裏に娘を送り出したかったからと考えれば自然か。

 だが、村人はルーシーが一ヶ月も拉致されている様な嘆き方をしていたはずだ。要するに、ルーシーが祖母の家に出かけていたことを知らないことになる。

 娘の安全性を考慮するなら、行き先を告げないのは不自然ではない。

 けれど。



 ――じゃあ、どうして手紙で呼び戻したんだろう。



 疑問が多分に残る。頭がこんがらがって、痛い。先程の不吉な想像がはっきりと形になっていくのを嗅ぎ取って、慌てて首を振った。


「……ルーシー殿。お父上とあまりお話はされていなかったということだが、何でも良いです。本当に小さな点でも良いので、何か気付かれたことはありませんでしたか」


 フランツの冷静な問いかけに、ルーシーも捻り出そうと唸り続ける。カイリは努めて平静を装うのに手いっぱいで、何も言葉を発することが出来なかった。



「あ。……そういえば、カイリさん。あの、五月のクリストファー様の晩餐会で、とても素敵な聖歌を歌われたと聞きました」

「え? え、えっと。素敵かはともかく、はい、歌いました」



 いきなり話が変わった。

 戸惑いながらもカイリが肯定すると、ルーシーが嬉しそうにふわりと風の様に笑う。


「やっぱり! ありがとうございます。あの夜、帰ってきた時。お父様、お母様が亡くなってから初めて笑ったのですよ」

「え?」

「懐かしい紅葉が見れた。よく母さんとお前と三人で出かけたよなって。……あの夜はお父様、このままではいけない、頑張らなきゃなって。お前にも心配ばかりかけてすまないって、そう言っていたから。……私、見ず知らずの貴方にとても感謝したのです」


 目を閉じて告げるルーシーに、カイリは緩く首を振る。

 カイリは本当に聖歌を必死に歌っていただけだ。あの時は、エリックのことや狂信者のことがあって、余所事よそごとに気を取られていた。感謝されるいわれはない。

 だが、ルーシーは嬉しそうに笑ってから、程なくして海に沈む様に暗くなった。


「でも、……数日後だったかしら。誰かがお父様を訪ねてきて……逆戻りしてしまったのです」

「……誰かが、ですかな? その者は一体」

「ごめんなさい。目深にフードを被っていて、ちらっとしか見ていないのです。……でも、あの日からお父様は、また何となく変になってしまって。……雨が降らないっていうフュリー村のことも、解決しないまま二ヶ月も放置してしまうし」

「え? ま、待って下さいっ」


 さらりと挟まれた単語に、カイリは思わず声を乱してしまう。

 ルーシーがきょとんと目を瞬かせるその表情に、ひどいざわつきを覚えた。



「あの、放置って何ですか? ……フュリー村やルーラ村がガルファン殿の管轄になったのは、一ヶ月前じゃないんですか?」

「一ヶ月前? いいえ、違います。二ヶ月前に、ラフィスエム侯爵家の方から正式に譲り受けていたはずです」

「――えっ」

「お父様と侯爵家の……誰だったかしら。ご当主ではありませんでしたけれど、息子殿の片割れだったはずです。パーティでお見かけしたことがありますし」

「むす、こ?」

「契約を交わす時にお茶を出しましたし、その時に耳に挟みました。書類も持っていたはずなので、間違いないと思います」

「――――――――」



 今度こそ、カイリとフランツは固まった。一気に天地が引っ繰り返った様な錯覚に陥る。

 あの、ガルファンから託されたメモと内容が異なる。彼は手紙では、二ヶ月前に権利移転の話を持ちかけられた時は断ったと書いていた。一ヶ月前にいつの間にか移転していたとも。


 それなのに、娘のルーシーは二ヶ月前には既にガルファンが二つの村の領主になっていたという。


 噛み合わなすぎる。真実が何処に行き着くのか、カイリには思考が停止しない様にするだけで精いっぱいだった。

 いや。

 そうだ、違う。

 真実。



 ――メモの違和感っ。



〝二ヶ月前、ラフィスエム家が打診してきました〟


〝ですが、何処の領地を治めるかは、教皇ないし枢機卿の判断と了承が必要です。

 故に、お断りをしました〟


〝すると、二ヶ月前からフュリー村には雨が降らずにあえいでいるという噂が流れてきました〟



 そうだ。二ヶ月前という単語の連続。



 この使い方が、文章として何だか違和感があったのだ。

 普通、「二ヶ月前に申し出をお断りをした後に雨が降らないという噂が聞こえてきた」、というのならば、「二ヶ月前にお断りをした。すると、その後、フュリー村には雨が降らずに喘いでいるという噂が流れてきた」と書くのが自然の流れだと思ったのだ。

 時系列を語る際、人は自然と最初に話した出来事の後の話をする時、「その後」や「そうしたら」という類の繋ぎを用いる。


 けれど、ガルファンは何故か二ヶ月前、二ヵ月前、と羅列した。


 まるで、同時期にその出来事が起こった様に。

 もしくは、――順序が逆だと知っていて、隠す様に。

 もちろん、急いで書いたから文章が変になったとも考えられる。

 だが、あれだけ会話に巧妙にヒントを隠す御仁が、そんな変なミスをするだろうか。



 むしろ、隠したいことがあったから、変な文章になったのではないか。



 人は、何かを隠す時には違和感を違和感と捉えられない現象が起きる。

 もし、それがガルファンにも起こっていたのだとしたら。


「フランツさんっ。……メモの違和感が分かりました」

「何?」

「すみません、話は後で。……ルーシーさん。その権利移転の話は、誰かが……フードを被っていた人が訪ねてきたという時のことですか?」

「え? いいえ、違います。フードを被った人が来て……えっと……二週間後くらい、でしょうか」

「……っ」


 嫌な予感が立て続けに、忍び笑いながら現実になる。

 フードを被った人物は特定出来ないが、それがもしファルエラと繋がりを持つ人物だったのならば。

 ラフィスエム家が関与していたとしても、嘘を吐いた時点でガルファンはもうただの被害者ではない。


「……。……フュリー村のことを、ガルファン殿は放置していたんですね?」

「はい。でも、村の方達も、何故かお父様には特に苦情は言って来なかったのです。我慢強すぎて、私が何回か村に行こうと思ったのですけれど、お父様が危ないって止めて」

「……ガルファン殿が?」

「はい。何か呪術的なものがあるかもしれないから、慎重に動かないと死ぬかもしれない、とか。その間にも……だんだん、お父様の様子がおかしいなって思う頻度が上がりましたし、けれど誰かに相談する前におばあ様の家に行くことになってしまったし。……おばあ様を不安にさせたくないから、何も言えなかったしで、悩んでいたのです」


 どんどんとルーシーの顔が沈んでいくのに、カイリは首を振る。

 彼女は父親が知らない間に一人心を痛め、闘っていたのだ。その小さな勇気に敬意を表したい。


「ルーシーさん、ありがとうございます、話して下さって。……必ず、何とかします。村の方も」

「ええ。ルーシー殿はここで何日か養生すると良いでしょう。ガルファン殿には、我々から無事をお伝えします」

「ありがとうございます。……本当は、少しお父様に会うのが恐いのです」

「え?」

「……本当に、あまり話さなくなってしまったから。……また、カイリさんの聖歌を聞いたら、少しは変わるのかしら」


 最後にささやかれた言葉に、カイリもフランツも視線を落とす。

 クリスの屋敷で聞いたカイリの聖歌で、ガルファンは確かに再起を誓ったのだと思う。娘が言うのだから間違いないだろう。



 ならば、その後に訪れた人物は、一体何を告げたのだろうか。



 そして、ガルファンの意思は本当はどこに存在しているのか。

 クリスが、先程「ルーシーを父親と会わせるのは危ない」といった本当の意味を理解し、カイリは薄暗い闇の底に叩き落とされていく様な気分を味わった。


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